衆議員選がスタート、これを機に引退する大物議員が結構いる。その中でオーついにと注目したのが菅直人元首相だ。かつて仕事柄多くの与野党の政治家とは接したが、菅氏と初めて会ったのは、社民連で衆議院議員に初当選したころ、電機連合の産業政策を説明に国会に出向いたが、狭い何となく薄暗い議員室にぽつんと1人待っていた。菅氏は市民運動のリーダーらしく若くエネルギッシュだったがまさか首相になるとは想像も出来なかった。
ところがその後大きな政治のうねりの中で、菅氏は社民連初期のとてつもない目標「政権交代」を実現する。
1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙で当選(5期目)。同年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に
1994年に社会民主連合解散、その後は新党さきがけに入党、村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長に、
1996年1月、第1次橋本内閣で厚生大臣(第79代)として初入閣
1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が旧民主党を旗揚げすると、これに菅氏も参加、鳩山と共に共同代表となり旧民主党が結党
1998年4月27日に新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流し新民主党を結成し、党代表となる
1999年(平成11年)に2回行われた民主党代表選挙で9月の代表選では鳩山由紀夫に敗北した。この直後、党政策調査会長に
この年に、金属労協の事務局長だった私は民主党の菅政策調査会長と政策要求でホテルで会合、この時私の説明が長かったせいか、途中で菅氏は他の書類に眼をとおし始めた。私が腹をたて、切り上げて席を立った。スタッフに言われたのか菅氏は後を追ってきて侘びを入れに来た。当時いら菅と言うあざながささやかれていたが、なるほどと思った。
2000年(平成12年)に党幹事長に就任、2002年(平成14年)12月に鳩山由紀夫が代表を辞任すると、岡田克也幹事長代理を代表選で破り、再び党代表に就任。
2010年(平成22年)6月2日の鳩山総理の退陣表明を受け、6月4日、民主党代表選挙に立候補勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に
菅氏のような例はもう無いと思うが、小さな野党も希望を持って政権交代を目指せと言うことだろう。
ところがその後大きな政治のうねりの中で、菅氏は社民連初期のとてつもない目標「政権交代」を実現する。
1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙で当選(5期目)。同年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に
1994年に社会民主連合解散、その後は新党さきがけに入党、村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長に、
1996年1月、第1次橋本内閣で厚生大臣(第79代)として初入閣
1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が旧民主党を旗揚げすると、これに菅氏も参加、鳩山と共に共同代表となり旧民主党が結党
1998年4月27日に新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流し新民主党を結成し、党代表となる
1999年(平成11年)に2回行われた民主党代表選挙で9月の代表選では鳩山由紀夫に敗北した。この直後、党政策調査会長に
この年に、金属労協の事務局長だった私は民主党の菅政策調査会長と政策要求でホテルで会合、この時私の説明が長かったせいか、途中で菅氏は他の書類に眼をとおし始めた。私が腹をたて、切り上げて席を立った。スタッフに言われたのか菅氏は後を追ってきて侘びを入れに来た。当時いら菅と言うあざながささやかれていたが、なるほどと思った。
2000年(平成12年)に党幹事長に就任、2002年(平成14年)12月に鳩山由紀夫が代表を辞任すると、岡田克也幹事長代理を代表選で破り、再び党代表に就任。
2010年(平成22年)6月2日の鳩山総理の退陣表明を受け、6月4日、民主党代表選挙に立候補勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に
菅氏のような例はもう無いと思うが、小さな野党も希望を持って政権交代を目指せと言うことだろう。
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