◎命さへあれば何とかなるさ(長谷定丸さん)
『主婦之友』一九四五年六月号から、「灰燼の中に起ち上る人々」という記事を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
原文は、総ルビに近いが、ここでは、その一部のみを、【 】によって示した。
わが家の安否を尋ねて戻つてみると、定丸さんが警防団服をずぶ濡れにして焼跡に立つてゐた。火に追はれ、見知らぬ群衆に交【まじ】つて逃げ廻つた康子さんも、程なく背中の妹におむすびを持たせて帰つて来た。康子さんは両親の顔を見ると張りつめてゐた勇気も挫【くじ】けてしまつたのであらう、ワーッと泣き出してしまつた。『よかつたよかつた。』親子は煤【すゝ】けた顔を真黒にして嬉し泣きに泣くばかりであつた。
『なあに、命さへあれば何とかなるさ。お父さんは工場の仕事があるから、どうしてもこゝへ残らなきやならないが、お前達はどうする?』とつおいつ思案してゐたかつさんは、『やつぱり一緒に暮しませう。皆も、お父さんに心配をかけないやうにね。‥‥お父さんに一生懸命働いて頂かなくちや、お国に申訳がないよ。』決心がついたその日から、かつさん達は知人の家に身を寄せ、定丸さんは朝の暗いうちから焼跡整理に出かけて行つた。――〝いつまでも人の好意に甘えてゐてはいけない。一日も早く我家を作るらう。〟一生懸命の力ほど恐ろしいものはない。定丸さんは、たつた二日間で焼跡の整理を済まし、そこへ六畳敷もある掩蓋壕【えんがいがう】を作り上げてしまつたのである。〝子供たちに、こゝはお家【うち】なのだという安心感を持たせるために畳も敷かう。蝿帳【はへちやう】の一つもおきたい。雨の日でも炊事にこと欠いてはならぬ。玄関代りに靴脱ぎ場も入用【にふよう】だ。そんなことを次から次へと考へてゆくうちに、定丸さんはだんだん面白くなつてきた。
壕が出来上ると、裏の方に物干場【ものほしば】、その脇には畠も作つた。今では便所も台所もできて、一家にとつては心持よい安住の場所の場所となつてゐる。
南西に向いてゐる表の入口から四段ほど階段を下りると、二尺ほどの土間。こゝで履物を脱ぐと次が四畳敷の座敷。その向うが台所で、土間の片隅【かたすみ】には焼け残つた鉄の竈【かまど】などが並んでゐる。座敷の壁面【へきめん】には、トタン板を張つた上に白地の襖【ふすま】が当てゝあるせゐか、とても明るい。畳の上に坐ると退避壕の中にゐるやうな重苦しい感じは少しもない。『これだけできたので、日常生活は前とちつとも変りません。たゞ夜は灯【あかり】が不自由なもんですから早く寝てしまひます。その代り朝は暗いうちから起きて、炊事や洗濯です‥‥
配給物は焼け残つた町会の配給所へ登録してゐますんで、そこへ取りに行きます。夜は全然使へないものとして、昼間のうちに繕ひ物でも何でも一生懸命追ひ込んでおくんですよ。』かつさんは豊かな乳房を赤ちやんに含ませながら、再出発の希望に目を輝かすのであつた。
すでに紹介した通り、『主婦之友』一九四五年六月号の表紙には、「本土決戦/勝利の防衛生活」という文字がある。しかし、「灰燼の中に起ち上る人々」という記事を読む限り、「勝利」というイメージは浮かんでこない。この記事のどこを読んでも、「勝機」というものが見出せない。
にもかかわらず、この記事には、妙な「明るさ」がある。おそらくこれは、遠からぬ「終戦」そして「復興」を意識した「明るさ」なのではないかと思ったが、もとより、深い根拠があるわけではない。