◎やらせる、納得させる、それが駄目なら強制する
今月一九日の日本経済新聞の「リーダーの本棚」欄には、地方創生相の石破茂〈イシバ・シゲル〉氏が登場している。
坂本英二編集委員の質問に答え、石破氏は、これまでの読書遍歴を語る。
田中美知太郎の『人間であること』は、大学を出たころに読みました。うちの父親は私と49も年が離れ、鳥取県知事や参院議員を務めていたのであまりいろいろ教えてくれる人じゃなかった。でも田中美知太郎さんが本当に好きで「この本は面白いぞ。読んでおけ」と教えてくれました。
例えばこういうくだりがある。
「日本では主権在民などと言いますが、一向に主権在民ではない。『生活が苦しい』とか『月給を上げろ』とかそんなことばかり言っている。こんなことを言うのは決して主権者ではない。臣下臣民、サブジェクト、家来の立場です」
清水幾太郎さんの『戦後を疑う』も好きです。政治家の資格って何かというくだりがあって「国民が厭がっているもので、しかし、国家の将来にとって絶対に必要なもの、そういうものがあるでしょう。それを国民にやらせる、納得させる、それが駄目なら強制する、それが政治家の仕事だと思います」と書いてある。
いずれも反発したくなるけど、実は本質じゃないか。自分が為政者ならどうするかを考えるのが主権者であって「消費税は上げないで」「道路は無料がいい」「子ども手当は配って」「法人税はまけてね」と、あれやって、これやってと言うのは主権者じゃないというのは本当だと思います。
清水幾太郎の『戦後を疑う』は、一九八〇年刊(講談社)、田中美知太郎の『人間であること』は、一九八四年刊(文藝春秋)である。要するに、政治家「石破茂」の根底は、このころに形成されたと見てよいだろう。
それにしても、清水幾太郎を挙げるとは。清水幾太郎は、戦前・戦中・戦後・一九七〇年代末以降と、その時々の時勢において、カメレオンのように思想を変え、そのことによってジャーナリズムの注目を浴びようとしてきた無節操な「思想家」である。
たとえ人間として無節操であっても、その専門的領域(清水の場合は社会学)において、不滅の業績を残しているというのであれば、まだ救われるが、はたして彼に、そういう業績があるのか。もし清水が、後世にその名を残すとすれば、すぐれた社会学者としてではなく、世間を騒がせた無節操な「思想家」としてであろう。
清水幾太郎の『戦後を疑う』は、彼の無節操を最もよく象徴する作品である。とはいえ、同書が世論や風潮に与えた影響は計りしれないものがあった。若き日の石破茂氏の愛読書となったというのも、そうした影響の一事象であったと言える。
石破氏によれば、清水は同書で、「国家の将来にとって絶対に必要なもの、そういうものがあるでしょう。それを国民にやらせる、納得させる、それが駄目なら強制する、それが政治家の仕事だと思います」と書いているという。そういう考え方は、たしかにあるだろう。しかし、清水は、どういう学問に依拠して、これを言っているのか。あるいはどういう思想的遍歴を踏まえて、これを言っているのか。このあたりは、十分に検証されなくてはならない。
石破氏が、個人として、清水幾太郎の考え方に賛同するのは自由だが、公人としての石破氏が、「リーダーの本棚」といった公の場で、清水幾太郎を援用するのであれば、その前に、清水幾太郎が援用するに足る「思想家」か否かについて、つまり清水幾太郎の人物と思想について、検証しておく必要があったのではないだろうか。
なお、石破氏は、引用部分の最後のところで、「あれやって、これやってと言うのは主権者じゃない」と述べている。氏が、その「要求」の例として「消費税は上げないで」とともに、「法人税はまけてね」を挙げていることに注目したい。前者は国民・消費者の要求の例であり、後者は財界の要求の例である。つまり氏は、「国家の将来にとって絶対に必要なもの、そういうものがあるでしょう。それを国民にやらせる、納得させる、それが駄目なら強制する、それが政治家の仕事だと思います」という清水の発言を支持すると同時に、「国家の将来にとって絶対に必要なもの、そういうものがあるでしょう。それを財界にやらせる、納得させる、それが駄目なら強制する、それが政治家の仕事だと思います」ということも言おうとしているようだ。日本経済新聞を購読されている財界の諸氏は、この点に気づかれたかどうか。
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