九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

書評 関野吉晴「グレートジャーニー」  文科系

2022年07月24日 01時34分03秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 まず最初にちくま新書のこの題名、「グレートジャーニー(長い旅行という訳になる)」が、現生人類すべての祖先誕生からその世界拡散・人類分化の歴史に関わる概念だということをご存じだろうか。
 最初の現生人類がアフリカ・タンザニアに生まれ、10数万年前に中東に出た人々が西欧人とアジア人に別れていき、アジア系からまずオーストラリア原住民、次いで縄文人などが生まれて、そのアジア北方系人種がベーリング海経由でアメリカ大陸に渡った末に、南米南端のパタゴニアまでたどり着いたという人類分化史を「グレートジャーニー」とイギリスのある考古学者が呼んだのである。著者関野吉晴は、この旅を南米南端パタゴニアからタンザニアへと逆に辿ったのだった。それも、自転車とカヤック・カヌーだけの人力で、1993年12月5日から2002年2月10日までかけてのことであった。

 なお、関野のこの旅にはその前史があって、1970年代半ばに、彼は南米はペルー・アマゾンのマチゲンガという少数民族の部落で何か月も過ごしている。それから日本に戻った彼は、人生をこんな風にやり直したと述べている。改めて医者になれば、滞在先の人々になにがしかのお返しができるだろう、と。
『一度日本に帰った私は彼らとの付き合いを続けたいと思った。もっともっと彼らのことを知りたくなった。そのためにはどうしたらいいのか? 世話になりっぱなしのただの居候であるより、医者として入っていったらどうだろうか。文科系の大学に8年間いた(文科系注 一橋大学に探検部を作った)私は医学部(文科系注 横浜国立大学。 後の文科系注 横国出身の娘にこの本を見せたら、言われた。「横国には医学部はない。横浜市大ではないか」とのこと。誤植?)に入り直すことにした。そしてその後も彼らの村に通い続けた』

 さて、上記の年月日をかけたこの旅の途中、当然のことながらアマゾン・マチゲンガ部落と旧交を温めることにもなるのだが、それも含んだ全行程はこうなっている。1993年12月のパタゴニアに端を発して、1995年アマゾン源流、中央アンデス。1995年10月中米に入る。1996年9月アラスカに入る。1997年8月ベーリング海峡を渡り、シベリアのヤクーツク、バイカル湖からモンゴル、中央アジア、中東、アフリカと辿って行った、と。この全体行程の中でただ一つだけ長い寄り道、別コースがあって、1999年にモンゴルからヒマラヤ横断をやっている。この寄り道コースの方では、行った先、例えばネパール・カトマンズから飛行機で帰ってきたのだろうと推察される。

 この本の長所は、まず半分は写真集と言ってよいような、その写真の美しさ。土地土地の「庶民の」生活、特徴を表す風景、祭り、祈りなどの写真もさりながら、諸民族の子どもの大写し容姿、表情などがすべて何とも言えず良いのである。皆が皆、それぞれエスニックに可愛すぎて・・・。そして、この旅人への心遣いなどにも現れた諸民族の良俗、美風などが文章で紹介されていて、それがまた「人類みな兄弟は残っている」という気にさせてくれたものだ。この旅の着想、誕生自身にかかわっているやのアマゾン・マチゲンガ部落から著者が学んだ人間の美しさを、世界に見続けていった旅と言ってもよいのではないか。僕はとにかく、そこが気に入ったのである。

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書評 「嫌われた監督」(文藝春秋社)  文科系

2022年06月02日 00時34分13秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 この評判の本2090円也を、本日書店で買ってきて、すぐに全12章500ページ弱の半分ほどを読んでしまった(2日追記 本日完読により、末尾に追加記述あり)。『20~21年の「週刊文春」に連載された落合博満・中日監督時代』を単行本に書き直したこの内容は、予想通りのもので、ちょっと良い小説以上に面白いこと、面白いこと! すぐに書評を書く気になった。

 あらかじめ見当を付けていた内容は、こういうもの。
 中日球団としても歴史的まれにあれだけ鮮やかな実績を上げた監督が「嫌われ」、辞めさせられたのは、こういうことに決まっている。「勝つ野球」と「興業としての人気ある野球」とで、よく起こる矛盾があって、球団が後者を取ったから前者を追求した落合が辞めることになった、と。そしてまさにこの予想通りの内容だったのである。こういう問題性を、あるスポーツ新聞新米記者が落合就任の2004年度に感じ取り始めていたからこそ、この本が書けたとも分かるのである。
  こうしてこの本はまた、野球に勝つには何が必要かこそ分かるものである。このことを1人1人の当時の選手ら12人を例にとって八年間にわたって追跡、分析、解明していく、そういう内容になっている。

 プロ野球はスポーツかエンタテインメントなのか? これが球団赤字問題が絡んだ集客上結局エンタテインメントの方に傾いてきたというのが、落合が嫌われた理由なのだろう。そして、野球のこの「スポーツ離れ」を危惧しているとも読めるものである。

 2007年に日本シリーズ制覇までの準備期間に当たる4~6年の3年間、その第1~3章のそれぞれ、川崎憲次郎、森野将彦、福留孝介はすべて面白かった。
 川崎では、野球界功労者とも言えるこの栄光の人物に引退の花道を作ってやる結果になった道程を通して、自分の選手への要求、遇し方というものをチームに示して見せたわけだし、立浪に換えて守りの中心に育てるべく森野をいかに鍛えていったかは、まさに鬼気迫る描写力である。福留という天才が、「人間」落合ではなく「打撃指導者・落合」と付き合ってきたのだと書いている下りも、またとても面白かった。

 最後の感想だが、野球界はサッカー界とは大変に違うと思ったところだ。サッカー界でエンタテインメントとか、この本で言うところの「ロマン」とかを第一に追求したら、そのチームはたちまち「降格」するにちがいないのである。日本プロ野球界は12球団しかないから、「相互扶助組織」のようになっているのではないか。そうでないと営業として生きていけない世の中になった?

 

 2日の追加分

「強いチームをつくらなくてはいけません。それと同時にファンを大事にしなくてはいけません」、「(落合は)メディアを、ひいてはファンを軽んじている」。これらが球団幹部の落合に対する遠慮がちな不満の声であった。それにしても、これだけの実績を残した監督が、どうして退団になったのか。8年間Bクラス陥落なし、リーグ優勝4回でそのうち日本シリーズ優勝1回。それも、退団が決まったこの11年も、15勝3敗2分という終盤戦の猛烈な追い込みによって、他を圧倒する強さを見せたその真っ最中の退団発表だった。プロ野球って、強すぎる球団があると客が減るのかな? そういうファンを大事にするって、どういうことなんだろう。今のアメリカのように「フライボール革命」をおこす? するとこれは、「低め球も含めたすくい上げ打法」になって、落合が強さの敵として嫌う、波があって不安定な野球そのものではないのか?

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ブレグマン・池上彰の対談紹介  文科系

2022年05月23日 13時43分17秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 当ブログではつい最近、ルトガー・ブレグマンの本を2冊、ごく簡単に内容紹介してきた。ところで、このブレグマンと池上彰とが、週刊文春電子版で対談をしている読み物をたった今、見つけたところだ。以下であるが、これが出たのが、2022年4月29日のこのゴールデンウイークのこととあった。

『“プーチンの戦争”の最大の教訓|池上 彰×ルトガー・ブレグマン  池上彰のそこからですか!? GWスペシャル対談   池上 彰 

 ブレグマンとの対談というならば、現代世界最大の問題の論議にもならざるをえない。株主・株価資本主義に覆い尽くされて世界、孫子の先が見えぬ問題をこそ論じ、これに絡んだ「性悪説・性善説」の論議などもでるだろう。と言っても、この対談の表題、主内容は上気のようなものなのだけれど。

 僕は今から読むが、ここを訪れる皆さんにも是非お勧めしたい。

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書評 「隷属なき道」(文藝春秋社)  文科系

2022年05月15日 12時46分37秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 14年に出版されたこの本は、オランダ国内でベストセラーになり、世界20か国に翻訳されたもの。著者は、オランダ人でBBC、ガーディアン、ワシントンポストなども注目、紹介して来た若手論客で、この日本語訳は文藝春秋から出たものだ。この本には、末尾の解説に日本語版編集部自身の要約があるので、この要約を以下そのまま書評に代えることにする。20世紀最大の経済学者ケインズの「将来予測」を現代的にアレンジした以下の議論は、日本ではいかにも荒唐無稽に見えるはずだが、経済学の基礎知識をちょっと囓った者ならば現代経済学史上の王道の一角を相変わらず占め続けている議論なのである。

『産業革命以来、人類の労働時間はずっと減り続けていた。ケインズは、第一次世界大戦のあと、スペインで講演を行い、その中で、「2030年までに週の労働時間は15時間にまでなる」と予測した。ところが、今日の我々はそんな状況ではまったくない。確かに1970年代まで労働時間は減り続けていた。しかし、80年代以降、減少が止まり、逆に上昇に転じた国もある。
 労働生産性を見てみよう。これは、80年代以降も順調に上がっている。しかし、逆に労働者の実質賃金は下がり、貧富の差は、国内で見ても、また世界的に見てもこれ以上ないくらいに拡大している。何しろ、今世界では上位62人の富豪は、下位35億人の総資産より多い富を所有しているのだ。
 そうした世界を救う方法として著者が提案しているのが、ベーシックインカムと1日3時間労働そして国境線の解放だ。
 中でもベーシックインカムをめぐる著者の議論には、目からうろこが何枚も落ちる人が多いのではないだろうか。日本のケースに当てはめてみれば、生活保護、奨学金などの学費援助制度、母子家庭保護のための福祉プログラム等々を全て廃止する。そのかわりに全ての個人に年間150万円なりのお金を直接支給するのである。
 2009年のイギリスでの実験例が第2章で紹介されている。3000ポンド(約45万円)のお金を与えられた13人のホームレスは、酒やギャンブルに使ってしまうだろうという予想に反し、電話、辞書、補聴器などまず自分にとって本当に必要なものを買い求めた。20年間ヘロインを常用していたサイモンの場合、身ぎれいにしてガーデニング教室に通いだした。そして実験開始から1年半後には、13人の路上生活者のうち7人が屋根のある生活をするようになった、というのである。
 つまり、貧困者は第一にまとまったお金がないことで、貧困から抜け出せないのだ。教育制度や奨学金にいくらお金を使っても、そもそも貧困家庭の子どもたちはそうした制度を利用するということを思いつかない。だからまず、すべての国民に、施しではなく権利として必要最低限の生活を保障するお金を渡すという考え方だ。』

 この文章にかかわって、イギリスのホームレスについて別の文献から一言。イギリスのこれらの人々はアルコール中毒がほとんどで、日本のいわゆるホームレスはいないと聞いてきた。

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書評 有名な性悪説「証明」、その嘘を暴く  文科系

2022年05月13日 14時04分51秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 オランダ人歴史家ルドガー・ブレグマンの「ヒューマンカインド 希望の歴史」(文藝春秋)の主内容に連なる表記のことを紹介してみよう。本国オランダで25万部、世界46カ国翻訳という世界的ベストセラーである。

 初めはずっと、史上有名な数々の「性悪説証明」と言われてきた例をいちいち反証していく。上下2巻の上巻は、ほぼこれらへの反論に各章が当てられたものだ。

 第2章『本当の「蠅の王」』は、この有名なノーベル賞小説を実際にあった実話でもって反証したもの。小説と同じシチュエーション、少年たちの漂流から1年以上の孤島暮らし、はてどんな生活になったかという実例を見つけ出してきて、それが報告されている。1966年オーストラリアの新聞に載ったこの出来事を検索で見つけ出した上に、現地を訪問して生存者らから聞き取った調査報告だ。「イースター島の謎では、ジャレド・ダイヤモンドの「文明崩壊」が描いたイースター島の殺し合いが実は考古学的創作であったいう、新たな実証反論を提示している。
 さらには、「スタンフォード監獄実験」は、「結論に合わせた実験になっていた」ことを細々と例証、暴露したうえで、この実験について「BBCのスタンフォード再現実験」があったが、同じことは全く起こらなかったという紹介を細々とやっている。ちなみに、この実験の主、心理学者フィリップ・ジンバルドは、「それから数年で彼は、その時代の最も注目される心理学者になり、アメリカ心理学会の会長にまで登り詰めた」とある。同じように知られた「ミルグラムの電気ショック実験」もスタンフォードと瓜二つで、結論ありきの実験法操作や不都合な事実の無視などの数々が示されていた。こちらの実験の場はイェール大学で、その研究室の主はスタンレー・ミルグラムと言う。先のジンバルドよりもさらに広く知られるようになった心理学者なのだそうだ。

 こうしてこの著者の結論。性善、性悪は、人間の何か宿命のようなものではなく、その時と場に規定された人間固有の社会性、共同・共感性によって形成されていくもの、そういうことになるのだろう。ちなみに、この上下2巻本全体の初め(序章を書き出す前の1ページ全部)にアントン・チェーホフの言葉と銘打って、こんなたった一言が掲げられていた。

『人は、自分がどのような人であるかを教えられると、より良い人になるだろう』

 

追記ーこの本は、「作為的実験」を告発された「史上偉大な」心理学者、ジンバルドやミルグラム(の関係者を含む)からの告発を覚悟してもなおかつ内容に自信があるからこそ書かれている訳だ。そして、その告発がないということが、この内容の真実性を証明していることになるだろう。

 

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随筆 「国語(科)は学問ではない!」?  文科系

2022年04月04日 11時17分22秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

  ブログ友の昨日のエントリーに、文科省が最近出した「論理国語と文学国語」と言う話題がテーマとして出されていた。これは教育と言う以上に物を書く人間にとっても極めて重要な問題であって、しかもとても難しいテーマなのである。このことについて書いた拙稿を再掲する。そして、明日これに追加の文章、論考などを書きたい。


【 随筆 「国語(科)は学問ではない!」?  文科系 2015年01月29日

 子ども、青年期などにおいて、標記のことを唱える人は多い。僕自身も中学2年だったかの国語の時間に、若い女の先生にそんな質問をして、1時間の授業を潰してしまった覚えがある。この事件の詳細は覚えていないが、数人の級友と一緒に発した質問だったので、そうなったようだ。

 では、よくあるようにこう言い逃れるやり方は正しいのかどうか。国語で書かれた内容の方が学問か否かは置いておくとしても、国語という言語とその使用法は学問としてきわめて重要なものである。こういう語学に限定した国語(科)の定義は誰もが認めるはずだが、この「書かれた内容」を横に置いた半分の定義だけでは、国語(科)の意味、重要述語の抑えとしては3分の1の価値もないと、これが僕のこの随筆の趣旨だ。

 さて、少なくとも20世紀以降の人文科学は、以下のことを明らかにした。
 言語能力、特に抽象的言語能力が不足した子どもは、学力一般が劣るのである。思考力一般と言語能力とがほぼ同じものと言っても良いほどに。これが言いすぎであるとしても、少なくともこうは言えるというように。両者の一方が欠ければ、他方もそんなに発達はできないと。このことはまた、以下のことをも示しているのだと思う。
 言語能力が文字通りの言語能力という狭い範囲に留められるものではないということを。次いで、このことに、20世紀の発達心理学などから発見された次の事実もおおいに関わっていく。
 この言語能力・思考力一般という意味での言語能力が劣った青年、成人には、社会性も欠けるという事実である。もっと言うならば、こんなことが言えるようだ。言語能力と思考力と社会性(さしあたっては、他人の言動が見え、分かり、共感するということなどなど)は、人間においては同じ一つのことの別の側面とさえ言えるのではないかと。

 さて、以上のことは少なくとも現代学問のほぼ全てが認めるだろう。それでもなお、こういう問題は残るのだ。思考とか社会性とか、もっと拡げて人間の内面一般が、全て科学的に手に負えるものかどうかという問題である。手に負えないとしたら、こうなる。欧米のある種の現代哲学者、科学者たちのように、こう生きるしかなくなる。公的に論じ合える問題と、論じられない言わば信仰や、善や美や、それらを扱った随筆世界(の内容)やのような領域の問題とを、区別して生きることに。「その問題は、科学的には『問題』と言えるようなものではない」とは、そういう欧米知識人が非常によく使う言葉だ。こうして例えばつまり、科学と「心」とを厳密に分けて生活することになるのであろう。科学と信仰とを区別して生きるというように。

「国語科は学問ではない」という子どもが目の前に現われたら、今の僕なら以上のことをしっかり語ってあげたい。きちんと答えないと「必ず、発達が歪む」と考えているからである。最近賢い女の子二人が、相次いで残忍な殺人事件を起こしたが、以上書いてきた問題が本質的に関わってくると解説する専門家も多いのである。


 最後に、付け加えることがある。以上のようなこと全てを40年高校国語教師をやってきた連れあいに話してみた。その間に愛知県の最難関校(の進路指導係)を含めていわゆる受験校三つを渡り歩いてきたお人である。どんな返事が返ってきたか。
『今は、そんな質問をする子はいない。国語が、受験の主要3科目に入っているからだ』
 いや、驚いたのなんの。

 が、こんな現状も大問題であると、又別の問題性を感じたものだ。こんなに大事な学問を受験手段中心で扱っている。道理で、文科省が大学の人文、社会系の学問分野を減らそうとしている訳だ。国語を思考能力の範疇だけで扱って、社会性、人間の内面一般との関係で見ていないからこんなことができるのだろう。怖ろしくなった。超格差社会と相まって、賢くても「残忍な」子がどんどん増えるのではないか。なお、国語科を軽視して道徳科を重視しても、こういう悲劇は一向に減らないはずだ。安倍首相には特に、そう言いたい。人の心こそ実は、究極の思考力、真理の最大問題なのだと僕は強調したい。道徳を決まり(の集積)か安っぽい「善悪」のように扱うのでなければ、国語科、人文・社会系学問を軽視はできないはずなのである。】

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今一度、事実と解釈  文科系

2022年03月19日 17時14分40秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 この16日に『TBS報道番組で「史学の初歩的誤り」』をエントリーしたが、これへの反応は少なかった。日本人が苦手な問題だからでもあるのだろうと考えたところだ。僕の言い分をもう一度再掲してみると、
『「歴史的事実よりも解釈が重要だなどと、とんでもないことを語った」と言って、ある人物を貶めることなど到底できないことなのである。どんな人も事実を語っているつもりで、じつはその自分流解釈を語っているのだから。ただし、その解釈は事実、現実から外れず、別のそれらによって容易には崩されぬという意味において精緻な解釈でなければならないということだろう』
  そして、この解釈の難しさについてこう付け加えた。
『ところで、この解釈という事がまた、変わっていく。重大な新資料が出てくると換わるのは当然としても、解釈者自身らの時代も移り変わるところから歴史事実の束に臨む「問題意識」自身が変わるからである。近現代史における解釈変化の一例として、こんなことを著者はあげる。
 明治維新の基点である近代日本の始まりをどこに観るか自身が、変わったと。1950年代までの基点は1840年代の天保の改革の失政だったと観られていて、1960年にはペリー来航(1853年)がその基点に替わったというのである。歴史学会自身において、そのように通説が変わったと。』
 
 こうして、こういう解釈というものの難しさを知っている人ならば、メデジンスキーが述べたこの言葉もそれこそ解釈がいろいろ出てくるのであって、この言葉を取り上げるだけで鬼の首でも取ったように批判するのはおかしい。ここで解釈と言っても、そもそも事実の解釈なのであって、けっして事実から外れてもよしとメデジンスキーが語ったと実証しているわけではないのである。
「事実はそれ自体大きな意味を持たない。事実は概念の枠組みの中にだけ存在する。すべては事実ではなく解釈から始まる」 
 
 難しい裁判を例に取ってみよう。裁判は先ず事実経過の確定、確認をするが、難しいのは諸証拠の解釈ということになる。そして、そういう事実経過解釈が確定できても、判決を出す犯意軽重の解釈(善悪の度合い)はもっと難しい。これも事実から解釈していくわけだが事実、事物から「心の解釈」をしていくことになる。
 このすべてに対して、「検察のシナリオにある解釈が最も重要だと語っているから誤りだ」と、上のメデジンスキー批判はその程度の批判しか提起できていないと言いうる。最近あった犯罪の事実確認でさえこれだけ難しいのに、歴史の事実確認に対してならどれだけ解釈が大事になってくることか。

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随筆 音楽の習い方一例  文科系

2022年03月18日 16時51分47秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 停年で完全リタイアー後の二〇〇三年、六二歳からそれまで拙すぎる一人習いであったクラシック・ギターの教室通いを始めた。易しい読譜弾きは辛うじてできたが、教室通いの初めに思うところあって「暗譜主義」に徹しようと決めて、今日まで一九年、現在なお教室に通い、発表会にも出続けている。

 新しい曲はとにかく先ず暗譜して、それから弾き込みにかかる。その後長く弾き込んで一応完成して気に入ったものは暗譜曲群に加え、習得中の曲の他に暗譜群を月に数回りずつ弾き回して、これらの暗譜を維持していく。新たに好きな曲が生まれたら、暗譜群からどれかを落として加えるなどの作業も重ね、現在の暗譜群は大小二五曲ほどになっている。教室入門の時に自分で作り上げた暗譜主義の狙いを書いてみよう。

  譜を見ながら弾く場合には曲想などを改良していく余裕など次第になくなっていくはずの老人は下手になるのも速いだろうと予想した。そういう読譜弾きに比べて暗譜が維持されていれば曲に想いを込める余裕もより長く持てるはずで、音楽の楽しさが増すだけでなく、その楽しさもより長く維持できるはずだと考えてきた。そしてこういう楽器生活二〇年、事実初めに目論んだ通りで、暗譜群曲なら今でも余裕を持って弾くことができて、今でも日々年々曲の部分改良などが可能なのだ。そればかりか、八一歳になろうとする僕が、時間をかける苦労は多くなったが今まだなんとか暗譜曲を作れるのも、こういう暗譜の仕方に習熟してきたからだと考えている。多分、暗譜を努力し続けてきて、音、音声に関わる脳も若いのだろう。こんな若さも、年寄りの冷や水習いにはうってつけのやり方だと考えてきたその副産物なのだ。まー読譜でたくさんの曲を「弾ける」よりも、永年暗譜を維持発展させてきた少数精鋭曲を日々あれこれ弾き回して、その上最近では年に一~二曲の新曲を暗譜してきたと捉えていただけば良い。ただしこの二年ほどはもう暗譜群に入れた曲はない。とても易しい曲の「半分暗譜の読譜弾き」というやり方で、先生との二重奏を楽しんだり、暗譜群の中の発表会では弾けていない難曲に何度目かの挑戦をしたりしている。

  さて、こういう拙い経験でこんな曲が弾けるというと、ギターを知っている人は驚くはずだ。ソルの「モーツアルト魔笛の変奏曲」、バリオスの「大聖堂全三楽章」、同「郷愁のショーロ」などだ。ただし、この前二曲は私的なホームコンサートでは弾いたことがあっても、発表会では弾けていない。先生の前で弾くと「発表会も大丈夫です」と言われても、スポットが当たった舞台では失敗するからである。ちなみに、三番目の曲はとにかく好きなので五年ほど前の発表会で弾いてみたが、酷い出来だった。が、とにかく、暗譜主義だと停年後の年寄りの冷や水でも結構難しい曲も弾けるようになるということだ。このやり方は、三味線、琴、ピアノにも盲目の名人がいるという事実からヒントを得たもので、僕として大正解だと思っている。

 なお、僕がランナーであることがどれだけギターレッスンの武器になったかという事実も付け加えておきたい。有酸素運動で身体、筋肉・血管が若い分、今でも三時間ぶっ続け練習などと無理が利き、身体も痛めないのである。七〇歳を超えると皆が身体を痛める人が多いという不自然なギターのあの姿勢や手腕遣いも、ランに比べたら身体中の疲労物質を回収する酸素消費量など問題にならぬ少なさということだろう。ギターの二時間ぐらいではどこも疲労しないというランナーであり続けている間は、ギター教室通いは続けられるはずだ。

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TBS報道番組で「史学の初歩的誤り」 文科系

2022年03月16日 13時33分48秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 サッカーと気になる映画以外はテレビをめったに見ない僕が珍しくBS・TBSの20時から「報道1930」とかのウクライナ報道番組を見た。この番組のMCが、歴史学をちょっと囓っていれば絶対にやらないはずのとんでもない発言を鬼の首でも取ったように堂々と語っていて驚いた。

 戦争をめぐる両国停戦交渉団のロシア側代表トップは、メディンスキーという作家上がりの大統領補佐官。この人物の「いい加減さ」を示す証拠として、番組MCがこんなことを語っている。
「この人物の著作にこんな記述があった。『歴史は事実よりも解釈の方が重要なのだ』などと、とんでもないことを書いている」

 MCにこう語らせるというのは、この番組制作の上層部もこのシナリオを認めてきたということだろう。が、歴史学における事実と解釈というのは永遠の難問なのであって、この難問を考えたこともない人こそナイーブに「解釈偏重なんてとんでもない」と語れるもの。自分が歴史を語る時には常に事実だけを語っているつもりなのだ。まともな歴史家なら、そんな人はまずいないはずである。

 拙稿で恐縮だが、ここにこんな文章を書いたことがある。2020年7月12日のエントリー『書評「近現代日本史と歴史学」』からの抜粋である。

『 明治維新一つとっても、そのなかの例えば開国一つを採ってみても、これらを説明していくのに不可欠な重要な出来事一つずつを採ってみても、まず、当時の「無数の出来事の束」の中からこれらを重要として選び出した選択・解釈やその基準があるということだ。そういう解釈や基準は、日本史全体を動かしてきた要因などにも関わる過去の歴史学(者)らの諸学説などを踏まえれば踏まえるほど、精緻なもの、学問として水準の高いものになってくる。歴史を解釈する方法論が豊かになるほど、歴史の叙述が豊かで、精緻なものになるという事だ。 
 ところで、この解釈という事がまた、変わっていく。重大な新資料が出てくると換わるのは当然としても、解釈者自身らの時代も移り変わるところから歴史事実の束に臨む「問題意識」自身が変わるからである。近現代史における解釈変化の一例として、こんなことを著者はあげる。
 明治維新の基点である近代日本の始まりをどこに観るか自身が、変わったと。1950年代までの基点は1840年代の天保の改革の失政だったと観られていて、1960年にはペリー来航(1853年)がその基点に替わったというのである。歴史学会自身において、そのように通説が変わったと。』  

 「歴史的事実よりも解釈が重要だなどと、とんでもないことを語った」と言って、ある人物を貶めることなど到底できないことなのである。どんな人も事実を語っているつもりで、じつはその自分流解釈を語っているのだから。ただし、その解釈は事実、現実から外れず、別のそれらによって容易には崩されぬという意味において精緻な解釈でなければならないということだろう。これは何も歴史学だけの問題ではなくって、人間の思考に関わる主観と客観という哲学の難問でもあり続けてきたということも付け加えておきたい。

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 書評 『それでも、日本人は「戦争」選んだ』(加藤陽子)  文科系

2022年03月09日 15時28分06秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 東京大学大学院で日本近現代史を専攻とする加藤陽子教授のこの本を、ざっと走り読みした。元は2009年に朝日出版社から出たものだが、僕が読んだのは2017年の新潮文庫本である。
 この本のでき方がとても興味深くて、神奈川県の私立栄光学園歴史研究部の中一から高二までの学生さん20名ほどへの集中講義録を製本化したものなのだ。2007年の年末から正月にかけて5日間の講義、質疑応答などの報告書だが、参考文献、解説など総て含めると498ページという大作である。目次はこうなっている。序章 日本近現代史を考える 1章 日清戦争、2章 日露戦争、3章 第一次世界大戦、4章 満州事変と日中戦争、5章 太平洋戦争、と。

 いろんな紹介の仕方があるが、第4章のある一点に絞って抜粋という形を中心としてみたい。以下に紹介する中国人論客のような人物が戦前日本国家の要職にあったら、あのような戦争はなかったのではないかという思いを込めて。この思いは、加藤陽子氏が学生らに伝えたかった歴史学の最大問題、「歴史は科学か」「歴史とは現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(英国の歴史家、E・H・カーのことば)という思考と不可分のものであると確信している。

 以下の舞台は、満州事変の後、日中戦争直前の1935年。社会思想専門の北京大学教授・胡適が唱えた「日本切腹 中国介錯論」を加藤陽子教授はこう紹介する。なお、胡適氏はこの後38年には、蒋介石によって駐米国大使に任じられている。

『 胡適は「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、二、三年間、負け続けることだ」といいます。このような考え方を蒋介石や汪兆銘の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。・・・具体的にはこういいます。
 中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり次の三つを覚悟しなければならない。第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、二、三年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略] 満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。・・・・・』

『 胡適の場合、三年はやられる、しかし、そうでもしなければアメリカとソビエトは極東に介入してこない、との暗い覚悟を明らかにしている。1935年の時点での予測ですよ。なのに45年までの実際の歴史の流れを正確に言い当てている文章だと思います。それでは、胡適の論の最後の部分を読んでおきましょう。
 以上のような状況に至ってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、三、四年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。』

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ある書評 「運転免許は返納してはいけない」  文科系

2022年02月05日 05時43分33秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 この文章は、ある本の内容紹介である。そして、標記の言葉は、読み終わったばかりのこれ「70歳が老化の分かれ道」(詩想社 精神科医・和田秀樹著)第2章の中の一節の表題である。ここには、「免許を返納してはいけない」だけでなく、老人社会を騒がせて来た「返納の理由」もなんの根拠もない偽物であると、そんな内容が書いてあった。そのことを以下、本文抜粋だけで示してみよう。

『(筑波大学などの研究チームが2019年に公表した調査結果で)愛知県の65歳以上の男女2800人を追跡調査しました。・・・2006~2007年時点で要介護認定を受けておらず、運転をしている人に10年8月の時点で運転を続けているかあらためて聞き、認知機能を含めた健康状態を調べ、さらに16年11月まで追跡して、運転継続と要介護認定との関係を分析したのです。・・・その結果、10年時点で運転をやめていた人は、運転を続けた人に比べて、16年には要介護となるリスクが2.09倍にもなったのです』

『そもそも、実際に高齢者が事故を起こす確率は高くないのです。・・・もし、交通事故を減らそうと考えるのなら、圧倒的に多く事故を起こしている若年ドライバーの運転になんらかの手を打つほうが効果的です』
『高齢者専門の精神科医の立場から言わせていただくと、認知症が原因で、ブレーキとアクセルを間違えるなどということは、ほぼあり得ません。・・・車の運転ができるような人であれば、軽度の認知症でも、ブレーキとアクセルの区別がつかなくなるということは確率的にゼロに近いはずです』

 踏み間違いの原因はむしろ、『うっかりしたり、慌てたからなのです』。また『ほとんどが、薬による意識障害が原因ではないかと私は考えています』

 こうして、結論。
『データをもとに合理的に考えるなら、高齢者から免許を取り上げるなどということに、正当性は全くありません。お上に従う気質が染み付いている日本社会では、このようなことを行政が推進しても騒ぎが起こりませんが、人権意識が確立されている欧米社会では、高齢者に対する差別と言われかねないでしょう』

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書評 AERA最新号から「若々しさの秘訣」③  文科系

2022年01月11日 00時02分39秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

  今回は、401回目に書いたこの部分を要約する。以下の冒頭はその記事の名称。その後が、その記事中にこの順番であった中見出しである。
【 『若見えするには毛細血管を守れ』
「見た目と毛細血管年齢」「ゴースト血管のリスク」「大敵は加齢と高血糖」「下肢の筋肉を鍛える」「美肌にはチョコとナッツ」「(高カカオチョコのポリフェノールは)ワインのおよそ16倍」「体重平均約3キロ減」 】

 書かれている毛細血管を守り、「改善できる」方法はこうだ。走ったりして下肢を鍛え、人間細胞、血管細胞を老化させる活性酸素対策として高カカオチョコを1日30~40グラムか、高カカオアーモンドチョコ8粒を摂ること。が、その原理を知らない毛細血管防御法知識は、応用が利かない数学解法と同じ。以下は、その原理である。

 毛細血管とは、動脈と静脈の間にある網目状の細い血管であって、血管総延長の9割を占めるもの。身体のどこかでこれが詰まりがちとか壊れかけになると、そこに血液が流れにくいことになる。詰まりかけたり、壊れかけた毛細血管をゴースト血管と呼んでいるのである。するとどうなるか。酸素、栄養、ホルモンの運搬、老廃物回収・排出などができず、毛細血管も含めたその部分の細胞が死滅さえする。白血球が届かないから、免疫も弱くなるし、毛細血管が弱った部分では体温低下もおこる。さらには、脳へ行く血液には毛細血管でできた脳関門があって、そこが詰まるとアルツハイマーを発症させる。

 年齢よりも10歳も15歳も若く見える人が居るものだが、それは毛細血管が全体的に若い人。そのためにもやはり、昨日に書いたように『若々しさの秘訣は血と筋肉と骨にある』にプラスして、ポリフェノールなどのファイトケミカル摂取というのが結論のようだ。

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書評 AERA最新号から「若々しさの秘訣」②  文科系

2022年01月10日 10時51分14秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

  今回は、一昨日に書いたこの部分を要約する。
【 『若々しさの秘訣は血と筋肉と骨にある』
「筋肉量多いほど若い」「究極のトレーニング」「30代で肺年齢90歳」「『座る』より『立つ』」「骨の新陳代謝を促す」「『老化』の謎に迫る研究」 】

  筋肉量、肺年齢、骨の新陳代謝の3つを若くする最も手軽な方法なるものが書いてあるわけだ。

・筋肉量増強では、タバタトレーニングという4分間トレーニングを勧めている。たとえば「バーピージャンプなどちょっときつい運動を20秒やって、10秒休む」を1日に6~8セット、週2~3回で効果も高いのだそうだ。バーピージャンプとは、こういうものだ。
「①直立・②膝を曲げて座り込んで前に両手をつく・③両腕を伸ばしつつ曲がった脚を後ろに伸ばして腕立て伏せ準備の姿勢になる・④また②の姿勢に戻す・⑤④の姿勢からジャンプ」

・肺年齢の若さでは、運動して肺を使うことが要諦なのだが、「30分に一度は立つこと」が推奨されている。肺を壊さないためなのだそうだ。

・骨の新陳代謝で重視されるのは、骨の細胞から分泌されるオステオカルシンという骨ホルモンなのだそうだ。脳、筋力増強、全身代謝機能、男性ホルモン、免疫力などに関わるホルモンと言われ、こんな方法で鍛えられるという。「直立・両腕を伸ばして「前へ習え」姿勢とともに両踵を上げストンと落とす・直立」この1回を2秒でやって、1日50回100秒やろうとあった。

 ということすべてを考えてみたら、ランニングにはこのすべてが入っていると分かるのである。ちょっときつい運動だし、肺は大いに使うし、ミッドフット、フォアフットなどの走法では特に踵をストンと落とす。後もう一度この要約を行います。今度は前々回に見たこの部分です。

【 『若見えするには毛細血管を守れ』
「見た目と毛細血管年齢」「ゴースト血管のリスク」「大敵は加齢と高血糖」「下肢の筋肉を鍛える」「美肌にはチョコとナッツ」「(高カカオチョコのポリフェノールは)ワインのおよそ16倍」「体重平均約3キロ減」】

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八十路ランナーの手記(401)書評 AERA最新号から「若々しさの秘訣」①   文科系

2022年01月08日 22時03分50秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 本日発売された「AERA」1月17日号の新聞広告に、ランニングを通して「身体オタク」でもある僕にとって耳寄りの記事があったので、即買ってきた。キャッチコピーに当たる大見出しは3つ。記事も各3ページびっしりの3つ合計9ページという、冒頭の特集である。
『「気づけば老化」は止められる』
『若々しさの秘訣は血と筋肉と骨にある』
『若見えするには毛細血管を守れ』
 これらの詳細要約は、明日以降に書くとして、今日は取り敢えず後2記事の小見出しを順に紹介して予告編としておきたい。

『若々しさの秘訣は血と筋肉と骨にある』
「筋肉量多いほど若い」「究極のトレーニング」「30代で肺年齢90歳」「『座る』より『立つ』」「骨の新陳代謝を促す」「『老化』の謎に迫る研究」

『若見えするには毛細血管を守れ』
「見た目と毛細血管年齢」「ゴースト血管のリスク」「大敵は加齢と高血糖」「下肢の筋肉を鍛える」「美肌にはチョコとナッツ」「(高カカオチョコのポリフェノールは)ワインのおよそ16倍」「体重平均約3キロ減」

 本日の最後になるが、この特集のキモにもなっている体内年齢に関わって、ニュージーランドで長年かけて追跡研究され2015年に発表されたある研究成果の結論部分文章をそのまま紹介しておこう。以下はこの特集全体の「書き出し部分」にも当たる、いわば問題提起の位置に置かれたものだ。いわく『「働き盛り世代」こそ体内年齢に差が出る』

『体内年齢の差について、こんな報告がある。ニュージーランドで実施され、2015年に発表された「ダニーデン研究」では、同じ年齢の男女約千人を対象に、心臓・肝臓・腎臓の機能、血圧やコレステロールの状況など18の項目について、26歳から38歳までの12年間、追跡調査した。すると、38歳時点の体内年齢は28歳から61歳まで、なんと33歳もの開きがあったのだ』

(この記事紹介②に続く)

 本日ジムのマシンを14キロ走って、1月合計は43キロジャストになった。14キロを合計107分ほどとほぼ8キロ時で走ったのだが、帰宅時の疲労感が強かった。4日以来の中3日置きだったから脈拍が高かった事が原因だろう。このスピードなら130ちょっとのはずが、140近かったのである。明後日に用事があって走れないから明日も走りたいのだが、はて?

 

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僕が政治論以外も書くわけ  文科系

2021年12月04日 20時54分18秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 

 表記のことを、改めてまた載せたい。この文章は、今までもここに何回か定期的なように載せてきたもの。随筆、サッカー評論などなど一見9条とは遠く、無関係なようなことを僕はなぜここ「9条バトル」に書いてきたか。


 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論やこれに関わる思想開陳だけをやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けて、およそナンセンスなだけの政治論ということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいこともあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。

 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。
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