健康を害しているとは聞いてたが、遂に荒鷲プライアー氏までが
亡くなってしまった。
ボクシング元スーパーライト級で80年代を席巻し、殿堂入りも
果たしている名ボクサー、アーロン・プライヤー。
同氏は心臓病を患い、長い闘病生活を続けていたが、10月9日に
この世を去ったとの事。
享年60。
まだまだ若いし、殿堂行事にも顔を出して晴れがましく振る舞って
欲しかっただけに、本当に残念です。
晩年は敬虔なクリスチャンとして人を導く立場となり、またプロ
入りした息子の試合でセコンドを務める事もあったプライヤー氏。
妻のフランキーさんは「みなさんには『荒鷲(The Hawk)』として
知られるアーロンですが、私たち家族にとっては、愛すべき夫であり、
父、祖父、兄弟、おじ、友人でした」と声明を発表した。
日本のファンには1982年に地元で亀田昭雄の挑戦を受け、第1R挑戦者の
左ストレートでデングリ返しダウンを喫するも直ぐに立ち上がって戦闘
意思を見せ、あっという間に逆襲したシーンが御馴染みだろう。
結果は6回TKO勝ちだった(5度目の防衛に成功)。
※引退後のプライヤーと亀田を追ったドキュメント「神様のリング」は
印象深い一冊で御座いました。
http://blog.goo.ne.jp/aru-rodgers/e/d7cecfb0b069899ab722c32f27714d47#comment-list
アマチュアでスタートしオリンピックのメダルこそ取れなかった若き
プライヤーだが、ゴールデン・グローブの優勝などの実績はあった。
1976年には、ライト級(60kg)で出場、後にプロで5階級制覇を達成する
トーマス・ハーンズを決勝で大差の判定勝ち。
しかし、同年のモントリオールオリンピックの選考試合ではハワード・
デービスに2度敗れて本選進出ならず。
204勝16敗の戦績でプロへ転向したが、五輪メダリストの後塵を拝する
事になった。
それでもライト級で連勝を重ねたプライヤーは1980年、1階級上の王者
アントニオ・セルバンテス(コロンビア)に4RKO勝ちし、無敗でWBAの
世界Jウェルター級王座を獲得。
防衛戦でも連続KOで圧勝を続けた。この頃の動物的な強さは全盛のR・
デュランと比較される程で、相手を追うあまりにバランスを崩す事も
あったが、それも数少ない欠点にすぎなかった。
キャリアのハイライトは3階級制覇のアレクシス・アルゲリョから王座を
守った2度のタイトルマッチだろう。
なかでも最初の対戦は史上初の4階級制覇が掛かったボクシング史に残る
試合だった。
ラッシュからボックスに切り替え、動きが鈍ったアルゲリョを翻弄する
姿はテクニシャンそのもので、ビーストとも言われた荒々しさだけでは
ないプライヤー・ボクシングの奥深さを感じさせられた。
※ただし、異様なタフネスとスタミナを見せた王者には薬物使用の疑惑が
向けられたものだ。
1983年の再戦で10回KOし、またしてもアルゲリョから勝利を収めた王者は
この試合後に引退を表明。
バーンアウトの兆候ありつつも1年と経たず現役復帰。
しかし、この頃から網膜剥離に罹患しており、さらに薬物使用も発覚。
王座をはく奪された。
1987年再び現役に復帰したものの、7回TKO負け。
1990年に今度こそ引退する事になった。
プロ戦績は39勝1敗35KO。
稼いだ金も失い、薬物や暴行による収監などのスキャンダルもあった
プライヤーだが、家族の支えがあった事は救いだったろう。
アーロン・プライヤー氏の安らかな眠りを祈ります。
亡くなってしまった。
ボクシング元スーパーライト級で80年代を席巻し、殿堂入りも
果たしている名ボクサー、アーロン・プライヤー。
同氏は心臓病を患い、長い闘病生活を続けていたが、10月9日に
この世を去ったとの事。
享年60。
まだまだ若いし、殿堂行事にも顔を出して晴れがましく振る舞って
欲しかっただけに、本当に残念です。
晩年は敬虔なクリスチャンとして人を導く立場となり、またプロ
入りした息子の試合でセコンドを務める事もあったプライヤー氏。
妻のフランキーさんは「みなさんには『荒鷲(The Hawk)』として
知られるアーロンですが、私たち家族にとっては、愛すべき夫であり、
父、祖父、兄弟、おじ、友人でした」と声明を発表した。
日本のファンには1982年に地元で亀田昭雄の挑戦を受け、第1R挑戦者の
左ストレートでデングリ返しダウンを喫するも直ぐに立ち上がって戦闘
意思を見せ、あっという間に逆襲したシーンが御馴染みだろう。
結果は6回TKO勝ちだった(5度目の防衛に成功)。
※引退後のプライヤーと亀田を追ったドキュメント「神様のリング」は
印象深い一冊で御座いました。
http://blog.goo.ne.jp/aru-rodgers/e/d7cecfb0b069899ab722c32f27714d47#comment-list
アマチュアでスタートしオリンピックのメダルこそ取れなかった若き
プライヤーだが、ゴールデン・グローブの優勝などの実績はあった。
1976年には、ライト級(60kg)で出場、後にプロで5階級制覇を達成する
トーマス・ハーンズを決勝で大差の判定勝ち。
しかし、同年のモントリオールオリンピックの選考試合ではハワード・
デービスに2度敗れて本選進出ならず。
204勝16敗の戦績でプロへ転向したが、五輪メダリストの後塵を拝する
事になった。
それでもライト級で連勝を重ねたプライヤーは1980年、1階級上の王者
アントニオ・セルバンテス(コロンビア)に4RKO勝ちし、無敗でWBAの
世界Jウェルター級王座を獲得。
防衛戦でも連続KOで圧勝を続けた。この頃の動物的な強さは全盛のR・
デュランと比較される程で、相手を追うあまりにバランスを崩す事も
あったが、それも数少ない欠点にすぎなかった。
キャリアのハイライトは3階級制覇のアレクシス・アルゲリョから王座を
守った2度のタイトルマッチだろう。
なかでも最初の対戦は史上初の4階級制覇が掛かったボクシング史に残る
試合だった。
ラッシュからボックスに切り替え、動きが鈍ったアルゲリョを翻弄する
姿はテクニシャンそのもので、ビーストとも言われた荒々しさだけでは
ないプライヤー・ボクシングの奥深さを感じさせられた。
※ただし、異様なタフネスとスタミナを見せた王者には薬物使用の疑惑が
向けられたものだ。
1983年の再戦で10回KOし、またしてもアルゲリョから勝利を収めた王者は
この試合後に引退を表明。
バーンアウトの兆候ありつつも1年と経たず現役復帰。
しかし、この頃から網膜剥離に罹患しており、さらに薬物使用も発覚。
王座をはく奪された。
1987年再び現役に復帰したものの、7回TKO負け。
1990年に今度こそ引退する事になった。
プロ戦績は39勝1敗35KO。
稼いだ金も失い、薬物や暴行による収監などのスキャンダルもあった
プライヤーだが、家族の支えがあった事は救いだったろう。
アーロン・プライヤー氏の安らかな眠りを祈ります。
そしてセルバンデス 強かった王者がことごとく
ko負けした 記念日でしたよね
プライヤーはセルバンデス 韓国の金
亀田昭雄選手 それにアルゲリョを2度も
全部ko、凄いキャリアでしたね
さよならプライヤー
また 激しいファイト見せてよね
ガラ系持っててシャッターチャンス
待ってた自分に
一緒に写真撮ろうと
声かけてくれたのが上原さん
もう、その心配りにメロメロ
一緒に収まって下さいました
上原さんが東京に出てきて
定食屋始めてるという
1度いってみたいじゃないですか
(詳細不明)
プライアーは俊敏さやラッシングパワーでアルゲリョの天敵の様な存在でしたね。
本人はレナードらとの対戦も野望として視野に入れてたようですが、それが
叶わなかったのも晩年の自暴自棄に繋がったようです。
レナードは追悼コメントで寂しさを語ってますね…。
今年6月の日刊ゲンダイの記事によれば、
上原さんは「都営大江戸線西新宿五丁目駅から歩いて7分。東大付属中学に
近い3階建てマンションの2階にある創作沖縄料理店『チャンピオン』をオープン」
されてるようですね。
「軽井沢のペンションにも常連さんがいて、行ったり来たり。基本的に毎月第3
水曜日から翌月の第1水曜日が東京で、それ以外は軽井沢。友人とか
ボクシング関係者が気軽に集まれる店が目的」との事。
伝統の沖縄料理に一手間かけてるのが特徴だとか。
一人3000円で飲み食いできるそうです。
一度お邪魔したいですね。