礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小泉信三、幸田露伴を訪ねる(1941)

2022-05-16 03:09:14 | コラムと名言

◎小泉信三、幸田露伴を訪ねる(1941)

 書棚を整理していたら、雑誌『世界』の「第22号」が出てきた。一九四七年(昭和二二)一〇月一日発行、「定価金十三円」。
 興味深い記事が多いが、本日は、小泉信三のエッセイ「露伴と今日の読者」を紹介することにしよう。

 昭和十五、十六年であつたと思ふ。露伴先生が二年続けて、夏、御殿場に家を借りて過ごされたことがある。当時私自身も毎年夏御殿揚で暮らしたので、小林勇君に頼まれ、先生の為めに貸別荘の問合せなどをした。最初の年〔一九四〇〕は、二の岡〈ニノオカ〉といふ、函根〈ハコネ〉から長尾峠を越えて御殿場町〈ゴテンバチョウ〉に出る街道に沿ふた林間の家の一つであつた。二年目〔一九四一〕はそれより少し西へ離れ、富士に面した対山荘と称する一廓中の一軒であつた。私の家も同じ対山荘に属し、大きな声を出せば聞こえる位の距離にあつたから、朝夕出て歩けば、自然 先生の門前を過ぎるので、よく御尋ねして先生の話を聴いた。
 先生はよく談じられた。話題から話題へと、殆ど絶間〈タエマ〉なく話を続けられたので、私は何時も〈イツモ〉長坐した。そこで何を先生から聴いたかといはれると、それが実に残念な次第であるが、こちらに素養が足りない為め、先生の話を正確に覚へてゐて書くことが出来ない。これは先生に物を聴かうとした多くの人に共通の憾み〈ウラミ〉ではないかと思ふが、先生の最も得意とする話を聴いて、先づ理解し、従つて記憶するだけの準備がこちらになく、始め暫くは一生懸命に聴いて歩るいて行く中〈ウチ〉、だんだん後れて、遂に全く離れてしまふといふ感じを抱いたことがたびたびであつた。誰れか傍〈ソバ〉にゐてノオトを取つてくれるか、或は誰れか先生の相手をして自分がノオトを取る方に廻るかしたらと、思ふことがよくあつた。多分先生も最も得意とし、私も聴きたいと思つたのは支那の学問文芸に関する話であるが、それを伺つてゐる間に、右にいつたやうに、此方は取り残されて先生が独りで歩いて行つて仕舞ふことがよくあつた。【以下、次回】

 小泉信三(一八八八~一九六六)は経済学者、一九三三年(昭和八)から一九四七年(昭和二二)まで、慶応義塾塾長を務めた。幸田露伴(一八六七~一九四七)は小説家。一九四七年(昭和二二)七月三〇日に亡くなっている。すなわち、小泉のエッセイには、幸田露伴を追悼するという意味があった。

*このブログの人気記事 2022・5・16(9位の関東大震災は久しぶり)

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来年は一度お会いしたいと思っています(井出彰)

2022-05-15 04:34:25 | コラムと名言

◎来年は一度お会いしたいと思っています(井出彰)

 昨日の話の続きである。少しずつ思い出してきたが、二〇一七年一月に図書新聞社を訪ねたのは、新刊の拙著『ナチス憲法一問一答』を持って、挨拶に伺おうとしたのだと思う。それより前、二〇一六年一二月二八日に、井出さんからメールをいただいており、そこには、「来年は一度お会いしたいと思っています」などとあった。それで、新刊持参を口実に、会社を訪ねたのだと思う。訪ねた日までは覚えていない。

 ところで、昨日の記事「前図書新聞代表の井出彰さん、亡くなる(七十八歳)」には、かなりのアクセスがあった。二〇二〇年一二月一日の記事「よど号と三島事件はいずれも木曜日だった(井出彰)」に対しても、アクセスをいただいたようだ。本日は、二〇二〇年一二月四日の記事「吉本隆明『そうだ、用事を思い出した』」を再掲させていただくことにしよう。

◎吉本隆明「そうだ、用事を思い出した」 2020/12/04

 井出彰氏の『書評紙と共に歩んだ五〇年』(論創社、二〇一二)を紹介している。本日は、その四回目で、「44 吉本隆明の位置」のところを紹介する。

   44 吉本隆明の位置

 井出 でもそうした半面を持つ消費社会化を絶賛したとまではいわないにしても、明らかに肯定していたのは吉本さんだった。
 一九八八年の『いま、吉本隆明25時』(弓立社)のイベントには『図書新聞』としても協力した。吉本さんにはそれだけの思い入れがあったからね。でも八二年の『「反核」異論』(深夜叢書)以来、何となく科学者としての論理はわかるけど、思想家としては命の問題だから踏みとどまるべきだと私は思った。
 そこら辺から異議もあったけれども、吉本さんと疎遠になった。それで『図書新聞』で吉本さんの追悼特集を組んだ時、そのことを少しだけ書いた。それは吉本さんの『擬制の終焉』から『共同幻想論』の延長線上につながる目標は『「反核」異論』のような著作に向かうものではなかったという主旨だった。そうしたら反響がすごかった。
 その前、いつだったか例の事故(海水浴場で溺れそうになった)後に御茶ノ水で偶然に出会ったことがあった。それでお茶でも飲もうかといって、今はもうなくなってしまった「世界」という喫茶店に入ったけれど、やっぱりお互いに何となく気まずいんだよね。それで吉本さんも、そうだ、用事を思い出したといって出ていこうとした。それで御茶ノ水駅まで見送り、また、よろしくといって別れた。それ以後、全然会っていないし、何か頼むという気も起こらなかった。でも寂しかった。今でもその寂しさは続いている。
 吉本さんのほうも、『「反核」異論』後には、コム・デ・ギャルソンを着て、『アンアン』 のグラビアに出たり、何でもいい、もう全部認めようという感じで、すっかり消費社会の側の人間になってしまったと思っていたから。それと同じ頃から、全国紙にも書くようになり、私も含めてかつての編集者たちが行かなくなった代わりに出てきたのが糸井重里〈イトイ・シゲサト〉で、吉本さんの取り巻きも様変わりしてしまった。
 ―― 確か数年前の吉本さんのNHKテレビ出演の司会も糸井だったし、最後の著作とDVDも彼のところから出ましたから、その事実を物語っていますね。
 吉本さんの動向はともかく、井出さんも『図書新聞』もそのような八〇年代以後の社会を進んでいかざるを得なかった。
 ところで中上健次〈ナカガミ・ケンジ〉じゃないけれど、これも後に芥川賞を受賞することになる藤沢周〈フジサワ・シュウ〉が入社されていますよね。

 吉本隆明(よしもと・たかあき)が亡くなったのは、二〇一二年三月一六日である。文中、「『図書新聞』で吉本さんの追悼特集を組んだ」とあるが、この特集号は、同年四月一四日付の第3058号である。
 一面のトップに、「追悼特集 吉本隆明/さらば! 吉本隆明」とある。「さらば! 吉本隆明」は赤字である。
 井出彰さんの追悼文は、「吉本隆明が逝った。身体のどこかにぽっかりと空洞が出来たような、寂しさに襲われた。同時に、不遜だが、ほっとした気がした。」という言葉で始まっている。
 本書『書評紙と共に歩んだ五〇年』のカバーのデザインには、その特集号の一面が使われている。井出さんの追悼文の冒頭も、このカバーから引いた次第である。

 以上が、二〇二〇年一二月四日の記事である。

*このブログの人気記事 2022・5・15(なぜか3位に「種樹郭橐駝伝」)

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前図書新聞代表の井出彰さん、亡くなる(七八歳)

2022-05-14 03:27:09 | コラムと名言

◎前図書新聞代表の井出彰さん、亡くなる(七十八歳)

 東京新聞五月一〇日朝刊で、井出彰さんの訃報に接した。亡くなったのは八日で、七八歳だったという。記事には「前図書新聞代表」と紹介されていた。井出さんに私は、一度だけ、お目にかかったことがある。二〇一六年一二月一七日、築地本願寺で開催された「コスモス忌」で、井出さんの講演を拝聴したあと、名前を名乗って挨拶し、面識を得た。翌年の一月に、所用で神田の図書新聞社を訪れたことがあったが、あいにく井出さんは「会議中」で、面会は果たせなかった。
 その後、二〇二〇年一二月一日に、私は、当ブログに「よど号と三島事件はいずれも木曜日だった(井出彰)」という記事を書いた。本日は、この記事の全文を再掲し、故人を偲ぶことにしたい。

◎よど号と三島事件はいずれも木曜日だった(井出彰) 2020/12/01

 先月二五日は、作家・三島由紀夫の命日だった。そのせいか、新聞やネットで、三島関連の記事を何度か見かけた。
 二〇一三年二月二〇日と言えば、私がこのブログを始めてしばらくたったころだが、その日の日本経済新聞の「文化」欄に、日本図書新聞代表の井出彰(いで・あきら)氏が、「日本の書評文化」を論じた文章を寄せていた。いま、その「切り抜き」を探し出すことはできないが、その文章のなかで井出氏は、三島由紀夫の自決事件についても触れていた。
 当時、井出氏は、日本読書新聞の編集委員だった。事件当日、社にいた井出氏に電話がはいった。評論家の村上一郎が、事件を聞いて興奮し、日本刀を持って家を出た、何とか止めてくれ、という連絡だった。井出氏は、市ヶ谷の自衛隊正門前に急行し、やってきた村上を呼び止めて、説得した。――といったことが書かれていた。初めて聞く話で、その話を私は、その日のブログの末尾「今日の名言」のところで、ごく短く紹介した。
 それから三年以上たった二〇一六年一二月一七日、築地本願寺で開催された「コスモス忌」(アナキスト詩人の秋山清を偲ぶ集まり)に参加し、井出彰氏の「内山愚童と川崎長太郎」という講演を拝聴した。たしか井出氏は、この講演のなかでは、三島事件には言及されなかったと思う。
 しかし、講演のあと、その会場で売られていた井出彰氏の『書評紙と共に歩んだ五〇年』(論創社、二〇一二)を手に取ってみたところ、三島事件についての言及があった。さっそく一冊、買い求めた。
 本日は、同書から、「6 よど号、三島事件、村上一郎」のところを紹介してきたい。なお同書は、井出彰氏に対するインタビュー記録で、「インタビュー・構成」は、評論家の小田光雄氏である。

   6 よど号、三島事件、村上一郎

 井出 それ〔最も印象に残っていること〕はやっぱりよど号と三島由紀夫事件に尽きます。
その頃『日本読書新聞』は金曜日に刷っていた。それで土曜日に出社して新聞を発送したり、編集会議をやったりしていた。ところがよど号と三島事件はいずれも木曜日だった。よど号の時はその夕方の六時頃、先に埴谷〔雄高〕さんにインタビューし、次に五木寛之さん、最後は秋山駿さんで、秋山さんは飲んで帰ってくるのを待っていたから、午前一時ぐらいになってしまった。でもあの頃は若かつたから、徹夜で三人のテープを起こし、七、八枚ずつにまとめた。彼らには何回もインタビューしていたし、親しかったこともあって、名人の文体に合わせてまとめることができた。通常は金曜日の朝から刷るのだけれど、それをずっと待ってもらい、構成を入れ換え、昼には責了に持ちこみ、金曜日の夜に刷り、土曜日の一番で取りにいき、何とか発売日に間に合った。
 ―― よど号事件が一九七〇年三月で、三島事件が十一月でしたね。
 井出 それも十一月二十五日、『豊饒の海』の完結した日と同じ日付です。あの日も木曜日で、酔っ払って会社の宿直室で寝ていた。そうしたら午前十時頃に村上一郎さんの奥さんから電話がかかってきた。三島が市ヶ谷の自衛隊に乗りこんだことを知り、自分も行動を共にすると村上がいい、日本刀を持って出かけていったから、井出さん、止めてほしいということだった。会社は石切橋〈イシキリバシ〉だから、タクシーを飛ばして〔市ヶ谷駐屯地の〕門で待つことにした。つまり村上さんは吉祥寺から車できたので、私のほうが間一髪早かったことになる。
 ―― 本当に日本刀を持ってきたのですか。
 井出 持ってきていたし、興奮もしていたので、まかり間違えば、私も切られるのではないかと思った。とにかく阻止しなければならないので一生懸命落ち着かせて、前にあった喫茶店に連れていった。そこで先に連絡してあった桶谷秀昭〈オケタニ・ヒデアキ〉さんと合流することになっていた。それからすぐ桶谷さんがきた。それから三人で色々と話し、様子を見ながら村上さんをなだめた。そうしているうちに三島が自決したという知らせが入ってきた。午後一時ぐらいだったんじゃないかな。
 それから興奮している村上さんを家まで送っていった。でもこちらもやはり商売のこともあるから一晩中雑談をしているようにして、村上さんに三島事件に関してしゃべってもらった。その話を明け方までかかってまとめ、新聞に掲載した。すると飛ぶように売れた。まさに号外のように売れたらしく、紀伊國屋や御茶ノ水の茗溪【めいけい】堂からはすぐに追加注文が入ってきた。
 七〇年のよど号と三島事件を扱つた号はその週に二度刷り増ししたと記憶している。

 ここまでが「6」で、このあと、「7 三島由紀夫とのつき合い」に続くが、こちらの紹介は、明日。

 ――以上が、二〇二〇年一二月一日の記事である。

*このブログの人気記事 2022・5・14(10位になぜか清水幾太郎)

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一年有半にわたる紛争は一段落した

2022-05-13 04:51:18 | コラムと名言

◎一年有半にわたる紛争は一段落した

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十九回目で、第二部「農地改革」の10「和解協定」を紹介する。この章の紹介としては、二回目(最後)。

 彼らを迎えてから計画は少しずつ具体化して行ったが、地主との抗争はいつ果てるとも思えなかった。騒ぎが長くなり、しばしば新聞種にもなったので、両者を妥協させようという動きが、県や県農委の中にも起って来た。私も譲り得る線まで下って和解した方が得策だと考えた。地主側でも情勢が次第に不利になるのを見て、これに応ずる気配を示して来た。遂に〔一九四八年〕七月十日を期して、県農委の代表と県係官を仲介人として、両者が和解のために一堂に会することになった。初めに私や農民組合長、開拓組合長を小作者側の代表とし、地主は岩泉龍他数名が代表となって、村木家で相会した〈アイカイシタ〉。和解条件として示された条項は、私の常にいっていた範囲から出ないもので、特別の譲歩を意味するものではなかった。ただそれまでは相手側で本気に聞いてくれなかったに過ぎないのだ。
 そのあとで、五日市小学校に全員が集まった。県農委の代表小原正嘉が雄弁をふるい、皆その仲介に服することになった。次頁のような協定書が作成され捺印された。しかしこの時の和解には、別に地主の個々から、口頭で条件が述べられ、それを県農地委員と県係官が承諾したというので、後々まで問題を残した。和解協定書の調印と同時に、地主の一人一人が自分の異議と訴願の取下願に捺印したわけだが、それを県から来た人々が、各〈オノオノ〉分担して取扱った。その際地主たちは、買収はされても仕方がないが、その代替地をくれとか、その場所をそのまま自分に配分してくれるかとか申入れたといい、それを各係官、各委員が皆承諾したというのである。そのときはすでに時刻が夜になって、ローソクの灯の下で、あわただしく捺印させた。私は遠くに離れて眺めていた。
 ほっとした気持であった。のちにこの日のことで起った問題は、出来るだけ忠実に守ったが、中には虫のよすぎることをいい出すのもあって困った。本当にそんな約束をしたかと、そのときの係官たちにきいても覚えてないのが多かった。
 ともあれ、これで一年有半に亘る紛争は一段落した。地主たちによってこの日取り下げられた異議、訴願は、提出されたときにも、個々でやったのではなく、統制されていたものである。【後略】

 このあとに、昭和二十三年七月十日付の「和解協定覚書」が引用されるが、割愛する。
 さて、『新しい村つくり』という本の紹介を、ながながと続けてきたが、「和解協定」の章をここまで紹介したところで、この本の紹介を終える。明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2022・5・13(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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そんなわけで専門学校出が三人揃った

2022-05-12 00:02:15 | コラムと名言

◎そんなわけで専門学校出が三人揃った

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十八回目で、第二部「農地改革」の10「和解協定」を紹介する。『新しい村つくり』という本の紹介を、ながながと続けてきたが、この「和解協定」の章の紹介を途中までおこなったところで、話題を変えようと思っている。

   10 和 解 協 定
 再調査ののちも、異議申立や訴願提出で買収ははかどらず、抗争は絶えなかった。しかし村木、畑中の大地主二人が黙って買収に応じたので、二十二年〔一九四七〕のうちにも数百町歩の買収があり、開墾作業は部分的に開始されていた。開墾は開拓公社に依頼し、機械でやることになっていたので、準備のために大村要之助が村に来るようになった。
そのころ、秋田鉱専を出た私の弟(佐々木康勝)は久慈町にいたが、そちらの仕事も思わしくないようなので、こちらに来させて測量などをやらせることにした。開拓公社から給料は出させるつもりであった。そのころもまだ農協の事務担当者がなく困惑していたら、この弟が比島〔フィリピン〕の戦線で友人だった永山一雄という男を八戸で見出した。彼は東北学院出身で、一時銀行にいたが、その当時は工業学校の英語の教師になっていた。その仕事も面白くないから、江刈村に行きたいという。しかし私は彼に対しても俸給を払い得る自信がなかったので八戸の自宅で初対面のときに、計画はかくかくだが、危険性が多分にあるから奨められないといった。彼はそれでもよいから行きたいという。私について来れば苦労するばかりだがよいかといっても、その方が生き甲斐があるという。そんなことで彼も村に移って来、開拓組合長の佐藤〔信夫〕とともに、専門学校出が三人揃うことになった。永山は農協を、佐々木はどこともつかず測量などを担当することになった。私は初めて字校らしい学校を出た人間を側近に得て、心強くもあり、たいくつを感じなくなった。農村に生きて一番やりきれないのは、インテリのいないことである。岸田国士ではないが、言葉が通じないような感じがするのだ。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2022・5・12(8・9・10位に珍しいものが入っています)

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