◎同盟の発表は、ぜひ須磨に頼む(オット独大使)
須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
本日は、「用意周到な松岡」の章(一九〇~一九五ページ)を紹介する。この章では、日独伊三国同盟の発表のことが語られている。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。
用 意 周 到 な 松 岡
スポークスマン月旦
松岡がなぜ僕に三国同盟の発表をやらせたのか。伊藤述史が情報局総裁に決定しており、僕はスペインに出ることになっているのだから、暫くその理由は分らなかった。
僕の秘書役をしていた中田千畝〈センボ〉が探し出してきた理由は次のようなものであった。
その頃のドイツの大使オット大佐が松岡に、同盟の発表は是非須磨に頼むといったというのである。
それはまだ三国同盟など夢にも問題になっていなかった昭和十五年〔一九四〇〕四月二十六日付ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイツング紙が第一頁に掲げた「外務省スポークスマン」と題する、在東京同紙特派通信員ウィルへルム・シュルツの筆になる約二百五十行の長文の通信を種にして、オット大使が注文したものだという。その大意はこうであるが、オット大使も、松岡も、なかなか考えたものである。
《外務省のスポークスマンは米のホワイト・ハウスのスポークスマンに比し得るであろう。日本関係事件の外国での反響はみな彼の発言に懸るともいえよう。だから局長がその任に当り、これを勤め上げたものは、やがて大使、外相の候補とされる。大役であるがそれだけ将来報いられる。現にこれまでの情報部長六人の中、四人の大使、一人の大臣、一人の満鉄総裁をだしている。須磨は巷間では、もう駐米大使かと噂されている。
スポークスマンには二つの型がある。一つは事件の裏の真相を説明し、現実の問題については、とかく将来の見通しという見地から観察を下す型のもの。他は日々起る事件に飛び込んで行って、これをクローズ・アップし、世界各国の新聞に大見出しの記事を書かせる型のものである。須磨は前任者白鳥〔敏夫〕、天羽〈アモウ〉〔英二〕などと同型で後者の型だ。すなわち彼は事件の核心にぶつかって行く闘士型であり、観察者型ではない。起った事件を解明する仲介者というより、むしろその声明によって新しい局面を醸し〈カモシ〉だす人である。もちろん彼は求められれば事件の説明もする。しかし、むしろ進んで新しいニューズを提供してくれるので、 在京記者仲間にはとても評判がよい。
会見は毎週月水金の三回、朝十一時十五分からで、独英米三国の記者が断然多い。フランスの記者はたまにしか出ない。インド人、満州人記者もおり、ハルピンの新聞に通信する白系露人の記者がおり、タス通信員も来るし、ポーランドの記者もでている。正に呉越同舟で、質問は小競合〈コゼリアイ〉の偵察戦になることもある。
須磨は形式張らない。あれこれとニューズに触れ、時々は公式のコミュニケを発表し、その前夜に起った事件に対する日本の態度も糾明することもある。
会見は英語であるが、須磨は極く短期間ではあったがベルリンにもいたし、永く中国にもおったが、元来は英国を振りだしに米国にも参事官をしていたので、英語は頗る〈スコブル〉流暢だ。何の準備もない質問に会っても、考える余裕をもち合せている。あまり無遠慮な質問には洒落〈シャレ〉を飛ばして片づけてしまう機智を心得ている。一方から追及されると、他方へ身をかわし、逆手を用いる術も堂に入ったものである。
何事にでも答えるのが彼の取柄〈トリエ〉で、拒否することはない。何時もにこやかにユーモアをたたえている。しかし質問者があまりいい気になって下手な質問をすると逆捻じ〈サカネジ〉を食う。自由討論では大抵スポークスマンの方が優勢である。彼は恐らくどの前任者よりも、アメリカのスラング(俗語)まで豊富に知っていて、ベース・ボールのボールのようにこれを使いこなすものだから、彼の逆襲を受けるような意地悪い質問もでない。だから須磨との三十分の会見はいつもなごやかに笑声のうちに過ぎ、険悪な空気になることは極めて稀だ。》
〔※節のタイトルに「スポークスマン月旦」とあるが、ここでの「月旦」は、「月旦評」すなわち人物批評の意味である。この節で須磨は、ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイツング紙の東京特派通信員ウィルへルム・シュルツによる須磨評を紹介している。こういう形で須磨は、「自画自賛」をおこなったわけである。この須磨評が同紙に掲載された日付について、「三国同盟など夢にも問題になっていなかった昭和十五年四月二十六日」としているが、これは、勘違いというよりは、意図的なウソである。日独伊三国同盟は、一九三六年(昭和一一)一一月に締結された日独防共協定、一九三七年(昭和一二)一一月に締結された日独伊防共協定を強化したものと言える。一九三九年(昭和一四)に、平沼騏一郎内閣が「日独枢軸外交」を目指して挫折したいたことは、この本で、須磨自身が記していることである。〕
歴史的同盟の発表
松岡もオット大使もこんな通信まで種にして、僕を三国同盟の発表に役立てたところは、 実に用意周到な構えが見られる。
九月二十七日朝、この同盟を発表した瞬間ほど、内外新聞記者の驚愕の顔つきを見たことはない。満座、全く息詰まる緊張で、正に歴史的発表の一瞬であった。
新聞は筆を揃えて、東亜に迎えた世紀の転換の朝だ、などと書き立てたものである。
オット大使から松岡に僕の発表を注文したという一くだりのエピソードは、外交に携わる者として見逃せない用意だと思える。
あれだけのびっくり箱を開けながら、世界にはなるべく印象を軟らかにするために、スポークスマンを替えずに、それこそ笑いを失わない人間をあてた方が得策である。松岡は案外用意の細かい男であったので、もちろんオット大使からの注文でもあったとはいえ、松岡自身の気の利いた扱いでもあったろう。
〔※日独伊三国同盟は、一九四〇年(昭和一五)九月二七日、東京およびベルリンで調印された。須磨によれば、三国同盟の発表は九月二七日の朝であった。なお、なぜか須磨は触れていないが、須磨は同年の一〇月四日、外務省情報部長としてラジオで演説し、三国同盟の意義を強調している。〕
念を押す外人記者
その発表の朝である。外人記者中での最古参であるバイアス特派員は、独り後に残って僕にこう訊いた。
「今回の同盟条約には他に秘密の取決めはないのですか」
「ありません」
「それでは近くそんな取決めができそうでもありませんか」
「それは全くありません」
「私は貴方の言葉をいつものように信じてよいのですか」
僕はこれに対し、その通りだときっぱり答えたが、この最後の質問の中の「いつものように」と付け足していたことを思い出してみると、僕に三国同盟発表をさせたオット・松岡会談の取決めは、やはり巧みな狙いところであったようだ。
世界の出来事は、スポークスマンの二、三行の言葉で活殺されるのだ。特にこの三国同盟の場合などは、慎重を期せねばならなかったのだ。それで松岡は僕を大阪から呼び戻したのであった。
ここまでが、「用意周到な松岡」の章である。『外交秘録』の紹介は、とりあえず、ここまでとする。
この章で須磨弥吉郎は「用意周到」という言葉を使っている。オット大使がウィルへルム・シュルツ通信員の須磨評を読み、松岡外相に「同盟の発表は是非須磨に頼む」と要請したことを以て、「用意周到」と見ているようだ。しかし私などは、シュルツ通信員の須磨評自体、オット大使から要請されたものではなかったかと邪推している。すでに述べたことだが、松岡外相が須磨の配下だった樺山資英事務官を大臣秘書官とし、三国同盟に関わらせたのは、須磨を三国同盟推進派に巻き込む策略だったのではないか、と私は考えている。いずれの場合も、キーワードは「用意周到」である。
これも、すでに指摘したことだが、須磨はこの本で、「東機関(とうきかん)」については、一言も触れていない。ウィキペディア「須磨弥吉郎」には、〝1940年12月、「東機関」を開設、その指揮のため自ら駐スペイン特命全権公使として赴任した〟とある。須磨がスペイン赴任の途に就いたのは、一九四〇年(昭和一五)一〇月二八日であるから、「東機関」を開設するという決定は、同年九月ないし一〇月ごろ、すでになされていたものと考えなくてはならない。須磨は、三国同盟を締結した以上は、日米開戦必至と見て、「東機関」のような情報機関を開設する必要があることを認めた上、みずからスペインに赴いたのであろう。
須磨弥吉郎という人物は、語学に優れ、ウィットとユーモアがあり、外交官として極めて有能だったようだ。しかし、その著書『外交秘録』を読んでみると、定見に欠け、野心家で、おだてに弱かった。要するに、人が良く、人に担がれやすい人物だったように思う。
明日は、話題を変える。