◎渡辺錠太郎「これは大雪になりそうだ」
『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、石橋恒喜執筆「二・二六事件秘話」を紹介している。本日は、その四回目。
「弾痕無数」の教育総監
ところでこの冬はいつになく雪が多かった。暴発の数日前の夜のこと、荻窪にあった教育総監渡辺錠太郎の私邸を同じ陸軍担当記者W君といっしょに訪れた。和服にセルのはかま、 いつもニコニコしている渡辺は軍の内部情勢を語りながらなかなかのごきげんである。話題は当時世間をさわがしていた永田事件の軍法会議と、国体明徴問題に集中されたように憶えている。対談数刻―やがて帰ろうとするとワザワザ玄関の外までわたくしたちを見送ってきた。
「総監! 身辺を気をつけるべきですネ」
じょうだんめかしてこう注意すると、帯のあいだから小型のコルト拳銃をとり出してニコニコ笑っていた。
「ウン! ありがとう。この通り覚悟はしておる……オヤッ! 雪が降ってきたね。これは大雪になりそうだ。気をつけて帰りたまえ……」
と、くらい夜空を見あげていた。そしてこの夜降りだした雪は翌日もさらに降りつづいて、ついには総監の赤い血に染められたのだった。渡辺の死体検案書に曰く「弾こん無数」と。二十六日午前六時、少尉高橋太郎、同安田優、軍曹蛭田〔正夫〕、伍長梶間〔増治〕、同木部〔正義〕、同林〔武〕等を迎えうった彼はこのコルトで応戦一名を傷つけた。しかしこの応戦は血にうえた襲撃部隊の血をいよいよ燃えたぎらさせた。射て! 射て! 下士官の命令一下、軽機関銃は矢つぎばやに火を吐いて渡辺の肉片はちぎれとんだ。いくら弾こんを数えようとしても、眼の前で軽機の集中射撃を浴びたこととて全身これ蜂の巣といった形容そのものとなってしまったのだから、とてもむりだ。かくて前記のように「弾こん無数なり」という検案書が作られたわけである。
反乱の経過をながめると、「襲撃」そのものまでの計画は非常に綿密である。桜田門付近占領のためには各部隊とも前前から真夜中に非常呼集を行って演習に演習を重ねている。だが襲撃を終ってからの処置にいたっては全くなかったといってもいい。というのは、要するに彼らの抱いていた信念がいわゆる〝捨て石〟となることだったからである。「決起」によって君側の奸を一掃する。君側の奸を一掃すれば昭和維新への障害はのぞかれる。障害がのぞかれれば同じ革新の意気に燃える上層の先輩がたって維新政府を樹立してくれる。決起した青年将校や同志の下士官兵はただこの捨て石となり踏み台となって身をなげうてばいいと考えていたのである。そのため十月事件の橋本欣五郎、建川美次〈タテカワ・ヨシツグ〉、長勇〈チョウ・イサム〉等陸海軍上層将校の秘密結社「星洋会」の態度を仇敵のように毛ぎらいしていた。つまり彼ら高級将校の革新なるものは、軍政府を樹立することによって、自らが大臣の要職をしめようという野望の満足にすぎないと非難していたのである。それだから一銭の軍資金さえ用意していなかったのも当然である。
二十五日の夕刻、わたくしが西田税、亀川哲也の話に耳を傾けているところへ村中孝次が軍装に身を固めてあらわれた。いよいよ明仏暁を期して行動を起すことに決定した。山口〔一太郎〕、西田、亀川等は外部にあって上層部へ働きかけてほしいとの依頼である。このとき亀川が村中に質問した。
「君たち、一体金は持っているのかね」
「イヤ、一銭もない。だが金なんかいらん。日本銀行を占拠するから紙幣は山ほどあるさ」
日本銀行占拠の計画を聞いて亀川等はビックリした。うっかりすると財界、経済界に大混乱がおこりかねない。
「日銀の占拠計画だけはやめたまえ。金はワシが算段する。とりあえずこれだけ持っていってくれないか」
こういって亀川は久原房之助からもらった自分の金千円をむりやり村中の手ににぎらせたのだった。【以下、次回】
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