礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「兵ら続々と帰順」大阪朝日新聞号外(1936・2・29)

2024-03-06 00:50:30 | コラムと名言

◎「兵ら続々と帰順」大阪朝日新聞号外(1936・2・29)

 昨年の11月ごろだったと思うが、国会図書館に赴いた折、松本一郎氏著の『二・二六事件裁判の研究――軍法会議記録の総合的検討』(緑蔭書房、1999年7月)という本を借り出した。精読している時間がなかったので、巻頭にあった「号外」の図版、および「序文」をコピーしておいた。
 本日は、その「号外」の図版を、文字に起して紹介してみたい。

大阪 朝 日 新 聞 第二 号外 昭和十一年 二月廿九日 
(大正十四年三月廿八日第三種郵便物許可) 
此の号外は本紙に再録しません
編輯印刷発行人 山 本 直 一
大阪市北区中之島三丁目三番地 株式会社朝日新聞社
                 大阪朝日新聞社
発行所 門司市東本町三丁目 大阪朝日新聞九州支社

 順 帰 と 々 続 ら 兵 来 暁 今

  所属上官懸命の
   説得大いに奏功
   昨夜来説得書、ビラを撒布
    既に三百九十名突破
二十九日戒厳司令部では当局談の形式でラヂオを通じて左の如く発表した
【戒厳司令部当局談】二十六日以来部隊を率ゐて永田町附近に占拠せる矯激なる一部青年将校は奉勅命令が降つたのにも拘らずこれに服従せず遂に叛徒となり了つた、これら青年将校に対しては三日間に亘り陸軍大臣、戒厳司令官、師団長、連隊長その他陸軍首脳者、同僚らより昼夜を問はず熱誠をもつて原所属に復帰するやう説得したが一応これに聴従するが如き形勢を示したることも数回に及んだが忽ち前言を翻へす等の如きことあり、遂に奉勅命令に叛旗を翻へして了つたのは返す返すも遺憾に堪へない、しかし彼らに率ゐられてゐる兵士達は何も事情を知らぬものが多いことは勿論であつて、たゞ将校の命のまゝにこれに率ゐられて出て行つたものが大部分であつて彼等を叛徒と見ることは誠に忍び得ないものがあるので今日に至るまでこれら兵士に対してはそれぞれ上官、即ち団長、連隊長らより順逆の理を説き説得大いに努め場所によつては一兵に対しても馬を下りて説くなど極力努力をしたのである、また可なり各所に散在もしてゐるので昨夜来順逆の理を明かにした説得書、ビラなどを撒布し、また朝来は飛行機をもつてこれを撒布してゐる、その他広告気球の利用などあらゆる手段を講じてゐる、これがため昨夜より今払暁にかけ下士官以下百数名の帰順者があつたが午前九時ごろさらに赤坂山王ホテル附近において約百五十名、赤坂見附において約二十名、午前九時二十分ごろには赤坂溜池方面において約百二十名の帰順者があつた、この分で行けば今後とも続々帰順を見るものと思はれる、幸ひにして只今までまだ兵火を交ふるにいたつてをらぬ
 『兵よ抵抗を止め
   速かに復帰せよ
    戒厳司令部から
     AK通じ〝兵に告ぐ〟
戒厳司令部では「兵に告ぐ」と題し廿九日朝AKを通じ左の如き発表をなした
戒厳司令部発表
     兵 に 告 ぐ
勅命は発せられたのである、既に天皇陛下の御命令は発せられたのである、お前達が上官の命令を正しいものと信じて絶対服従して誠心誠意活動して来たのであらうが天皇陛下の御命令によつてお前たちは皆原隊に復帰せよと仰せられたのである、このうへはお前たちがあくまで抵抗したなれば、それは勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならぬ、正しいことをしてゐると信じてゐたのにそれが間違つてゐたと知つたならば徒らに今までの行掛や義理上からいつまでも反抗的態度をとつて天皇陛下にそむき奉り逆賊としての汚名を永久にうけるやうなことがあつてはならない今からで決しておそくはないから直ちに抵抗をやめて軍旗のもとに復帰するろやうにせよ、さうしたなら今迄の罪は許されるのである、お前たちの父兄は勿論のこと国民全体もそれを心から折つてゐるのである、速かに現在の位置を棄てて帰つて来い
          戒厳司令官   香 椎 中 将
                 =裏 面 に つ ゞ く=

 号外の最上部には、横書き(右書き)で、「今暁来〈コンギョウライ〉兵ら続々と帰順」とある。
 文中「AK」とは、社団法人日本放送協会の東京放送局のコールサインである「JOAK」の略。ちなみに、大阪放送局のコールサインは、「JOBK」、名古屋放送局のコールサイン「JOCK」であった。
 末尾に、「裏面につゞく」とあるが、この本に、号外裏面の図版はなかったと記憶する。
 なお、本日、紹介した「号外」は、松本一郎氏の父君が、大切に保存されていたものという。

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進駐軍司令部、朝鮮銀行の接収を指令

2024-03-05 00:42:11 | コラムと名言

◎進駐軍司令部、朝鮮銀行の接収を指令

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その七回目(最後)。

11 丹毒のたたりで中耳炎
 翌朝耳鼻咽喉科の医師に診察してもらいましたが、かぜひきなどとはとんでもないということで、オデキは丹毒の発端で顔面は赤くはれ上り、既に中耳炎を起し病状が進んで手遅れになつているということでありました。全く意外な災難に会つたわけです。早速手当を受けて臥床〈ガショウ〉のまま重役会議をやり、事務打合せをし、報告を聞き、措置を指示することにしましたが、その間井原〔潤次郎〕参謀や総督府の水田〔直昌〕局長その他行内外からの来訪があり、床の中での仕事も急速にはかどつたわけです。翌日は熱が更に上りまして医師から病気がまだ峠を越さないとの警告を受けました。わずかに流動食を採つてみましたが食慾がなく、にわかにやせたのが目だつほどでした。かくて自邸で京城の民間有力者および軍参謀長との打合せ会などをやりましたが、その頃北鮮から羅津、清津の支店の破壊とか、元山〈ゲンザン〉、平壌〈ヘイジョウ〉、咸興〈カンコウ〉支店の接収などにつき不充分ながら入報があり、本店からの出張員や北鮮の支店長もぼつぼつ帰つて来ましたけれど、もとより刻々に変化する事態の詳報は得る由もなかつたのであります。更に支那および内地に対する善後措置について出来る限りの連絡と手配とを急ぎましたが、当時われわれとしては政府の諸措置方針が明瞭でなかつたために当惑することも少なくなかつたのであります。この間銀行の整然たる業態の支持や、行員の今後に備えての準備もやり、内外の情勢暗中模索の感があつたうちにも最善の処置を期しながら、病床に気ぜわしい日は過ぎて行つたのでありました。時に市中では時局下興奮の現象も散見せられ、内地人の商売は減殺〈ゲンサイ〉を免れず、病院の如きも制約を感ぜしむる状態となつて病気療養には日々不自由を加えて来ましたが、殊に医療材料は欠乏し、手当も意に任せない環境となつたのであります。そこで周囲の各位はもちろん軍参謀長その他の知友もこのまま京城に寝ていたのでは病が重態となり再び立つあたわざることを心配せられまして、さいわい最後の飛行機が出るからこの際内地に帰つて療養せよと言われ、しきりと懇切に勧告せられたのであります。九月に入り熱はまだ下らず、丹毒よりもむしろ中耳炎の方が重くなつたという感じを持ちつつ、頭を念入りに繃帯してもらつて二、三軍参謀の一行に同乗することになりました。いつたん福岡までということで着陸しましたが、進駐軍との関係上浜松までなら行けるということになり、夕方浜松飛行場に着きましたところおりあしく雨が降つていて、見渡すところ人影がありません。たまたま兵士二人がトラックで通りかかつたのを頼んで浜松駅にたどり着きましたが、駅は焼け跡のバラック建〈ダテ〉、汽車は来るたびごとに満員、丁度向側の線路に停留している三等の空車を見つけたのでその中で一夜をあかすことにしました。翌朝の汽車もまた満員でしたが、やつと車の昇降口にはい上り手荷物に腰を下して東京に着くことが出来ました。その日は半日銀行に寝かせてもらつてやがて家具のない渋谷の自宅に帰りましたが、耳はますます痛みまして、鼓膜が破れ丹毒の下地の上に中耳炎が再び病勢を加えて来たのであります。病床にただ天井を眺めながら始めは遠く近く飛行機の爆音が聞えていましたが、いつしかそれも聞えなくなりついにうとうとと自覚を失うこと旬日、当時東京もまた薬材に欠乏していて、病院にさえ薬がそろいませんのでその補給を諸所にさがさねばならなかつたのです。今から思うとうそのような話であります。九月三十日進駐軍司令部から鮮銀接収の指令が出たとの報告を受けた時はまだ食慾も出ない頃でありました。一時再起が危ぶまれたこの患者も、順天堂と慶応病院と賀古〈カコ〉病院からの三人の先生と行内各位の限りなき親切とによつてその後漸次病勢は衰え、翌二十一年〔1946〕二月十六日をもつていよいよ完治するに至り、再びこの世に生き残ることを得たのはまことに感激に堪えない次第でありますと同時に、また京城本店にあつてその後の始末に当られた各位の労苦をしのびて感謝の念尽きざるものがあります。これを要するに前後を通じて鮮銀職能の透徹でありまして、重役、行員各位とともに半島経済を中心としての最後の奉仕に最善の努力を傾倒したのであつたことを思い浮べながら自ら慰めている次第であります。

 文中、「賀古病院」とあるが、賀古鶴所(かこ・つるど、1855~1931)が開いた「賀古耳鼻院」、もしくは、その系統を引く病院と思われる。

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金浦飛行場の草原で兌換箱を見張る

2024-03-04 00:19:32 | コラムと名言

◎金浦飛行場の草原で兌換箱を見張る

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その六回目。

9 終戦とともに半島への通貨補充
 八月二十日頃から頭の左半面が妙に痛み出しましたが、毎日の打合せや、会識、措置推進等に紛れて多忙のうちに別段気にも留めず過ごしておりまして、この時絶えず気にかけていましたことは、朝鮮における兌換券発行元の補充ということでありました。京城の印刷所は用紙迄確保して準備を急いでいたのでありますが機械設備が間に合わない。もちろん急激な事態の変化とはいえ、私はあくまでも半島経済の安定を期して鮮銀の職能は最後まで完全に発揮するという堅い建前を持つていたのでありまして、それには何とかして京城への兌換券の補充を図らねばならないと思つていました。二十二日夕方の京城からの消息によりますと、ここ十日ばかり各銀行の預金払出しが増加し、鮮銀発行高は八月二十日、六六億九千万円となつたのです。その日夕方から大蔵省銀行課と打ち合わせ、更に夕食後大蔵大臣室に大臣、〔山際正道〕次官及び日銀新木〔栄吉〕副総裁に集まつてもらつて会議を開き、飛行機で内地から鮮銀券と日銀券とを朝鮮に輸送することを決定し、早速飛行機の手配をすることにしましたが、おりあしくその夜は大嵐となりました。二十三日飛行機は出航出来ず、二十四日、大本営の飛行機三機を京城に向けて出してもらうことに話がまとまり、東京と福岡から兌換券を積み出すことになつたのであります。
10 初めて経験した空中現送
 明くれば八月二十四日である。私は自ら宰領して兌換券現送に当るべく午前六時家を出て所沢に向いました。この時、三、四日前から始まった左半分の頭および顔の痛みが強くなり、歯ぐきと口びるがはれて食事が不自由となり、あごにおできようのものが出来、耳またやや痛みを感ずるに至つたので、周囲からの忠告はしきりに東京で静養することを勧められました。しかし単なるかぜひきだとのみ思つていた私は、まだ医師にもみてもらわず、京城に行つて一晩熟睡すれば直ると思つて、忠告を聞かずにそのまま兌換箱とともに旅についたのであります。その日は朝来雨降り続きで、天気を案じてなかなか出発如何が決まりませんでしたが、午後二時半に至つていよいよ出航と決定しました。一番機(これは東京と福岡から兌換券を積む)二番機(東京から兌換券を積む)、三番機(東京から兌換券を積む)という順に所沢を飛び立ちまして、私は三番機に乗り込んでおりました。西方は晴れて、一直線に京城に向い、午後六時半私の機は金浦〈キンポ〉飛行場に着陸しましたが、先発の他の二機の姿は見えないのです。飛行場には人影もありません。連絡がついていないと見えて銀行からの迎えの車も来ておりません。しかも私の乗つてきた飛行機は長く滑走路に留まつているわけにはいかぬと言つて、兌換箱〈ダカンバコ〉を草原に投げ降ろして去つてしまつたのです。随行の秘書は連絡のためあちこちと舎屋をかけめぐつており、私は一人で野原に放り出された巨額の兌換券を見張りしてなければならないということで実に当惑してしまいました。たまたま数名の兵士がどこからともなく来合せたので、これに頼んで兌換箱を草原から一応飛行場事務所の応接間に移し、ここでお金の番をやりながら残留せる隼飛行隊〔第五航空軍〕を見つけ出して銀行に連絡してもらつたのですが、なかなか迎えの姿は見えないのです。灯火は消え警備はなく治安の気づかわれる闇の夜に緊張の時は移つて午後九時半に及びました。その時であります。一台の軍用トラックがどこからか帰つて来ました。空車です。これさいわいと事情を話とすこぶる親切で、荷物を京城に運んでやるということになり、兵士の手を借りて早速応接間から兌換箱を車に積み、荷物にまたがつて京城に向かうことが出来た時は実際ほつとしました。漢江の鉄橋の手前の土手上にかかつたとき、前方から銃剣つきの四人の兵士に護衛されて迎えのトラックが来るのに出逢つたのは既に午後十時過ぎでした。そのまま銀行に行き着いて金庫に収めたが、数日前からのからだの調子がいよいよ面白くありません。其夜は熱が一層高くなり宅に帰るとすぐさま寝についたのであります。なお所沢からの輸送機中一番機はその後に着き、二番機も翌朝着いたということを後で聞かされました。

「10 初めて経験した空中現送」の節に、「現送」という言葉が出てくる。現送は、現金または現物を輸送することで、この場合は、朝鮮銀行券および日本銀行券を、内地から朝鮮に航空機で輸送したのである。
 なお、この時期、朝鮮銀行券・日本銀行券の現送が迫られたのは、朝鮮銀行の閉鎖を恐れる預金者、内地に引き揚げる日本人などが、朝鮮銀行の本支店から預金を引き出す動きが起きていたからだと思われる。

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8月16日、大蔵省に広瀬蔵相をたずねる

2024-03-03 00:04:29 | コラムと名言

◎8月16日、大蔵省に広瀬蔵相をたずねる

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その五回目。

7 命 拾 い の 日
 明くれば八月十四日、午前六時半三国飛行場を出発しました。密雲深くたれ込めて地界は全く見えませんが、雲上の飛行は一望千里と晴れ渡り、姿をかくした富士の山頂と長野あたりに点々と高山の頭がわずかに雲の上に現われているのみでありました。ほかには飛行機の片影さえ見えない壮快な単機突破であつたのです。午前七時半を過ぎた頃、機は密雲に突入して高度三千メートルから急角度に降下し二一〇メートルに及んでようやく雲がきれて来ました。見れば多摩川沿いであり、電柱が間近く迫まつております。奧多摩の起伏せる山岳の間、視界なき密雲の中に突込んで、降下がかくも手際よく行われたことはさすがに鍛錬された操縦士の自信のほどを示すものであつてただただ驚嘆するのみでありました。そして立川を過ぎ所沢に着陸したのでありますが、丁度機から降りて互に無事を喜びかつ感謝しつつ荷物を手にした時、けたたましくサイレンが鳴り渡り警戒警報が発せられたのです。次の瞬間頭上雲を隔ててB29の爆音を聞いたのであります。さすがに密雲が深くて米機は爆弾を投下することなく通り過ぎたのですが、もしわが機の着陸が三、四分遅れていてなお雲上に飛んでいたとしたら、外見爆撃機の形であるこの一輸送機は、B29編隊のただ一撃の犠牲となつてもはやこの世の存在ではなかつたでありましよう。全く幸運でした。話を聞くとこの所沢飛行場は前日午後六時までしつようなる反復爆撃を受けまして、わが方は機関銃で応戦したけれど手ごたえがなく、飛行場にカモフラージして置いたわが飛行機の損害は大破炎上六機、中破七機を出したということで、見洩せば諸所にその気の毒な残がいが横たわつているのでした。休憩所に荷物を運んで落ち着いて見ましたが迎えの車はおりません。随行の秘書が先ず銀行に帰つて連絡してくれましたので午後四時やつと一台の車が迎えに来てくれました。五時すぎ銀行に着きその晩は銀行に泊ることにしたのですが、その夜半また空襲がありまして、B29、二五〇機の編隊が関東、福島、新潟等に焼夷弾を投下して去つたのでした。
8 大 詔 渙 発
 東上して始めてわが方の和平申入れのことを知つたのでありますが、翌十五日は大詔渙発、正午から陛下の戦争終結に関する詔書朗読が放送された感慨無量の日であります。午後三時半鈴木〔貫太郎〕内閣が総辞職をしました。この日午前中行内重役、部長の打合せ会議を開き、午後は日銀で特殊金融機関の代表者および大蔵省顧問の会合が開かれました。翌十六日は大蔵省に広瀬〔豊作〕蔵相をたずねて諸般の事情を聴取しかつ打ち合わせましたが、前途の措置については政府からはまだ別段の構想は聞かされませんでした。当日後継内閣組織の大命が東久邇宮〔稔彦王〕に降下し、翌十七日新内閣が成立して津島〔寿一〕蔵相が就任されました。即日大蔵省との事務的折衝をやり、内地への引揚者に対する現金払い、為替送金の内地現金払いの限度、外地預金の措置等についての方針がきまり、更に翌十八日午後大蔵省に特殊金融機関代表者の会議が開かれましたが、この際モラトリアムはやらないが、軍需産業の平和産業への移行、退職金の支払いによる現金増発に基因するインフレの防止を如何にするか等が議題でした。当時日銀の発行高は既に三二〇億円に達していたのであります。【以下、次回】

「8 大詔渙発」の節に、「翌十六日は大蔵省に広瀬蔵相をたずねて」とある。広瀬蔵相とは、鈴木貫太郎内閣の大蔵大臣だった広瀬豊作(ひろせ・とよさく、1891~1964)のこと。同内閣は、8月15日に総辞職したが、各大臣は、17日に新内閣が成立するまで執務を続けていた。

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北陸・芦原温泉で陸軍指定の宿屋に泊る

2024-03-02 01:15:32 | コラムと名言

◎北陸・芦原温泉で陸軍指定の宿屋に泊る

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その四回目。

6 東上途中の日時着と芦原【アバラ】温泉の一夜
 八月十三日午前十時、いよいよ同盟通信機で京城を立ちました。この飛行機は元来軍用の重爆機でありましたが、内部をことごとく取り払つて実際は単なる輸送機であつたのです。同盟通信の塚本操縦士と助手二名、それにわれら二名で計五名の一行でした。天気は良く、機は南鮮経由の通常のコースをとらないで京城から間もなく東方に向い半島を横断して日本海に出で、遠く海岸を離れて山陰道の北方を能登半島に向いました。大阪への米機来襲に次いで、立川方面に朝来〈チョウライ〉艦載機の大編隊が来襲すとの無電が入つていました。午後一時福井県三国〈ミクニ〉飛行場に着陸、野原で一休みし携帯の弁当で腹をこしらえ、機は三時半再び飛び立つて東に向つたのです。この前の空襲で全く灰燼に帰してしまつた福井市の悲惨な姿を眼下に見ながら、やがて山岳地帯にかかつたとき、無電は再び急を伝えて来ました。それは立川、所沢方面へ米艦載機の大編隊が再び来襲したというのでありました。われらは無防備な一輸送機、ついにその行路は遮断されたわけです。やむなく引き返して明早朝米機の来襲する前に突破するよりほかなしということになりまして、三国飛行場に舞い戻つて一泊することになりました。その夜は飛行場の近所にある芦原と云う温泉町の、陸軍指定という小さな薄暗い宿屋に案内されてそこに落ち着くことになりました。ところで町には相当よい構えの旅館もあつたようでありますが、それらは上官が占抛していたのでありましよう。われわれの宿屋は実にひどいものでありました。まず驚いたことには、ここの人達は一般にのんきと見えて燈火は屋外にあけつぱなしで、いざという時のしやへい〔遮蔽〕設備もいかがわしく、ずいぶん安泰に見える環境でありました。しかしそれよりも当惑したのは、この宿屋の度はずれての不潔ということであつたのです。障子、ふすまの破れや、畳のはらわたがはみ出しているのなどはあえて意に介するものではないのですが、せつかくの温泉場でもあるし、ゆつくりひとふろ浴びたいと思つて風呂場に行き、いざはいろうとしましたところ、どろどろに汚れた湯、鼻をつく一種の臭気、それは入浴の勇気を失わさせずには置かないものでありました。一度脱いだ着物をそのままこそこそと着込んで早々に風呂場を脱出し、洗面所をさがしてやつと水で顔を洗つて我慢したのです。夜はわれわれの投宿を聞いて訪ねて来た若い飛行将校達と雑談に時を移しましたが、やがて寝床についてまた一難が起りました。真夏のことではあり、部屋に似合わす大型のかや〔蚊帳〕がつるしてあつたが、蚊軍の特攻的来襲にはほとほと手に負えないものがあつて驚かされました。どんなところから潜行して来るのかと燈火をつけて点検して見ると何のことはないまわりに大小の抜け穴が散在し、中には人間の頭がはいるほどの大穴もあいているのです。こうなつてはかやはやはり体裁上の一要件とでも思われていたのでしよう。【以下、次回】

 節のタイトル「6 東上途中の日時着と芦原【アバラ】温泉の一夜」に【アバラ】とあるのは、原ルビ。この温泉は、一般にはアワラ温泉と呼ばれている(旧かなづかいではアハラ)。
 田中鐵三郎朝鮮銀行総裁が便乗した同盟通信機は、「軍用の重爆機」を輸送機に転用したものだったという。「同盟通信 爆撃機」でネット検索してみたところ、「三菱キ21 重爆撃機改造貨物輸送機 箱根号」という記事にたどりついた。同記事は、「BUNさん」の指摘を受ける形で、「競争試作に敗れた中島キ19の試作2機のうち1機が同盟通信社へ払い下げられ、J-BACN同盟2号 魁号となっています」としている。田中総裁が便乗した同盟通信機は、この「魁号」だったのかもしれない。

*このブログの人気記事 2024・3・2(8・9位になぜか石原莞爾、10位になぜか東条英機)

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