あられの日記

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伊藤博文別邸跡

2011年11月07日 05時32分48秒 | 箱根・小田原周辺
御幸浜を西へ。
見えて来たのは正恩寺の鐘楼門です。
『正恩寺…正恩寺は、法性山妙賢寺と号し、真宗大谷派東本願寺の末寺です。平重好入道了願が、尾張国(愛知県)海東郡富田庄に創建したもので、後に、専信の時、三河国(愛知県)額田郡土呂に移されました。天正18年(1590)、大久保七郎右衛門忠世が遠州(静岡県)二俣より転封されて小田原城主となった際、その子忠麟の室妙賢院(石川日向守家成の女)は、日頃より帰依する正恩寺の僧信賢を小田原に招き、文禄2年(1593)には三河の寺をここに移し菩提寺としました。よって信賢を中興開山とし、妙賢院を中興開基としています。このようなことから、当時から尾三相州転遷之道場と呼ばれています。
寺内本堂脇には、中興開基妙賢院(妙賢院円空禅尼、寛永元年9月29日卒)の墓所と、その傍らに、忠臣杉浦惣衛門政吉の墓があります。近年、作家故吉川英治の先祖(小田原藩士)の墓が寺内墓地から発見されました。
入り口の鐘楼門は、平成4年11月2日、市指定文化財に指定されています」
地図によりますと、この辺りに伊藤博文の屋敷跡があるハズなんですが…。どこだろう?
というか、この細い道で合ってるのか??
だって、この道は細すぎて車が入って来れないよね?
あれ?
伊藤博文っていつ頃暗殺されたんだっけ?確かNHKの「坂の上の雲」で加藤剛さんが演じていた人が伊藤博文だったから、日露戦争の時の人だよね。
調べました!
伊藤博文は1841年ー1909年が生存年です。
あ!これっぽいぞ。
滄浪閣!これだっ!!
こちらは民法発祥の地とも呼ばれてるようです。
でもね、今は…。なんか、どこかの誰かの家の敷地っぽいです。
トップ画像の胸像と入り口の石組のみに名残を止めているようです。
あの時代ってまだ自動車って一般的じゃなかったっけ?
伊藤博文はしばしば小田原の海岸の旅館などに滞在していたが、1890年、別邸滄浪閣をかまえ、日清戦争への対応や民法の起草などの重要課題にあたった。その後、大磯に同名の別邸を建て転居。小田原にあった建物は、1902年(明治35)9月28日に発生した小田原大海嘯で流失してしまいました。残ってる写真を見ると、2階建ての洋館なんだけどねえ。
ーーって小田原大海嘯って何?
調べました。いつものwikiで。それによりますと、折しも襲来した台風の波にやられたそうです。6メートルの波が2時間に渡り神奈川の海岸を襲ったようで、根府川から小田原。大磯と大被害を受けたようです。
へえ~へえ~へえ~っ。

道なりに西へ。細い道の突き当たりに、大蓮寺がありました。この辺り、お寺さんが多いようです。
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