◎懸命に仕えても上司の知遇を得る幸運には及ばない
昨日の補足である。昨日、紹介した「加藤弘之伝」の中に、「紫ノ朱ヲ奪ハントスル」という字句があった。「紫の朱を奪う」とは、『論語』に由来する言葉で、ニセ物(紫)がホン物(朱)にとってかわることを言う。ここで加藤は、自分の見解をニセ物に喩え、民撰議院の設立を要求した人々の見解をホン物に喩えていると解釈するが、あくまでも私見であって、別の解釈もありうるだろう。
また、「力テ田クルハ年ニ逢フニ若カズ、善仕フルハ遇合ニ若カズ」という字句があった。このままでは、意味が通じない。これをどう読むのかも、実は、よくわからない。しかし、この字句が、『史記』佞幸列伝に出てくる「力田不如逢年、善仕不如遇合」という言葉(その当時の諺だったという)に対応するものだと気づけば、おのずから意味も見えてくる。すなわち、「懸命に働いても自然の豊作には及ばない、懸命に仕えても上司の知遇を得る幸運には及ばない」というほどの意味であろう。「力テ田クルハ年ニ逢フニ若カズ、善仕フルハ遇合ニ若カズ」の読みだが、無理に読めば、「つとめてたつくるはとしにあふにしかず、よくつかふるはぐうごうにしかず」となろうか。
要するに、「加藤弘之伝」の編者である高瀬松吉は、加藤弘之という学者を、そういう考え方をする小人物、そういう言動をとる佞臣として描いているのである。この「加藤弘之伝」を私は、五月一〇日に読み、翌一一日のコラムで紹介した。五月一〇日に、衆参両院で柳瀬唯夫元首相補佐官に対する参考人招致があり、翌一一日の朝刊が質議の内容を詳しく報じていたが、その偶然に深く感ずるところがあった。
ちなみに、海江田信義〈カイエダ・ノブヨシ〉が加藤弘之の著作を批判したのは、一八八一年(明治一四)、加藤が、旧著『真政大意』および『国体新論』の絶版届を出したのも同年。この届に基いて、内務省が両書の発売を禁止したのは、同年一一月二二日だったという(『近代日本総合年表』岩波書店)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます