礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

この下剋上傾向を天皇は重大事と考えられ……

2024-03-11 03:26:27 | コラムと名言

◎この下剋上傾向を天皇は重大事と考えられ……

 本日以降は、栗原健『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(1959)の本文を紹介してゆきたい。
 今回、紹介したいのは、二・二六事件当時、そして、その後の政治状況について述べている部分である。目次でいうと、第二部「大戦前史と天皇」の第五章「華北問題と陸軍の叛乱」の後半部分、および第六章「防共協定と宇垣内閣の流産」の全文である。

  五 華北問題と陸軍の叛乱

【4ページ分、割愛】
 こういう内外の政情の折柄、〔1935〕八月十二日、陸軍省内において永田(鉄山)軍務局長が、相沢(三郎)中佐に軍刀をもって殺害された。これは真崎〔甚三郎〕教育総監の罷免問題を動機としたもののようであるが、陸軍部内の派閥争いの表われであり、同時に主義主張や政策実行の意見の相違もあったようだ。いずれにしても大変なことであった。この下剋上傾向を、天皇は非常に重大事と考えられ、〔林銑十郎〕陸相に対し青年将校等を厳重に処置するよう度々警告された。
 昭和十年〔1935〕十二月二十六日、内府は牧野〔伸顕〕伯から斉藤〔實〕子に替り、木戸〔幸一〕は内府秘書官長として留任した。
 昭和十一年〔1936〕二月二十六日(雪)の未明、「二・二六」事件が勃発した。未曽有の大事件であった。一部の青年将校等が各部隊の下士官兵約千四百名を動かし、岡田〔啓介〕首相、高橋〔是清〕蔵相、斉藤内府、鈴木〔貫太郎〕侍従長、渡辺〔錠太郎〕教育総監、牧野前内府を襲撃し、同時に首相官邸、陸軍省、警視庁一帯を占拠し、朝日新聞社の一部を破壊した。そのうち高橋蔵相、斉藤内府、渡辺教育総監は殺害され、鈴木侍従長は重傷を負い、岡田首相は官邸の一室にかくれてくしくも難を逃れ、湯河原にいた牧野前内府もまた逃れえた。
彼等の「蹶起趣意書」は次のようであった。
【一行アキ】
(前略)
所謂元老重臣軍閥財閥官僚政党等は此の国体破壊の元兇なり。倫敦〈ロンドン〉海軍条約並に〔真崎甚三郎〕教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪、共匪、大逆教団等と利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして其の滔天〈トウテン〉の罪悪は泣血憤怒〈フンヌ〉真に譬へ〈タトエ〉難き所なり。中岡〔艮一〕、佐郷屋〔留雄〕、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に〈マコトニ〉故なきに非す〈アラズ〉、而も幾度か頸血を濺き来つて〈ソソギキタッテ〉今尚些かも〈イササカモ〉懺悔反省なく、然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安〈コウショトウアン〉を事とせり。露支英米との間一触即発して祖宗遺垂〈イスイ〉の此の神洲を一擲〈イッテキ〉破滅に堕ら〈オチイラ〉しむる火を睹る〈ミル〉より明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮〈チュウリク〉して稜威〈リョウイ〉を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除〈サンジョ〉するに非すんば皇謨〈コウボ〉を一空せん……………(後略)
【以下、次回】

「蹶起趣意書」中、「私権自慾」、「祖宗遺垂」は、それぞれ「私権自恣」、「祖宗遣垂」となっていたが、誤植と捉え、訂正しておいた。

*このブログの人気記事 2024・3・11(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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何か書けとしきりに知人にすすめられ……

2024-03-10 03:47:23 | コラムと名言

◎何か書けとしきりに知人にすすめられ……

 栗原健『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(1959)の紹介を続ける。
 本日は、同書の「目次」および「あとがき」を紹介してみたい。なお、本書には、「まえがき」に相当する文章は載っていない。

    目  次
太平洋戦争終結と聖断 
大戦前史と天皇 
  一 張作霖の爆死と陸軍 
  二 ロンドン海軍々縮会議 
  三 満州事変前後
  四 五・一五事件と国際連盟脱退
  五 華北問題と陸軍の叛乱 
  六 防共協定と宇垣内閣の流産
  七 「支那事変」の諸事情 
  八 日独伊三国同盟への道
  九 第二次近衛内閣 
 一〇 日米交渉の決裂 
大戦終結への努力 
  一 開戦から東条内閣倒壊まで
  二 小磯・米内内閣の時期 
  三 鈴木内閣とポツダム宣言発出
結  び 
  あとがき 
  参考文献 
  年  表

   あ と が き
 本書は、太平洋戦争終戦十周年にちなんで、何か書けとしきりに知人にすすめられ、仕事の合間に大急ぎで書きあげたものである。したがって種々不備な点が多いと思われる。
 ただ、私は本書を書くにあたり、自分の歴史的興味に従い、できるだけ史料によってまとめてみたものである。
 もし読者が昭和の歴史をふりかえるにあたって、本書が多少ともお役に立つならば、私はまことに有難いことだと思う。
 最後に、湿潤向暑の折にもかかわらず、同僚の今井庄次、臼井勝美の両君に非常な接助を願った。茲に厚く両君に御礼申し上げる。
  昭和三十年七月十七日(日曜日) 夏日烈々と照る午後

「あとがき」中に、「同僚」という言葉がある。栗原健の勤務先・外務省文書課の同僚という意味であろう。

*このブログの人気記事 2024・3・10(8位になぜか西部邁、10位になぜか木畑壽信)

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『天皇―昭和史覚書』で栗原健が参照した史料

2024-03-09 01:43:43 | コラムと名言

◎『天皇―昭和史覚書』で栗原健が参照した史料

 栗原健『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(有信堂、1959)の巻末には、「参考文献」が付されている。
 たぶん、この「参考文献」は、『天皇―昭和史覚書』(1955)が刊行された時に付されたものであろう。同書執筆に際し栗原健が参照した史料、あるいは同書執筆の時点で彼が参照しえた史料がわかるものであり、これ自体、ひとつの史料と言えるかもしれない。
 以下に、これを紹介する。国立国会図書館のデータによって、誤記を訂正し、出版社名と刊行年を補ってある。

    参 考 文 献
(本書では文中に大体史料のより所を示してきたが、なお便宜上ここに日本側の主な参考文献をとりまとめてみた)

東京裁判速記録その他関係記録(木戸・東条口供書、ローリング判事意見書等を含む)
原田熊雄『西園寺公と政局(原田日記)』*岩波書店、1950~1952
青木得三『太平洋戦争前史』世界平和建設協会(1950)、中島睦玄(1951~1952)
高木惣吉『太平洋海戦史』岩波新書、1949
林 三郎『太平洋戦争陸戦概史』岩波新書、1951
服部卓四郎『大東亜戦争全史』**鱒書房、1956
日本外交学会『太平洋戦争原因論』新聞月鑑社、1953
歴史学研究会『太平洋戦争史』東洋経済新報社、1953~1954
大井 篤・富永謙吾『証言記録・太平洋戦争史』日本出版共同、1954
種村佐孝『大本営機密日誌』ダイヤモンド社、1952
矢部貞治『近衛文麿』弘文堂、1952
重光 葵『昭和の動乱』中央公論社、1952
外務省『終戦史録』新聞月鑑社、1952
外務省『日本外交年表竝主要文書』日本国際連合協会、1955
福留 繁『史観・真珠湾攻撃』自由アジア社、1955
『文芸春秋臨時増刊昭和メモ』(1954)その他同誌掲載の関係記事
幣原喜重郎『外交五十年』読売新聞社、1951
宇垣一成『宇垣日記』朝日新聞社、1954
岡田啓介『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、1950
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書、1950
近衛文麿『平和への努力』日本電報通信社、1946
風見 章『近衛内閣』日本出版共同、1951
石射猪太郎『外交官の一生』読売新聞社、1950
池田純久『陸軍葬儀委員長』日本出版共同、1953
有田八郎『人の目の塵を見る』大日本雄弁会講談社、1948
高木惣吉『山本五十六と米内光政』文芸春秋新社、1950
緒方竹虎『一軍人の生涯(回想の米内光政)』 文芸春秋新社、1955
東郷茂徳『時代の一面』改造社、1952
斎藤良衛『欺かれた歴史(松岡と三国同盟の裏面)』読売新聞社、1955
野村吉三郎『米国に使して』岩波書店、1949
来栖三郎『日米外交秘話』文化書院、1949
細川護貞『情報天皇に達せず』同光社磯部書房、1953
森島伍郎『苦悩する駐ソ大使館』港出版合作社、1952
萩原 徹『大戦の解剖』読売新聞社、1950

『天皇―昭和史覚書』(1955年11月)が出版された時点では、『西園寺公と政局(原田日記)』*の別巻(1956)、および『大東亜戦争全史』**の第5~8巻(1956)は、刊行されていない。

*このブログの人気記事 2024・3・9(10位に珍しいものが入っています)

 

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栗原健の代表作『天皇―昭和史覚書』(1955)

2024-03-08 04:59:11 | コラムと名言

◎栗原健の代表作『天皇―昭和史覚書』(1955)

 書棚を整理していたら、栗原健著『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(有信堂)という本が出てきた。「文化新書」の一冊である。二十年以上前に、近所の古書店で買い求めた。古書価200円。ただし、読んだ記憶がない。
 奥付を見ると、「昭和34年11月1日 第3刷」となっている。文化新書の 202、定価は280円。その第1刷はいつだったのかと、国立国会図書館のデータで調べたが、よくわからなかった。ただし、『天皇―昭和史覚書』というタイトルの「文化新書」が、1955年(昭和30)に出ており、これが本書『昭和史覚書』の「第一刷」に当たるらしい、と見当をつけた。
 ちなみに、第三刷『昭和史覚書』は「インターネットで読める」となっているが、第一刷『天皇―昭和史覚書』のほうは、そうなっておらず、国立国会図書館に赴かないと閲覧できない。
 ところで、本書『昭和史覚書』の巻末にある「文化新書」の広告を見ると、その九番目に「天皇―昭和史覚書― 外務省外交調査課 栗原健 二八〇円」とある。「第三刷」の広告中に、「第一刷」の書名があるのは、妙といえば妙である。
 国立情報学研究所学術情報ナビゲータ(CiNii)のデータで調べると、『天皇―昭和史覚書』が刊行されたのは、1955年の10月だという。同年11月に刊行された、遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史』(岩波新書・青版223)よりも、ひと月、先行している。このことは、記憶にとどめておきたい。
 栗原健(くりはら・けん、1911~2005)は、アーキビスト、歴史家。専門は、日本外交史、日本近代史。『天皇―昭和史覚書』=『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』が、その代表作のようである(ウィキペディア「栗原健」の項による)。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2024・3・8(8・10位になぜか桃井論文、9位の安重根は久しぶり)

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北・西田を反乱首魁と認めるに足る証拠なし

2024-03-07 00:51:31 | コラムと名言

◎北・西田を反乱首魁と認めるに足る証拠なし

 昨日は、二・二六事件関係の「号外」を、文字に起して紹介した。
 この号外は、松本一郎著『二・二六事件裁判の研究――軍法会議記録の総合的検討』(緑蔭書房、1999年7月)の巻頭に、図版として掲載されていたものであった。
 本日は、同書の「序文」を紹介してみたい(ただし、前半部分のみ)。

   序  文

 本書は、法学者の立場から、「東京陸軍軍法会議」裁判の記録を通して、二・二六事件裁判の問題点を明らかにしようとしたものである。いうまでもないが、裁判に、すべての事実や証拠が提出されるとは限っていない。したがって、裁判資料によって認めることのできた「事実」が、事件の唯一・絶対の真相だ、などというおこがましい主張をするつもりは、毛頭ない。私の研究の主要なターゲットは、二・二六事件の「裁判」であり、事件そのものではない。
 もっとも、膨大な裁判資料の検討によって、初めて明るみに出た事実も少なくない。そこで、各部隊の出動状況・生々しい被害状況なども、できる限りこれを収録することにした。今後の事件研究の一助ともなれば、幸いである。
 本研究の結果、確信をもっていえることが三つある。それは、第一に、「法律ニ定メタル裁判官」によることなく非公開、かつ、弁護人抜きで行われた本裁判は、少なくとも北一輝などの民間人に関する限り、明治憲法の保障する「臣民ノ権利」を蹂躙した違憲のものであったということ、第二に、本裁判には、通常の裁判では考えられないような、訴訟手続規定を無視した違法が数多く存在したということ、そして第三に、北一輝・西田税〈ミツギ〉を反乱の首魁として極刑に処した判決は、証拠によらないフレームアップ(でっち上げ)であったということ、以上の三点である。
 これら連憲・違法な国家権力行使の最高責任者が、陸軍大臣寺内壽一〈ヒサイチ〉を頂点とする当時の陸軍首脳部であったことはいうまでもない。しかし、第一点についていえば、本来軍法会議裁判の対象となり得ない民間人に対する裁判権を、「東京陸軍軍法会議」に与えることを容認した司法大臣小原直〈オハラ・ナオシ〉を筆頭とする司法官僚と、「憲法の番人」と自称しながら、空前絶後のこのような特別裁判所を緊急勅令で設けることについて、一言の異議も差し挟まなかった枢密顧問官たち(その中には、著名な憲法学者も、また高名な在野法曹もいた)は少なくとも陸軍首脳の幇助者としての責任を免れない。
 当時の軍法会議の裁判官は、兵科将校の中から運ばれた判士四名と陸軍法務官一名とで構成された。裁判官のうち上席の判士が裁判長となったが、実際に訴訟の進行を司り、判決を起案したのは、法律専門職の法務官であった。したがって、違法な裁判の第一次的責任者は、担任法務官というべきである。
 裁判官は、身分上は軍法会議の長官(「東京陸軍軍法会議」では陸軍大臣)に従属する。しかし、陸軍軍法会議法四六条は、「軍法会議ハ審判ヲ為スニ付他ノ干渉ヲ受クルコトナシ」と規定し、審判機関としての軍法会議の独立を保障していた。長官といえども、具体的事件の審判に干渉することは許されなかったのである。また、法務官は、同法三七条によって、刑事裁判又は懲戒処分によらない限り、その意に反して免官・転官されることはないという身分上の保障を有していた。したがって、裁判に関して上司から何らかの圧力が加えられたような場合には、担当法務官は、あたかも大津事件における児島〔惟謙〕大審院長のように、敢然とこれを排除すべき職責を担っていたのである。
 しかしながら、二・二六事件の軍法会議裁判は、終始陸軍省当局のリードで行われた。将校班の軍法会議が、被告人らの抗議を無視してわずか三八日間で終わり、しかも極刑を原則とするきわめて苛酷な判決を宣告したことは、「此種禍根ヲ将来ニ絶滅スル為ニハ、……迅速且徹底的措置ヲ施スヲ必要」とした陸軍大臣の昭和一一年三月一日付極秘通達を忠実に実行したものであった。
 裁判干渉の最悪の例は、北・西田裁判である。陸軍首脳部には、北〔一輝〕・西田〔税〕を事件の黒幕に仕立て上げることによって、軍に対する国民の不信惑を中和させようという狙いがあった。彼らを反乱首魁と認めるに足りる証拠はなかったにもかかわらず、陸軍は、吉田〔恵〕裁判長の反対を押し切って強引にその意思を貫いた。この犯罪的行為の現場責任者が担当法務官であることは、いうまでもない。
 二・二六事件は、村中〔孝次〕・磯部〔浅一〕・栗原〔安秀〕ら事件の首謀者が、ほしいままに国軍を使用し、その力で政治を動かそうとしたクーデタ未遂事件である。それがわが国の政治に及ぼした深刻な影響を考えると、首謀者らが厳罰に処せられることは当然である。しかし、いやしくも法治国家である以上、その裁判手続は公正でなければならず、また犯罪事実の認定は、証拠に基づかなければならない。旧憲法五九条本文は、裁判の対審判決はこれを公開することを原則としており、また陸軍軍法会議法三八三条は、「事実ノ認定ハ証拠ニ依ル」と規定していたのである。かの暗黒裁判の悪名が高い幸徳秋水らに対する大逆事件でさえも、判決(明治四四年一月一八日)は公開されており、また磯部四郎、花井卓蔵ら超一流の刑事弁護士が弁護人として選任されていたことを想起すべきである。【以下、割愛】

 自著の大要を明瞭に示した魅力的な序文である。続いて、本文の紹介に移るべきところだが、これについては、しばらく猶予をいただきたい。

*このブログの人気記事 2024・3・7(8位になぜか桃井論文、9・10位に珍しいものが)

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