義母は去年の正月に脳梗塞を発症し、脳神経外科に入院しました。
入院当日に見せられた義母のMRI画像に写る梗塞部位は運動を司る部分に1箇所のみ。私の梗塞画像と比べれば軽度で、うまくリハビリすれば帰宅も見込まれる状態で一安心でした。けれど既にコロナ禍で入院当日来、家族といえど入院患者に面会は叶わず。洗濯物を交換に病院に行くと、本人から「リハビリに励んでます」という手紙がありまして、心配だけど頑張ってるね。と、それなりに安心していたのが3月末頃まで。
4月に入り、介護監視員さんに義母の介護度をあげてもらわないと、退院後の準備が何も出来ないとなりまして。というのも、介護保険は介護度により家に介護者の移動を助けるバーや階段をつける工事の補助が受けれるのですが、入院前の義母の介護度は1で、脳梗塞発症後とは乖離してたのです。ならばまずは監視員さんが直接義母と顔を合わせて状態を確認した上で介護度を上げてからとなったのですが、家族でさえ面会が出来ない状態でどうすればいいの?と。
ここは義母と似たような患者さんの対応に経験がある病院が間に入ってくださり、介護度の見直しは時間はかかったものの無事に終わりまして、伝えられた義母の新しい介護度は3でした。
この時点で、私は介護度3がどういう状態の患者さんにつけられた介護度なのか理解しておらず。実は後々この介護度が重要でした。
ダンナは母親が退院したら生活できるようにと、建設会社と相談して母親の部屋の押し入れを改造して、移動が楽なように簡易トイレやシャワーをつける工事をしよう!とか。取り壊した納屋の跡地に義母が蔵を作りたいというので、義母の部屋から一々外に出て蔵に行かずとも良いように部屋から蔵に行ける廊下をつけよう!とか予定を立てて退院する日を心待ちにしてました。
が、義母が退院後帰宅出来そうにないと4月末になり判明しました。
ある日、義母の担当看護師さんに病院に呼び出しされ「5月半ばまでにお母さんが退院した後、どんな生活になるか決めて欲しい」と伝えられまして。
あれ?何かおかしいぞ!?と始めて思いまして、よくよく聞いたらば、私たちが思ってる状態より義母は格段に脳梗塞の後遺症が出てて回復してなかったのです。
聞けば本人は「この身体では自宅に戻れない。入れる施設を探して欲しい」と言ってるとのこと。
病院としては、現状がリハビリで回復したMAXの状態で、これ以上の回復は望めない。現状維持だと思ってくれ。義母は最大7月上旬までこの病院を利用出来る。しかし5月半ばには退院後に入る(もしくは使う)施設ににあわせ、食事内容を変更して食べる訓練を始めなければならない。と。
あれあれ??予定と違う!私たちは大混乱です。しかし時間は待ってくれない。この時既に世間ではゴールデンウィークに入ってました。5月半ばまであと2週間しかなかったの。
混乱する私たちを置き去りに、看護師さんの説明は続きます。
介護度3の義母が退院後に使える施設の種類や施設個々の所在地のレクチャーを受けまして一旦帰宅です。
混乱のままにまずは調べることから始めたのですが、調べが進むと介護度3の高齢者の現状は非常に厳しかった!該当する施設はあっても空いてないんですよね。それに義母が手紙で知らせてきてた状態と現状の落差に私もダンナも心が追いつかない。コロナで全く義母に面会が出来なかったのが本当にダメダメです。
そんなこんなでゴールデンウィークに予定してた家庭菜園やらサボテンの植え替えは頓挫。
なんとかかんとか頑張って、義母の退院後の行き先が決まった時は決まったことがもう信じられなかった程でした。何しろ調べたら入居待機が100人待ちとかいう場所もありましたからね。
次は施設の方と義母の顔合わせを終えて打ち合わせ。義母がすんなり決まった介護施設に入居することを了承して心の底からホッとしました。
具体的に話を進めて、車椅子の義母を車椅子に乗ったまま移動出来る車を病院から施設まで出してもらい。長期間の入院で溜まった荷物の移動で私も義姉も大忙し。病院の退院手続きしてる間に車は出てしまい、以降、またしても義母と面会できない日々が始まりました。そうなのです。コロナ禍の高齢者の介護施設は建物内にさえ立ち入りできませんでした。現在進行形で入れません。
月日は流れて。
病院ではレンタルの浴衣で生活してた義母ですが、介護施設では私服になりまして。突然おしゃれに目覚めてしまった〜。もうね。あれが欲しい。これが欲しい。こんなの着ない。自分が使ってた基礎化粧品を買って来てと日々大騒ぎ。まあ、元気ならもういいや!と。
さて。前置きはこれくらいに。今日のタイトルの「ミッション」ですよ。
秋のある日、義母よりミッションが発令されました。
曰く、「私のお雛祭りの時の写真を探して大事に保管して欲しい。あれはどこにもない写真だ」とのこと。
そんなん!自分で探して欲しいよ!と。古い白黒写真が貼られたアルバムを数冊介護施設に届けました。で、義母が見つけた写真がトップ画像です。
義母は昭和9年(1934)8月26日生まれ長女でしたので、両親が盛大なお祝いをしたようです。撮影日は昭和10年3月です。つまり古写真の中で生後半年で母に抱かれてるのが義母です。
ちなみに、探したついでに義母の弟の午の節句の写真も発見。
昭和13年(1938)9月の午の節句。
すごく大事にされていた子供だったのねえ。ってか、叔父さんの豪華な午の節句の写真は、郷土史を編纂する時におじさんの友人が使わせてくれと言ってきたそうなので、そっちにも収まってるらしいです。
これでミッション終わりかと思いきや?実は続けてミッション2がありました。
「ミッション2 私の遺影を探して」に続きます。
これは貴重な写真ですね。
戦争で御地は焼けなかったからでしょうか。
東京はほとんど残ってないようです。
亡き父の若い頃の写真は親せきの家でしか見ることができませんでした。東京にいた父は持っていたものは戦禍で皆焼けてしまったそうです。
この写真は家の宝ですね。
義母のひな祭りの写真を見て、昭和9年の義母の生家のひな祭りのお雛様をよくよく観察できるとは!
歴史が写ってましたよ。びっくりです。