礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

票を買うこと、政策を買うこと

2014-10-21 08:38:26 | コラムと名言

◎票を買うこと、政策を買うこと

 九月一二日の日本経済新聞「大機小機」欄は、「健全な資本主義と献金の矛盾」と題して、経団連の企業献金再開を批判していた(執筆は「カトー」氏)。
 これについて、当コラムは、翌一三日、「9月12日の『大機小機』欄に拍手」と題して、「大機小機」欄の論旨に賛同すると同時に、「こうした重要な問題は、即座に、しかも堂々と『社説』で主張すべきである」などの注文をつけておいた。
 その後も日本経済新聞は、伊藤忠商事の丹羽宇一郎〈ニワ・ウイチロウ〉氏が経団連の政治献金再開に反対していることなどを報じ(九月二四日?)、経団連の政治献金の再開を批判している。
 昨日の同紙「経営の視点」欄は、「企業献金、論争の半世紀/経団連再開、賛同少なく」と題し、経団連の政治献金再開問題を扱っている。署名は、安西巧編集委員。
 企業献金をめぐる半世紀にわたる論争をまとめ、経済界においても、政治献金再開に批判的な意見が少なくないことを報じている。客観的な記事の形を装っているが、明らかに、経団連の政治献金再開を批判する論調になっている。

 政治献金に否定的な財界人も少なくなかった。有名なのは74年に経団連会長に就任した土光敏夫〈ドコウ・トシオ〉氏だ。戦後最悪の金権選挙といわれた同年の参院選で自民党は経団連経由で260億円の献金を調達。激しい批判を浴びた土光氏は「企業からカネを集めているのは花村仁八郎〈ハナムラ・ニハチロウ〉(政治献金担当の経団連専務理事、後の副会長)個人で自分は知らない」と釈明し「次の正副会長会議」で経団連経由の献金をやめると提案する」と発言。言葉通り数日後の会議で本当に「廃止」を決議した。
 企業献金は利益を得ようと思ってやれば贈賄だし、利益はないがカネを出したといえば背任になる」。経済同友会終身幹事を務めた元日本火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)社長の品川正治〈シナガワ・マサジ〉氏は政治献金に伴う経営リスクをこう表現していた。

 編集委員がここまで書くのであれば、日本経済新聞は、その「社説」で、ハッキリと、経団連の政治献金再開方針を批判すべきである。
 昨日、支持者にウチワを配った法務大臣が辞職した。国民あるいは議員は、数百円(?)のウチワであろうとも、「票を買う」ことは許されないということを学んだ。何百億円(?)の政治献金で「政策を買う」ことは、大がかりな「贈賄」である。万一、政策を買うことができなかった場合は、あるいは、政策を買う意思がない場合は、重大な「背任」ということになる。どちらにしても許されることではない。日本経済新聞は、そのことを、「社説」で明確に主張すべきではないのか。

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創業当時の「古書いとう」と屋号の由来

2014-10-20 04:27:41 | コラムと名言

◎創業当時の「古書いとう」と屋号の由来

 先日、送られてきた「本の散歩展」通巻46号に、「嗚呼 !! いとうさん」という文章が載っていた。筆者は、「古書りぶろ・りべろ」の川口秀彦氏である。その文章によれば、「古書いとう」の伊藤昭久さんが、本年七月一七日に亡くなられたという。
 伊藤昭久さんと面識はなかったが、「古書いとう」の名前は、もちろん知っていた。五反田の古書展には、何度も通っているので、お名前は存じ上げなかったものの、何度もお目にかかっていたはずである。
 川口秀彦氏の文章で、伊藤さんに『チリ交列伝』という著書があることを知って、これを入手した。ちくま文庫、二〇〇五年三月発行、サブタイトルは、「古新聞・古雑誌、そして古本」、オビには、「紙クズを金にかえてしまうチリ紙交換の人たち」とある。
 本日は同書から、その一部を紹介させていただきたい。

 本業をやめて古本屋になろうと決めた。チリ紙交換の元締と古本屋の兼業を始めてから、八年が経過していた。製紙原料商、原料屋をやめた事情は八つの営業所の運営に疲れた、月に集荷した二万トンの古新聞、古雑誌、ダンボールの重圧に負けたにとどめておきたい。詳しい事情すったもんだは考えるのも嫌だから書かない。どうしてもその辺の事情を聞きたいという好奇で暇な御仁がいるのならば、私に酒を奢りなさい。酔えば愚痴のひとつもでようというもの。他人の失敗、凋落ほど人を楽しい気持にさせるものはないと、いうではありませんか。

 屋号はジャカルタをやめ、「古書いとう」にした。なに変るはずもないのだが、屋号だけでもかえて、いままでの諸々に区切りをつけたかった。心機一転ということもあった。屋号のデザインはテント、看板ともども和田光正さんが祝儀がわりにしてくれた。
 いとうは私の姓の伊藤と、幻の魚といわれるイトウを懸けた。
 イトウとは製紙会社への商用の帰路によった、釧路湿原を一望する展望台で出合った。十一月の初旬の午後だった。イトウは円筒のガラス水槽のなかにいた。あたりに人の気配はなく、音といえば水槽の底から間断なくのぼっていく気泡が、小面ではじける音だけだった。冷気のなかで私は水底にいるような錯覚にとらわれていた。全長一メートル、灰青色のイトウはゆったりとしなやかだった。ネズミやカエルをも捕食するという檸猛さを秘めながら、微塵もそれを感じさせなかった。野性的であるが野卑ではない。繊細であり、強靭でもあるその姿態に、私は魅せられた。そして私の姓と同じであることが無上に嬉しかった。
 古本屋を業にするにあたって、来し方への反省もこめて、ただ売った買っただけでない、何かがほしかった。その何かを知性、知性をはぐくむ、ゆとりといってもいいのだが、それを得るには、しなやかで、洗練され、強靭さを秘めた繊細さがなければならない、イトウのように。

 なお、同書によれば、伊藤さんは、旧屋号「ジャカルタ」を使用していた一九八四年(昭和五九)当時から、「新品同様」のコミックと文庫を「すべて定価の半額」で売るという方針を採用していたという。
 ということであれば、こうした営業方針は、ブックオフ(一九九〇年創業)によって参考にされた可能性が高いのではないだろうか。いずれにしても、古書籍業界は、非常にユニークで先見性に富んだ人物を失ったわけである。日ごろから、古本のお世話になっている者のひとりとして、深く哀悼の意を表したい。

【注】一〇月二〇日に書いたこのコラムには、甚だしい勘違いが含まれていましたので、書き直しました。タイトルも変更しました。勘違いしている点については、2014年12月29日のコラムを、御参照ください(2015・1・3)。

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研師としての柏木隆法氏

2014-10-19 05:49:10 | コラムと名言

◎研師としての柏木隆法氏

 今月一四日のコラム「地方のどこに創生の余力があるか」では、柏木隆法氏の個人通信「隆法窟日乗」のうち、「10月6日」の項を紹介した(通しナンバー183)。すると、その数日後に、また郵便が届き、そこには「10月6日」の項の後半部分が含まれていた(通しナンバー184)。
 本日は、その「後半部分」にあった文章を紹介させていただきたい。

 先日テレビを見ていたら刀剣の砥師〈トギシ〉の一家の事をやつていた。勿論、現在の砥師のことである。拙も研ぎについては居合を習っている頃、教えてもらった。戦国時代は戦いに行くとき自前の砥石を持って参戦していた。京都の洛北鷹峯〈タカガミネ〉の本阿弥光悦〈ホンアミ・コウエツ〉も本業は研師であり、秀吉の懐刀といわれた曽呂利新左エ門(伴内)は鞘師〈サヤシ〉であった。矢羽師〈ヤバネシ〉、鏃師〈ヤジリシ〉など武器に関する専門的な技師が武将の周辺にいて彼らは政治的なアドバイザーにもなっていた。拙はその故事に習ったわけではないが、刀を抜いて大見栄をきる主役が錆刀〈サビガタナ〉や刃毀れ〈ハコボレ〉のある刀で見栄をきられれば興覚めになる。勝新太郎は殺陣〈タテ〉でよく真剣を使っていた。あの座頭市の仕込み杖も常時20本くらいあり、そのうち4本は真剣であった。『人斬り』の時だったが、色町の弁柄格子〈ベンガラゴウシ〉を斬るシーンで勝は本身の刀を使いたいといいだした。二人の侍を一瞬に斬るシーンだが、斬られ役の刀も板壁を突き抜ける。文字通り命がけの撮影である。二人は暁新太郎と横堀秀勝だった。どちらもベテラン中のベテランで勝より芸歴は長い。小道具として用意された勝のものは相州ものの新新刀、暁は刃渡り二尺三寸の現代刀、横堀は末古刀〈スエコトウ〉を使うことになっていた。斬る方、斬られる方、共に真剣の殺陣という撮影は珍しい。殺陣師と綿密な打合せの上で刀身の長さも計算に入れて、小道具を選び本番に臨んだ。監督の五社英雄も夜中にダメ押しにやってきた。横堀の刀は高橋修司からの借り物で名刀だったが、錆が浮いていたために拙が研いだ。これが大映の古き良き時代だった。【中略】これ以降、拙の趣味もあって刀剣を研ぐようになった。拙が病気で倒れるつい10年前まで知人の刀を研いだり和鏡〈ワキョウ〉を磨いたりした。今はもう体力がないのでおことわりしている。研がなくなったもう一つの理由に良質の砥石が入手できなくなったことである。一つは京都の鳴滝砥〈ナルタキト〉で奥嵯峨鳴滝にのみ発掘される砥石で仕上げに使う。もう一つは愛知県豊川の奥、鳳来寺で産出される名倉砥〈ナグラト〉である。この二つは人工砥では代用できないので研師などは苦労している。柄の朴材〈ホオザイ〉も板目が揃ったものがなかなか入手できない。鮫皮もワシントン条約で輸入できない。ごく偶〈タマ〉に水牛の角〈ツノ〉や象牙などを使うが、これも古い置物の壊れたものを入手している。下げ緒の真田紐〈サナダヒモ〉も特注で作る。鞘の塗りは拙の技術ではできないので、長野県奈良井の木曽漆器の塗師〈ヌシ〉に依頼している。拙も体力がなくなったために短刀や脇差のような短いものに限っている。

 柏木隆法氏の多芸多才については、もちろん存じ上げているが、刀剣の砥師(研師)もやっておられたとは知らなかった。それに、文章を読むと、刀剣の拵え(外装)まで手がけておられることがわかる。一口に形容できない大変な方で、そういう方と、わずかとはいえお付きあいがあり、こうして個人通信をいただいていることを誇りに感じている。

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「三河尊徳」と呼ばれた古橋源六郎義真

2014-10-18 04:06:01 | コラムと名言

◎「三河尊徳」と呼ばれた古橋源六郎義真

 古橋源六郎父子の関係、つまり、第六代暉皃〈テルノリ〉と第七代義真〈ヨシザネ〉との関係が、どうもよくわからない。そこで、国立国会図書館の近代デジタルコレクションで、『古橋源六郎翁』という本を参照してみた。一九一二年(明治四五)三月一一日の発行で、「著作兼発行者」は国府種徳〈コクブ・タネノリ〉、発行所は「愛知県北設楽郡農会」、発売所は「報徳会」である。
 この本でいう「古橋源六郎翁」とは、第七代の古橋源六郎義真のことである。義真は、一九〇九年(明治四二)一一月一三日に亡くなった。この本は、故人を追悼する意味で編まれた本のようである。著作兼発行者の国府種徳は、新聞記者出身の官僚で、漢学者・文章家としても知られていた。号は犀東〈サイトウ〉。
 同書の九八~一〇二ページに、次のようにある。

 一二 報徳会の創立
 古橋源六郎翁〔義真〕に『三河尊徳』の綽号〈シャクゴウ〉ありしは、人の知る所なり。何故に然る〈シカル〉か、固より久しい由緒があるなり。蓋し古橋父子が中央の名士に知られしは、明治十一年〔一八七八〕三河出身の勧業寮官吏織田完之〈オダ・カンシ〉が、父子の篤行を勧業頭松方正義に紹介したことに始まり(勤倹儲蓄の章参照)尋いで〈ツイデ〉内務少輔品川弥二郎の知遇を受け、やがて暉皃は富田高慶岡田良一郎と共に天下の三篤農を以て待遇せられ殊に明治十四年〔一八八一〕には東京に於て北白川宮〔能久〕殿下の謁を給はり益々知音〈チイン〉を増加したるものゝ如し。而して品川少輔は熱心なる報徳の擁護者なりしかば、時々其の受用を勧誘したるべく、翁が報徳を信ぜし動機は、蓋し此の系統より来りしならんか。勿論三河は駿遠〔駿河・遠江〕の比隣なり、駿遠には嘉永以来の報徳社あり。仮令〈タトイ〉左なき〈サナキ〉までも民政に注意せし父子の事なれば、二宮翁偉績の大体は夙に〈ツトニ〉聞知し居たるに相違なし。併し其の愈々実行するに至りし縁由〈エンユウ〉は、恐らく当時の内務省にありしなるべし。【中略】
 明治某年冬、品川弥二郎息弥一の洋行を神戸に送りて神戸に至るや、途〈ト〉名古屋に宿して書を父子に贈る。書は名刺の表裏に鉛筆もて記したもの、其の文左の如し。
『野州轟村〔現・日光市〕の老農狐塚五郎吉を訪ひ
 二宮翁の事績を聞きて
  日に五もん夜は一把の縄をもて
  積み貯へし恵み忘るな
 翁在世の時より今日まで一村挙つて〈コゾッテ〉報徳の教を奉じ、毎日五文を一把の縄にて共有金を積蓄し、地租改正其他の入費、今日まで更めて戸別に課せず、残らず元の利子にて支出せしといふ。報徳の尊むべき御同慶に堪へず。
 十一月二十八日 名古屋秋琴楼にて認む〈シタタム〉。  やじ」
    古橋様
 不相変〈アイカワラズ〉御勉務のよし伝承敬賀仕候。此度豚児弥一洋行候に付東海道を経て伊勢参宮為致〈ナシイタシ〉、神戸より仏国船に乗込せ可申候。やじは来春二月頃渡航の含みなり。ご面談得〈エ〉致さぬは残懐千万なり。三四年之後帰朝を相楽しみ居〈オリ〉申候。なにとぞ御愛養くれぐれも御勉務之程、国之為に奉祈上〈イノリアゲタテマツリ〉候。
 十一月二十八日 名古屋秋琴楼にて         やじ
   古橋老人 座右』
 一は以て其の交情を見、一は以て斯る匆卒〈ソウソツ〉の際にも報徳の鼓吹を怠らざる熱心の度を察すべく、且つ其の『報徳の尊むべき御同慶に堪へず』といふに徹し、以て既に斯道〈シドウ〉に関し、相契合する所ありしを知るに足るなり。

 あとのほうの手紙にある宛名「古橋老人」とは、たぶん、第六代暉皃のことである。しかし、品川弥二郎は、実質的には、この手紙を、第七代義真に宛てて出していると理解すべきであろう。
 さて、上記の文章から、以下のようなことがわかる。
1 第六代暉皃は、「天下の三篤農」のひとりとされていた。
2 第七代義真は、「三河尊徳」と呼ばれていた。
3 父子が、中央の名士に知られるようになったキッカケは、三河出身の官僚・織田完之が、父子を松方正義に紹介したことであった。
4 父子が報徳運動に関わるようになったのは、品川弥二郎の奨めによるところが大きかった。
5 実際に、報徳運動を推進したのは、第七代義真であったと思われる。

 昨日のコラムの最後で私は、「父子と品川弥二郎との接点はハッキリしないが、北設楽郡長、東加茂郡長などの要職を務めており、中央とのパイプを持っていた古橋義真を通じてのものだったことは、ほぼ間違いない」と書いた。この点を、上記の文章によって確認することはできない。ただし、これを否定しなければならないわけでもない。たとえば、古橋義真がどこかで織田完之に、品川弥二郎への紹介を頼んだといったことがあったのではないか。
 いずれにしても、三河稲橋村の古橋源六郎父子の存在を世に知らしめたのが、子の古橋義真の行動力と人脈だったということは、ほぼ間違いない。

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品川弥二郎と古橋源六郎暉皃

2014-10-17 03:09:24 | コラムと名言

◎品川弥二郎と古橋源六郎暉皃

 奥谷松治の論文「品川弥二郎の産業政策」(一九三五)によって、品川弥二郎という官僚政治家が、明治中期の産業政策をリードしていた事実を知った。同時にまた、彼が二宮尊徳の再評価、あるいは報徳運動の推進のために、政治力を行使していた事実も知った。
 本年八月、私は、『日本人はいつから働きすぎになったのか』という本を上梓し、その中で、明治中期に二宮尊徳が再評価されたことを指摘した。しかし、品川弥二郎による関与について触れなかった。今、このことを遺憾とする。奥谷の前掲論文に気づかなかったのである。
さて、先月二九日の所信表明演説で、安部晋三首相は、三河稲橋村の篤農・古橋源六郎暉皃〈テルノリ〉について言及した。
 品川弥二郎は、この古橋源六郎暉皃と交流があった。「老農主義」(老農好み)の品川弥二郎は、全国の老農と交流を結んでいたが、そのひとりに、古橋源六郎暉皃もいたというわけである。
 BE AN INDIVIDUALさんのブログに、古橋源六郎暉皃の子息である古橋源六郎義実〈ヨシザネ〉が書いた文章が紹介されていた(「源六郎」は世襲名)。以下に、それを転載させていただく。雑誌『斯民』の第三編第二号(明治四一年=一九〇八年五月七日)に掲載されたもので、読みやすくするために、若干原文を直してあるという。

「富田高慶翁と西郷南洲翁」  古橋源六郎〔義実〕 
 私の父〔暉皃〕が民力を発達させるには、殖産にあるといって苦心してやりましたので、私もその志を継いでやりましたが、一体ならば金ができるに随って、民心がよくならなくてはならぬのに、かえって貧乏の時よりも悪くなりました。これでは仕方がない。「衣食足って礼節を知る」という古語があるが「衣食が足るほど、人心が悪くなる。どうしたらよかろうといって、親子して苦しみぬきました。
 その結果これは二宮尊徳翁の報徳社を立てたらよかろう。それについては誰かを頼まなければならぬが、誰がよかろうかと彼がよかろうかと、いろいろ相談をしました。岡田良一郎さんは父と私も存じませぬので、〔箱根〕湯本の福住正兄〈フクズミ・マサエ〉は父も私も懇意でありましたから、私が行ってその話をしたところが、それでは俺が行ってやろうということになって、あの人が来て報徳社を開くことになりました。
 そうして段々やっているうちに、品川(子爵)さんが
「報徳については、相馬に富田高慶〈トミタ・コウケイ〉という人がいるから、行って逢ったがよかろう。おれは農商務大輔の時に、行ってその人に会ったところが、実に体が縮んでしまって、農商務の大輔とはいえぬようになった。実に偉い人だ。マア行って来い。」
 といって再三勧められました。その折りに愛知県令の国貞廉平〈クニサダ・レンペイ〉という人からも勧められて、仕方なくどんなものかと思って、行って会ってみましたが、会ってみまして、なるほどと実に敬服しました。富田先生は身体の弱い人で、始終寝ておられました。毎日1回ずつ話してくれましたが、その論理のシッカリとして明白なる、その秩序の立っていることなどは、実に敬服しました。そうして今日一段落を話すと、明日話す所をちょっと問題にしておかれる。それを押して聴こうとすると、すぐ立ってしまわれるので、誠に惜しいことだと思うと、翌日それを話してくれました。
 どうもその人に思考力を与えられるぐあいといい、話される順序の立っていることは、実に敬服しました。そうしていろいろ話を聴いているうちに、国もとにいろいろ用事ができたために、しきりに迎えが来たので、帰って参りましたが、なるほど品川さんが「之を仰げば愈々高く、之を鑚(き)れば愈々深し」といわれたとおりで、私も富田先生に会った時は、どんな人に会ったよりも、心が清らかになって、非常に勇気を増しました。それ以来あのくらいの人に会ったことはございませぬが、その割合に相馬の人がそう申しては悪いが、富田先生の値打ちを知らぬでしまっていると思います。
 富田先生が「困窮した折は、事が能く成功するが、成功すると必ず壊れてしまうものであるから、そこを覚悟しておらなければならぬ」と話されましたが、そのとおりです。私の地方は山間でございますが、非常に苦しんで回復しました。教育を始めすべて順序を立てて、これでよいとなったら、バタバタ壊れてしまって、サッパリ今は形が無くなってしまっている。それを再び回復しかけて、少しずつ芽が出かかりましたが、どこのを聞いて見ましても、人物があって回復ができても、その志を継ぐ人がいないと、維持が困難です。私の地方などは、国貞県令の時分には、皆なが非常に賛成してくれて、回復が大いに楽でございましたが、一時は県庁が先へ立って打ち壊す。警察が打ち壊すということで、いかんとも仕方ありませんでした。それはまた今日では大いに楽になりましたが、私どもの親のやる時分には、非常に苦心して、サッパリ効が無かったのです。しかしながらやる気になってやればいかぬことはないと思います。私も愛知県の県農会へ副会長に出まして、何とか農家の発展を図らにゃいくまいといって、段々話しました。
(略)
 そこで富田高慶先生が、最後に私にいわれましたのは、
「それを主張した者が、己れが功を取る気になるといかぬ。十分に骨を折って、功を人に譲る気にならなければならぬ」と草鞋(ワラジ)をはく時までもいわれましたが、その気でやっても、どうもこの凡夫のあさましさは、己れの骨を折ったことが知らずしらずの間、かえって敵を求めることになります。全く高慶先生の言われたとおりです。それで繰り返して申しますが、どうしても農村の基礎を堅くするには、二宮翁のいわゆる分度を定めて、それから人にやらせた方が一番根が堅くなると思う。とても空理空論では治まりませぬ。
 それから私が富田先生に大いに敬服したのは、相馬藩のあれだけの改革に当って、藩から一粒も手当を受けられなかったということです。「どうしてあなたは生活していられましたか?」といったら、「イヤ二宮先生に金を借りて来て、開墾させて、その作得〔小作料〕で食っていた。改革をする時分に、君主から金を貰うと、敵を求めるに依りていかぬ」といっておられました。それで段々昇って家老職まで進んだが、禄は辞して受けられなかったのです。それから禄を辞してから何もなくて食うことができぬようになったが、公債証書を貰った。それでようやく食えるようになったのです。
「とにかく衰村を挽回して事をなさんとするには、功利の念を去ってかからぬと事ならぬ」ということを、非常にいわれたが、これは至言であると思います。

 古橋源六郎父子(第六代暉皃と第七代義実)が報徳運動に注目したのは、明治になってからだと思われる。当初、箱根湯本の福住正兄に接蝕したが、その後、品川弥二郎から、相馬中村の富田高慶に会うように奨められた。子の義実が相馬中村に赴き、教えを受けた。これをきっかけに、父子は報徳運動に本格的に取り組むようになった。
 父の古橋暉皃は、富田高慶、岡田良一郎とともに「天下の三篤農」と呼ばれたという。富田も岡田も、二宮尊徳の直弟子であるが、古橋暉皃は尊徳の弟子ではない。暉皃が報徳運動に関わることになるのは、明らかに明治以降である。父子と品川弥二郎との接点はハッキリしないが、北設楽郡長、東加茂郡長などの要職を務めており、中央とのパイプを持っていた古橋義実を通じてのものだったことは、ほぼ間違いない。古橋源六郎暉皃という「篤農」が世に知られることになったのは、子の義実が関与するところが大きかったと見るべきであろう。

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