「A2-B-C」上映会での在日韓国人の発言に感動。生き延びる為に福島を捨てざるを得なかった避難民の人生は、そのまま食いつなぐ為に祖国を捨てざるを得なかった自分達の祖先の人生でもあると。避難民叩きのネトウヨより余程日本人らしい発言だ。 pic.twitter.com/rKRKPyQQMF
— プレカリアート (@afghan_iraq_nk1) 2014, 8月 31
上記の私のツイート(つぶやき)は、さる8月31日に自主上映会で観た「A2-B-C」という反原発映画の後の交流会で、ある在日韓国人の参加者から「原発に故郷を奪われた福島からの避難民の方は、同じく日本の植民地統治によって祖国を奪われた私たち在日と同じ境遇にある。私には福島の方の苦しみがよく分かる」旨の発言があったのを受けて、私がその交流会の席上からツイッターに発信したものです。
私のブログで言うと、9月2日付記事「福島の悲劇も日本人の国民性が生み出したものだ。」の中の、下記のように書かれた場面で発信されたツイートです。
>それらの事柄が頭の中に次から次へと思い浮かんでくる私でしたが、そんな上映後の交流会の中で、ある在日韓国人の方の発言に非常に勇気づけられました。この在日の方の祖先(在日一世)も、日本の植民地時代に土地を日本人に取り上げられ、朝鮮半島では食べていく事が出来なくなって、祖国を見捨てて日本にやって来たのです。「だからこそ、生き延びる為に福島を見捨てざるを得なかった避難民の方の気持ちがよく分かる」と仰っていました。「避難民はゴネ得」なぞという差別感情を持つ日本人と比べたら、この在日韓国人の人の方が、よっぽど福島や日本への愛着を持っているのではないでしょうか。要は「いかに自分の事として捉えられるか」という事に尽きるのではないかと思います。(以上引用)
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/45815d90f824e31b710bec3ffe57d399
ここで私は、「いかに自分の事として捉えられるか」なんて書きながら、かえってこの方を侮辱するような事をつぶやいてしまっていました。
前記ツイートのどこが侮辱的かと言うと、最後の「日本人らしい」発言だという箇所です。私は、あくまでもこの方を称賛するつもりで、「人間らしい」と同じ様なニュアンスで、どうせなら「人間らしい」とつぶやくよりも、むしろ「日本人らしい」とつぶやいた方が、「避難民叩きに興じる一部日本人の醜さがより一層引き立つ」と思ってつぶやいたのですが、その事でかえってこの在日の方を傷つける結果になってしまいました。
何故なら、かつて日本の植民地支配の下で、祖国も土地も文化も奪われ、名前まで日本流に変えられて(創氏改名)、無理やり日本人に仕立て上げられ、それも「二級国民」として差別され人権を奪われてきた朝鮮・韓国人や台湾人の方に対して、いくら称賛するつもりであったとしても、「日本人らしい」なんてつぶやいたら最期、それは称賛ではなく当てこすりにしかなりません。その事に今まで気が付きませんでした。
それを数日前にツイッター上で指摘されてからも、問題のツイートから数ヶ月も経ってから、いきなり「何だこれ!」みたいな物言いをされた事で、最初は感情的に反発する一方でした。それで指摘した方と半ば喧嘩になりながらも、根気強く議論を続ける中で、次第に自分の過ちにも気付くようになりました。
今後は、ブログで社会問題や人権問題についても扱い、ネットで発信する以上は、なお一層、差別や植民地支配の問題について敏感にならなければならないと思います。どうも申し訳ありませんでした。
なお、この間の詳しい経過については、ツイッター上でのこれまでの議論のやり取りを参考資料として下記に添付しておきます。そちらも是非ご参照下さい。
その前に資料の読み方について少し解説しておきます。職場のリアル読者の中にはツイッターの文章を初めて見る方もおられるので。かくいう私もその読者の方と余りレベルは変わりませんがw。
各ツイート(つぶやき)の文頭にある「プレカリアート @afghan_iraq_nk1」「takayamitsui @takammmmm」等が、つぶやいた人の名前とそのID(識別記号)です。
次につぶやいた文章が表示されますが、その頭に「@~」と付いていたら、それはその方へのリプライ(返信)という意味です。リプライの相手が複数の場合は人数分だけ「@~」が付きます。
中には「@afghan_iraq_nk1」のように、自分自身につぶやいているものもありますが、それは制限字数の140字を超えて文章をつなげる為に、あえて自分自身に対するリプライの形にしたまでです。
(参考資料)
takayamitsui @takammmmm · 9月21日
「余程日本人らしい」って?これで在日韓国人を賞賛しているつもり?何なんだ。
“@afghan_iraq_nk1: 在日韓国人の発言に感動。生き延びる為に福島を捨てざるを得なかった避難民の人生は、そのまま食いつなぐ為に祖国を捨てざるを得な…避難民叩きのネトウヨより余程日本人らしい
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 9月23日
@takammmmm 「余程日本人らしい」というのはネトウヨへの皮肉のつもりで書いたのですが。こんな物まで難癖つけられたのではもはや何も書けませんね。貴方こそ一体何様のつもり?たとえ貴方が左翼や在日朝鮮人の方でも、初対面でいきなり喧嘩腰では、こちらもそれなりの対応で臨みますので。
takayamitsui @takammmmm · 9月23日
@afghan_iraq_nk1 在日韓国人について「余程日本人らしい」と称賛することがどうしてネトウヨへの皮肉になるんですか?全然意味がわかりません。
takayamitsui @takammmmm · 9月23日
ツイッターは不特定多数で自分の考えを言い合っているメディアでしょ。異議があれば初対面であれ言っていいんじゃないですか?時候のあいさつから始めるべきとでも?私はそうは思いません。
@afghan_iraq_nk1 初対面でいきなり喧嘩腰では、こちらもそれなりの対応で臨みますので。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 9月23日
@takammmmm 日帝統治下で祖国を奪われた在日の人達の方が、ネトウヨ日本人よりもよっぽど日本人らしいと書いたんだよ。「日本人」という表現が気に入らなければ「人間らしい」と言い直しても良い。そういうニュアンス。それを言葉尻だけ捉えて糞青みたいな絡み方するな。「左の在特会」が。
(注)●日帝=日本帝国主義。●ネトウヨ=ネット右翼。ネットで過激な右翼的発言や外国人排斥を唱える人たち。●在特会=正式名は「在日特権を許さない市民の会」。ありもしない「特権」を口実に、外国人排斥を唱え「韓国人を殺せ」と叫ぶ典型的なネトウヨ集団。いわば「日本のネオナチ」。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 9月23日
@takammmmm 誰が異議を言うなとか時候の挨拶を抜かすなとか言った?いきなり「何なんだ」とだけ言われても、こちらこそ「何なんだ」としか受け止められないだろう。それは実生活でもネットでも同じだ。何故「何なんだ」と思ったのか、それをこちらにも「納得」できる様にちゃんと説明しろ。
takayamitsui @takammmmm · 9月23日
@afghan_iraq_nk1 「日帝統治下で祖国を奪われた在日の人達の方が、ネトウヨ日本人よりもよっぽど日本人らしいと書いたんだよ」って何なんですか。在日韓国人を称賛するのに「ネトウヨより、よっぽど日本人らしい」って在日を下に見て日本人を上に置く差別じゃないのかと言っている。
takayamitsui @takammmmm · 9月23日
いま書いたとおり、何てひどいことを書いているんだと思ったから「何なんだ」とリプを飛ばしたんですよ。@afghan_iraq_nk1 何故「何なんだ」と思ったのか、それをこちらにも「納得」できる様にちゃんと説明しろ。
takayamitsui @takammmmm · 9月23日
それにしてもあなたは「糞青」とか汚い言葉を使うんだね。人品を疑われるよ。それと、「左の在特会」って何ですか?どんな根拠でこんな言葉を投げつけているの?ただの誹謗中傷だろ、これ。@afghan_iraq_nk1 それを言葉尻だけ捉えて糞青みたいな絡み方するな。「左の在特会」が。
(注)人品=おそらく「人間性や品格」と言いたかったのを、制限字数をクリアする為に縮めたのだろうと思います。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 24 時間
@takammmmm 「日本人でも福島の避難民を自分勝手だの売国だのと謗る奴が多いのに、外国人、それもかつて日本の植民地支配に苦しめられた在日韓国人の方が、日本人以上に福島の事を心配してくれている」という意味で「日本人らしい」と。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 23 時間
@takammmmm だから「人間らしい」と書いても良かったのだが。言いたい事はそういう事であって、別に何国人の方が上だの下だのという拘りなぞ最初から無い。ただ、福島の避難民を貶すネトウヨを皮肉るなら、「人間」一般よりも「日本人」とした方がネトウヨにはより効果的かもと思ったまで。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 23 時間
@takammmmm それを言葉尻だけ捉え、理由も述べずいきなり「何それ?」と喧嘩売ってきたのだろうが。そして今も「どちらが上(下)」とか、私が思ってもない事までこじつけて。こんな物、およそ議論とは言えない。自分だけが正しいと他の意見を頭ごなしに否定。貴殿の方がよほど差別的では。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 23 時間
@takammmmm 「糞青」も中国版ネトウヨの意味合いで使ったまで。「憤青」(中国の反体制派知識人青年)を貶める意図は毛頭ない事も念の為に言っておく。この中国人ネチズン自ら使用している「糞青」を使ったからと言って、それで何故「人品疑われる」とまで言われなければならないのか?
(注)ネチズン=ネットと市民(シチズン)をかけ合わせた造語。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 23 時間
@takammmmm 「左の在特会」も「貴殿の方がよほど差別的ではないか」と皮肉るつもりで言った。実際その通りじゃないか。これまで書いてきた様に。最初に貴殿の方から喧嘩を売ってきた事を詫び、以上述べた事に対する説得力ある説明がない限り、私からこの言葉を撤回するつもりは毛頭ない。
takayamitsui @takammmmm · 21 時間
あなたが称賛しようという気持ちだったのは分かる。でも、在日に称賛の意味で「日本人らしい」などと言うのは差別的(同化主義的)なわけ。何でそれが分からないんですか。@afghan_iraq_nk1 日本人以上に福島の事を心配してくれている」という意味で「日本人らしい」と。
takayamitsui @takammmmm · 21 時間
だからケンカを売ってるんじゃなくて、差別的な言い方を反省して今後使わないようにすべきと言っているだけなんだが。何でそういう指摘に汚い言葉で返すのかねえ。私が指摘してなくてもいずれ誰かに言われるよ、必ず。@afghan_iraq_nk1 いきなり「何それ?」と喧嘩売ってきたのだろう
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 20 時間
@takammmmm 別に「人間らしい」でも構わないが、あくまでもネトウヨへの皮肉として「日本人」を引き合いに出した。それを、当の在日韓国人に面と向かって言えば同化主義的と取られても仕方ないが、ブログで自分の感想として書く事まで何故規制されなければならないの?それこそ逆差別では。
takayamitsui @takammmmm · 20 時間
面と向かって言ってなくても公的なツイッタでの発言だから同じことだとではないですか。それに面と向かって言わなくても、そういう考え方をすること自体問題でしょ。@afghan_iraq_nk1 ネトウヨへの皮肉として「日本人」を引き合いに出した。それを、当の在日韓国人に面と向かって
takayamitsui @takammmmm · 20 時間
@afghan_iraq_nk1 規制?いえ規制なんてできませんが、ブログに書いても不特定多数の目に触れるし、気づいた人は批判してくるでしょうね。
takayamitsui @takammmmm · 21 時間
@afghan_iraq_nk1 社会問題をブログに書いているんなら、こういうことには真摯に向きあった方がいいと思います。上から目線と言うかもしれませんが、差別って誰でも陥るんだから。
naoyuki kirino @NKirino · 21 時間
@afghan_iraq_nk1 @takammmmm 「白人よりもよっぽど白人らしい黒人」でも何も思いませんか。「外国人を誉める意図で日本人らしいと言った」というのは植民地主義的な見下しの差別でしょう。しかも外国人一般ではなく、植民地支配の被害者に対して加害者のようであると。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 21 時間
@takammmmm 例えば「ブラック企業」という表現でもそうだが、黒人差別を煽る文脈の中で「ブラック」と言えば差別になるが、新自由主義による派遣労働者の使い捨てや不払い残業を糾弾する文脈の中で「ブラック企業」と言った場合も差別者呼ばわりされなければならないのか。それと同じでは。
naoyuki kirino @NKirino · 21 時間
@afghan_iraq_nk1 @takammmmm 「別に『人間らしい』でも構わないが」←踏んでる足をどかしてやっても構わないがレベルの傲岸。
takayamitsui @takammmmm · 21 時間
これ、正確ですか?公民権運動のころ米国の黒人は自ら「ブラックパワー」といい、「ブラックイズビューティフル」と主張して闘ったじゃないですか。あやふやな知識を持ち出さないで、自分の同化主義的発言に向きあうべきだと思う。@afghan_iraq_nk1 「ブラック」と言えば差別になるが
(注)●同化主義(政策)=本国ないし支配民族が、植民地原住民ないし国内少数民族を、自分たちの生活様式・考え方になじませ、一体化しようとする考え方や政策(以上「三省堂大辞林」より)。かつて欧米諸国がアジア・アフリカの植民地に対して、日本も朝鮮・台湾や沖縄・アイヌの人々に対しこれを大規模に実施。ここでは「日本人らしい」という言葉で在日の人を日本人を規準に称賛した私のつぶやきを指す。
naoyuki kirino @NKirino · 21 時間
@afghan_iraq_nk1 @takammmmm 「ブログで自分の感想として書く事まで何故規制されなければならないの?それこそ逆差別では。」→「①自分では差別の意図はない。②ブログでの私的発言だ③『差別』との抗議は逆差別だ。」右翼政治家のテンプレと同じ。
(注)テンプレ=ここでは「定型文」ぐらいの意味合いで捉えてもらえば良いと思います。
プレカリアート @afghan_iraq_nk1 · 21 時間
@takammmmm ごめんなさい。少し考えさせて下さい。最近、この「日本人らしい」関連で、他のアカウントからも「豚」だの「お前は天皇陛下の赤子か」だのと、言いがかりとしか思えないような批判がいきなり立て続けに飛んできた事もあり、こちらも少々感情的になっていました。
(注)アカウント=これも発言者、投稿者ぐらいの意味合いで捉えてもらえれば良いです。
一国主義が血肉化してしまっている20世紀左翼の陣営で長く過ごした人間は、佐藤勝己や兵元達吉、筆坂秀世たちのように激的な右転落をしてしまっている連中以外の部分にも視野狭窄な日本人中心思想を温存していますから、無意識のうちに「よほど日本人らしい」などと日本人を美化するような言葉を吐いてしまうのでしょうね。
主観的には国際主義者を自認しているオレなども、無神経で無自覚なことを言って指摘されたことがありますよ。
やはり、プレさんもあそこは「人間らしい」と言うべきでしたね。
日本人対外国人という、「非国民」思想にも通じざるをえない発想ではなくて、人間(性)対間(性)が対立している問題である、と捉えるべきだった。
でも、さっそくに自己批判して公表したことは良かったと思いますよ。
ただ、在日氏の「ブラック=差別」発言は、いただけませんね。
だって、アフロアメリカンだって、「ブラックメール」や「ブラックリスト」などの言葉は使用していますからね。
そう、「ブラック」を否定的に用いる習慣は、人類社会で黒人差別が発生した以前から広範にあったのです。
だから、「ブラック企業」のような使用法まで差別だと言って糾弾しては、言葉狩りにしかなりません。
そういう態度には、価値物である商品を単なる労働生産物と同一視するような、事物の「質料」性と「形態」性の混同という哲学的誤謬が現れています。
あと、「糞青」についても、たしかに汚い表現ですが「権力のイヌ」や「ピッグ(豚=アメリカ社会における警官の別称)」程度には許容されると思いますよ。あの言葉には、軽蔑や嫌悪の意味はあっても、差別の含意はないと思います。
ま、いずれにせよ、歴史未総括社会である日本の一国主義左翼出身者は、無意識のうちに引きずっている自国中心主義や人種差別・民族差別思想に対しては十分に自戒・警戒すべきでしょうね。
ドイツなどと違って、戦後もA級戦犯が首相にまでなれるような日本社会には(もちろん戦勝国にも)、戦時中の悪行を追及されないで逃げおうせたB、C級の戦犯がもっと大量にいたのです(例えば戦後製薬業界のトップに顔を並べた元731部隊員や多喜二虐殺犯)。
彼らには、たしかに受動的な被害者の側面も若干ありましたが、自発的能動的な悪魔的側面が主たる側面だったし、その無反省・開き直り、美化も戦後継続している(た)のです(例えば戦友会の酒席でレイプ自慢大会をするような元皇軍兵士たち)。
日本兵や非軍属侵略者たちが犯した外地での民間人虐待・虐殺や人体実験のような戦争犯罪は、ピンからキリまで事細かに、上から強制されたものばかりではない、「自己責任」や「自己判断」部分が問われなければならないものでもありましたし、戦後もそのことへの反省どころか悪行の自慢話のネタにするような非道で愚劣な行為が繰り返されてきたのが日本社会だったということは直視すべきでしょう。
その辺は、NHKの朝ドラ「花子とアン」の評価に関連してペガサス・ブログの書き込み欄にも書きましたが、日本人は、左翼も含めて戦争責任の総括が決定的に甘いようです。
以前にまこと板で紹介したポルトガル人女性なども批判していましたが、「日本人の反省は何だかよく分からない」そうです。
だから、侵略戦争の無反省どころか、かつての悪行の隠蔽や歪曲・改竄、開き直りや美化までもが近年起こったのでしょう。「自存自衛戦争」論とか。
民族主義者たちのシマグニでは、一般人だけでなく左翼人士や進歩派も含めて、事態がよく見えていないということなのでしょうね。
実はこの記事も、他の記事と同様、ネットに公開するだけでなく、自分の身近な知人(近所の知人や勤務先のバイト仲間)にも、PCやスマホで見ている人にはメールで更新情報を送信し、ガラケーしか持っていない人やネットやメールをしない人にはコピーして直接手渡しています。
元々は職場ネタ中心に、職場の諦めムードを少しでも変えるべく始めたブログ記事のコピー配布ですが、最近は政治・社会問題を取り上げた記事も配布しています。政治・社会問題も職場の労働問題を考える上で切り離せないと思いますので。なるべく分かりやすい文章にするよう心がけ、記事の内容をどこまで分かってくれているか不安に思いながら、僅か数人に対してですが、始業前や休憩時間に配って来ました。
ただ、如何せん仕事の合間をぬって会社の目を盗みながらの配布活動なので、今まではどうしても「配りっぱなし」に終わっていました。でも、さすがに今回はそれではいけないと思い、「じっくりと読んで感想や意見も聞かせて欲しい」と声かけながら配りました。
それでも、政治の話なんて普段ほとんどしない中で、どこまで分かってくれているか内心すごく不安でした。本音では「ああ、またいつもの政治の話か。俺らには関係ないわ」なんて思いながら、今までの付き合いもあるので渋々受け取ってくれているのかなあと、私も余り期待はしていませんでした。
ところが、配ったバイトの一人から予想外の反響がありました。
そのバイト、仮にO君としておきますが、彼は以前ツアーコンダクターの仕事をやっていた関係で、在日の朝鮮人や台湾人ともお付き合いがあり、その経験から、「やはり今回はプレカリアートさんの方に落ち度がある」と、はっきり指摘されてしまいました。
そのO君の話によると、在日韓国・朝鮮人は、日本人から差別されるだけでなく、朝鮮半島にいる同じ本国人からも「キョポ」と呼ばれ差別されるのだと。
「キョポ」、漢字で書くと「僑胞」。字だけで見れば海外在住の韓国・朝鮮人という意味にしか過ぎないが、実際はそれ以外にも「本国を見捨てた」「本国で落ちぶれた」という意味が含まれているのだそうです。
但し、同じ「キョポ」でも、米国に渡った人は逆に羨望の眼差しで見られるのだと。その辺りは、日本にもある「欧米人を上に見てアジア人を見下す」感覚ともよく似ています。
「そういう二重の差別を受けてきた人たちに、今回の私の発言はやはり不用意のそしりを免れない」という意味の事を言っていました。
「キョポ」への差別とは、いわば日本で言えば日系ブラジル人に対する差別みたいなものか。なるほど、その中で、たとえ褒め言葉のつもりで言ったとしても、「ブラジル人よりもブラジル人らしい日系ブラジル人」なんて言ったら、逆に「お前はもはや日本人ではない」とけなす事になってしまうのか。
明治時代に中南米に渡った日系移民も、日本で落ちぶれて食って行けなくなった人たちが、いわば口減らしの為に海外に押しやられたようなものです。移民ならぬ「棄民」です。
その日系移民の子孫が、今度は移住先の国でも不況等で食って行けなくなり、また日本本国に舞い戻って来て、愛知県のトヨタや北関東の自動車工場あたりで、派遣社員として安い時給で長時間こき使われている。そんな、同じ搾取される労働者の仲間に対して、差別するような事は絶対にしてはいけない。
しかも、この日系ブラジル人の場合は、別にブラジルが日本を植民地にした訳ではない。でも、在日韓国・朝鮮人に「日本人以上に日本人のようだ」なんて言ったら、単に「日本人ではない」と言うだけでなく、「お前は侵略者の回し者だ」という事にしかならないのです。
なるほど、よく分かりました。今回の件では色んな意味で勉強させられました。
そう、事物には「本質」と「現象」の区別があるように、「質料」と「形態」という区別もあるのです。
例えば、価値物である商品の価値性格は、特殊歴史的社会的な形態性です。商品とは、歴史的社会的な存在に過ぎない。
だから、日曜大工で自作した愛犬用の犬小屋には、使用価値はあっても価値がなく、それは価値物ではないということです。自家調達した材料で自作した犬小屋には価値はないのです。
労働生産物が価値性格をもつのは、労働生産物が市場経済の内部で作られ、その中で特殊歴史的社会的な存在としての規定を受けた場合だけです。
労働生産物一般は、原始時代から価値物であったわけではないし、市場経済の外部では商品(=価値物)ではない、ということです。
労働生産物は、市場経済の中でだけ特殊歴史的社会的な形態規定を受けて価値物(=商品)になるのですから、質料としての労働生産物は形態としての商品と混同してはなりません。
「ブラック問題」も同じです。
「黒」や「ブラック」には、善も悪も、美も醜も、もともとありません。質料としてのブラックは、比較価値判断の対象ではない。黒も白も赤も、みんな等価です。
それが、否定的な意味を帯びたものとして使われるようになった理由には、特殊歴史的社会的な背景がある。
つまり、「質料」としてのブラックと「形態」としてのブラックは別物です。
問題は、この形態性としてのブラックに、複数の含意が持たされたことでしょう。つまり、悪い意味でのブラック使用(=ブラックの形態性)が重層化、複数化しているということ。
①否定性一般的な意味でのブラックという表現形態と、黒人差別に特有の表現形態としてのブラックです。つまり、ブラックの場合、労働生産物と商品の区別とは違って、形態性が重層化しており、その異なる形態性の両者間での混同や混乱が生まれたということです。
似たように形態規定の重層性・多様性をもつものとしてはある種の「サービス」などが挙げられましょう。
母親が子どもの理髪をすることは、単なる人間活動の一種類でしょう。しかし、従僕が主人の理髪サービスをさせられると、これは単なる人間間の自然行為ではない特殊歴史的な人間関係を反映した隷属的サービス活動になる。更には、それが従僕ではなく、賃労働者(例えば床屋の主人に雇われた理髪労働者)によって行われれば、その理髪行為は商品サービスの提供にもなる。
つまり、理髪という行為の質料は、二種類、二重の形態性
も持ちうる、ということです。
あまり参考例が適切ではないかもしれませんが、言いたいことは、質料が受ける形態規定は単純ではないということです。
そしてブラック問題に帰って考えれば、否定的表現形態としてのブラックも、犯罪性一般を意味する表現形態としてのものの他に、黒人差別を表現する形態が生まれたということ。
なお、「質料」と「形態」の混乱による問題化が起こる例は、ブラック以外に日の丸や旭日旗のようなものなどにも見られます。
日の丸形象や旭日形象は、何も日本帝国主義の専売特許ではありません。それは、「日本国」の専有物でさえない。ミヤケンが指摘したように、日本における日の丸の出自は、多分、源氏でしょう。また、旭日形象は、日本以外の南米などの国でも古代より散見されています。
にもかかわらず、歴史未総括、過去の悪行無反省なままの日本民族が、そういう状態のままでこういう形象を使うことには問題がある。形態規定は厳存しているからです。
愚論をくどくど書き連ねてしまいましたが、そういうことだと思います。
事物の①質料性と形態性の区別や②形態の重層性の把握は、事物の把握や事物への対処に際しては不可欠なことでしょう。
質料と形態についてはもっと簡潔、端的な例示に訂正しておきます。
労働生産物の経済学的形態規定性が異なる例は、①消費者本人が自分で作るラーメンと②自営業のラーメン屋のオヤジが作るラーメンと③「ラーメン日高」のような資本主義企業であるラーメン屋で賃労働者によって作られるラーメンは、みな同じ労働生産物(=質料)であっても経済学上の形態規定性はそれぞれ異なる、ということです。
①のラーメンは価値性格のない単なる使用価値物であり②のラーメンは小商品(=単純商品)としての価値物であり③のラーメンは資本主義的商品として剰余価値成分(=不払い労働分の価値成分)が内在する価値物です。
形態規定上はみな性格が違い、同じ商品(=価値物)である②と③も、経済学的形態規定上は異質だということ。
以上(クドイか!?www)
事物の「本質」は、必ず「現象」として現れますけれど、我々が普段感性的に把握しているものは事物の「現象」であり「本質」を把握するためには知的考察が必要です。
しかし、事物の「質料」は、必ずしも特殊化された「形態」性を伴いません。
原始時代の労働生産物や日曜大工による労働生産物にには、商品の価値性格のような経済的形態規定はありません。
ま、凡俗の認識に両者間の混同を起こさせる点では「本質」と「現象」の関係でも「質料」と「形態」の関係でも同じですが。
彼らにおいては、「本質」+「現象」は「現実」であり、「質料」+「形態」は「実存」です。
マルクスも、質料である労働生産物が価値性格をもったものとしての商品(=価値物)は、「価値の実存形態」(『資本論』原ページ64)だと書いています。「この関係のなかでは、上着は価値の実存形態として、価値物として通用する」と。
また、ヘーゲルは、「本質はその現象の中にある。・・・そして両者の完全な浸透が現実である。」(『大論理学』中巻ページ138)などと。
ま、実際は、もう少し話しは複雑なんですが、はしょると以上のように表現出来ましょう。
なお、上記の「実存」や「存在」などと「実在」も、厳密には少し違うのですよね。
マルクスも、抽象的人間労働が物質化したものとしての価値を「実在」とは峻別して、商品をあくまでも価値の「実存」形態だと書きます。理由は、「まぼろしのような対象性」(『資本論』原ページ52)たる商品の価値性格が社会関係であるからです。つまり、価値は客観的な対象性であっても実在ではない。木の「陰」や「虹」のような仮象であって、感覚的に把握出来る「実在」ではない社会的仮象だからです(「陰」や「蜃気楼」は目に見える自然的仮象ですが、「価値」や「美」は社会的仮象です。もっとも同じ社会的仮象でも「美」は目に見えますが)
つまり、差別語のようなものの客観性もまた複雑なんです。客観性と実在性は違うし、非実在=非客観ではないということ。
大変ややこしい議論になりましたが、事物について「そのものはいったい何であるか?」を追究すること(=哲学的課題)は、けっこう骨が折れるんですね。自らの思考停止に無自覚な「ブラック=差別語」論のような安直な謬論を再検討してみると、哲学的にはけっこう深いところに問題の根があるようです。
やはり「ブラック=差別語」論は、英語知らずのシマグニ無知の産物ですね。「Black is beautiful」のような肯定形の場合だけでなく、価値的中立のケースでも使われる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150212-00000031-jij_afp-int