礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明治時代の漢字字書は侮れない

2017-01-21 00:39:59 | コラムと名言

◎明治時代の漢字字書は侮れない

 先週の土曜、神保町の古書展で、後藤光憲編纂『活版鮮明 広益新撰玉編』(鐘美堂)という漢字字書を入手した。和綴じで本文二一七丁(四三四ページ)。一九〇五年(明治三八)初版だが、入手したのは、その「八版」で、一九一二年(明治四五)発行。外見は相当くたびれているが、中味に問題はない。
 この種の字書は、謄写版のものが多く、「活版」のものは、あまり見かけない。ただし、活版だから鮮明ということはなく、この本の場合、八版ということもあってか、印面に不鮮明なところが散見される。
 このブログを始めたころ、「見たことがなく読めるわけがない漢字」というコラムを書いたことがあった(2012・6・26)。
 本日は、そのとき紹介した漢字が、後藤光憲編纂『活版鮮明 広益新撰玉編』(鐘美堂、一九〇五)に載っているかどうかを確認してみた。その結果を以下に示す。見当たらない字もあったが、相当に珍しい字でも収録されていることが確認できた。明治時代の漢字字書は侮れないと、あらためて思った。
 ○印の行では、岩垂憲徳著『漢字声音談』(清水書院、一九四三)に出てくる漢字の説明と、その音読みを示した(〈 〉内は現代文表記)。算用数字は、『漢字声音談』のページ数。その次の行では、『広益新撰玉編』における当該漢字の説明、音読み、【韻】、「意味」を、この順番に示しておいた。

○ヘンが由、ツクリが頁         テキ250
デキ・ヂヤク【錫】 「ヨシ」
○行という字のツクリのみ       チヨク〈チョク〉250
チヨク・チク【沃】 「タヽズム」
○穴カンムリに條            テウ〈チョウ〉257
テウ・テウ【嘯】 「ハルカ・フカシ」
○呉という字の口の部分が日     シヨク〈ショク〉251
シヨク・ジキ【職】 「ヒカタフク・カクル」
○クニガマエに子             ケン254
ゲン・ゲン【銑】 「ワランベ・チゴ」
○ウカンムリに必        フク256  『角川漢和中辞典』の読みは〈ヒツ〉
ビツ・ミチ【質】 「トヾマル・シヅカ・ヤメンズ・モダス」
○クサカンムリに爪が二つ横並び    ラ256
ラ・ラ 「クサ・クダモノ・クサビラ」  *クサカンムリに「瓜」が二つ横並び
○生の下に母               イク258
この字は『新撰玉編』になし
○言ベンに卒         シヨク〈ショク〉260 『角川』の読みは〈スイ〉
スヰ・スヰ【寘】 「イフ・ノル・ユヅル」
○穴カンムリに爪             ア261
ア・ワ【麻】 「マガリ・クボル」     *穴カンムリに「瓜」
○牛ヘンに字               ジ262
この字は『新撰玉編』に見当たらない
○穴カンムリに巾             シン262
この字は『新撰玉編』に見当たらない
○マダレの中に何もなし         ケン263  『角川』の読みは〈ゲン〉
カン・カン【翰】  「イハオ」
○叔の下に衣            ドク264   『角川』の読みは〈トク・ソク〉
ソク・シク【沃】  「コロモノコエ・セノヌイメ」
○クサカンムリに取           サン264  『角川』の読みは〈シュウ〉
シユウ・シユ【尤】  「クサ・クサムラヤ・シトネ」
○石ヘンに津のツクリの部分      ロツ265
ロツ・ロチ【月】 「キシ」
○骨ヘンに九                イ266
ワイ・ヱ【賄】  「マガル・マグル・サカン」
○口が四つ(上に二つ、下に二つ)  セン266
シフ・シフ【緝】  「クチオホシ」

*このブログの人気記事 2017・1・21

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

重臣殺害は予想したが叛乱は予想しなかった

2017-01-20 04:10:50 | コラムと名言

◎重臣殺害は予想したが叛乱は予想しなかった

 全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会、一九七六)から、「憲兵司令部の昏迷と動揺」という文章を紹介している。本日は、その後半部を紹介する。

 未曽有の大事件勃発に憲兵司令部が動揺したのは勿論であるが、この重大事に憲兵司令部は岩佐〔禄郎〕憲兵司令官が病気であったため、矢野〔機〕総務部長が事実上司令官を代行した。
 ところが、当時、憲兵司令部内に実は人事上の問題があった。それが矢野総務部長と坂本〔俊馬〕東京憲兵隊長の静かなる確執であった。そもそも矢野機少将は、岩佐中将が朝鮮憲兵隊司令官時代に、当時、朝鮮軍司令部付であった矢野と交遊が芽生えた。その後、岩佐は関東憲兵隊司令官になり、昭和十年〔一九三五〕十月十一日に憲兵司令官に就任すると、岩佐は矢野を東京に引張った。矢野機少将が総務部長に就任したのが、岩佐の憲兵司令官就任に遅れること約二カ月後の十二月三日であった。したがって岩佐が矢野を引張ったのは、矢野の人格に惚込んだからである。病弱の岩佐にとって万一の場合頼みになると信じたからである。矢野少将は侍従武官の経験もあり、その人格識見は当時の陸軍内でも高く評価されていた。ところが、憲兵司令部というところは識見卓越、人格高潔だけではつとまりにくい世界であった。その中で特に矢野に反発したのが、東京憲兵隊長坂本大佐である。先に触れたが、坂本大佐は昭和二年〔一九二七〕の「天剣党趣意書配布事件」以来、革新派青年将校運動には明るく口八丁手八丁のいわば最も憲兵らしい憲兵である。その上人格高潔だがまるで素人同様の、矢野が総務部長となってから、俄然矢野と坂本の間がうまくいかなくなった。関係者の回想では、矢野は部内で信望もあり、特に部内外から非難されたり、忌避されたことはなかったが、坂本大佐が一方的に反発した。キャリア豊富なやり手の憲兵大佐からみれば、素人同様の総務部長に不満だらけであったろう。しかも、憲兵司令部は実行部隊をもっていない。情報の収集でも要人の警戒でも、すべて東京憲兵隊が本部直属の憲兵や各隸下の分隊を使って実施する。こうした司令部と東京憲兵隊本部の確執は表面には出なかったが、その間にあって苦労したのが第一課の長友〔次男〕少佐である。こういう内部事情もあって憲兵司令部が臨時の省部となってからは、憲兵司令部内部の機能はすっかり混乱してしまった。情報の収集は第一課の憲兵がやるが、その処理、報告が適切にいかない。
 特に憲兵隊にのみ限らないが、軍隊というところは上下の関係はいいが、横の関係はとかくうまくいかないものである。それが憲兵隊に特に甚だしかった。率直にいうと、憲兵は刑事と似た感覚や性格をもっている。職務上やむを得ないことだが、自分が苦労して得た情報など、上下の関係者には綿密に報告するが、横の関係者には意外に連絡や報告が不充分な場合が多い。極秘で扱う問題が多いため無理からぬものがあるが、時にはこれが重大な欠陥となって、思わぬときに重大な影響をもたらすことになる。また、これらが憲兵が他の軍人に嫌悪された原因の一つにもなっている。二・二六事件のときにも、この横の連絡不十分が、残念ながら遺憾なく発揮されてしまったのである。司令部の動揺、混迷もむベなるかなである。さらに省部の幕僚陣も混迷の極に達して、憲兵司令部や東京憲兵隊へ勝手な命令や依頼要請をしてくる。こうなれば司令官の不在もあって、矢野総務部長では手に負えないのが実情であったろう。また当時の憲兵司令部の幹部が温厚な人物ばかりであったことも、逆に禍いとなったようである。
 こうした状況下にあって、ついに教育総監渡辺錠太郎大将邸への連絡が遅れ、渡辺大将は間一突で間に合わず、蹶起部隊の襲撃を受けて殺害されてしまった。この問題では、憲兵司令部も東京憲兵隊も同罪である。憲兵中央部の幹部が普段の冷静さを保持していたならば、渡辺大将に難を避けさせることは充分にできたはずである。普段の捜査状況からみても、事件勃発とともに、渡辺大将が狙われていることが、憲兵隊側にわからぬはずはなかったからである。
 叛乱四日間、第一線の憲兵は各地からの応援憲兵を含めて、東京市内要所の警戒、要人の警護、情報の収集には不眠不休の努力をして、東京憲兵隊本部に報告している。この点憲兵の真価は遺憾なく発揮されたが、憲兵隊中央部における事件勃発前後の処置は、明らかに重大な責任問題となるものである。
 元来、憲兵の任務からいえば事件の発生防止が第一である。当時、憲兵司令部副官部にあった脇元栄蔵大尉は、二月二十四日、母の死去の報を受けて故郷鹿児島に帰省したが、二十六日の午後、実家到着とともに事件の発生を知って急遽帰京した。途中、大阪まで来ると、東京状況は様様の流言が乱れ飛んでさっばりわからない。横浜に到着すると、横浜憲兵隊の友人太田清一憲兵大尉に頼んでサイドカーを出させ、憲兵司令部に到着したが、司令部の玄関を入ると、すでに省部の関係者で大混乱の有様であったという。この脇元大尉も事件発生を未然に探知防止できなかった憲兵隊の責任は、まことに重大だったと反省している。
 また、当時、憲兵司令部総務部人事係の岩田京市曹長の回想では、司令部のサイドカーで叛乱軍の警戒地域を視察して司令部へ戻り、上司に報告しても、省部の幕僚に邪魔されて憲兵隊の業務は著しく阻害されたという。つまり憲兵隊中央部の幹部自身が、動揺した省部のお偉ら方に振回わされていたのである。
 特に九段下の偕行社〔陸軍将校の集会所〕は蹶起部隊によって電話線が切られたため、一時は音信不通となって、各将軍連中まで憲兵司令部へ駆けつけるので、司令部の将校はその応接や命令に似た要請乱発によって、ほとんど的確な業務ができなかった。
 叛乱二日目の二十七日からは、憲兵司令部の各将校も東京憲兵隊の応援協力に出て、隊長命令を書く亀井澄雄憲兵大尉は弱ったという。音段亀井大尉より上級の、しかも司令部の先輩将校に東京憲兵隊長の命令を書いて出すのであるから、やりにくいのは当然であったろう。
 結局、二十九日午後、陸相官邸で叛乱将校が逮捕されるまで、憲兵司令部は混迷の渦中に終始した。その原因を追及すると、まず、岩佐司令官が坂本東京想兵隊長の批判を受入れて、自ら招いた矢野総務部長との間が冷却していたことと、また矢野に対する坂本の反感、矢野総務部長の憲兵としての性格的不適確さ不慣れ、それに岩佐憲兵司令官の病弱と指揮の不明が第一の原因である。矢野総務部畏は頭脳優秀で緻密である。冷静な人物だけに言動もまた慎重である。しかも司令官に代わって自分でやらなければという責任感も強い。さりとて決して政治的に動く人物ではない。それに省部の幕僚に邪魔されて自由に身動きできない。
 ところが、東京憲兵隊の坂本大佐は、性格は豪放で大ざっぱな面があり、矢野総務部長の慎重さが、ときには無能にも見えて、どしどし命令を要求する。これでは憲兵中央部もなかなか人の和がとれない。それに矢野、坂本間に冷却したものがあったのでは話にならない。憲兵司令部は当時約五十名の憲兵がいたが、手足となる実行部隊はない。坂本憲兵隊長からみれば、憲兵司令部は何をしているのかということにもなるだろう。
 さらに、事件勃発とともに司令部では情況を甘くみたきらいがある。青年将校が蹶起するであろうことは、あらかじめ覚悟はしていた。すでに承知の上である。けれども、青年将校が部隊を率いて蹶起する、つまり下士官、兵まで襲撃に使用するとは、まさに青天の霹靂〈ヘキレキ〉であった。これが大ショックだったわけである。また、蹶起部隊は重臣襲撃後に、陸相に報告して直ちに兵を引上げるだろうという判断であった。まさか四日問も帝都の要衝を占拠して叛乱行為を犯すなどとは、夢想だにせぬことであった。しかも憲兵司令部、東京憲兵隊本部、そして麹町憲兵分隊以下の各分隊にも、蹶起部隊にひそかに同情を寄せるものが少なくなかった。それでも岩佐憲兵司令官が半蔵門で安藤中隊の歩哨に陸相官邸への通過を遮られて、荒木大将邸を訪問したことに対して、司令部の内部からも多くの批判があり、岩佐憲兵司令官は真崎大将のところへ行ったものと噂されたほどである。とにかく二・二六事件時の憲兵司令部は、どう甘くみても及第点はやれないのが実情である。
 
 二・二六事件発生時の憲兵司令部、東京憲兵隊本部の内情を、かなり詳細に記述している。
 筆者は、教育総監渡辺錠太郎大将邸への連絡が遅れた理由を、「憲兵司令部の昏迷と動揺」に求めているが、この理由は、本質的なものとは言えないだろう。当時、憲兵を含め、軍部全体に、「蹶起」を支持する空気があり、軍部の関心は、重臣殺害の防止に向けられていたのではなく、重臣殺害という既成事実が生じたあと、事態がどう推移するかに向けられていたのではないか。
 なぜ教育総監渡辺錠太郎大将邸への連絡が遅れたのかという「反省」は、あくまでも、「蹶起部隊」が「叛乱軍」と位置づけられた結果、生じたものであって、事件発生時においては、渡辺錠太郎教育総監を守るという発想そのものがなかったと見るのが妥当ではないか、と私は考えている。
 明日は、いったん話題を変える。

*このブログの人気記事 2017・1・20(8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲兵司令部は、なぜ渡辺教育総監に電話しなかったのか

2017-01-19 04:23:20 | コラムと名言

◎憲兵司令部は、なぜ渡辺教育総監に電話しなかったのか

 全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会、一九七六)の紹介を続ける。
 本日、紹介するのは、第二編第一章「史的展望(昭和元年より昭和十一年)」の「国家革新運動」という節にある、「憲兵司令部の昏迷と動揺」と題されている文章である。一昨日および昨日に紹介した、「『本庄日記』の謎」のすぐあとにある。  

 憲兵司令部の昏迷と動揺

 憲兵隊中央部で最も早く二・二六事件の勃発を知ったのは、東京憲兵隊本部の特高課長福本亀治少佐であった。
 非常呼集によって騒然となった憲兵司令部及び東京憲兵隊本部の動向を追うと、まず、病床にあった岩佐〔禄郎〕憲兵司令官は、総務部長矢野機【はかる】少将に後事を託して、午前六時三十分頃司令部の軍用車で雪の半蔵門に到着した。陸相〔陸軍大臣〕川島義之大将に会うためである。憲兵隊が陸相の隸下にある以上真先〈マッサキ〉に陸相に会おうとした岩佐憲兵司令官の態度は当然であった。
 ところが、すでに警戒配置についた蹶起部隊(この時点ではまだ叛乱軍ではない)は、首脳部である香田〔清貞〕大尉、村中孝次、磯部浅一らが、陸相官邸で要望書を陸相に突きつけている最中で、外部から陸相への面会を許さなかった。
 半蔵門に歩哨を立てて外部との連格を遮断したのは歩三〔歩兵第三連隊〕の安藤〔輝三〕中隊であったが、歩哨は岩佐憲兵司令官の軍用車を停止させてどうしても通過を許さない。岩佐憲兵司令官は涙を流して歩哨を説得したが、歩哨は命令だと頑として通過させなかった。
 そこで岩佐憲兵司令官は車を淀橋の荒木〔貞夫〕邸へ向け、荒木大将宅に訪れたのが午前七時三十分頃であった。この時の状況を荒木の戦後の回想によると次のようになる。
 午前七時頃、鈴木貞一中佐からの電話で事件勃発を知った荒木のところへ、渋谷憲兵隊の分隊長徳田豊少佐が蹶起部隊の配置、警備状況を報告に来た。荒木は直ちに天機奉伺と参内の準備をしているところへ、岩佐憲兵司令官が半蔵門から廻って来た。
「私が病気で寝ていたので、こんなことになって申訳がありません。どうか、お力によって青年将校を無事に還して下さい。貴方が行けば彼等はいうことをききます」
 と岩佐が荒木に依頼した。いかにも青年将校に同情的だが、これは荒木の回想だからだろう。すると荒木が岩佐に警視庁側の様子を聞き、警視庁が占拠され、警視総監小栗一雄〈オグリ・カズオ〉は神田錦町警察にいることがわかった。荒木は岩佐に警視総監に隠忍自重〈インニンジチョウ〉することを伝えるように依頼して参内した。
 この後、岩佐憲兵司令官は荒木邸を辞去して神田錦町警察へ行き、小栗警視総監と打合せて一旦は宮城へ参内、各関係者に会って憲兵司令部へ帰った。病人の岩佐としてはこれで精一杯であったろう。
 一方憲兵司令部では矢野総務部長が東京憲兵隊長坂本俊馬〈トシメ〉大佐に命じて、情報の収集を急がせるとともに、司令部の将校にも直接状況を視察して報告させることにした。
 当時、憲兵司令部の編成は次のとおりであった。
 憲兵司令官   岩佐禄郎中将
 総務部長    矢野機少将
 警務部長     城倉義衛大佐
 高級副官    菊地武雄中佐
 次級副官    鎌田 浩少佐
 専属副官    小笠原義一大尉
 第一課長(総務・編成) 長友次男少佐
 第二課長(警務)    平野豊次少佐
 第三課長(外事)    長浜 彰少佐
 部付将校は井部重郎、山中平三、藤本治毅、志村行雄、北田利、脇元栄蔵、中村通則、野口正雄、曽田嶺一の各大尉であった。
 この日の早朝、靖国神社へ参拝した長友次男憲兵少佐は官舎へ帰って初めて事件勃発を知り、直ちに司令部へ出勤してして矢野総務部長に報告している。
 また、城倉警務部長は東京憲兵隊本部に要人警戒配置を指示して視察に飛び出して行った。
 事件勃発後の憲兵隊司令部は、情報不足のためたちまち混迷状態となり、多くの将校は情報収集に出かけたが、この渦中にひとり泰然自若としていたのが第二課付の北田利大尉であった。これは性格にもよるが、憲兵司令部へ戦場の矢のように殺到する緊急電話は、この北田大尉がほとんど冷静に処理していた。
 ところが、陸軍省と参謀本部が蹶起部隊に占拠されたため、本拠を失った省部の関係者が続々と憲兵司令部に集まった。たちまち通信隊によって軍用臨時電話が敷設され、あたかも憲兵司令部は臨時陸軍省、参謀本部となって、憲兵司令部の業務は著しく阻害されてしまったのである。
【一行、アキ】
 一方、参謀本部は参謀総長が皇族の閑院宮〈カンインノミヤ〉〔載仁親王〕であったため、事実上の責任者であった杉山元〈ハジメ〉参謀次長は、午前六時四十分頃、自宅で身辺警護に来た憲兵の来訪報告によって事件発生を知った。
 杉山参謀次長は参謀本部、陸軍省、陸相及び次官官邸、さらに人事局長後宮淳〈ウシロク・ジュン〉少将宅へ電話したがどうしてもかからない。すると午前七時三十分頃になって、軍務局長今井清少将から電話があり、省部が蹶起部隊に占拠されたことを知り、憲兵司令部に集合する旨の連絡を受けた。
 杉山参謀次長は参謀本部の清水規矩〈ノリツネ〉大佐(編制・動員課長)と石原莞爾〈イシワラ・カンジ〉大佐(作戦課長)らに、憲兵司令部への集合を命じて急遽自宅を出た。
 杉山参謀次長が憲兵司令部へ到着したのが午前八時五十分頃、すでに今井軍務局長が来ていて、杉山参謀次長は憲兵司令部総務部長矢野少将から事件の概況報告を受けた。
 そのうちに参謀本部の各課長クラス以下が到着したが、軍務局長以外の陣軍省側の幹部が来ない。そのはずである。この頃、陸相官邸では川島陸相、古荘〈フルショウ〉〔幹郎〕陸軍次官、石原作戦課長らが叛乱軍首脳部の香田大尉から要望事項をつきつけられていた。また、陸軍省軍事課長村上啓作大佐などは、何処にいるのかさっばりわからない。したがって臨時の省部となった憲兵司令部では、集合した幕僚が陸相、次官、軍事課長の連絡のないのに憤慨し、特に陸相官邸に軍事参議官真崎甚三郎大将が訪れたことを頻りに非難していた。軍事参議官の出る幕ではないというわけである。【以下、次回】

 上記の文章によれば、岩佐禄郎憲兵司令官は、午前六時三十分ごろ、陸軍省のある半蔵門に到着している。この時刻において、蹶起部隊は、まだ、渡辺錠太郎教育総監私邸に到着していない(到着は、午前七時前後)。陸軍省に向かう余裕があるならば、みずから教育総監私邸に電話し、避難を勧告すべきであった。みずから電話をしないまでも、総務部長矢野機少将以下に、教育総監私邸に電話するよう指示することもできたはずだが、それもしていない。また、上記によれば、杉山元参謀次長は、午前六時四十分ごろ、身辺警護に派遣された憲兵の来訪を受けている。「城倉警務部長は東京憲兵隊本部に要人警戒配置を指示して」とあるので、警務部長城倉義衛〈シロクラ・ヨシエ〉大佐からの指示と思われるが、この時刻において、蹶起部隊は、まだ、渡辺錠太郎教育総監私邸に到着していない。憲兵司令部は、杉山元参謀次長の私邸に身辺警護の憲兵を派遣させる配慮ができたのである。だとすれば、当然、渡辺錠太郎教育総監私邸に、即刻、電話を入れるぐらいの配慮はできたであろう。なぜ、それができなかったのか。

*このブログの人気記事 2017・1・19(10位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本庄繁侍従武官長と福本亀治特高課長

2017-01-18 03:03:29 | コラムと名言

◎本庄繁侍従武官長と福本亀治特高課長

 全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会、一九七六)から、「『本庄日記』の謎」という文章を紹介している。本日は、その後半。

 なぜこのような疑問をもつかというと、次のような事実があるからである。この後、岩佐〔禄郎〕憲兵司令官は、蹶起軍将校の説得に出かけて、半蔵門で安藤〔輝三〕中隊の歩哨に停止させられ、将校に会えず悲憤の涙を流すのである。
 一方、福本〔亀治〕憲兵少佐の非常呼集によって、東京憲兵隊本部に集った憲兵の中から、特高係りの小田徳四郎曹長は、直ちに本部の乗用車で出発、麹町三番町付近を視察して三宅坂へ行くと、丹生〈ニブ〉〔誠忠〕隊の歩哨に停止させられて戻る途中、半蔵門で安藤中隊に遭遇している。恐らく本庄〔繁〕侍従武官長が半蔵門を左折して英国大使館へかかった直後あたりの時間である。
 こうしてみると、「本庄日記」も福本憲兵少佐の証言も、時間的にはほとんど間違いない。すると、「本庄日記」にあるとおり、本庄侍従武官長がかけた岩佐憲兵司令官への電話の意味が、重大な謎となってくる。ところが、三宅坂で安藤中隊に遮えぎられ、淀橋の荒木貞夫大将宅を訪問して、叛乱将校の説得を依頼した岩佐憲兵司令官は、憲兵司令部へ帰ると和田嘉一特務曹長に、
「何故俺のところへ報告が遅れたのだ。どうして報告してくれないのだ」
 と涙を流して口惜しがった。これは小田曹長が和田特務曹長から聞いている。
 この岩佐憲兵司令官の言葉は実に意味深長である。本庄侍従武官長の電話は、あるいは矢野〔機〕総務部長宅の官舎にかけたかもわからない。むろん本庄はこの時点で岩佐憲兵司令官が病床にあったことは承知している。
 さらに相沢〔三郎〕事件後、福本特高課長〔東京憲兵隊特高課長福本亀治少佐〕は毎週本庄侍従武官長に招かれ、武官府において右翼と青年将校の動静を報告している。これは二・二六事件勃発の二日前まで続いていたのである。しかも、報告の際、本庄はまだ福本特高課長の知らない、青年将校の情報までよく承知していたという。これは、本庄が山口〔一太郎〕大尉から受けた報告の内容を、福本特高課長に確認するというやり方であったようだとは、福本特高課長の回想である。したがって、事件勃発とともに参内した本庄侍従武官長は、蹶起将校の動静には、憲兵隊以上に詳しく承知していたとみても間違いではないだろう。これが山口大尉のいう宮中工作であったかもしれない。そして福本特高課長は報告の際、青年将校が蹶起した場合、宮中重臣と、渡辺〔錠太郎〕大将が狙われていることを知らせている。すると、襲撃目標をよく承知していながら、敢て狙われていた重臣を、本庄がひとりも助けようとしなかったのはなぜだろう。山口大尉から本庄への電話があったのは午前五時以前であることは、まず間違いない。さらに憲兵隊は事件勃発を知った時点で、まだ、襲撃目標を完全につかんでいなかったのである。憲兵隊がようやく渡辺錠太郎大将の危険を感じて電話したときには、わずか数分の差で間に合わなかったのである。本庄が岩佐(あるいは矢野)に電話をしたときに、渡辺錠太郎大将が狙われていたことを知らせたならば、渡辺錠太郎大将は恐らく難を避けることができたろう。
「本庄日記」にみる限り、本庄侍従武官長と岩佐憲兵司令官、または矢野総務部長の態度に疑問が残るのは当然だろう。果たして山口大尉から事件勃発の報を受けた本庄侍従武官長は、参内しつつ何を考え、何をやろうとしていたのだろうか。二・二六事件に関する限り、「本庄日記」には最後まで重大な疑問が残されている。その一つに天皇発言がある。

 かなり話が込み入っており、かつ、文意が明瞭でないところがあるが、要するに筆者が言いたいのは、「本庄侍従武官長と岩佐憲兵司令官、または矢野総務部長の態度に疑問が残る」ということだろう。
 本庄繁侍従武官長については、「態度に疑問が残る」どころではない。娘婿の山口一太郎大尉から、襲撃計画の概要を聞いていたのにもかかわらず、それを阻止しようとする動きは示していない。蹶起が実行に移されたことがわかったあとも、「蹶起」を既成事実とし、その上で、いかに「宮中工作」をおこなうかということしか考えていなかったようだ。
 岩佐禄郎憲兵司令官、矢野機総務部長についても、たしかに、「態度に疑問が残る」ところがある。しかし、それを言うのであれば、むしろ問題にすべきは、東京憲兵隊特高課長福本亀治少佐であろう。福本亀治少佐は、「二・二六事件勃発の二日前」まで、本庄繁侍従武官長と情報交換をおこなっていた。襲撃目標のひとつに、「渡辺錠太郎教育総監私邸」があったことも把握していた。
 しかし、福本少佐は、蹶起が実行に移されたという連絡を受けたあとも、渡辺邸に電話連絡して避難を勧告するなどの措置をとっていない。蹶起を既成事実とし、本庄侍従武官長による「宮中工作」の推移を見守ろうとしていたのではないか。
 これは、断定を控えるが、当時の「憲兵」組織全体に、同じような空気が広がっていたのではないだろうか。
 四年以上前に「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」(2012・8・11)というコラムを書いたとき、また、本年に入って「佐川憲兵伍長を呼び出した下士官すら特定できない」(2017・1・2)というコラムを書いたときも、護衛憲兵が、渡辺錠太郎教育総監を守らなかったという事実に捉われ、事件全体の「構造」にまで、視野が及んでいなかった。この点を反省するとともに、さらに研究を進めてゆこうと考えている。

*このブログの人気記事 2017・1・19(7・9・10位に珍しいものが)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本庄繁の『本庄日記』には明らかにウソがある

2017-01-17 04:55:46 | コラムと名言

◎本庄繁の『本庄日記』には明らかにウソがある

 二・二六事件で襲撃され殺された渡辺錠太郎教育総監の次女である渡辺和子さん(ノートルダム清心学園理事長)が、昨年一二月三〇日に亡くなられた。おそらくそのためだと思うが、翌三一日に、当ブログの四年以上前のコラム「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」(2012・8・11)へのアクセスが急伸した。このことは、すでに、今月二日のコラム「佐川憲兵伍長を呼び出した人物すらわからない」で述べた。
 その後も、「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」に対するアクセスは、あいかわらず多い。だからというわけではないが、本日は、話題をふたたび、「渡辺錠太郎教育総監襲撃事件」に振る。
 昨年の終わりに、全国憲友会連合会編纂委員会編『日本憲兵正史』(全国憲友会、一九七六)を入手した。一四五〇ページの大冊である。まだ、拾い読みをしているにすぎないが、今年になって、「『本庄日記』の謎」と題された一文に注目した。これは、第二編第一章「史的展望(昭和元年より昭和十一年)」の「国家革新運動」という節にある文章である。ことによると、ここには、きわめて重大な意味を持つ情報が含まれているのではないか。
 とにかく本日は、この「『本庄日記』の謎」という文章を紹介してみたい。

 「本庄日記」の謎
 
 二・二六事件が勃発したとき、憲兵隊中央部で最も早くこの報告を知ったのは、東京憲兵隊特高課長福本亀治少佐であった。〔一九三六年〕二月二十六日午前五時頃、麹町竹平町の憲兵司今部に隣接する、福本少佐の官舎の電話が、暁の静寂を破ってけたたましく鳴った。
 飛び起きた福本少佐が電話に出ると、首相官邸の秘書官からで、
「行ってもいいのですか、行ってもいいのですか」
 という不可解な電話であった。その慌てた異常な口調に事変勃発と感じた福本少佐は、仕度をして東京憲兵隊本部に出勤し、直ちに非常呼集を命じた。
 当時、憲兵司令部は前年〔一九三五年〕の七月に近代建築の四階建新庁舍が完成し、秋にはその隣接地に東京憲兵隊及び麹町憲兵分隊の下士官、兵の官舍が建てられ、本部のボタンを押すと一斉に非常呼集ができるようになっていた。むろん司令官以下の官舎もこの一帯にあった。東京憲兵隊本部と麹町憲兵分隊の下士官、兵が、本部に集合を終るのに約十分もかからない。すると約十分後(午前五時二十分頃)に張込中の第一線の憲兵から、東京隊本部へ事件勃発の電話が入った。
 福本少佐は直ちに同じ建物の三階にある司令部へ報告すると、司令部の宿直はまだ何も知らない。そこで憲兵司令部の総務部長矢野機〈ハカル〉少将に連絡がとられ、ようやく司令部も動き出した。
 当時、憲兵司令官岩佐禄郎〈ロクロウ〉中将は病床にあったので、司令部の指揮は総務部長矢野少将が代行していた。
 一方、歩兵第一連隊の伊藤常男少尉が、週番司令山口一太郎大尉の命令で、連隊付近のハイヤーを叩き起こして、東中野の本庄〔繁〕侍従武官長私邸を訪れたのが、二十六日の午前五時頃である。このとき伊藤少尉は山口大尉から預ってきた結文〈ムスビブミ〉を、本庄侍従武官長に渡したが、この結文は山口大尉が伊藤少尉に渡す直前に筆で書いたもので、
「今出たから、よろしく頼む」
 と書いてあった。これは明らかに事前の連絡を物語っている。ところがこのときの状況を「本庄日記」は次のように記している。
「二月二十六日午前五頃、猶ホ、睡眠中ナリシ繁(本庄)ノ許ニ、歩兵第一連隊ニ週番勤務中ナル、女婿山口大尉ノ使ナリトテ、伊藤少尉周章シク〈あわただしく〉来訪シ、面会ヲ求メシヨリ、何事ノ出来〈いでき〉セシヤヲ憂へツツ会見セン処、同少尉ハ、
 連隊ノ将兵約五百、制止シ切レズ、愈々直接行動ニ移ル。猶ホ、引続き増加ノ傾向アリトノ驚クべキ意味ノ紙片、走リ書キ通知ヲ示ス。
 繁ハ驚キ、即座ニ伊藤少尉ニ万難ヲ排シテ、此ノ如キ行動ヲ阻止スべク、山口ニ伝へヨト指示セシニ、少尉ハ已ニ〈すでに〉出動済ミナルヲ告グ。繁ハ更ニ、兎ニ角〈トニカク〉、輦穀〈れんこく〉ノ下ニ許ス可ラザルノ事ナリ。猶ホ、之ガ制止ニ全力ヲ致スベク、厳ニ山口ニ伝フべク命ジ、同少尉ヲ還シ、直ニ〈たたちに〉岩佐憲兵司令官ニ此事ヲ電話シ、更ニ宿直侍従武官中島少将ニ電話シタル後チ、急ギ付近ノ自動車ヲ呼ビ、宮中ニ出勤ス」(傍線筆者)
 とある。ところがここまでに事実と異なるところがすでに五力所ある。
「伊藤少尉周章シク」とあるが、伊藤少尉は別に慌ててもいない。しかし、これはまあいいとしても、
「睡眠中ナリシ」は明らかに違う。午前五時以前に歩一〔歩兵第一連隊〕の山口大尉は本庄宅に電話をかけ、出動部隊と襲撃目標を本庄に教えている。したがって本庄侍従武官長は、すでに伊藤少尉の来訪をあらかじめ予知していたので、睡眠中ではない。また、伊藤少尉の回想では、本庄がすでに起きていたような気がするとも、袴を着けて玄関へ出て来たともいうが、これは判然としない。しかし、
「何事ノ出来セシヤヲ憂へツツ」とあるのも、本庄はすでに事件の概要を知っていた。さらに、
「引続キ増加ノ傾向アリトノ驚クべキ意味ノ紙片」は、実は「今出たから、よろしく頼む」だけである。次が
「直ニ岩佐憲兵司令官ニ此事ヲ電話シ」とあるが、伊藤少尉は本庄と会見後、約十分ぐらいで帰っている。ところが、この電話が果たして直ちに岩佐憲兵司令官にかけられたかどうか、が実は疑問なのである。
 ここで本庄侍従武官長は自動車で参内したのだが、途中、英国大使館前で、鈴木〔貫太郎〕侍従長襲撃を終えて引上げ、三宅坂へ向かう安藤中隊とすれ違っている。この時間は大体五時四十分頃である。そして参内したのが午前六時頃と書いている。
 本庄の自宅があった東中野から三宅坂まで乗用車で約二十分の距離である。自宅付近のハイヤーを呼んで出かけるまでに、約十分以上はかかるだろう。すると、本庄が自宅を出たのは早くとも午前五時十分頃である。伊藤少尉らが本庄宅を訪問したのは、恐らく午前五時少々前と思われるので、大体時間的には合っている。すると本庄が岩佐憲兵司令官に電話したのは、どうしても午前五時十分以前ということになる。もしそうならば、東京憲兵隊の特高課長福本少佐が、事件勃発を第一線の憲兵から報告を受けるより早く、岩佐憲兵司令官の官舎の電話が鳴って、岩佐から司令部なり東京憲兵隊本部へ連絡がなければおかしい。そこで、さらに推測すれば、岩佐憲兵司令官に電話をしたのがもっと遅かったのではないかということになる。【以下、次回】

 以上が、文章の前半である。文中の傍線(下線)は、原文にあったもので、この傍線(下線)は、「ここまでに事実と異なるところがすでに五力所ある」の「五力所」に対応する。
 さて、歩兵第一連隊の山口一太郎大尉は、いわゆる皇道派で、「蹶起」を支持。二・二六事件の当日は、この山口大尉が「週番司令」にあたっていた。
 また、山口一太郎大尉は、本庄繁侍従武官長の娘婿にあたっており、本庄侍従武官長に対し、以前から、「蹶起」に関する情報を伝えていたようだ。事件当日の早朝も、電話で本庄侍従武官長を起こし、あらかじめ、「出動部隊と襲撃目標」を教えていたとある。
 ただし、この文章の筆者は、山口一太郎大尉が、事件当日の早朝、本庄侍従武官長に電話を入れたとする根拠を示していない。
 いずれにせよ、本庄繁侍従武官長もまた、皇道派または皇道派シンパで、「蹶起」を容認していたと見ることができよう。山口大尉の結び文にあった「今出たから、よろしく頼む」は、「蹶起部隊は、すでに出発したので、宮中工作のほうをよろしく頼む」の意味であろう。
 その後、「蹶起部隊」は、昭和天皇の強い意向から、「叛乱軍」と見なされることになった。ここにいたって、本庄繁は、「日記」を改竄する必要に迫られたということであろう。

*このブログの人気記事 2017・1・17(9位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする