礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

同盟の発表は、ぜひ須磨に頼む(オット独大使)

2021-09-20 02:39:48 | コラムと名言

◎同盟の発表は、ぜひ須磨に頼む(オット独大使)

 須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
 本日は、「用意周到な松岡」の章(一九〇~一九五ページ)を紹介する。この章では、日独伊三国同盟の発表のことが語られている。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    用 意 周 到 な 松 岡

 スポークスマン月旦
 松岡がなぜ僕に三国同盟の発表をやらせたのか。伊藤述史が情報局総裁に決定しており、僕はスペインに出ることになっているのだから、暫くその理由は分らなかった。
 僕の秘書役をしていた中田千畝〈センボ〉が探し出してきた理由は次のようなものであった。
 その頃のドイツの大使オット大佐が松岡に、同盟の発表は是非須磨に頼むといったというのである。
 それはまだ三国同盟など夢にも問題になっていなかった昭和十五年〔一九四〇〕四月二十六日付ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイツング紙が第一頁に掲げた「外務省スポークスマン」と題する、在東京同紙特派通信員ウィルへルム・シュルツの筆になる約二百五十行の長文の通信を種にして、オット大使が注文したものだという。その大意はこうであるが、オット大使も、松岡も、なかなか考えたものである。
《外務省のスポークスマンは米のホワイト・ハウスのスポークスマンに比し得るであろう。日本関係事件の外国での反響はみな彼の発言に懸るともいえよう。だから局長がその任に当り、これを勤め上げたものは、やがて大使、外相の候補とされる。大役であるがそれだけ将来報いられる。現にこれまでの情報部長六人の中、四人の大使、一人の大臣、一人の満鉄総裁をだしている。須磨は巷間では、もう駐米大使かと噂されている。
 スポークスマンには二つの型がある。一つは事件の裏の真相を説明し、現実の問題については、とかく将来の見通しという見地から観察を下す型のもの。他は日々起る事件に飛び込んで行って、これをクローズ・アップし、世界各国の新聞に大見出しの記事を書かせる型のものである。須磨は前任者白鳥〔敏夫〕、天羽〈アモウ〉〔英二〕などと同型で後者の型だ。すなわち彼は事件の核心にぶつかって行く闘士型であり、観察者型ではない。起った事件を解明する仲介者というより、むしろその声明によって新しい局面を醸し〈カモシ〉だす人である。もちろん彼は求められれば事件の説明もする。しかし、むしろ進んで新しいニューズを提供してくれるので、 在京記者仲間にはとても評判がよい。
 会見は毎週月水金の三回、朝十一時十五分からで、独英米三国の記者が断然多い。フランスの記者はたまにしか出ない。インド人、満州人記者もおり、ハルピンの新聞に通信する白系露人の記者がおり、タス通信員も来るし、ポーランドの記者もでている。正に呉越同舟で、質問は小競合〈コゼリアイ〉の偵察戦になることもある。
 須磨は形式張らない。あれこれとニューズに触れ、時々は公式のコミュニケを発表し、その前夜に起った事件に対する日本の態度も糾明することもある。
 会見は英語であるが、須磨は極く短期間ではあったがベルリンにもいたし、永く中国にもおったが、元来は英国を振りだしに米国にも参事官をしていたので、英語は頗る〈スコブル〉流暢だ。何の準備もない質問に会っても、考える余裕をもち合せている。あまり無遠慮な質問には洒落〈シャレ〉を飛ばして片づけてしまう機智を心得ている。一方から追及されると、他方へ身をかわし、逆手を用いる術も堂に入ったものである。
 何事にでも答えるのが彼の取柄〈トリエ〉で、拒否することはない。何時もにこやかにユーモアをたたえている。しかし質問者があまりいい気になって下手な質問をすると逆捻じ〈サカネジ〉を食う。自由討論では大抵スポークスマンの方が優勢である。彼は恐らくどの前任者よりも、アメリカのスラング(俗語)まで豊富に知っていて、ベース・ボールのボールのようにこれを使いこなすものだから、彼の逆襲を受けるような意地悪い質問もでない。だから須磨との三十分の会見はいつもなごやかに笑声のうちに過ぎ、険悪な空気になることは極めて稀だ。》

〔※節のタイトルに「スポークスマン月旦」とあるが、ここでの「月旦」は、「月旦評」すなわち人物批評の意味である。この節で須磨は、ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイツング紙の東京特派通信員ウィルへルム・シュルツによる須磨評を紹介している。こういう形で須磨は、「自画自賛」をおこなったわけである。この須磨評が同紙に掲載された日付について、「三国同盟など夢にも問題になっていなかった昭和十五年四月二十六日」としているが、これは、勘違いというよりは、意図的なウソである。日独伊三国同盟は、一九三六年(昭和一一)一一月に締結された日独防共協定、一九三七年(昭和一二)一一月に締結された日独伊防共協定を強化したものと言える。一九三九年(昭和一四)に、平沼騏一郎内閣が「日独枢軸外交」を目指して挫折したいたことは、この本で、須磨自身が記していることである。〕

 歴史的同盟の発表
 松岡もオット大使もこんな通信まで種にして、僕を三国同盟の発表に役立てたところは、 実に用意周到な構えが見られる。
 九月二十七日朝、この同盟を発表した瞬間ほど、内外新聞記者の驚愕の顔つきを見たことはない。満座、全く息詰まる緊張で、正に歴史的発表の一瞬であった。
 新聞は筆を揃えて、東亜に迎えた世紀の転換の朝だ、などと書き立てたものである。
 オット大使から松岡に僕の発表を注文したという一くだりのエピソードは、外交に携わる者として見逃せない用意だと思える。
 あれだけのびっくり箱を開けながら、世界にはなるべく印象を軟らかにするために、スポークスマンを替えずに、それこそ笑いを失わない人間をあてた方が得策である。松岡は案外用意の細かい男であったので、もちろんオット大使からの注文でもあったとはいえ、松岡自身の気の利いた扱いでもあったろう。

〔※日独伊三国同盟は、一九四〇年(昭和一五)九月二七日、東京およびベルリンで調印された。須磨によれば、三国同盟の発表は九月二七日の朝であった。なお、なぜか須磨は触れていないが、須磨は同年の一〇月四日、外務省情報部長としてラジオで演説し、三国同盟の意義を強調している。〕

 念を押す外人記者
 その発表の朝である。外人記者中での最古参であるバイアス特派員は、独り後に残って僕にこう訊いた。
「今回の同盟条約には他に秘密の取決めはないのですか」
「ありません」
「それでは近くそんな取決めができそうでもありませんか」
「それは全くありません」
「私は貴方の言葉をいつものように信じてよいのですか」
僕はこれに対し、その通りだときっぱり答えたが、この最後の質問の中の「いつものように」と付け足していたことを思い出してみると、僕に三国同盟発表をさせたオット・松岡会談の取決めは、やはり巧みな狙いところであったようだ。
世界の出来事は、スポークスマンの二、三行の言葉で活殺されるのだ。特にこの三国同盟の場合などは、慎重を期せねばならなかったのだ。それで松岡は僕を大阪から呼び戻したのであった。

 ここまでが、「用意周到な松岡」の章である。『外交秘録』の紹介は、とりあえず、ここまでとする。
 この章で須磨弥吉郎は「用意周到」という言葉を使っている。オット大使がウィルへルム・シュルツ通信員の須磨評を読み、松岡外相に「同盟の発表は是非須磨に頼む」と要請したことを以て、「用意周到」と見ているようだ。しかし私などは、シュルツ通信員の須磨評自体、オット大使から要請されたものではなかったかと邪推している。すでに述べたことだが、松岡外相が須磨の配下だった樺山資英事務官を大臣秘書官とし、三国同盟に関わらせたのは、須磨を三国同盟推進派に巻き込む策略だったのではないか、と私は考えている。いずれの場合も、キーワードは「用意周到」である。
 これも、すでに指摘したことだが、須磨はこの本で、「東機関(とうきかん)」については、一言も触れていない。ウィキペディア「須磨弥吉郎」には、〝1940年12月、「東機関」を開設、その指揮のため自ら駐スペイン特命全権公使として赴任した〟とある。須磨がスペイン赴任の途に就いたのは、一九四〇年(昭和一五)一〇月二八日であるから、「東機関」を開設するという決定は、同年九月ないし一〇月ごろ、すでになされていたものと考えなくてはならない。須磨は、三国同盟を締結した以上は、日米開戦必至と見て、「東機関」のような情報機関を開設する必要があることを認めた上、みずからスペインに赴いたのであろう。
 須磨弥吉郎という人物は、語学に優れ、ウィットとユーモアがあり、外交官として極めて有能だったようだ。しかし、その著書『外交秘録』を読んでみると、定見に欠け、野心家で、おだてに弱かった。要するに、人が良く、人に担がれやすい人物だったように思う。
 明日は、話題を変える。

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シベリア鉄道でやって来たヒットラーの密使

2021-09-19 01:52:56 | コラムと名言

◎シベリア鉄道でやって来たヒットラーの密使

 須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
 本日は、「突然来た独密使」の章(一八五~一九〇ページ)を紹介する。この章では、第二次近衛内閣(1940・7・22~1941・7・16)時代のことが語られている。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    突 然 来 た 独 密 使

 三国同盟由来
 日本の運命を決したのが、日独伊三国同盟であった。その同盟の発端となった日は、昭和十五年〔一九四〇〕九月九日であった。九月九日は偶然にも私の誕生日だ。
 その日の夜九時、東京駅に一人のドイツ人が降り立った。彼はシベリア鉄道でやって来た。 途中の動静一切の新聞掲載を予め〈アラカジメ〉禁止していたので誰一人気づかなかった。
 これに先立つ二日前、九月七日の朝に、松岡〔洋右〕がわざわざ情報部長室にやって来て、
「樺山事務官を大臣秘書官にくれないかね」と云った 
 同事務官は僕の仕事に欠くべからざる役をしていたので、半分はここに置いて欲しいと云った。それでよいこととなったが、結局樺山は、終始松岡の四谷の私宅で仕事するようになった。
 その樺山事務官が、くだんのドイツ人を東京駅に出迎えた。そこにはオット大使だけがいたという。
 この三人が、九時二十分には松岡邸に到着した。その男がまず一片のフルスカップ〔foolscap〕の紙を松岡に渡した。ヒットラーからのメッセージであった。
 たった一頁しか書いてなかったが、それこそ実に三国同盟そのものであり、それがその通り、運命の文書になるのであった。松岡はドイツ語が読めないから、件〈クダン〉の男は英語に飜訳した。
 頭の早い、また事実、頭の鋭くて早いことを他人に示すことを忘れない松岡は、一遍の飜訳でそれを呑み込んだと云った。そして大体その通りの条約を発効期間内に締結しようとさえ云ってしまった。
 このように、この九月九日の夜、九時半から十時五十分までの約一時間半の間に実は、日本の運命が決せられてしまった。この件の男こそスターマー特使であり、後日駐日ドイツ大使になった人である。今はスイスの武器商の東京支配人である。

〔※ここに出てくる樺山事務官とは、樺山資英(一九〇七~一九四七)のことである。同姓同名で、貴族院議員などを務めた樺山資英(一八六九~一九四一)とは別人。また、「松岡の四谷の私宅」とあるが、当時の松岡洋右の自宅は、渋谷区千駄ケ谷にあった。おそらく、須磨の記憶違いであろう。〕

 つんぼ桟敷の首相
 この恐るべき事実は、もちろん極秘にとり運ばれた。近衛〔文麿〕首相も暫くの間は、つんぼ桟敷であった。
 それなのに、僕だけはその九月九日の夜から一切を知ることができた。というのは、樺山資英事務官が毎日一切の電報を読んでは、僕に報告するのが任務であったから、九月九日の 夜も、四谷から帰宅の途中、荻窪に立寄って一日中に起った松岡邸での一切をも報告して行ったからである。
 この一切を例の筋によって知り抜いている僕は、実のところ、こんな恐ろしい三国条約を手にかけることは飽くまで避けたいと思った。近衛首相にも打明けて、再度にわたって阻止してみたが、大勢はもう動かすべくもなかった。

〔※「荻窪に立寄って」とあるのは、荻窪の須磨宅に立ち寄っての意味。〕

 策謀者とみなされる
 僕は予めできていたスケジュールに従った。二十四日の夜東京を出発して、大阪の外交懇談会にでかけたところが、翌二十五日夜、東京から至急電話があり、松岡が自身で出て、僕に夜行で直ぐ帰京しろと云う。二十六日朝帰京して、松岡に会ってみると、翌二十七日には三国同盟も発表してくれとのことであった。
 最後の〔外務省〕情報部長である僕に特に発表させたのも運命であったかも知れない。この経過を終戦後、進駐軍が調べてみた、何としても、僕だけが三国同盟の由来を当初から知り抜いていることが分った。そしてその条約の発表をもしているのだ。
 松岡と並んで、三国同盟の主たる策謀者だと判定した。ここにも理由があって、終戦の年の十二月六日発表された最後のA級戦犯九名の中に、近衛、木戸らと共に僕を連座させたものらしい。そのことは、僕がスペインから帰朝して、連合側の最高検察当局に取調べられた際直感したものである。

〔※松岡は、須磨に近い樺山資英事務官を引き抜き、スターマー特使の出迎えを命じたが、おそらくこれは、外務省情報部長の須磨を三国同盟に関わらせようとした、松岡の策略だったのであろう。はたして須磨は、そうした策略に気づいていたかどうか。気づいていて、あえて策略に乗った見ることもできる。〕

 あやうく断頭台
 そのうちに、キーナンやタヴェナーなどの検事が、
「どうしてあなただけが三国同盟のことを初めから知り抜いていたのですか」
と追及するから、僕は笑った。
「あなたがた検察最高当局ともあろうものは、も少し深く調べておらねばならぬはずです」ともいった。
 この時の問答から、僕を三国同盟の巨魁と誤解しているなと直感したのである。その時僕 は樺山資英事務官にまつわる事実をぶちまけた。彼らは驚きの眼を瞠った〈ミハッタ〉。同時にこれはしまったといった表情をさえ見せた。
「それでは、その樺山君というのは今どこにいますか」
「なんでも、今は相当の重病人で慶応に入院中だと聞いています」
 その翌日慶応病院で、米国検察当局の物々しい臨床訊問が行われた。もちろんのことだが、 樺山答弁が一々僕の陳述に符合したから、検察側は正に一本まいったわけである。その頃、樺山事務官は胃癌であったので、その取調べから間もなく他界した。
 僕も実は連のいい人間である。もし樺山君がもっと早く世を去っていたら、僕が何と証言しても、確かめる術〈スベ〉がないので、あるいは僕も断頭台に送られていたかも知れない。
 運命というものは、本当に細かい、かぼそい一本の絆に支えられているに過ぎないのだ。外交も正にその通りである。
 その細い絆を早く見通すかどうかに、一国の、東洋の、世界の運命が懸って〈カカッテ〉いるのだから、考えると恐ろしくなる。
 僕は今この秘録一章を綴って行くうちに、人生の、外交の、それこそ人事の一切が「剃刀の刃」を渡っていることに気づく。

「突然来た独密使」の章は、ここまで。この章の最後で、須磨は、「あるいは僕も断頭台に送られていたかも知れない」と述べている。須磨は、一九四五年(昭和二〇)一二月に、A級戦犯として逮捕・拘留されたが、それから三年、一九四八年(昭和二三)一二月二四日の発表で、釈放されることになった。ちなみに、この日は、A級戦犯七名の処刑がおこなわれた日の翌日にあたる。この日に釈放の発表があったのは、安倍源基・後藤文夫・岸信介・児玉誉士夫・葛生能久・大川周明・笹川良一を含む十九名であった。須磨が、その十九名のひとりだったということは、それだけ彼が「重要人物」と目されていたことを物語っている。とはいえ、須磨が「断頭台に送られていた」可能性は、まずない。強引に三国同盟を推進した大島浩や白鳥敏夫でも、東京裁判での判決は終身刑だったからである。
 次回は、この章に続く「用意周到な松岡」の章を紹介する。

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日本は全くバスに乗り遅れてしまう(武藤軍務局長)

2021-09-18 00:02:50 | コラムと名言

◎日本は全くバスに乗り遅れてしまう(武藤軍務局長)

 須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
 本日は、「外交官総て更迭」の章(一八〇~一八五ページ)を紹介する。この章では、米内内閣の崩壊(1940・7・16)と第二次近衛内閣の成立(1940・7・22)について語られている。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    外 交 官 総 て 更 迭

 運命の近衛内閣
 米内政府倒閣の爪は磨かれた。〔一九四〇年〕七月七日の日華事変記念日に,有田外相が日比谷公会堂で講演すると、途中で東方会の暴漢が現われて妨害し大混乱を来した。これも下手すると、米内内閣の命取りになるらしかったが、この講演会の主催者だった熊谷〈クマガイ〉〔憲一〕内閣情報部長が、実に機敏に立ち廻った。一も二もなく外相らに対して陳謝して事なきを得た。
 こうなると、さすがの軍部にも容易に倒閣に成功する手はなくなった。到頭、畑〔俊六〕大将は陸相として不適当ゆえ、内閣から抜けることが一番手取り早いということになった。
 しかしこれは最後の切札なので、まず武藤〔章〕陸軍省軍務局長が、欧州におけるドイツの躍進ぶりを前にして、米内にのんべんだらりと居座られたのでは、日本は全くバスに乗り遅れてしまうという理由で、米内の退陣を要請するために、石渡〔荘太郎〕内閣書記官長を訪問して、その趣を伝えた。
 書記官長は言下に断った。国際政局についての観測の相違は不幸なことであるが、それによって退陣するならば、国家に重大な不幸を及ぼすかも知れない。断じて下らない〈サガラナイ〉と言明した。
 そこで、武藤は最後の手段に訴えねばならなくなった。畑陸相に迫って辞表を提出させる こととし、遂に畑大将からその意味の手紙を米内首相の手許にだすに至った。

〔※ウィキペディア「熊谷憲一」よれば、熊谷憲一が内閣情報部長になったのは、一九四〇年二月。〕

 日本内政の脆弱性
 石渡書記官長の筆になる悲壮な退陣声明書が出された。米内内閣は崩壊した。部内の不統一のために退陣すると卒直に陳べた。
 その後には、新体制で待っていた近衛内閣〔第二次近衛文麿内閣〕が生れるのだが、組閣に先き立って、松岡〔洋右〕、東条〔英機〕、吉田〔善吾〕の三人がまず枢軸参加の下相談をした。意見が一致したと発表された。それゆえ、この内閣は早急に枢軸に入るのだと知られた。
 こうしてみると、米内内閣の倒れたのも、近衛内閣の生れたのも、ヒトラーの戦運が物凄い勢で開けて行くに際しては、日本は躊躇なく枢軸側につかねばならぬという外交理念に依ったのだ。
 このように明瞭に日本の外交上の転換が推進されたのは、海外事情が内政に及ぼす影響の一場面とも考えられぬことはないが、それよりも日本内政の脆弱性と浮動性とに帰せねばなるまい。
 松岡外相は、この外交の一転機を明確にするため、在外使臣はもとより、在外領事館に至るまで、一応総ざらいに更迭することとした。そしてその後にドイツの大島〔浩〕、イタリーの堀切〔善兵衛〕、アメリカの野村〔吉三郎〕というように部外からも入れると同時に、本省の幹部もこれに当てることにした。
 僕はこの間の形勢がよく分っていたので、真先きに松岡外相に辞表を出した。
「君の辞めることは禁ずる。そして君だけは外にでるのを暫く後廻しとして、情報部長をやってもらいたい」というのが松岡の命令であった。

〔※須磨は、外務省情報部長を辞任すべく、松岡外相に辞表をだしたところ、留任を求められた。「松岡の命令」と言っているが、要するに、須磨が松岡の要請を受け入れたということであろう。〕

 松岡枢軸外交進む
 その頃、外務省の情報部は廃されて、情報局ができることになっており、伊藤述史〈ノブミ〉がこれ主宰することになってから、一日も早くそこに事務を引継ぎたかったが、それさえ許されず、僕は全くおかしなことになった。松岡は東条とは密接な連絡を取りつつ、ぐんぐん枢軸外交の素地をつくった。
 九月一日、近衛首相をその私邸である荻外荘〈テキガイソウ〉に訪れた。そして新体制を推進することは、この際やむを得ないとしても、今直ちに枢軸外交に一転することは考えものだと主張した。
 近衛首相は、それもそうだが、今となっては致し方ないと応酬した。そしてその底意は、 ドイツは場合によっては勝つだろうという点にあった。
「僕はそう思わない」
「それはどうして?」
「米国の参戦は明らかだからである」
 近衛首相は、松岡が米国の参戦は瞹眛だと云っているばかりでなく、その当時ルーズヴェルト大統領が第三回目の出馬をすることは確実だが、当選はあやしく、共和党に負けるかも知れないといっていることを指摘した。
 僕は、それは誤算である。ルーズヴェルトは第三回目の立候補すれば、必ず当選するに決まっていると主張した。そして、ルーズヴェルトの「三選は参戦だ」と語呂を面白くして強調した。
「そうかね!」
と首相も半信半疑であった。

〔※「外務省の情報部は廃されて、情報局ができる」とある。ウィキペディア「情報局」によれば、情報局の発足は、一九四〇年(昭和一五)一二月六日で、このとき、内閣情報部、外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、内務省警保局検閲課、逓信省電務局電務課の情報事務が、情報局に一本化されたという。〕

 強引に渡米の命令
 二日の夜、僕が大阪に外交懇談会を開いて話しに行っていると、急に松岡から電話で呼び返された。三日の夜、帰京すると松岡は驚くべきことを云った。
「君は特派使節と早変りして米国に渡り、ルーズヴェルト三選についての情報を集め、大い にわが方に有利にしてはくれないか」
 僕はこんなに驚いたことはなかった。実は早速、一日に近術首相に述べた意見の通り「三選は確実で、三選は参戦」であると強調したがきかない。すでに、三井汽船の船足の早い清澄丸〈キヨスミマル〉というのに部屋を二つ取ってある、とさえ云った。僕は極力その愚策であることを述べ、首相にも相談して再考するよう迫った。
 皮肉である。四日の朝のニュー・ヨーク電報では、ムッソリーニが特派した某伯爵が、大統領選挙に因んで策謀するために渡米した形跡があるとの廉〈カド〉で、上陸禁止になったと伝えられた。もちろん、松岡はその思い付きの実行を断念した。
 この事を嗅ぎつけて二六新報という夕刊紙が特報したので、外人記者会見で問題になった。近衛内閣はこうして、成立すると同時に激浪に曝されていた。それは松岡という爆弾を持っていたばかりでなく、軍部の横車がポンプ仕掛で待っていたからである。
 松岡の顔色は特に蒼かった。僕のように、毎朝体操をして、真裸で陽〈ヒ〉にあかくなっているものからみると正気の沙汰ではなかった。

 ここまでが、「外交官総て更迭」の章である。次回は、これに続く「突然来た独密使」の章を紹介する。

*このブログの人気記事 2021・9・18(8位の渡辺教育総監は久しぶり)

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ラジオ放送の経過を伺いたい(大谷憲兵中佐)

2021-09-17 02:00:07 | コラムと名言

◎ラジオ放送の経過を伺いたい(大谷憲兵中佐)

 須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
 本日は、「新方針に横槍」の章(一七五~一八〇ページ)を紹介する。この章も、米内光政内閣の時代の話である。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    新 方 針 に 横 槍

 倒閣運動の犠牲
 昭和十一年二月二十二日土曜日、毎朝行っていた外務省幹部会で僕が提案したのはこうでもあった。
 物情いかにも騒然として、国内はもちろん外国でも、日本の行衛〈ユクエ〉について明確な考をもてなくなった際であるから、この新事態に対処する外交新方針を声明すべきではないかというのである。
 一同は賛成した。僕の考への骨子は「東亜ならびに太平洋地域」に対する新方針を掲ぐ〈カカグ〉べきだという点にあつた。こうして日本内外の注意を欧州の禍乱からそれさせようとするにあった。有田〔八郎〕外相も大いにやれという。そして宮松調査部長と西欧亜局長(今の駐英大使)と僕の三人が起草委員に任命された。
 二十五日には閣議で有田外相がこの案に触れたところ、石渡〔荘太郎〕内閣書記官長が真先きに賛成した。全閣僚もこれに和した。ところが驚いたことに、その夜、朝日新聞政治部長から、東亜自主宣言というものがでるそうだが、と問い合せがあった。その頃特に日本の閣議では秘密が保てなかった。何でも後から聞いた話では、〔石渡〕書記官長と桜内〔幸雄〕蔵相の口から洩れたという。
 翌二十六日の新聞にはでかでかと出た。こうなると外国にも響くから、一日も早くださねばならない破目になった。僕の手で二十八日朝には脱稿して、その日、〔米内光政〕首相、〔有田〕外相、〔畑俊六・吉田善吾〕陸海両相の四相会議にかけて同意を得た。

〔※冒頭に、「昭和十一年二月二十二日土曜日」とあるが、昭和十五年六月二十二日土曜日の誤りである。この本には、こういう重要な誤りが散見される。「西欧亜局長(今の駐英大使)」とある人物の名前は不詳。なお、この「西欧亜局」というのは、「欧亜局」の誤記ではないだろうか。〕

 陸軍、放送に不満
 ところが、この頃から陸軍部内から不満の声が聞えてきた。何も今急いで東亜共栄圏宣言めいたものをだす必要はない、との趣旨らしかったが、その底意〈ソコイ〉は、いずれも枢軸側に立つことにせねばならぬから、それからで宜しいという点にあるらしかった。
 二十八日午後、外、陸、海の関係幹部の打合せ会が開かれたが、僕は生憎、クレーギー〔英国〕大使とのビルマ・ルート問題などで忙しくて欠席し、堀第一課長が代って出席した。その報告によると、陸軍から強く反対の申出があったが、結局すでに閣議でも、四相会議でも承認されているというので、二十九日に有田外相からラジオを通じて放送されることに決ったという。
 その夜、新聞記者諸君が外相か僕かに是非会見したいという。僕が会うと、記者団の質問は、陸軍が翌二十九日の放送には絶対反対というのに、それでも強行するのかという点に集中した。僕はこの日の午後の陸海軍側との打合せ会には出席しなかったが、その際の詳しい報告ではそんなことはなかったはずだと答えて別れた。
 その夜中になると、同盟通信の土子や朝日の吉武などの記者諸君から矢継ぎばやに電話で、陸軍は今度のラジオ放送は、情報部長が強行するものだと、大変な激昂ぶりだと知らせてきた。
 しかし、二十九日正午から、有田外相のラジオ放送は予定の通り行われた。

〔※有田八郎外相の演説「国際情勢と帝国の立場」は、一九四〇年(昭和一五)六月二九日、ラジオで放送された。その内容は、翌日の新聞に掲載されたという。〕

 憲兵隊に呼出される
 日本は急いで枢軸側に立つどころか、腰を落ちつけて東亜の諸地域との経済関係の展開に没頭することが知れ渡った。
 三十日の日曜日の朝は霽〈ハレ〉だった。十年一日の如く実行している通り、真裸〈マッパダカ〉で六貫目の薙刀〈ナギナタ〉を振っていた最中憲兵隊から使いが来た。
「実は大谷中佐が参上するところですが、昨日のラジオ放送についての日日〈ニチニチ〉や読売の記事では、閣下が軍部の方が外務省より却って弱気であるといわれたとあるので、軍部内の統制上是非とも伺わねばならないことがあります。ちょっと憲兵隊まで御出頭願いたいと申すのですけれど……」
 僕にはぴんとくるものがあった。実際は僕が何もいったわけはないのだから、それは正式に陸軍省からいってきたらいいと開き直れば、正に米内内閣を倒す術中に陥ることになるので、 
「参りましょう」
と軽くでた。その憲兵中尉は、僕の毎朝の行事を絶賛したりした。
 十一時頃憲兵隊へ着くと大谷〔敬二郎〕中佐が出て来て、
「今日は御昼食を一緒にさせて頂いて、ラジオ放送の経過を伺いたいのです」と笑いながら 云った。
 僕はさらさらと総てを話した。そして二人で鰻丼〈ウナドン〉を食べた。三時近い頃、憲兵隊の車で外務省へ送ってくれた。
 この事が知れ渡ると大きく響いた。その時である、後の吉田〔茂〕首相も情報部長の室を訪れて、僕を慰問してくれたものである。その後、有田外相と畑陸相とが数回往復した結果、
「外務、陸軍両省間に起ったラジオ放送問題にまつわる噂は、事実無根であり、両省間のわだかまりは円満解決した」
という趣旨の共同発表があって、けりがついた。
 けれども、倒閣運動としては、まんまと失敗したので、新たな手が考えられた。

〔※大谷敬二郎著『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)三六九ページによれば、この朝、須磨宅にやってきたのは、佐藤太郎憲兵中尉である。〕

 背後に武藤軍務局長
 その時の大谷中佐は、その後大佐になり、捕虜虐待などのかどで戦犯に問われたが、全国を逃げ廻り、数年経って女中と隠れているところを逮捕された。
 僕が蓼科高原にいた秋のある夕方、諏訪署の刑事が大谷大佐を追跡してきて、僕にその人柄などを訊いたことがあった。世の中は面白いものである。
 客観的に見れば一つの小説でもある。ここでも僕は、ものというものは押しつめて考えるものではないと熟々〈ツラツラ〉思わせられる。永い眼でものを見るものだと常に心の中で念願して、修養の一助ともしているが、それはこんな事実からも教えられているのだ。
 しかも何の因果か僕もやはり戦犯に指定され、それもAクラスになったのに、首が飛ばずに済んだのは、現在の生ある所以で感激に堪えないが、その理由の一つには、その時僕が憲兵隊に出頭しており、その背後の軍部の立役者が武藤〔章〕中将、当時の軍務局長であったという現実もあったのである。
 人間には先きが見えないものだ。

「新方針に横槍」の章は、ここまで。この章の最後で須磨は、自分が憲兵隊に出頭させられた一件の黒幕は、武藤章陸軍省軍務局長だったと述べている。ただし、その根拠は示されていない。
 次回は、この章に続く「外交官総て更迭」の章を紹介する。

*このブログの人気記事 2021・9・17(8位の北一輝、10位の藤村操は久しぶり)

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今後も白鳥には十分注意してください(湯浅内府)

2021-09-16 02:48:27 | コラムと名言

◎今後も白鳥には十分注意してください(湯浅内府)

 須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
 本日は、「枢軸接近を警戒」の章(一七〇~一七五ページ)を紹介する。この章も、米内光政内閣の時代の話である。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    枢 軸 接 近 を 警 戒

 湯浅内府の赤誠
 米内〔光政〕と有田八郎だから、がっちりしていた。各方面から、バスに乗り遅れないよう、一日も早く枢軸側に方向転換の必要を進言してくる。新聞にしてもそうであった。殊に国民新聞は、軍部に迎合して激しい筆致をもって、米内政府は、米英側に国を売るものだ、とさえ極論した。
僕のこともよく引合いにだされた。その頃、外務省にも革新派といわれた若手の一派があって、クレイギー〔英国〕大使と何を話した、グルー〔米国〕大使に何を明かした、といったことを素破〈スッパ〉抜いたりした。全く物情騒然といった時代であった。
 入梅のどんよりした日の朝である。松平内大臣秘書官〔松平康昌内大臣秘書官長〕が、荻窪の僕の家にやって来て、湯浅〔倉平〕内府が至急に会いたいが、直ぐでいいなら、内府親ら〈ミズカラ〉出向いてもいいかどうかと云うことであった。
 その日は出がけに、首相官邸で米内首相に直接報告する約束の重大要件があるから、一時間ほどしたらもちろん僕の方から内府を訪れるといって別れた。
 朝もまだ九時を廻ったばかりで、首相官邸で話していた最中に、湯浅内府からの直接の電話が入った。
「取り急いでお話を伺いたいことがありますから、今そちらに参っても宜しいでしようか」と云うのである。
 よほど差し迫ったことであろう。僕は首相との話が終ると、直ちに内府の官舎に走った。

 白島歓迎会に名前
 湯浅内府は落付いたふうを装っているが、何となく興奮していた。
「この新聞は御覧でしようね」
と云いざま、僕の眼の前に出されたのは、その朝の国民新聞であった。そして内府の指されるところを見ると、第一面の下段である。
 第一号活字を使ったものものしい広告である。それから二週間ばかり前にイタリアから帰朝した白鳥敏夫大使の歓迎会を築地精養軒で催すというので、十六名の発起人が名を連ねている。既ね軍部の大ものや、右翼の人達で、現在の官界からは僕の名だけが出ている。その朝は、国民新聞は見落していたから僕はまず言った。
「これは驚きました」
「というのは?」
と内府は真剣に見つめながら訊ねた。それは僕の顔色から何ものかをさぐろうとするもののようであった。
「こんなことは初耳ですから」
 僕の言葉が終らないうちに、内府は顔ぢゅうの緊張が一時に解け去ったように、相好〈ソウゴウ〉を崩して云った=
「いや、それで安心しました。まさかと思いましたが、こんなに麗々しく出てるものですから、それは心配致しました」
 こう云って、矢継ぎ早やに次のような趣旨を語った。

〔※白鳥敏夫(一八八七~一九四九)は、日独伊三国同盟を推進した外交官として知られる。戦後の東京裁判でA級戦犯の指定を受け、終身禁固刑の判決を受けるが、その半年後に死去。一九七八年(昭和五三)、靖国神社に「昭和殉難者」として合祀された。〕

 米英派の暗殺計画
 白鳥の指導する右翼の団体は実に多い。それに、右翼団体の中でも最も越軌的行動をするものばかりである。米英派と目される人々の暗殺計画などを立てるものが多い。さらに中野正剛の東方会などとも連絡して、まさに大きな国民思想運動を展開しようとする一派が、白鳥の帰朝を機会に気勢を挙げようとしている。その一つの現われが、今度の帰朝歓迎会である。もし政府のスポークスマンである僕がそれに参加したとなると、実に由々しい大事である。
 こうした内府の心配も、実はゆえなきにあらずであった。白鳥は僕を相当信頼していた、と見当てるのも間違いでなかった。というのは、白鳥が情報部長〔外務省情報部長〕時代に、僕を上海におけるスポークスマンにでっち上げたからである。
 こんな関係もあったので、この新聞広告を大きくとった内府の憂慮も無理からぬものがある。この一片の広告問題にも、なみなみならぬ注意を払うことから、僕は湯浅内府の存在を改めて認識せねばならなかった。
 日本が枢軸側になびくことを最も心配したのは、内府であることも分った。この話の機会に内府は日本が乗るも反るも、この一挙にあるとさえ極言した。そして僕らが当時、命がけで推進していた欧戦不介入方針は、飽くまで守らねばならぬことを強調した。僕はそのただならぬ熱情には全く頭が下った。辞去する時に内府はもう一度改めて云った。「今後も白鳥には十分注意してください。今情報部長〔外務省情報部長〕の地位は実に大切でありますから」

〔※湯浅倉平は、一九三三年(昭和八)から一九三六年(昭和一一)まで宮内大臣を務め、一九三六年から一九四〇年(昭和一五)まで内大臣を務めた「天皇側近」である。すでに、このブログで紹介したように、一九三九年(昭和一四)七月に、湯浅内大臣や松平恒雄宮内大臣を狙った東亜同志会による暗殺未遂事件が発覚している。外務省情報部長たる須磨弥吉郎を呼んだ湯浅は、この席で、そうした事実についても語ったはずである。ここで須磨は、「白鳥の指導する右翼の団体」という表現を用いている。須磨は、おそらくこの席で、湯浅から、白鳥敏夫大使が「米英派と目される人々の暗殺計画などを立てる」ような右翼団体に関わっているといった情報を聞かされたのであろう。〕

 ドイツ大使館の希望
 この時の歓迎会計画者側から、僕には何の話もなかったのに、なぜ僕の名が連ねられたのか。それとなく調査してもらった。これは今に至るまでよく分からないが、何でも、当時僕の秘書役をしていた中田千畝〈センボ〉君の聞いたところでは、主催者側の、有力者がオット独逸大使からの希望もあって、僕の名前だけを掲げたのだというのであった。
 この広告問題はこれだけでは済まなかった。その翌日の外人記名との定例会見で、日本通のバイアス特派員(ニュー・ヨーク・タイムズ兼ロンドン•タイムズ)が質問した。
「白鳥歓迎会に列席することは、政府の外交方針の変化を示すものでしょうか」
 こんな場合には、珍妙を極めた頓智返答を思いつく。直ぐさまこう答えた。
「変化はありません。ただ、あれが僕の何も知らないうちにでるというほど、日本の外交上の立場が微妙になっただけです。僕の知らない間にあんなものがでるというところまで、どこかの外交攻勢があるのかも知れません」
「そんなことは、私がどこかで耳にしたことと一致します」
 バイヤスは実に情報通である。詳しくは話さないが、僕が手に入れたと同じように、ドイツ大使館方面からの希望もあって、あの新聞記事となった意味が読まれた。
 日本は実に危い所に立っていたものである。

「枢軸接近を警戒」の章は、ここまで。この章の最後で、須磨は、「日本は実に危い所に立っていたものである」と書いている。実は、そう書いている須磨自身も、「実に危い所に立っていた」のではあるまいか。
 次回は、この章に続く「新方針に横槍」の章を紹介する。

*このブログの人気記事 2021・9・16(2位に極めて珍しいものが入っています)

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