礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

衣笠貞之助監督と「新感覚派映画連盟」

2013-11-13 07:07:27 | 日記

◎衣笠貞之助監督と「新感覚派映画連盟」

 先日の神田の青空古本市の際、古書会館の古書展で(青空会場ではなく)、津村秀夫『映画の美』(光風館、一九四七)という本を買い求めた。紙質は粗末、印刷は不鮮明だが、内容は充実していて、特に、「日本映画小史」という文章が興味深かった。
 本日は、その「日本映画小史」のうちの一節を紹介しよう。

 牧野省三と新時代劇映画
 牧野省三〈ショウゾウ〉日本映画史上の意味は勿論、新時代劇映画を中心として震災〔関東大震災〕後の数年間に一時はマキノ時代を現出する程、映画界を風靡した点にある。が、彼が多くの人材を養成した功績も大きい。彼はマキノ・キネマ創設後、〔大正〕十三年には東亜キネマを合同し等持院撮影所に拠つた〈ヨッタ〉が、再び東亜側の紛争のため独立して御室〈オムロ〉撮影所に移つた。彼の薫陶を受け、マキノ・キネマから巣立つた人物の主なる者は、衣笠貞之助〈キヌガサ・テイノスケ〉、二川文太郎〈フタガワ・ブンタロウ〉、井上金太郎(監督)、寿々木多呂久平〈ススキダ・ロクヘイ〉、山上伊太郎(脚本家)、阪東妻三郎〈バンドウ・ツマサブロウ〉、嵐寛寿郎〈アラシ・カンジュウロウ〉、片岡千恵蔵、月形龍之介(俳優)等であり、その長男マキノ正博も後に監督として起ち、その女〈ムスメ〉マキノ智子も映画女優となつて成功した。
 衣笠貞之助は向島〔日活向島撮影所〕の名女形〈メイ・オンナガタ〉であつたが、十二年にマキノに入り監督として起ち、「桐の雨」「心中宵待草〈シンジュウヨイマチグサ〉」等の繊細な試作品を経て、十四年にはマキノが提携した直木三十五〈ナオキ・サンジュウゴ〉一派の「連合芸術家協会」の作品として沢田正二郎〈ショウジロウ〉主演「月形半平太」市川猿之助主演「日輪」「天一坊と伊賀亮〈イガノスケ〉」等の大作を発表した。いづれも成功はしなかつたが、彼の野心的な作風が後年の彼を大成せしめる基礎を作つた。彼は十五年九月にマキノを退いて独立し、撮影技師杉山公平と共に「新感覚派映画連盟」を結成し、川端康成の小説「狂つた一頁」を発表した。この時代は文壇において、横光〔利一〕、川端、池谷(信三郎)中河与一等が新感覚派文学を提唱してゐた時代で、その影響を受けたものであり、無字幕映画であつた。【後半は略】

 寿々木多呂久平の読みは、先月復刊された柏木隆法さんの『千本組始末記』(『千本組始末記』刊行会発行、平凡社発売)の教示を受けた。その他にも若干、コメントしたいことがあるが、これは次回。

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