行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

多くのことを学んだ「八重の桜」その2

2013-12-20 22:29:09 | Weblog

このドラマではやがて明治維新の立役者となる薩長の志士と敵対する会津の懐刀たる新撰組が登場し、八重と重要場面で対峙する。印象に残っているシーンは京都で西郷隆盛に八重が江戸城は無血開城を認め、何故会津を攻めたのかと問いただすシーンがあった。ここでは無言で立ち去った西郷が別のシーンで立場が逆だったら鹿児島が攻められていたかもしれないと、後の西南戦争を示唆するようなことを言った。西郷は京都の薩摩藩邸(約5800坪)を同志社に提供することで償いの気持ちを示したのか?これは判らない。

新撰組ではあまり馴染みでない居合いの剣客齋藤一が最後まで登場する。齋藤は鳥羽伏見の戦いで敗れ、会津に逃れて、ここで会津藩の一兵卒として八重と共に落城まで官軍と戦い、八重の友と結婚し東京へ逃れる。土方歳三は函館へ逃れるが、齋藤は函館に行かないことがこの時代を象徴している。この時の内戦は朝敵幕府支持軍と薩長を中心とする官軍であるが、官軍には徳川御三家の尾張や紀伊が入っており、武士の筋を通したのはどちらか判らない混戦だったために、敗軍の将会津藩松平容保も謹慎ぐらいで、齋藤も東京で警視庁に腕を買われて就職し、定年退職後は警視庁で剣道を教える。(詳しくは浅田次郎「一刀齋夢録」)

西郷の下野については、このドラマでは詳しく触れてないが、西郷の下野で薩摩武士で構成されていた警視庁の警官が大量に薩摩に帰ることになり、その空きに会津を追い出された武士集団が入り込む。やがて西南戦争が始まり、今度は官軍の先頭に立って齋藤指揮する警視庁警官部隊が西郷指揮する反乱軍鎮圧の先兵となり、城山にこもった西郷は自刃する。当時の官軍は農民を集めた兵隊で白兵戦では武士の集団が先陣をつとめ、まさに会津攻めと逆の図となり歴史の皮肉ともいえる。今でいう倍返しか

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