◎フィヒテは「自由の理想主義者」の驍将である
フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)から、「訳者序言」を紹介している。本日は、その後半を紹介する。
訳者は本書の内容に就てこゝで立入つて私見を述べようとは思はない、それへの批判は、之を読者の自由な心に一任する。けれども、次の三つのことだけは、読者の自由な心を乱すことなくして、此古典に就て云ひうるであらう。――第一は経済学の構成に就てゞある。凡て実践科学がさうであるやうに、経済学も亦歴史・理論・政策の三部門から成り立つ。本書はその構成の著しく目立つた姿を示してゐる、而もアダム・スミスの『富国論』の構成がさうであるやうに、経済学に於けるそれは十八世紀的と特徴づけられるであらう。この構成の仕方は十九世紀の歴史主義に於て否定せられ、それ以後経済学に於ても方法論上重大な論題となつてゐて、今日と雖も〈イエドモ〉その決定的な解決の上に研究が行はれてゐる訳ではない。それどころか、此方法論上の問題の真意を把へ〈トラエ〉てゐない無反省な態度が、歴史と理論と政策とを機械的に分離して、且つ同様に機械的にそれらを恣意によつて結合せしめたり、経済学の理論と一応はよそよそしいと見える他の科学や神話から鎔接剤を借りて来て結びつけようとしてゐるのが今日の吾国の、また同時に世界の経済学界の現状ではないであらうか。十八世紀的な此古典の構成を再び認識することは、上の抽象的な態度を批判して此方法論の問題を反省するために、必ずしも無意義ではない筈である。第二は本書の理論的水準に就てである。本書に展開せられる経済理論は、現今の経済情勢と現在の理論的水準とから見れば、単純なまた幼稚なものに過ぎない。けれども古典は、それが刊行されたその時代のその場所に於て理解されなければならぬ。而して英国に於て発展を遂げた古典経済学の価値とは別個の価値が、此古典に於て認められなければならない。古典経済学に於て充分な意義に於ての理論の対象となり得なかつたやうな事態が、本書に於て取扱はれてゐる。而してそれは、今日世界が直面してゐる困難な問題とことのほか近いのである。吾々は読者に希望する、読者が此共感を或は此反感を、一時的な印象としてそのまゝに放置せらるゝことなく、各自自由な立場から徹底的にそれらの根拠を求められ、而して連関づけられて、願はくば本書を各位の立場のための試金石の一つとしていたゞかんことを。第三はこのことに連関することであるが、現今フィヒテをショーヴィニスト〔chauvinist〕として把へようとする機運が強まりつゝあると云ふことに就てゞある。フィヒテは独逸観念論界の「自由の理想主義者」の驍将〈ギョウショウ〉である。その彼を偏狭固陋なショーヴィニストと解し、安価な愛国主義の出来合を彼から購はう〈アガナオウ〉とすること程、無稽な試〈ココロミ〉はないであらう。而して若し本書に於てショーヴィニズム〔chauvinism〕と相通ずるものがあるとすれば、それこそは読者の鋭利な批判の俎上にのせらるべきものであるであらう。
最後に此翻訳に就て一言する。昨年〔1937〕の春、恒に指導を戴いてゐる石川興二先生から御勧めを得て、此翻訳にとりかゝつたのは五月下旬であつた。幸ひにもフィヒテに就ての吾国の権威である京大文学部の木村素衛〈モトモリ〉助教授の知遇を得た訳者は、翻訳について色々と相談に乗つていたゞくことが出来た。一応訳稿が出来てから、三高の相原信作氏は貴重な時間を割いて原稿を一々原文と対照して見て下さつて、尠くない誤訳や不適当な表現や拙い訳文などに注意して下さつた。訳者はその御注意によつて、訳文全体に亘つて推敲を重ねて、とにかくもこの四月にはこの体裁のものになつたのである。(すばやい翻訳を次々に発表すると云ふことが、経済学の最近の風潮の一つである。けれども此風潮に棹さすには拙ない私であるらしい。)フィヒテの雄勁な文章をば移し得たなどゝは元元思ひもよらないけれども、若しいくらか読み易くなつてゐるならば、それは偏に〈ヒトエニ〉上記の木村・相原両先生のお蔭である。記して厚く御礼を申述べたい。又終始たどたどしい訳者を激動して下さつた石川興二先生をはじめ、先輩友人各位に深い謝意を表したいと思ふ。皆様の御指摘や御注意にも拘らず、この訳文には誤訳やまだまだ不明瞭な点があるであらう。どんな点に就てゞあれ、御叱正を与へて下されば幸甚である。尚又訳者の筆になる「解説」に就ても、誤謬その他を御訂正下さらんことを切に希望するものである。
昭和十三年七月六日 京都にて 訳 者 〈3~6ページ〉
フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)から、「訳者序言」を紹介している。本日は、その後半を紹介する。
訳者は本書の内容に就てこゝで立入つて私見を述べようとは思はない、それへの批判は、之を読者の自由な心に一任する。けれども、次の三つのことだけは、読者の自由な心を乱すことなくして、此古典に就て云ひうるであらう。――第一は経済学の構成に就てゞある。凡て実践科学がさうであるやうに、経済学も亦歴史・理論・政策の三部門から成り立つ。本書はその構成の著しく目立つた姿を示してゐる、而もアダム・スミスの『富国論』の構成がさうであるやうに、経済学に於けるそれは十八世紀的と特徴づけられるであらう。この構成の仕方は十九世紀の歴史主義に於て否定せられ、それ以後経済学に於ても方法論上重大な論題となつてゐて、今日と雖も〈イエドモ〉その決定的な解決の上に研究が行はれてゐる訳ではない。それどころか、此方法論上の問題の真意を把へ〈トラエ〉てゐない無反省な態度が、歴史と理論と政策とを機械的に分離して、且つ同様に機械的にそれらを恣意によつて結合せしめたり、経済学の理論と一応はよそよそしいと見える他の科学や神話から鎔接剤を借りて来て結びつけようとしてゐるのが今日の吾国の、また同時に世界の経済学界の現状ではないであらうか。十八世紀的な此古典の構成を再び認識することは、上の抽象的な態度を批判して此方法論の問題を反省するために、必ずしも無意義ではない筈である。第二は本書の理論的水準に就てである。本書に展開せられる経済理論は、現今の経済情勢と現在の理論的水準とから見れば、単純なまた幼稚なものに過ぎない。けれども古典は、それが刊行されたその時代のその場所に於て理解されなければならぬ。而して英国に於て発展を遂げた古典経済学の価値とは別個の価値が、此古典に於て認められなければならない。古典経済学に於て充分な意義に於ての理論の対象となり得なかつたやうな事態が、本書に於て取扱はれてゐる。而してそれは、今日世界が直面してゐる困難な問題とことのほか近いのである。吾々は読者に希望する、読者が此共感を或は此反感を、一時的な印象としてそのまゝに放置せらるゝことなく、各自自由な立場から徹底的にそれらの根拠を求められ、而して連関づけられて、願はくば本書を各位の立場のための試金石の一つとしていたゞかんことを。第三はこのことに連関することであるが、現今フィヒテをショーヴィニスト〔chauvinist〕として把へようとする機運が強まりつゝあると云ふことに就てゞある。フィヒテは独逸観念論界の「自由の理想主義者」の驍将〈ギョウショウ〉である。その彼を偏狭固陋なショーヴィニストと解し、安価な愛国主義の出来合を彼から購はう〈アガナオウ〉とすること程、無稽な試〈ココロミ〉はないであらう。而して若し本書に於てショーヴィニズム〔chauvinism〕と相通ずるものがあるとすれば、それこそは読者の鋭利な批判の俎上にのせらるべきものであるであらう。
最後に此翻訳に就て一言する。昨年〔1937〕の春、恒に指導を戴いてゐる石川興二先生から御勧めを得て、此翻訳にとりかゝつたのは五月下旬であつた。幸ひにもフィヒテに就ての吾国の権威である京大文学部の木村素衛〈モトモリ〉助教授の知遇を得た訳者は、翻訳について色々と相談に乗つていたゞくことが出来た。一応訳稿が出来てから、三高の相原信作氏は貴重な時間を割いて原稿を一々原文と対照して見て下さつて、尠くない誤訳や不適当な表現や拙い訳文などに注意して下さつた。訳者はその御注意によつて、訳文全体に亘つて推敲を重ねて、とにかくもこの四月にはこの体裁のものになつたのである。(すばやい翻訳を次々に発表すると云ふことが、経済学の最近の風潮の一つである。けれども此風潮に棹さすには拙ない私であるらしい。)フィヒテの雄勁な文章をば移し得たなどゝは元元思ひもよらないけれども、若しいくらか読み易くなつてゐるならば、それは偏に〈ヒトエニ〉上記の木村・相原両先生のお蔭である。記して厚く御礼を申述べたい。又終始たどたどしい訳者を激動して下さつた石川興二先生をはじめ、先輩友人各位に深い謝意を表したいと思ふ。皆様の御指摘や御注意にも拘らず、この訳文には誤訳やまだまだ不明瞭な点があるであらう。どんな点に就てゞあれ、御叱正を与へて下されば幸甚である。尚又訳者の筆になる「解説」に就ても、誤謬その他を御訂正下さらんことを切に希望するものである。
昭和十三年七月六日 京都にて 訳 者 〈3~6ページ〉
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