礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大正期の映画界における女形と女優

2013-11-14 06:11:17 | 日記

◎大正期の映画界における女形と女優

 昨日のコラムでは、津村秀夫の「日本映画小史」という文章の一部を紹介した。
 そこに、「衣笠貞之助は向島の名女形であつた」という一節があった。これがややわかりにくいと思うので、補足しておきたい。初期の日本映画においては、歌舞伎と同様、「女形」(読みは、オンナガタまたはオヤマ)が出演しており、衣笠貞之助はかつて、その女形の俳優として知られていたという意味である。
 ウィキペディア「衣笠貞之助」には、次のようにある。

 三重県亀山市本町に煙草屋の息子として生まれる。家が裕福だったため、小さいときから芝居や映画をよく観に行っては友達に演じて見せるような芝居好きで、中学を卒業すると家出をし劇団に入り、女形をしていたところをスカウトされ、日活向島撮影所の専属俳優になる。1918年『七色指環』でデビューし、その後5年間で130本に出演する。
 映画界が女優を起用し始め、女形が不要になってきたこともあり、監督に転向し、1920年『妹の死』でデビューする。その後、長谷川一夫のデビュー以来、起用し続け、彼をスターにし、1932年のトーキー映画『忠臣蔵』を大ヒットに導く。1926年の『狂った一頁』は1982年にサウンド版を全世界で公開し、大成功を収めた。

 先月二三日に、柏木隆法〈リュウホウ〉さんの名著『千本組始末記』が復刊された(『千本組始末記』刊行会発行、平凡社発売)。同書は、基本的には近代日本アウトロー史であるが、日本映画史として読んでも貴重な文献である。そこに次のような一節がある。

 松竹の急速な発展に恐れを抱いた日活はあらゆる手を使って対抗しようとしたが、松竹側の破竹の勢いになす術〈スベ〉がなかった。そして三年後に起こった関東大震災は日活を撮影不可能に追い込んだものの松竹の蒲田撮影所も同じくらいの被害を被った。こうなると見方によれば日活側の方が有利となり、一日でも早い撮影の再開と倒壊した劇場の復旧が勝敗を決するという、いわぼ同じスタートラインについたわけである。
 しかし、松竹と日活は全く同じ条件が整っていたのではない。日活がまだ男が扮装して女を演ずる女形〈オヤマ〉が幅を利かせていたのに対し、松竹は栗島すみ子、英百合子〈ハナブサ・ユリコ〉、五月信子〈サツキ・ノブコ〉、川田芳子といった美人女優が人気を博していた。これだけでも松竹側が優位であるのだが、日活にはもう一つ不利な点があった。日活から牧野省三が去っていたことである。牧野は日活の社長横田永之助〈エイノスケ〉と折り合いが悪く、また一介の旅回りの役者尾上松之助を人気俳優にまで育てたのに、その松之助とも不仲となっていたという説明もあり、このころには日活を退社してマキノ映画を設立していたのである。

 この当時の「松竹」の正式名称は、「松竹キネマ合名社」。柏木隆法さんは、前掲書一五五ページで、松竹に「まつたけ」というルビを振っている。ちなみに、「日活」のこの当時の正式名称は、「日本活動写真株式会社」である。

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