◎満洲日日新聞社編『安重根事件公判速記録』緒言
昨日のコラムで紹介した『安重根事件公判速記録』は、大連市の満洲日日新聞社の編集ならびに発行によって、一九一〇年(明治四三)三月二八日に刊行されたものである。本文の第一ページに、満洲日日新聞社記者速記とある。B6判、本文一八九ページで、定価三〇銭。
本文の前に「緒言」として、「伊藤公遭難顛末」と題された三ページ分の文章がある。本日は、これを紹介してみよう。
緒言
伊藤公遭難顛未
明治四十二年十月廿六日午前九時伊藤〔博文〕公一行は哈爾賓〈ハルビン〉駅に到着したり是より曩〈サキ〉伊藤公爵は韓国の事粗〈ホボ〉定まりたるを以て韓国統監の職を辞して枢密院の閑職に就きしが国家は伊藤公を一日も閑地に置く能はず〈アタワズ〉幾何〈イクバク〉もなくして満洲視察の途に上ることゝなれり此行政治的意味の有無に関しては茲に〈ココニ〉叙述の限りに非ず〈アラズ〉斯くて月の十八日には在満官民の盛大なる歓迎の裏に〈ウチニ〉大連に上陸しつ越えて廿日旅順に至り日露戦蹟を弔ひ〈トムライ〉沿線巡視に向へるものなり伊藤公は車中に於て露国大蔵大臣ココフツオフ氏と二十分に渉る会見をなし尋で〈ツイデ〉客車を下り露国儀仗兵一個中隊を閲兵しつゝ邦人の一団に近づき更に数歩を引返さんとする一刹那突如として躍り出でたる一韓人あり矢庭に公爵目蒐けて〈メガケテ〉拳銃を放射せるが銃丸三発は公爵の腹部に命中せり斯くて重傷を負へる公爵は直ちに客車中に運ばれ随従せる小山〔善〈ゼン〉〕医師始め露国医師も応急手当を施し皮下注射を施したるも其効なく間もなく不帰の客となられしぞ悲しき此騒動の際兇漢の放てる弾丸は猶〈ナオ〉随員森〔泰二郎〕秘書官田中〔清次郎〕満鉄理事及川上〔俊彦〈トシツネ〉〕哈爾賓総領事を負傷せしめ兇漢は直ちに露国官憲の為めに逮捕せられたり伊藤公の遺骸は十時四十分大連に向つて南下し廿八日午前十一時三十分軍艦秋津洲〈アキツシマ〉に乗じて十一月一日横須賀に到着同日東京に入れり此報一度公にせらるゝや四千万同胞の悲嘆は勿論世界の驚愕する処となり各国よりの弔電引も〈ヒキモ〉切らず至尊〔明治天皇〕は特に国葬を仰せ出され四日葬儀は悲雨蕭々〈ショウショウ〉の裏に執行せられたり会葬者四十万前古未曾有〈ゼンコミゾウ〉と称せらる以て公の遺徳を見るべし
一面日本官憲は連累捜査に全力を尽し兇行翌日には関東都督府法院溝淵〔孝雄〕検察官は急遽哈爾賓に出張し韓国よりは明石〔元二郎〈モトジロウ〉〕少将来満し都督府佐藤〔友熊〈トモクマ〉〕警視総長平石〔氏人〕法院長等と協議画策最も勉めたり此の結果として連累嫌疑七名を得〈エ〉正犯者安重根と共に三日旅順に護送同地監獄に収容せしが中〈ウチ〉四名は審理の結果放免となり禹連俊曹道先劉東夏の三名を公判に附することゝなれり翌〔明治〕四十三年二月七日より四日間旅順地方法院にて開始せられたる裁判の模様は本文に明〈アキラカ〉なれば茲に贅せず〈ゼイセズ〉尚〈ナオ〉重根は三月二十六日午前十時死刑を執行せられたり
以上のうち、「関東都督府法院溝淵検察官」とあるところは、印刷では「関東都督府法院満洲検察官」となっていた。参照した一本では満洲の二字が手書きで訂正されていたので、その訂正に従った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます