野口ジムを語る時、やはり創設者の野口進氏は避けて通れない。
ライオンの異名を持つ豪傑で、素人相撲の横綱「宮の森」という
四股名まで持っていた力自慢。
※後年も仲間は「宮ちゃん」と呼んでいたとか
大正13年に日本拳闘界が初の日比対抗拳闘試合を開催する事に
なったが、肝心の日本選手が人数不足。
そこで白羽の矢が立ったのが少年力士「宮の森」だったという。
急造ボクサーなれど本来の体力と、名コーチ荻野貞行氏の指導で
力を付け、なんと12回戦を戦い抜いて引き分けデビュー。
※後年のF原田がロードワーク1日15kmで「練習熱心」と
言われたが、野口のそれは30km!驚異的だ。
昭和3年には日本ウェルター級王座を獲得。
外人ボクサーとの対戦も多く、強烈な左右フックを武器とした
ファィティング・スタイルで観客を熱狂させたという。
戦績:35勝7敗14分
敗れ方も普通ではない。海外の海軍王者クラスに肋を折られ
ながらも奮闘していたが、遂にこれまでと覚悟を決めて、
リングに胡座をかいた。
そして叫んだ「さぁ、殺せ!殺しやがれ!」...と。
レフェリーは途方にくれたという。
石川輝さん、林国治さん、郡司信夫さんなど、往年の評論家が
その凄さを良く記述されておりました。
実力も、パワー・スタミナ・タフネスの面から高く評価され
※「右ストレート、左アッパーも強く、ボクシングの上手さも
あった」という意見も。
1980年代の時点では日本ウェルター級オールタイムのベスト
テンで堂々の1位を獲得。
いくら同階級を「重量級」と呼び選手層が疑問視される我が
国でも、明治生まれのボクサーがトップに選ばれるなど驚異的
としか言いようがありません。
※ただし、評論家によっては辻本章次などの70年代選手を
敢えて除外しておりますが…
残っている写真でも筋骨隆々で日焼けした身体は外人選手にも
劣らない。
ノスタルジーもあるとは言え、「格闘技に必要な頑強さ・体力・
パワー・根性が現代の選手とは桁違い」と評する向きもあった。
石川輝氏などは「最も偉大なボクサーはピストン堀口となるが、
最も強く、男らしく、豪快だったボクサーは野口進。この男しか
いない!」とまで語っている。
石川氏はライオンの現役当時を実際に見ており、その上での評
だけに思い入れは強烈だ。
ラストファイトの座り込み試合も御覧になっており、「相手は
砲弾を片手で持ち上げる剛腕の海軍兵ハーレイ・ユーイン(英)。
2Rにアバラ3本を折られた野口、普通なら続行不能に陥って
当然のところ、激痛に耐えながら7Rまで粘った姿は、鬼気迫る
ものがあった」と記述されている。
引退後は愛国の人となり、ロンドン軍縮会議に抗議して民政党
総裁を襲撃するなど、ニュースが絶えなかった野口進氏。
一旦は上海に渡ったが、戦後は日本に引き揚げ、野口ボクシング
ジムを創立。多くの人材を育てた。
※上の画像は進氏と三迫仁志氏。師弟愛が伝わってきます。
日本フライ級チャンピオンの野口恭は次男。
小柄で可愛らしい(失礼!)雰囲気あったため、父親とは別の
人気があったという。
心優しき「プリンス」は、父亡き後に世界王座にも挑み、野口
門下の総バックアップで戦ったが悲願の王座奪取はならず。
※上の画像はジムに飾られていた「アサヒグラフ」の表紙。
人気がなければ表紙なんて飾れません。東洋王者がCMに
出て、家を建てた時代です。
恭さんも引退後は野口ジム会長となり龍反町、黒沢元三、柏葉
守人ら日本・東洋の王者を育てた。
少年たちへのボクシング教室も開き、その入門生も含めれば
育てた選手は数多い。
一度K-1で戦った吉野弘幸のボクシング復帰も受け入れた。
※その後、ウェルター級から階級を上げた吉野は2階級制覇。
ただし、元々所属していたいたワタナベジム時代の連続KOが
印象深いのは仕方ないところ。
そして、ライオンの孫にあたる野口勝さんは現会長。
こちらも元選手。
目の怪我で現役時代は短く、3代続けての日本王者獲得という
大快挙は成し遂げられなかったが、鈴木誠を日本王者に導いた。
野口ジム18年ぶりの王者誕生となった日本ミニマム級タイトル
マッチ。一度負けている岡五男との対戦。
速さと手数の岡に対し、小柄で筋骨隆々の鈴木は圧力を掛ける。
やや攻め疲れの見える鈴木に岡が反撃し、なかなか均衡が崩れ
ない展開の中、最終回に力を振り絞ったのが鈴木だった。
左右フックをヒットされた岡がキャンバスに腰を落とし、ここで
試合は終了。劇的な結末となった。
勝った瞬間の鈴木と野口ジム関係者の喜びようが凄かった。
ベテラン・トレーナーも叫びながら鈴木と抱き合って歓喜を
爆発した。
名門と言われながら王者が生まれない時期を経ての奪取劇。
私も釣られて感動したものです。