礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宣伝ビラに目をくれるな、人に話すな(憲兵司令部)

2020-12-11 01:23:24 | コラムと名言

◎宣伝ビラに目をくれるな、人に話すな(憲兵司令部)

 古書店の販売目録を見て、『主婦之友』の一九四五年六月号(第二九巻第六号)を入手した。総ページ数三六、表紙が第一ページ、ウラ表紙が第三六ページである。
 見かけは貧弱だが、内容は過激である。もちろん、戦時色一色である。表紙右側には、「本土決戦/勝利の防衛生活」という文字があり、海の上で和船を操っていると思われる女性の姿が描かれている。
 紹介したい記事は多いが、本日は、ウラ表紙に載っていた「敵の謀略に騙されるな」という記事を紹介してみよう。原文は、総ルビに近いが、その一部のみを、【  】によって示した。

  敵の謀略に騙されるな     憲兵司令部指導

 敵は徹底的本土爆撃に加へ、更に思想謀略によつてわが防衛体制を破壊しようとしてゐる。
敵の放送を聞いたら直ちにスイッチを切れ
 甘い感傷的な音楽が嫋々【でうでう】と聞えで来る。それがプツッと切れたかと思ふと、『アメリカは日本国民を敵としない、降参すれば幸福な生活を保証する。』といふやうな文句が電波に乗つて来る。――
 敵はきつとかういふ手を使ひます。馬鹿な‥‥と笑ひ去つても、度重ればつい耳を傾けるやうになつて来る。さうなつたら完全に敵の術中【じゆつちう】に陥つてゐるのです。
 警報が発令されて、敵機は逐次本土に近づきつゝあるといふ防空情報がほんの今あつたのに、突然『』といふ放送が聞える。無判断にそれを信じたら防空態勢はめちやめちやです。
 その日の番組以外のものが突然入つて来たり、放送要領が違つたり、聞き慣れぬ放送員の声だつたりして敵側の放送だと疑はれたら、直ちにスイッチを切ること。聞いたら負けです。
宣伝ビラに目をくれるな人に話すな
 敵機は九州でも大阪でも千葉にも宣伝ビラを撒いた。十円札の模様の裏に、生活物資の窮乏につけ込んで軍への中傷を書き立てたもの、表は日の丸で裏に和平宣伝を印刷したものや、病人、死人が折り重なつて倒れてゐる図に、戦災者を絶望させるやうな文句を入れたもの。また『まこと』といふ敵の手で編輯された新聞もある。敵米国の生産力の大きさを誇張したり、一方アメリカにとつて不利な事実も発表し、いかにも日本の新聞のやうに見せかけてゐる。
 敵はこれらによつて、軍民離間【りかん】や和平思想を植ゑつけようとするのです。拾つたらすぐ届け出ること。内容も人に告げぬこと。国法で罰せられます。
敵機の落したものを拾ふと危険
 敵は飛行機から玩具【おもちや】や万年筆や時計の形をした爆弾を落したり、病菌を塗つたものを落すかも知れぬ。
 子供には、道に落ちてゐるものは絶対に拾拾はぬやう、平常【ふだん】からよくよく言ひ聞かせておくこと。うつかり手を触れて大怪我【おほけが】をしたり、生命【いのち】まで失つてから騒いでも後の祭です。
投下された生活必需品に釣られるな
 敵は物資の乏しいところへつけ入つて、タオルや石鹸、煙草、菓子類など、無害でそのまゝ役立つ生活必需品を投下することもある。咽喉【のど】から手が出さうなものでも、敵のものなど一指も触れぬ心構へが肝要。ただ利用するだけのつもりが、いつの間にか感謝に変り、厭戦へ和平へと敢闘精神を鈍らせる因【もと】になります。
謀略は常に新手【あらて】で来る
 日本人に変装した者が、落下傘や舟艇で人知れず本土にまぎれ込み、偵察をやつたり、鉄橋や工場を爆破したり、また井戸に毒を入れたりするやうなことも予想されます。敵は何をしでかすかも知れぬ。怪しい人がゐるときはすぐ届け出ること。
謀略に勝ち抜くには――
 敵が狙ふのはわれわれの心の隙です。弱気や好奇心や、恐怖感です。いかなる悪条件下にあつても、敵の甘言【かんげん】に乗せらるやうな心の隙を作つてはなりません。ぐらぐらせぬ信念、あくまで戦ひ抜く精神、これ以外に敵の謀略を撃退する武器はないのです。

*このブログの人気記事 2020・12・11(8・9位になぜか戸坂潤)

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潮谷総一郎、アリバイ証人を北九州市に探しだす

2020-12-10 00:49:02 | コラムと名言

◎潮谷総一郎、アリバイ証人を北九州市に探しだす

 本日は、免田栄著『免田栄 獄中記』(社会思想社、一九八四)の「まえがき」を紹介してみたい。
 同書の「まえがき」は、免田栄さんの再審に尽力した慈愛園園長・免田栄救援会会長の潮谷総一郎(しおたに・そういちろう)さんが書いている。かなり長いので、前半の約半分を紹介する。なお、慈愛園は、ルーテル教会が運営する福祉団体。また、潮谷さんは、すでに故人である(一九一四~二〇〇一)。

  ま え が き ――免田さんと私――       潮谷 総一郎

 強盗殺人――この世のなかに、これほど憎むべき凶悪犯罪は他にない。その犯人は、当然のことながら厳罰によって報いられなければならない。
 しかし、もし、ここにまったく身に覚えのない強盗殺人事件を押しつけられ、死刑の宣告をうけたものがあるとしたらどうであろうか。
 無実――あまつさえ、そこには尊い一個の人命がかけられている。看過できない重大事というべきであろう。
 死刑囚・免田栄さんは昭和二十四年〔一九四九〕第一審の第二回公判以来、終始一貫して冤罪【えんざい】を主張している。そして三十四年と六ヶ月の長い年月を経て、昭和五十八年〔一九八三〕七月十五日、完全無罪の判決で雪辱【せつじよく】を果たした。
どうしてそういうことになったのか、その過程をたどることは現代社会を生き抜くために不可欠の重要事である。他人【ひと】ごとではない。
 いつ、そのような災いが私たちにふりかかってこないとも限らない。身近な問題として受けとめるべきことである。
 さて、私と免田栄さんの出会いは昭和二十六〔一九五一〕年三月、福岡拘置所の死刑囚内田〔英雄〕という人に面会に行ったときにはじまる。拘置所では十人くらいの死刑囚が教誨室に集まってくれた。私にはその人びとに精神講話をする機会が与えられた。三十分話して、あとは個別の面接相談となった。
 そのころ、私は慈愛園総主事として乳児院、養護施設、保育所、母子寮、老人ホーム等十二施設を経営して千人くらいの人たちをお世話していたので、福祉と人権を阻害された状態への理解と、解決への経験をもっていた。従って、死刑囚のカウンセラーの役目も果たせたわけである。ここで内田から免田さんを紹介してもらった。
 免田さんは色白の丸顔、黒い眉、眼の澄んだ中肉中背の青年であった。特別に話すこともなく黙って別れた。しかし、三ヶ月たつと最初のハガキがとどいた。このころ私には毎月七、八通のハガキや手紙が拘置所から定期的に送られてきて、キリスト教の信仰を通して靖神指導をしていた。そして、敗戦直後の物資欠乏で、日用品にも困窮していた時代なので、折りをみてはタオル、歯磨粉【はみがきこ】、歯ブラシ、石鹸、文具類を小包で差し入れした。拘置所ではそれらの物資にも大変不便していたので、心から喜んでもらえた。
 私にたびたび連絡をとるのは内田で、死刑囚のなかではキリスト教信者の先輩格で、十数人に信仰を勧【すす】めては、その求道状況を私に報告してくれた。一家七人殺し事件の花田松造の改心を詳細に知らせ、また、免田さんのこともちらほら報告されるようになった。
 やがて、免田さんから私信をもらったが、免田さんのハガキは読みづらかったが、二、三回くりかえして判読した。日用品の差し入れをして欲しいとの申し込みであった。
【一行アキ】
「私は学問の程度のひくい者ですが、キリスト様の教えに、『心の清き者は幸福なり。その人は神を見ることを得べければなり』とあります。私はそれを思いだし、影日向なくザックバランに書きました。どうかお恵み下さい。」(原文のまま、以下同じ)
【一行アキ】
 私は日用品を小包で送った。大変喜んだ礼状がとどき、それ以来月二、三通の割合でとどけられ、 今日では一千通をこえている。その年の十二月には死刑確定、再審申請と心労の多い裁判が続き、花田松造や顔見知りの人びとが死刑を執行された。
 懊悩【おうのう】の日々に免田さんは、決心してルーテル教会の内海季秋牧師から洗礼をうけた。昭和二十七年〔一九五二〕四月のことだった。その後のハガキには自分の生命も今年一杯だろうと予測していた。
【一行アキ】
「もう私もこの社会にいる期間が後わずかのように思われます。再審の手続はとりますが、長くとも今年中には天国に召されると思います。しかし、今少し聖書の意味をわかりたいと思います。」
【一行アキ】
と、引照付旧新約聖書を急送してくれと書いてあった。死生【ししよう】の極限に立って、もうどうにもならない気持ちであったようだ。ひたすら神への信仰に進んでいった。もっとも苦しいときにキリスト教に入信して、精神のやすらぎを求めたのである。
一方では、拘置所によくきていた宣教師におそわって、再審申請も提出した。免田さんが再審申請をしたからでもあろうか、六月ごろ、私が拘置所に面会に行ったとき、内田は、
「先生、免田は第二回公判以来無実を主張して犯行を否認し続けています。バカの一つ覚えのように冤罪だとばかり言っていますが、いいかげんに自分の犯行を懺悔【ざんげ】するように先生から勧めて下さい」
と、相談をもちかけてきた。私は承知して別れたが、時機をみて長い手紙を書いて送った。そして、自分のやった事実については神の前に、人の前に素直に認めて悔【く】い改【あらた】めなければ神の救いをうけることはできない。神の助けは、改心して自分の真心を全開するときにこそ実現するのである、と勧めた。
 ところが、そのことについての免田さんの返信は、はっきりと無実を訴えていた。
【一行アキ】
「この事件に関しましては、私は全然覚えがないのです。刑事らの謀略でつくりあげたと申してよいのです。事件のあった日は、昭和二十三年〔一九四八〕十二月二十九日であります。私の二十九日のアリバイは人吉市の丸駒屋にあるのです。三十日もアリバイがあるのです。
 しかし、刑事らは二十九日のアリバイである丸駒屋の女に、なにか裏の手をとり、三十日と申させているのです。それがために三十日のアリバイが三ヶ所にあるのです。現在、私は再審の手続きで父の方にお願いしてアリバイの証人を探してもらっていますが、いまだにわかりません。田舎者ですからなにもかもわからず、依頼してもあとさきになる(すれ違いになる 潮谷・注)ことばかりです。」
【一行アキ】
 今までは精神的な信仰のことばかり書いていて「自分の事件には一言もふれなかっただけに、私は少なからぬショックを受けた。
免田さんの苦悩は一日違いのアリバイにあった。二十九日事件当夜のアリバイ証人がいるにもかかわらず、検事や裁判長が採用してくれず、それは三十日のことだと認定して、免田は犯行現場にいたと断言した。免田さんはこれを冤罪だといっていた。
私は単純には免田さんの訴えを認めなかった。警察、検察、裁判所の正しさを常識として信じていた。だからそのまま放っておいた。ところが、免田さんの手紙は必ず誤判を訴えてくる。
【一行アキ】
「私がなんと申しましても、現在一審より三審まで審理が済んで、そのうえで死刑という刑をうけているのですから、社会の人は信じてくれる者はいないと思いますが、今の体で最後の審判をうけることは神に対して申し訳ありません。
この世で、己れの弱きがために殺人罪という名を残すことはたえきれません。何とか正しいことを通して頂きたいのです。」
【一行アキ】
 免田さんの真実性はだんだん私の思考を変化させた。――免田さんの言っていることは本当かもしれない。
手紙の脈絡に無実の罪の雪辱を訴え、自分が死を免【まぬが】れるだけではなく、神の正しさを明確にしなければすまぬと主張して止まない。私は一審の本田弁護士に会った。弁護 士は開口一番、
「免田さんは真犯人ではありませんよ。裁判には敗【やぶ】れましたが私は信じています。判決の証拠は免田さんの自供書だけです」
 私は裁判調書に目を通し、アリバイ証人を北九州市に探しだして、昭和二十八年〔一九五三〕にその証明書を追加して再審の陣容をととのえた。その結果、三十一年〔一九五六〕八月十日再審決定となった。私は鬼の首をとったように喜んだ。裁判はこれで終結したと思った。その喜びもつかの間、検事の即時抗告。三十四年〔一九五九〕四月再審開始決定の取り消しとなった。私は日本弁護士連合会(日弁連)に救援を訴え、最高裁長官田中耕太郎、法務大臣瀬戸山三男、衆議院法務委員長大久保武雄の諸氏に陳情、北海道から鹿児島までの知人友人の五千人署名捺印【なついん】集め等、免田さんと私の共闘がつづいた。
あるとき、免田さんに面会すると、
「先生、しばらくキリスト教信仰を中絶します。闘いに専心します」
と言う。真意がわからぬまま、
「それはいけない。信仰心が本源になっていて、はじめて勝利があるのだから」
とたしなめた。すると彼は、
「信仰をやめてしまうのではないのです。一時停止しますが再び信仰に進みます」
と言う。思うに、敵を愛せよとか、右の頰を打たれたら左の頬をもということでは闘えない。心底から司法制度、そのからくりを憎んでかからないと闘争にならないと考えていたのだろう。そのときは死刑確定と再審決定の両判決をうけ、第六回目の再審申請が進行していた。【以下、略】

 明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2020・12・10(8・9位に珍しいものが入っています)

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大洋を漂流して孤島を発見したような喜びを感じた(免田栄)

2020-12-09 04:26:09 | コラムと名言

◎大洋を漂流して孤島を発見したような喜びを感じた(免田栄)

 五日の東京新聞記事には、「生きるのを諦めかけた時、教誨師だったカナダ人神父の言葉に救われた。」とあったが、免田栄さんが、再審請求書を提出するまでの経緯は、かなり複雑である。また、免田さんが、再審請求の決意を固めたのは、多くの偶然が積み重なった結果とも言える。
 本日は、『免田栄 獄中記』(社会思想社、一九八四)の第六章「最高裁で死刑確定」から、「迫る死の恐怖」の節(二二六~二三〇ページ)を紹介してみたい。

 迫る死の恐怖
 最高裁で死刑の判決をうけた者は、死刑台のある拘置所に移監されるのがさだめである。十二月も押しつまって死刑の確定判決が出た私は、昭和二十七年〔一九五二〕一月に福岡市西新町の藤崎拘置支所(藤崎拘置区)に移された。この支所の隣には道路をへだてて三万坪もある福岡刑務所がある。まわりには松林、お寺、墓地などが散在している。敗戦後、混乱した社会に発生した多数の犯罪者を収容するために、木材の香も新しく舎房が建っていたが、ここに私は収容された。この拘置支所の北側の塀にそって、不気味な死刑台の建物が見える。
 舎内に入ると、同年輩の花田松造という死刑囚に紹介された。花田は佐賀県下で坊さん一家八名を殺した男として、極悪犯人の烙印【らくいん】をおされている人物であった。しかし彼から受けた印象は明るい。ニコニコと笑顔をたやさず、年輩の死刑囚である内田〔英雄〕さん、矢野〔正雄〕さんとも親しくつきあっていた。
 この三人と私は、毎日、看守部長の引率で一緒に運動に出たり、教誨などで一緒になった。しかし私はまだ親しい気持ちになることができなかった。というのは死刑確定後でもなお私は死刑からまぬがれる方法はないものかと考えつづけていたからだ。それまで私は、無実なのだから死刑になるはずはないという確信がどこかにあった。しかし最高裁の判決が出て、その気持ちは崩されぬわけにはいかなかった。鉄格子から死刑台を見るたびに死の恐怖にもだえ苦しんだ。三人と運動や教誨に出ても、私は自分に迫ってくる死という問題に心を占領されていた。
 新しい刑事訴訟法には、死刑確定後六ヵ月以内に処刑するという定めがある。花田は私たちより数ヵ月も早く死刑が確定している。処刑の日が近づくにつれて、花田は日頃の明るさもなくなって、運動や教誨にも出席せず、房内にこもって泣いていた。
 その姿を隣房に見せられている私は、ますます死の恐怖にひきこまれ、寝食もろくにとれない。運動に出ても足が地についている感覚がない。まるで生きてる蠟人形のような心地だった。花田も日に日に表情が暗くなる私を見て、よけい命の危機を感じたらしい。
 ある日のこと、たぶん間違って入ってきたらしいガリ版刷りのパンフレットが、食器口からほうりこまれた。なに気なく取りあげて読もうとしたが、大半の文字が消えてよく読めない。ただ『死の影の谷を旅すとも、災いを恐れず。汝、我とともにあればなり』という文字があり、その下の部分は消えて読めない。突然、私はこの短い文句に天啓を感じた。この言葉に新しい打開の道があることを悟った。私は何回も何回もくりかえして読み、畳の上に身を投げ出して日夜祈りつづけた。
 すると数日後の夜中、今まで苦しみつづけた胸の中に、ぐっと光明がさしこんできた。そして死の恐怖がぬぐったように消え去った。まるで黒い密雲にとざされていた太陽が、急に雲のあいだから顔を出し、輝く光を投げかけるような感じだった。急に気分が浮き浮きしてきて、まるで別人になったように、新しい活路を見出す勇気がわいてきた。そして誰彼なく、どうしたら死の壁を突破することができるかもたずねた。
 花田松造は熊本から週一度、教誨にみえる内海牧師に洗礼を受けていた。そのあと放心状態だった生活が変化して、もとの明るさがよみがえり、聖書を読み、日常会話に聖書の言葉がとび出すほどの篤信者になった。
 カトリック信者の内田さんのところには九州大学神学教師のデロリー神父とウイキリンソン神父が毎土曜ごとに教誨にみえた。内田さんにともなわれて、私は二人の神父の教誨にも出席した。外国人への恐怖感があったが、ユーモアたっぷりの話がおもしろかった。
 その当時、福岡には死刑囚がたくさんいて、四カ所に分散されていた。神父さんの話のなかに、
「本所の死刑囚のなかには再審請求して長い期間、生きている人がいます」という言葉があった。
 そこで再審について質問してみたが、神父さんもくわしいことは知らないようだった。私はさっそく、役所から六法全書を借り出した。そして「再審」という文字をさがした。刑訴法の末尾のほうに「再審」という活字を発見したとき、大洋をひとり漂流してやっとのことで孤島を発見したような喜びを全身に感じた。溺れる者がワラを発見したような気持ちだった。
 しかし、誰に聞いても再審の手続きを知っている者はいない。だが救いの神はいた。当時は朝鮮動乱中だったので、 日本は朝鮮戦争の米軍基地化してしまい、これに反対する人たちが火炎びん闘争をやっていた。そのためアメリカ軍は共産党狩りを警察に指令したので、逮捕されて拘置所に収容される人たちが多かった。
 そのなかに江口という人がいた。この人が法律に明るいことを知り、許可をえて相談に行った。どんな用件で死刑囚が相談にやってきたのかと最初、江口さんはいぶかしがっていたが、何度も頼んで事件の真相を話しているうちにわかってくれた。それからは再審請求の書類の書き方を親切に指導してくれた。
 私は鉛筆を借り、チリ紙に事件の顚末をせっせと書いた。そのころ東京にたびたび出向いていた潮谷〔総一郎〕先生から聖書と五百円をいただいた。私は聖書を舎房の隅に置き、五百円の金を何度も何度も手をついて拝んだ。再審の書類をつくるには、チリ紙ではなく、ちゃんとした用紙と筆記具が必要だったからである。私の一生でこのときほどお金のありがたさが身に泌みたことはない。
 第一回目の再審請求書は福岡高等裁判所に提出した。忘れもしない昭和二十七年六月十日のことであった。

 なお、『免田栄 獄中記』には、デロリー神父とウイキリンソン神父という名前が出てくるが、このふたりが「カナダ人」であった旨の記述はない。

*このブログの人気記事 2020・12・9

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ある僧侶から「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭される

2020-12-08 00:26:15 | コラムと名言

◎ある僧侶から「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭される

 昨日の続きである。免田栄さんとは面識はないが、一度、間近で、お見かけしたことがある。
 一九九〇年代後半のことだったと思うが、文京区民センターで開かれた何かの集会に参加した。会場にはいるのが、遅くなったので、席はほぼ埋まっていた。最前列の左側に、いくつか空いている席を見つけ、そこに座った。その時、向かって左方向の席に座っておられたのが、免田栄さんだった。
 もっとも、それが免田さんであることは、会が進行し、免田さんが壇上にのぼったときに、初めてわかったのである。
 免田さんの講演をお聴きした私は、深く考えさせられた。そのことについては、以前、このブログでも書いたことがある(2013・8・24)。手抜きになって申し訳ないが、本日は、そのときの記事を、再掲させていただきたい。

◎「無実の罪で苦しむのも因縁」と諭された免田栄さん

 一九九〇年代後半のことだったと思うが、文京区民センターで開かれた何かの集会で、元死刑囚の免田栄〈メンダ・サカエ〉さんの講演をお聞きしたことがあった。
 今でも印象に残っているが、このとき免田さんは、概略、次のようなことを言っておられた。――刑務所にやってくる教誨師(僧侶)に、自分は無実だということを訴えたが、いくら訴えても聞いてもらえない。かえって、「あなたは無実の罪で死刑になる宿命にある」と諭され、絶望的になった。さいわい、キリスト教の教誨師もいて、その人が、自分の話を聞いてくれたうえ、再審を手助けしてくれた。
 無実の罪で処刑されようとしている死刑囚に対して、「あなたは無実の罪で死刑になる宿命にある」という教誨師がいたと聞いて、鳥肌が立つような恐怖を覚えたが、ある意味で、これが仏教という宗教の本質ではないのかと思った。また、このように諭した教誨師は、多分、浄土真宗の僧侶であろうとも思った。
 ここのところ、吉本隆明に関するコラムを書いているが、その関連から、この免田さんの体験談を思い出した。このことについて論じようと思ったが、講演時の記憶だけ論じるのもどうかと思ったので、図書館で、免田さんの著書数冊を閲覧してみた。
 該当する箇所はすぐに見つかった。
 免田栄著『免田栄 獄中記』(社会思想社、一九八四)に、次のようにある。

 昭和二十六年〔一九五一〕二月二十三日、控訴審の第三回公判が開かれた。白石裁判長は弁護人が申請した私の精神鑑定を退けた。これは第一審でも同様であった。極刑をまぬかれるため弁護人は私の精神鑑定を求めたのだが、私としては堂々と正面から無罪を主張してたたかってほしかった。そのほか重要証人として申請していた石村高子(丸駒の石村良子の義母)の証人調べも同じく退けられた。裁判長は控訴の審理が終了したことを述べ、次回の三月十九日が判決であることを告げた。
 このころ、朝鮮半島では内戦が勃発し、南と北の軍隊は一進一退をくりかえしていた。
 アメリカのマッカーサー総司令官は原爆投下を主張してトルーマン大統領と対立、とうとう解任されてしまった。一方、日本では吉田内閣が警察予備隊を創設、これが今日の自衛隊に変貌したのである。またGHQは日本共産党の幹部を追及して、いっさいの政治活動を停止させた。そのために共産党の逮捕者がふえ、拘置所職員も多忙をきわめた。居残りはもとより、日勤の役人の臨時夜勤などがかさなった。
 そんなこんなで収容者と看取の対立が激しくなった。収容者は役人暴行という汚名を着せられ、足腰が立たぬほどのなぐる、けるの集団暴行をうけた。そのうえ役人に手むかったというかどでさらに懲罰をうけるので、両者の対立はとげとげしさを増していった。
 ところで教誨にやってきた僧侶の人が数人の死刑囚を前にして、
「今は国難ですぞ。もし日本に共産党が侵入すれは、私どもは殺されるか、捕えられて刑務所に放りこまれる。そんなことになっては大変です。銃がなければ、私たちは竹槍でも戦う覚悟ですから、みなさんもお役人さんの指示に従ってください」
 と、まさに戦争中の姿勢そのままで、感情むきだしだった。日本の仏教関係者のほとんどは軍や政府に協力して戦争を聖戦として礼賛〈ライサン〉し、日本の中国や東南アジア諸国への侵略を支援しなしたことは誰一人しらぬ者はない。それだけではない。自分は冤罪〈エンザイ〉だからと再審を請求しようとする収容者に対しても、
「これは前世の因縁です。たとえ無実の罪であっても、先祖の悪業の因縁で、無着の罪で苦しむことになっている。その因縁を甘んじて受け入れることが、仏の意図に添うことになる」
 と、再審の請求を思いとどまらせるような説教をする僧侶がいる。こんな世の因果をふりかざして、再審請求をさまたげる僧侶が少なくない。

 記憶では、免田さんは、まず僧侶の教誨師に相談して絶望的になり、そのあとキリスト教の教誨師に相談して救われたという時系列で話されていたように思う。この記憶と『獄中記』の記述とはややズレるが、これは私の記憶違いだったのかもしれない。ともかく、免田さんら再審を請求しようとする収容者に対して、「無実の罪で苦しむのも前世の因縁」という説教をした僧侶の教誨師がいたことは、たしかなようである。【以下、略】

 ――以上が、以前、ブログに書いた記事である。『免田栄 獄中記』を取り出して確認してみると、このとき、私は、同書の二一八~二一九ページから引用している。東京新聞記事にあった「カナダ人神父」が出てくるのは、その少しあと、二二九ページである。【この話、続く】

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元死刑囚の免田栄さん、亡くなる(12月5日)

2020-12-07 01:05:12 | コラムと名言

◎元死刑囚の免田栄さん、亡くなる(12月5日)

 昨六日の東京新聞朝刊によれば、元死刑囚の免田栄(めんだ・さかえ)さんが、今月五日に亡くなったという。24面にあった記事(五段抜き)を引用してみる。

免田栄さん死去
 95歳 元死刑囚、初の再審無罪

 一九四八年に熊本県人吉【ひとよし】市で一家四人が殺傷された「免田事件」で死刑が確定し、八三年に死刑囚として初めて再審無罪になった免田栄【めんださかえ】さんが五日、老衰のため死去した。九十五歳。熊本県出身。葬儀・告別式は六日、近親者で行う。喪主は妻玉枝【たまえ】さん。
 事件は人吉市の祈祷【きとう】師宅で夫婦が殺害され、娘二人も重傷を負った。免田さんは犯行を自白したとして強盗殺人罪で起訴された。熊本地裁八代支部での第三回公判からアリバイを主張し犯行を否認したが死刑が言い渡され、五二年に確定した。獄中から無実を訴え続け、六度目の再審請求で八〇年十二月、刑事裁判史上初めて死刑囚に対する再審が決定。地裁八代支部は八三年七月、事件当夜のアリバイを認め、自白は信用できないとして無罪を言い渡した。
 その後、獄中で書きためた手記を出版。各地の再審請求事件を支援し、講演で冤罪【えんざい】の恐ろしさや死刑廃止を訴え続けた。
 五日夜に営まれた通夜の後、玉枝さん(八四)は取材に応じ「(釈放され)出てきた時の免田は本当に目が鋭かったが、二、三年たって優しい目になった。最近は、暖かい日には車いすで、外の空気を吸いに出ることもあった」と話した。

「司法も誤る」訴え続け

 「人が人を裁くことは重い。司法も間違いを犯すと知ってほしい」。免田さんは各地の再審請求を支援し、自らの過酷な体験を伝えて死刑廃止を訴え続けた。今も死刑の執行は続き、命ある間に制度をなくすという願いはかなわなかった。
 免田さんは一審の公判中に否認に転じたものの「自白」を根拠に死刑が確定した。警察の取り調べを「殴る蹴るの暴行。食事を与えられない時もあって気力を奪われ、自白するしかなかった」と振り返る。
 執行におびえる獄中生活。毎朝、刑務官の足音が 近づくと「自分の番ではないか。前で立ち止まらないでくれ」と、冷たい汗が体を流れ落ちた。他の死刑囚が刑場に連れられていく姿を見て、脚が震えた。
 生きるのを諦めかけた時、教誨師だったカナダ人神父の言葉に救われた。「理由がある人は再審を。死ぬのはいつでもできるが、生きることは難しい」。自分の名前も片仮名でしかなかった免田さんは本を読みあさり、漢字や法律を学んだ。他の囚人に紙を工面してもらい、裁判官に無実を訴える手紙を出し続けた。
 諦めない姿勢が実を結び、六回目の再審請求で無罪を勝ち取った。自由の身となってからは福岡県大牟田市で暮らした。本を執筆し、講演で各地を回って違法捜査や冤罪の恐ろしさを説いた。警察と検察に向けるまなざしは、晩年も厳しかった。「有罪にするためなら都合の悪い事実や証拠を隠す。平気で人権を踏みにじる体質は今も変わらない」

 記事によれば、免田さんは、「講演で各地を回って違法捜査や冤罪の恐ろしさを説いた」とある。私も、一度だけだが、そうした免田さんの講演を聴いたことがある。
 なお、上記の東京新聞記事は、大変よくまとまっているが、個人的には、ひとつ不満がある。それは、免田さんが、担当の教誨師(僧侶)から、「あなたは無実の罪で死刑になる宿命にある」と諭されたことに触れていないことである。このことで免田さんは、大きなショックを受けた。「生きるのを諦めかけた」。この窮地を救ったのが、「カナダ人神父」であったことは、記事にあるの通りである。【この話、続く】

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