鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

意宇六社めぐり・第2章~国宝・神魂神社

2021-07-23 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 八 時 五 拾 六 分

松 江 市 大 庭 町



八重垣神社縁結び占いをし、満足のいく結果が得られた私。
意宇(おう)六社めぐり、次なる神社をめざします。



国道432号を南下し、目的地たる神社への案内看板が現れました。

「神の魂の神社」という、なんとも光厳な社号。
世に「雀魂」なるゲームがありますが、それにならって「かみたまじんじゃ」・・・ではなく「かもすじんじゃ」と読みます。
「神」=「かも」はともかく、「魂」=「す」なんて読めねえよ・・・PCでもスマホでも漢字変換ができないくらいです。


国道から離れて約500メートルほど進み、



神魂神社に到着しました。



【八重垣神社→神魂神社 のルート】



八重垣神社 8時45分発
島根県道246号八重垣神社線・島根県道247号八重垣神社竹矢線・国道432号線・島根県道248号神魂神社線経由
神魂神社 9時03分着

*移動距離 3.1km
*所要時間 18分  (平均の速さ 10.3km/h)






午 前 九 時 参 分

神 魂 神 社


これより参道を上っていきます。



灯籠の脇にある、苔むした手水鉢。
ここから右への急な石段が男坂、そのまま前進するなだらかな坂道が女坂というそうです。



男坂を上っていくと、ダイレクトに神魂神社 拝殿の方へ。


神魂神社は、天照大御神アマテラスオオミカミの第2子・天穂日命アメノホヒノミコトが出雲の地に降り立ち、この地にとどまることとなった折りに創建されたといいます。
天穂日命は葦原中原平定(国譲り)において大国主神オオクニヌシノカミのもとに赴かれて国譲りを説いたのですが、逆に大国主神に心服してしまいます。
国譲りが成った後も大国主神に仕えることとなり、出雲国造くにのみやつこの祖となったといいます。

以上が伝承ですが、奈良時代の出雲地方の地誌『出雲国風土記』や、平安時代初頭の全国神社リスト『延喜式神名帳』にその記述がなく、はじめて文献に現れるのが承元2年(1208年)に記された鎌倉将軍の下文くだしぶみなので、創建時期は平安から鎌倉時代の間であろうと考えられています。
神々の母・伊弉冉尊イザナミノミコトを主たる祭神とし、神々の父・伊弉諾尊イザナギノミコトが配祀されています。





意宇六社・2番目の神社は、神魂神社でございます。

拝殿の後ろに鎮座する神魂神社 本殿【国宝】。
天正11年(1583年)に再建されたものが現存しているものと考えられています。
大社造という社殿の建築様式では、現存最古のものとされています。



大社造は出雲国(島根県東部)のみに見られ、その特徴は・・・
まず、掘立柱で建っていることが挙げられます。
土地を掘って穴を造り、柱はその穴に立てられて、掘り出した土で周りを固められます。
まぁ、この画からではわかりませんね。



屋根の構造が切妻屋根であることも大きな特徴です。
屋根の頂の棟から地上に向かって2つの斜面が、 ←本を伏せたかのような山の形をした屋根をいいます。
そして大社造では、切妻屋根が ではなく ・・・
つまりはゆるやかな曲線になっています。

本殿内部への出入口は妻入り、すなわち屋根の棟と垂直な面()に出入口が設けられています。
もっと簡単に表すならば、 の見える面に出入口があるということです。
そして出入口は、妻の中央より右側に設けられている場合が多いそうです。


ところで、神魂神社の境内は・・・



拝殿&本殿に向かって左に末社が5社、右には末社が4社、そして社務所があるだけ。
国宝を擁する神社の割には境内自体もそれほど広くなく、そして余計な案内看板がない、観光地化されていないように感じられました。
参拝客は朝の時間帯ながら20名ほどとそれなりにいましたが、それでも境内はおごそかな雰囲気を微塵も損なっておりませんでした。



私も新鮮な心持ちで、朝のお詣りをしていきます。
本殿に向かって左側の末社、画像左から武勇社蛭子社荒神社外山社・・・



本殿の脇に貴布祢稲荷両神社 本殿【国指定重要文化財】。



9時10分、お詣りはひと通り終了。
国宝に重要文化財を有する神社にしては、ほんとうに小ぢんまりとしています。



拝殿の脇にある社務所で、御朱印を頂戴しようと思っていましたが、社務所が開いていません。
すでに数名の参拝客が前で待っていましたが、社務所の中に人の気配はありません。

10分ほど待ちましたが、社務所が開く様子もありません。
この日はあと4ヶ所の神社をお詣りするなど、予定が目白押しだったので、神魂神社の御朱印はあきらめることとしました。





意宇六社めぐり・第1章~八重垣神社で縁を占う

2021-07-23 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 七 時 参 拾 九 分

松 江 ア ー バ ン ホ テ ル レ ー ク イ ン





松江のビジネスホテル、2日目の朝食をいただきます。
だいたい前日と似たラインナップですね、お肉料理がちょっと変わったぐらいです。
この日もご飯をおかわりし、己の腹に十分な養分をため込みます。

朝食とともに写っている、青いキーホルダの自転車の鍵。
こちらのホテルは、なんと宿泊者にレンタサイクルを無料で貸与してくれるのです。
というわけで「縁結びのたび」5日目は、こちらのレンタサイクルで松江市内を回っていきます。

この日はまず、意宇(おう)六社という松江市内の6つの神社を参拝します。
そして、この旅最大の目的といえる松江城【国指定史跡】へ。
さらに、旅立ちの前にお勧めされた月照寺【国指定史跡】にも訪れていきます。


意宇六社は、出雲国意宇郡、現在の松江市内にある6つの神社をいいます。
意宇郡は、出雲大社の宮司を代々務めた出雲国造(くにのみやつこ)家ゆかりの地。
そして6つの社も、出雲大社にゆかりのある神社ということになります。

 ・熊野大社【旧国幣大社・出雲國一宮】
 ・眞名井神社【旧村社】
 ・揖夜(いや)神社【旧県社】
 ・六所神社【旧県社・出雲國総社】
 ・八重垣神社【旧県社】
 ・神魂(かもす)神社【旧県社】

この6社を、自転車で巡って参ります。



ルートは、国道432号線を南に進み、途中で島根県道246号・八重垣神社線に入ります。


その道中、国道432号沿いには、元内閣総理大臣 若槻禮次郎生誕地の石柱が立っています。
なんの変哲もない、家賃の安そうなアパートの前にぽつんと立つ石柱。

若槻禮次郎は大正15年(1925年)から昭和2年(1926年)までと、昭和6年(1931年)の2度にわたって内閣総理大臣を務めました。
外務大臣には幣原(しではら)喜重郎を起用し、対外協調外交を基本とする「幣原外交」を展開。
昭和6年の第2次内閣のときには、満州事変が勃発したことがきっかけとなり、総辞職に追い込まれました。

戦前の政治をリードし、日本史の教科書に必ず載っている宰相の石碑にしては、あまりにも唐突な場所にあったため、写真を撮ることすら忘れてしまいました。






午 前 八 時 拾 七 分

八 重 垣 神 社 に 到 着




「意宇六社」・最初の神社は、八重垣神社でございます。


高天原を追放された素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、斐伊川(ひいがわ)に降臨され、その上流へと足を運ばれました。
すると、脚摩乳(アシナヅチ)手摩乳(テナヅチ)老夫妻が、ひとりの娘・奇稲田姫(クシイナダヒメ)とともに泣いています。
素戔嗚尊が事情をお尋になると、老夫妻には8人の娘がいたが、毎年八岐大蛇(ヤマタノオロチ)にひとりずつ食われ、いま最後の娘も食い殺されようとしているのだというのです。
八岐大蛇は、ひとつの胴体から8つの頭、8つの尾が生えている巨大な怪物。
素戔嗚尊は、奇稲田姫との婚姻を条件に、八岐大蛇の退治を申し出られます。

老夫妻がこれを了承すると、素戔嗚尊は奇稲田姫を櫛に変えられ、自らの頭髪にお挿しになって姫を守られました。
そして老夫妻に強い酒を用意させ、また8つの門をこしらえた垣根にそれぞれ8瓶の酒を据え置かせました。

怪物・八岐大蛇登場。
8門の垣根に至ると、8つの首をそれぞれの門から入れ、それらにあった酒を飲み始めました。
酒を飲み干した八岐大蛇は、その酔いから眠りこけてしまいます。
そこで素戔嗚尊は剣を抜かれ、八岐大蛇の首や尾を切り落とされました。
大蛇の尻尾を切りつけたときに剣が弾かれたので、中を切り裂いてみると、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出てきました。
素戔嗚尊は、のちにこの天叢雲剣を姉の天照大神に献上されています。

八岐大蛇を退治された素戔嗚尊は、出雲の地をお気に召し、宮殿を造ることにしました。
宮殿を造る際に雲が立ち上がり、この様子をご覧になった素戔嗚尊は、

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣作る その八重垣を


と詠まれました。
この歌は、日本で初めて詠まれた和歌とされています。



お二人がお住まいになった宮殿が、現在の八重垣神社となりました・・・というわけではありません。
宮殿は「須賀宮」といい、これが八重垣神社の起源といわれています。
なお現在では須我神社(雲南市大東町)となっています。


『出雲国風土記』によると、素戔嗚尊の御子のひとりといわれる青幡佐草日古命(アオハタサクサヒコノミコト)がこの地に坐したといい、はじめは佐久佐神社が鎮座していたといいます。
しかし時代が下ると、八重垣神社は須賀の地から佐久佐神社の境内に遷座したのだそうです。
明治11年(1878年)に佐久佐神社から八重垣神社に改称し、現在に至っています。





神社の境内に入る前に、道路を挟んで向かい側・・・



連理の玉椿です。

奇稲田姫が2本の椿の枝をお立てになると、そこから芽吹いた椿の木はあたかも1本の木のように立っていきました。
椿の木が枯れてからも、境内には二股の椿が生えてくるようになったといいます。
以来、八重垣神社の椿の木は愛の象徴とされています。
この八重垣神社の椿の木が、化粧品会社・資生堂のマークのもとになったともいいます。




あらためまして、境内へ。



早速ながら、正面に拝殿が構えられています。
ここは当然ながら、縁結びを祈願いたしましょう。
こちらの参拝作法は、多くの神社と同じく二礼二拍手一礼
出雲大社に関わりある神社ですが、二礼四拍手一礼ではないようです。

 

拝殿の後ろに構える本殿
大社造という形式で、内部の空間は正方形、屋根は傾斜がきつめになっています。


拝殿の脇にある社務所にて、御朱印を頂戴しましょう。
300円支払って、御朱印帳を預けていきます。
それから・・・



100円支払って、和紙を1枚いただきます。




八重垣神社の境内はそれほど広くはないのですが、本殿に向かって左脇から佐久佐女(さくさめ)の森へと続いています。


八岐大蛇との戦いの前に、奇稲田姫の安全をどのように確保するか。
これには別の神話があり、大蛇との戦前に構えたのは8重の垣根で、この中の佐久佐女の森に奇稲田姫を避難させたといいます。





境内にある夫婦椿のひとつ・乙女椿



その先にある木戸から境内を下って小路を渡ると、佐久佐女の森へと進むことができます。




佐久佐女の森に入ると、まず立っている子宝椿
八重垣神社にある3本(6本?)の夫婦椿は、すべて拝見したことになります。



立派な一本の杉の木。
こちらのご神木なのだろうと思っていたのですが、どうも夫婦杉の一本のようです。
そして森の一番奥にある池が、鏡の池です。
池の画はないんですけどね。

鏡の池は、奇稲田姫が八岐大蛇から難を逃れていたおりに、日々の飲み水として、また化粧する際の鏡として用いられたといいます。
こんこんと湧き出る清水は、かつての姫のお姿を彷彿とさせる・・・かどうかはわかりませんが、現在は縁結び占いの池とされています。



社務所にて100円で購入した和紙。
この真ん中に10円または100円を載せて、池に浮かべます。
このとき、15分以内に沈むと良縁が早く30分以上かかってしまうと縁結びは遠いといいます。
また、近くで沈むと身近な人と結ばれ離れたところで沈むと遠方の人と結ばれるのだそうです。






午 前 八 時 参 拾 弐 分

縁 結 び 占 い 開 始




私としては、どうしても早く、そして近くで沈んでもらわなきゃ困るんだ!!
・・・というわけで、比較的質量のある100円玉を載せることにしました。

和紙を水につけると、文字が浮かび上がってきました。
「東と北 吉」ですか・・・千葉の柏から西の出雲国にやってきた私に、ちょっとばかり冷や水を浴びせるような言葉ですなぁ。
今回のたびも東北地方にすればよかったのか?!

このとき鏡の池で占っていたのは、私ともう一人の女性。
その方は、私よりも先に和紙を浮かべていたようですが・・・二人そろって、和紙が沈む気配なし。






午 前 八 時 参 拾 参 分

瑞 祥 現 る ? !


和紙に埋もれた池の底から、なにやら黒い生物が姿を現しました。



イモリです。
トカゲのような姿をしていますが、カエルと同じ両生類で、サンショウウオの仲間です。
背面は黒いのですが、腹面はオレンジ色ないし赤。
漢字で書くと「井守」、つまりは井戸を守る生き物とされています。

八重垣神社では、イモリは奇稲田姫の使いと考えられています。
鏡の池でイモリが現れるのは、なんという瑞兆・・・!
そして、浮かべた和紙にイモリが触れると、さらに幸運がもたらされるのだそうです。

イモリさんは、私の和紙には興味を示されなかったのですが・・・
それでも、今回の占いには期待できそうですね。


ちなみにイモリさん、じつはフグ毒(テトラキシン)をもっているのだそうです。






午 前 八 時 参 拾 七 分

新 た な 道 、 開 け る ? !


和紙を浮かべてから、約5分。



イモリさんの神通力か、和紙の中央が浸水し始めました!
そして・・・



午前8時38分、和紙は池の底へと沈んでいきました。
そして沈んだ場所は、池の端。
私にとっては、なんという理想的な占い結果なのでしょうか!・・・これで胸を張って柏に戻ることができますなぁ。

一方・・・先客の女性の和紙は、いまだに沈む気配なし。
ちょっとばかり気まずい感じを覚えつつ、鏡の池を後にしたのでした。





奉拝、八重垣神社!

和紙を買った社務所に戻り、預けていた御朱印帳を受け取って、八重垣神社を後にしました。





鹿島立ち!

2018-06-09 | 神社


2 0 1 8 年 5 月 2 0 日 ( 日 )

午 後 1 時 5 8 分

茨 城 県 鹿 嶋 市

常 陸 国 一 ノ 宮 ・ 鹿 島 神 宮



鬼ヅモ同好会GW大会が終わって後日――。

私は週末に実家に帰り、亡父の墓参りを済ませました。



そして本拠地の柏へ戻る途上、私は鹿島神宮に立ち寄りました。

本来ならば正月三が日に初詣をするところでしたが諸般の事情でかなわず、後れること5月下旬に詣でることにしたのです。




まずは大鳥居社号標

以前の大鳥居は御影石でできていましたが、東日本大震災で倒壊してしまいました。
境内にあった杉の巨木で製作され、平成26年に再建されました。



手水舎でみそぎをなし、



楼門【国指定重要文化財】へ。

鹿島神宮の楼門は、水戸藩初代藩主・徳川頼房によって奉納されました。
頼房は三代将軍・徳川家光の病気平癒の祈祷を鹿島神宮に依頼し、家光が快方に向かったことから、頼房が楼門を奉納したそうです。
「鹿島神宮」の扁額は大きさ畳1枚分で、筆蹟は東郷平八郎の直筆によるものだそうです。
その迫力から、「日本三大楼門」にあげられています。
(ほか2つは、阿蘇神社の楼門と筥崎宮(はこざきぐう)の楼門です)


楼門をくぐると、参道の右手側に



拝殿【国指定重要文化財】が建ちます。
拝殿を仰ぎ見るこの場所は・・・・・・



宝物館です。
おおぅ、なんと宝物館は長期のお休みとなってしまいました・・・。



あらためまして、拝殿です。

こちらでいつもどおり、さる御方の健康を祈願。


鹿島神宮の御祭神は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)(建御雷大神)です。
『日本書紀』では「武甕槌」、『古事記』では「建御雷」と表記されていますが、ここでは日本書紀における事蹟に従うこととします。

父神・伊弉諾(いざなぎ)と母神・伊弉弥(いざなみ)は、太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめ多くの神々を産みました。
しかし火神・軻遇突智(かぐつち)を産んだ際、伊弉弥が陰部を火傷してしまい死んでしまいます。
これに怒った伊弉諾は、軻遇突智を斬り殺してしまいます。
このときの軻遇突智の血から、武甕槌が生まれたといいます。

のちに高天原(たかまがはら)の神々が下界を平定する際、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)香取神宮の御祭神)とともに武甕槌は出雲に下り、剣の切っ先にあぐらをかいて大己貴神(おおなむち)大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りを強く迫ります。
大己貴神は広矛を献上して国を譲る意思を示しましたが、ふたたび猜疑心を示したため、高天原の神々は国譲りの見返りに巨大な宮殿を建てるとして大己貴神を説得しました。
これが現在の出雲大社なのだといいます。

また『古事記』では大国主の子神・建御名方神(たけみなかたのかみ)が抵抗したので建御雷と力比べをすることとなりました。
建御雷は建御名方をぶん投げて追いつめ、建御名方は現在の諏訪で降伏をしました。
建御名方は以後信濃国の開拓に努め、諏訪大社の御祭神とされています。
またこのときの力比べが、相撲の起源とされています。

さらに後世、神武天皇の東征では、熊野で苦戦する神武天皇に布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を授け、苦境を救いました。

現在では雷神、武神、軍神として信仰されています。



古くは九州地方の守備にあたる防人(さきもり)が、道中の無事を鹿島神宮で祈願したそうです。
このことから、旅立ち、門出のことを「鹿島立ち」と呼ぶようになったそうです。

そこで今回は、とある闘いの勝利祈願をいたします。




拝殿の向こうにそびえ立つ御神木



拝殿の横から失礼して・・・
幣殿・石の間・本殿【国指定重要文化財】と御神木
幣殿と石の間はよく見えないですね・・・。

拝殿・幣殿・石の間・本殿の4棟からなる社殿は、元和5年(1619年)に2代将軍・徳川秀忠によって寄進されたものです。
奥の本殿にて、御祭神の武甕槌大神をお祀りしています。
御神木は鹿島の杜では最古かつ最大の杉の木で、樹齢は約1,300年を数えるのだとか。


拝殿の脇には、2番目に大きい「二郎杉」なる木もあるのですが・・・私はスルーしてしまいました。




拝殿の向かいに建つのは、仮殿【国指定重要文化財】です。

将軍秀忠が社殿を寄進するさい、ひとまずすでにあった社殿から御祭神をお遷しする必要がありました。
社殿の寄進に先だって元和4年(1618年)に奉納されたのが、仮殿です。




神宮の杜をさらに進んでいきます。




ちょいと獣臭い鹿園
以前は金網1枚で隔てられていたのですが、現在はその外側に囲いができてしまい、売店でエサを買わないと鹿さんに近寄れません。

鹿は神の使いとされています。
国譲りの際に下界に下った武甕槌大神を先導したのが、鹿であったそうです。
奈良の春日大社が創建された際は、鹿島の御祭神を鹿が担い手となってお遷ししたそうです。
このときの鹿が、現在の奈良公園の鹿の祖先になったとか。




さらに進むんで、奥宮【国指定重要文化財】へ。

慶長10年(1605年)徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した御礼として寄進されたものです。
はじめはこの社殿が本殿であり、場所も本殿と同じ位置にありましたが、子の秀忠があらたな社殿を寄進するにあたり、奥に曳いてお遷ししたものです。
こちらの御祭神は、武甕槌大神 荒魂となっています。




奥宮から続く急坂を下り、御手洗池(みたらし)まで来ました。



いまもなおこんこんと湧き出る清水。
この池に身を沈め、みそぎを行うのが本来の作法なのだそうです。

うんうん、鹿島の鯉は悠然としていてお上品ですねぇ。
エサをねだってワラワラとやってくるようなことはありませんでした。





震災以来石鳥居のない裏参道から、鹿島神宮の境内を出ました。





JR鹿島神宮駅に到着、帰路に就きます。



第72回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記・後日談 完

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鬼ヅモ会員のみ、さらなる後日談へ。


鶴岡八幡宮に寄ってみた

2016-12-03 | 神社


2 0 1 6 年 1 1 月 1 2 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 3 7 分

神 奈 川 県 鎌 倉 市

J R 鎌 倉 駅 東 口



人身事故で1時間押しというトラブルもあり、10時半過ぎにようやく鎌倉駅に到着しました。



休日の鎌倉、さらに紅葉シーズンとあって、駅前は観光客で混雑しています。
もう少し早く到着すれば、人出は多くはなかったかも・・・という思いもありましたが、ここは現実を受け入れ、気を取り直して参りたいところです。

今回の鎌倉旅は、私がどうしても行きたい寺院を訪れます。
その寺院は、鎌倉駅から2キロ以上離れているということで、公式サイトでは路線バスでアクセスするのを推奨しています。
しかしこの激混みっぷり・・・・・・我々はバスに乗車するのをあっさりあきらめ、徒歩で向かうことにしました。




午 前 1 1 時 1 6 分

若 宮 大 路 ・ 鶴 岡 八 幡 宮 二 の 鳥 居




鶴岡八幡宮からまっすぐ由比ヶ浜に伸びている若宮大路へ。
二の鳥居から八幡宮までは段葛(だんかずら)という、若宮大路の中央を一段高い参道が走っていて、本殿に通じています。



しかし、駅に着いたのが10時37分。
それから若宮大路に入ったのが11時16分。
駅から段葛までは至近なのに、これは時間のかかり過ぎではないか?

たしかに私ひとりなら、この程度の移動にこれほどの時間はかけません。
しかし今回はそうではありません。
傍らの御方おタバコを所望されるのです。
人身事故で長時間列車に閉じ込められたため、より一層おタバコを所望されることに。
そして私もチューハイ3缶を空けたため、おなかがゆる~い状態に。

そのため、駅近くのエクセルシオールで、おタバコをまとめて嗜み、あるいは整腸することとなったのでした。



日輪は高らかと由比ヶ浜より照りつけ、人の群れもその数を増していった段葛。
そのとある一基の石灯籠・・・



あの蛭子能収氏が灯籠を奉納しているではありませんか!!
氏といえば吝嗇(ケチ)で有名(ご無礼)な方。
氏の主演番組・「路線バスの旅」でも、「俺は神頼みはしない」という趣旨の発言をしているのに、なぜ灯籠を???
そういえばその発言のすぐあとで、「競艇のときは~~」とも言っているので、そのあたりの理由で奉納したのでしょうか?
それとも、併記されている蛭子悠加夫人に勧められたのでしょうか?

ふたりであれやこれやと話しながら、



八幡宮の三の鳥居前に到着しました。

ここから目的地のお寺までは、八幡宮前の交差点を右折して金沢街道を歩いていくことになります。
しかしこの道は歩道が狭く危険、それにせっかく八幡宮の目の前に来たので、このまま参拝することにしました。



鶴岡八幡宮の境内へ。



最初にお目にかかるのは、池に架かるアーチ状の太鼓橋です。
段葛からそのまま境内に入るとここに到達します。
太鼓橋は「神様が通る橋」という意味合いで、通行はできなくなっています。



先には舞殿、大石段の上に上宮楼門がそびえます。
舞殿は、このあたりで静御前が思い人・源義経を慕う舞を舞ったということで、後世しつらえた舞台です。
この日は舞殿で祝言が執り行われていました。



舞殿までの参道の途中。うといべんこ??
わが御前はたま~に珍妙なセリフをのたまいます。
「疎い便子」?? 便秘のこと??? この御前の傍らはまったく飽きることがありません(#^.^#)


手水舎でみそぎをし、大石段に差しかかったところ。



大銀杏の切り株が残っています。
大銀杏は平成22年(2010年)の強風で倒れてしまいましたが、切り株からふたたび若芽が生えているのだそうです。
伝説では、鎌倉幕府3代将軍の源実朝が、この大銀杏で待ち伏せしていた2代将軍・頼家の遺児・公暁に暗殺されたといいます。



上宮楼門
扁額の「八幡宮」の「八」の字は2羽の鳩で成っています。
鳩は神の使いであるとされているからで、鎌倉銘菓「鳩サブレ」もこの鳩が由来になっているそうです。



八幡宮でわが御前の長久を祈願し、八幡宮の境内を出ました。





赤穂・大石神社

2016-03-22 | 神社


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 前 9 時 2 8 分

兵 庫 県 赤 穂 市

J R 播 州 赤 穂 駅





播州赤穂ばんしゅうあこうで下車した私が、この先向かうのは赤穂城【国指定史跡】。

駅の中にある観光案内所で、赤穂城までのアクセスを確認し、パンフなどの資料を入手。
そして、



この日もまたレンタサイクルの力を借りることとします。
赤穂の観光案内所では、なんと手荷物も預かってくれます。ありがたい限りです。

自転車を借りて駅の外に出てみると、



花壇を手入れしている女性、ではなくその向こうの背中・・・



やはりこの方、大石内蔵助くらのすけ良雄がさっそくご登場です。


赤穂といえば、「忠臣蔵」の舞台。
歴史上では赤穂事件と呼ばれる一幕の舞台です。


赤穂藩の殿様であった浅野内匠頭たくみのかみ長矩ながのりは、江戸で吉良上野介こうずけのすけ義央よしなかとともに、勅使饗応役という朝廷の使者を接待する役目を務めていました。
このとき吉良上野介は「指南役」つまりは浅野内匠頭の先生のような立場でした。

ですが、元禄14年3月14日(現在の暦で1701年4月21日)、江戸城本丸大廊下(松の廊下)で突然、内匠頭が「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで上野介に斬りかかったのです!
(遺恨の理由は不明ですが、「忠臣蔵」ではわいろを贈らない内匠頭に対し、上野介が陰湿な嫌がらせを繰り返したように描かれています)
上野介は背中に傷を負いましたが命に別状はなく、内匠頭は周りの者に取り押さえられてしまいました。

朝廷との関係を重視していた将軍・徳川綱吉は激怒、即日で内匠頭に切腹を命じ、赤穂藩の取り潰しを決めました。
いっぽう上野介は刀を抜いて応戦しなかったことから、何の罪にも問われなかったのでした。

内匠頭切腹、赤穂藩取り潰し・・・突然の悲報を受けた地元赤穂では、家臣たちが連日合議を繰り返していました。
幕府の命令におとなしく従うべきか、城に立てこもって討死すべきか、吉良上野介を討ち取って主君の恨みをそそぐべきか。
筆頭家老・大石内蔵助が採ったのは、吉良を討つことでした。
そしておとなしく赤穂城を明け渡し、内蔵助以下四十七名の浪士は江戸に移ったのでした。

江戸に入った四十七士は、町人に身をやつして吉良を討ち取る機会をうかがい、入念な作戦を立てていきます。

そして元禄15年12月14日、吉良邸討ち入り
大石以下四十七士は見事に吉良上野介の首級を上げると、泉岳寺にある内匠頭の墓前にその首を供えることができたのでした。

四十七士の討ち入りに対し、江戸の町民は拍手喝采を挙げましたが、幕府は「仇討ち」とは認めませんでした。
四十六名の浪士たちは身柄を拘束され、4つの大名家の屋敷に預けられることに。
(一人だけ、討入後に行方不明になった者がいます)
4大名家は、赤穂浪士たちを罪人ではなく客人のようにもてなしたといいます。
しかし幕府からの処分は切腹。
切腹して果てた浪士たちは、主君の眠る泉岳寺に葬られています。



それでは赤穂城へ向かいましょう。

駅前の丁字路から続く道を進むと、



大手隅櫓【復元】と、



大手門一の門【復元】に着きます。
一の門の前には車止めが据え付けてありますが、自転車は問題なく通れますので、このまま城内に入ります。



大手門の枡形虎口を通り抜けて進むと、



通路左手側に近藤源八邸跡長屋門【赤穂市指定文化財】が見えてきます。


近藤源八正憲は、浅野家時代の赤穂藩の家臣で、甲州流軍学を修めました。
ちなみに父の正純も甲州流軍学を修めており、その知識に則って赤穂城の設計を担当しています。
また源八の妻は大石内蔵助の叔母にあたり、大石家とは縁戚関係にあります。
赤穂藩取り潰しにおいては、はじめから内蔵助とは行動を異にし、討入には加わりませんでした。



ここの長屋門は中に入ることができるようですが、この日は時刻が早かったためか、入ることはできませんでした。


近藤源八邸跡長屋門の斜め向かいに、大石良雄邸址【国指定史跡】があり、



長屋門が構えています。
ここの長屋門からは中に入ることはできません。



大手門から続く道を進み、丁字路に差しかかったところの右手側に、大石神社は鎮座します。



参道の両脇に松の並木と、四十七士の石像が配置されています。



参道左手最初の石像は、寺坂吉右衛門信行
四十七士では唯一足軽の身分で、討入後に唯一脱走した浪士です。
脱走した理由は不明ですが、大石からの密命を受けてあえて隊を離れたといわれています。
そのため幕府による切腹の命令を受けることなく、天寿を全うしたといいます。

参道右手最初の石像は、片岡源五右衛門高房
幼いころから浅野内匠頭に仕えた側用人そばようにんです。
江戸城での刃傷を最初に知り、江戸の藩屋敷に知らせて事態の収拾に当たりました。
内匠頭の切腹直前にも顔を合わせましたが、両者の会話はなかったそうです。



左手側のかなり後方に、剣豪・堀部安兵衛武庸たけつね
赤穂藩に仕える前、高田馬場の決闘にて助太刀したことで名を上げました。
その後赤穂藩に仕えました。



右手側、安兵衛のさらに後方に、こちらは堀部弥兵衛金丸
高田馬場の決闘での顛末を聞いた弥兵衛は、安兵衛を高く評価し、自己の養子に迎え入れました。
刃傷のおりにはすでに隠居していましたが、討入には参加しました。

この石像を見ていたあるおじさんは、こちらが堀部安兵衛だと勘違いしていたようです。
(弥兵衛を「やすべえ」と読むのだと結論付けていました)



参道の終わりに構えている神門は、義芳門というそうです。

この門は明治5年、楠木正成を祀る湊川神社の神門として建てられましたが、昭和17年に大石神社に移築されたものです。
湊川神社の建造物は、空襲により焼失してしまいましたが、この門は移築のため焼失を免れました。



義芳門そばの右脇には、筆頭家老・大石内蔵助良雄



左脇には、大石内蔵助の子・大石主税ちから吉金
大石内蔵助は吉良邸討入りで表門隊の大将(いわば総大将)を務め、主税は裏門隊の大将を務めました。



義芳門をくぐって境内へ。



まず目を惹いたのが、身近な怒りの川柳コンクール大絵馬なる絵馬。

忠臣蔵の原点は、赤穂義士達の幕府に対する義憤公憤という「怒り」なのです。
この怒りが討ち入りとなり、本懐を遂げたのです。
赤穂は、皆様の身近な怒りを川柳としてお預かりし、怒りを鎮めて参ります。


忠臣蔵の原点って、「怒り」だったのかい?
それはともかくも社会風刺の川柳が多く連ねられていますねぇ。

もう少し 長生きします 悪しからず

おとなりの 旦那が家事を やりすぎる


社会風刺の川柳よりも、こういった川柳のほうが私は好きですね。


そのとなり、御守りなどを販売するところ。



大石内蔵助以下の四十七士、浅野内匠頭に、敵役の吉良上野介。
なんと赤穂では49種類のご当地キティを売っているのです!
ご当地キティのコンプリートはなかなかの行であることがわかります(^_^;)




拝殿でこの旅の無事を祈願し、あっさりと大石神社を後にしました。





二宮神社で初詣

2016-03-11 | 神社


2 0 1 6 年 1 月 5 日 ( 火 )

午 後 1 2 時 4 3 分

千 葉 県 船 橋 市

二 宮 神 社



正月三が日は終わり、新年の森羅万象が始動していた頃。
私たちは世に背を向けるがごとく、あっさり休日をとったのでした。


休日の晴天、家に籠るのももったいないということで、本年の初詣をすべく、船橋市内の二宮神社を訪れたのでした。



あっ・・・いきなり社殿。
裏手から来てしまったのか・・・。



神社の参拝は表参道を通るというこだわりのある私。
ここは仕切り直し、ということで・・・・・・







2 0 1 6 年 1 月 5 日 ( 火 )

午 後 1 2 時 4 6 分

千 葉 県 船 橋 市

二 宮 神 社



二宮神社の表参道に来ました。



二宮神社の境内は、一の鳥居をくぐって入ります。

鳥居の先は谷になっていて、参道はまず下り、そして上るという具合になっています。
そして谷には小川が流れています。



季節外れの赤いモミジがきれいでした。



参道を上り二の鳥居へ。
鳥居の間から社殿がじょじょに見えてきました。



二の鳥居の傍らに立つのは、ご神木の大いちょうで、樹齢は約400年といわれます。


二の鳥居をくぐります。
まずは手水舎でみそぎをします。



なんともかわいらしいツインテールの女の子が、手水の作法を教えてくれます。
小学校高学年くらいと思われる女の子、手水の作法を完全には覚えていなかったご様子。

左手で口元を隠しながら、すすいだ水を流す。
そしてひしゃくに残っている水で、その柄を洗う。

ここまでしっかりこなして、ようやくお参りです。




江戸時代中期の1730年ごろに建てられた拝殿【船橋市指定文化財】。
はじめは茅葺きでしたが、大正時代に屋根を銅葺きに改築されて、現在に至ります。

 

竜や唐獅子の彫り物が見事。



拝殿の奥にある本殿【船橋市指定文化財】。
当時の宮大工の仕事が光ります。


「私のことよりも、傍らの人をお守りください・・・」


お参りをしたところで、少々休憩。

二宮神社は船橋市内にあるため、「ふなっしー御守り」なども売っていました。
私たちはそのようなものには目もくれず、正統派?のおみくじ(100円)を引くことに。



さすがは私、みごと大吉を引き当てました!
傍らの方も、2番目によいとされる

私の引いたおみくじより・・・

恋愛  愛情を信じなさい

いっぽう傍らの方は・・・

恋愛  今の人が最上迷うな
縁談  人のことばに迷わず心を定めよ吉


しかし私のおみくじには・・・

縁談  急いでは破れる恐れあり 時を待つがよろし

100%ではないけども、とても嬉しい記述がありました。


おみくじを信じるわけではないけども、そばにいる人は信じたい。
もし神様がいるのなら、こう願いたい。

「私の自摸が悪くなってもいいから、そばにいる方をお守りください・・・」



・・・なんか、しっとりした記事になってしまいました(^_^;) 駄文失礼。



年末年始の私的旅 完

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亀戸天神

2014-06-03 | 神社

2 0 1 4 年 5 月 2 日 ( 金 )

午 前 1 1 時 4 6 分

東 京 都 江 東 区

亀 戸 天 神 社



藤の花咲く亀戸天神社を参拝します。





平日だというのに、とんでもないにぎわいです。
休日平日関係ないご年齢の方々がかなり多くおります。

亀の甲羅をかたどっているような太鼓橋で渋滞が起きています。
橋の頂上付近で一眼レフを構えて動かない初老の爺がいました。



橋の頂上から見えるスカイツリーと藤棚です。
おそらくくだんの爺が撮っていたと思われるものです。



藤棚の下ではつつじが咲き誇っています。







人ごみに流されながらも、藤棚とつつじを愉しみます。









亀戸天神の藤棚も満開ではないようです。
でも市川・高圓寺の藤棚とはちがって花が散ってしまったようではありませんでした。
見ごろはもう少し先なのでしょう。


それでは亀戸天神社を詣でます。
お祀りしているのは学問の神様とされる菅原道真公です。



最初の鳥居から太鼓橋を2本渡って拝殿に進みます。
太鼓橋は思いのほか傾斜が急です。



亀の像から水が出る手水舎です。
「亀戸」ですから。



「無事に横浜に着きますように」
「鬼ヅモ大会、優勝できますように」
学問とはほとんど関係ない内容を祈願しました。


拝殿の脇が少しばかりにぎわっています。



 

私もミスター(鈴井貴之氏)にも乗りこなせない竹馬を、お猿さんが乗りこなしています!
はじめて猿回しという芸能をまじまじと見ていきました。



亀戸天神を出た時刻、午後12時半。
ランチを求め、そびえ立つスカイツリーへと向かいます。




葛飾八幡宮で必勝祈願

2014-05-30 | 神社

2 0 1 4 年 5 月 2 日 ( 金 )

午 前 9 時 3 0 分

千 葉 県 市 川 市

葛 飾 八 幡 宮



日は変わって5月。
所は変わってJR本八幡駅付近です。



国道14号千葉街道、市川市役所のすぐそばに、一の鳥居とともに葛飾八幡宮の参道がのびます。



京成本線の踏切を越え、二の鳥居をくぐると、八幡宮の境内です。

境内の脇にある市川市民会館の駐輪場に自転車を止め、参拝開始です。


公孫樹並木に覆われた境内を歩いていきます。

そうそう、「公孫樹」と書いて「いちょう」と読むんです。
なんだか三国志にこんな名前の武将がいそうな気もしますねぇ。
「いちょう」というと、「銀杏」と漢字表記されるのが一般的ですが、本稿ではあえて「公孫樹」と書いていきます。

公孫樹並木の先に待ち受ける門構え。



両脇に随身が鎮座する随神門【市川市指定文化財】です。
「随身」とは近衛府に所属する警護の官人、現在でいうところのSPにあたります。
随身の像が門の両脇に奉納され、神域を保護する門のことを「随神門」といい、この場合の随身は「随神」と表記されます。

この随神門は、もともとは上野寛永寺の末寺の仁王門であったそうで、以前は随神ではなく仁王像が安置されていました。
明治政府の神仏分離により、この門が葛飾八幡宮のものとなり、仁王像は別所に移されて随神が奉納されて現在に至っているそうです。


随神門をくぐって中に入ると、もうひとつ門構えがあります。



そして左側には源頼朝公駒どめの石があります。

 

平家を打倒すべく伊豆で挙兵した頼朝は、石橋山の戦いで一敗地にまみれ、安房国まで逃れます。
ここで千葉常胤つねたねらの援助を受けて下総まで進撃に成功。
葛飾八幡宮を参拝して戦勝と武運長久を祈願しました。
このときに頼朝の馬がこの石に前脚を掛け、ひづめの跡を残したといいます。


私も頼朝公にあやかって、武運長久を祈願します。



「チャリで無事に横浜に着きますように」
「鬼ヅモ大会、たまにゃ~優勝させてくださいな」


寛平年間(889年~898年)に宇多天皇の勅命で、石清水八幡宮より勧請かんじょうして建立されたといいます。
祭神は誉田別尊ほむたわけのみこと(応神天皇)気長足姫尊おきながたらしひめのみこと神功じんぐう皇后)玉依姫尊たまよりびめのみことです。

神功皇后は仲哀天皇日本武尊の子)の皇后で、仲哀天皇が若くして崩御された後に天皇の位を60年以上!!も代行されました。
皇后はご懐妊の身のまま出兵して海を渡り、戦わずして新羅を屈服させ、さらに百済と高句麗に朝貢(貢物を献上する)を約束させました(三韓征伐)。
三韓征伐の帰り、筑紫国宇美(備前国宇野とも)でご出産されました。
その子が応神天皇です。

応神天皇は第15代の天皇で、歴史学上での存在が確実視されている最初の天皇とされています。
神功皇后が薨去されてから天皇の位につきました。このとき天皇の御年、71歳!!
新羅が百済を圧迫していたときに軍を派遣して百済を援け、百済より多くの民が渡来しました。
日本書紀によると、在位41年目の111歳!!!!で崩御され、子の仁徳天皇が後を継がれました。

なお玉依姫尊は、神霊を宿す女性・巫女一般をいい、固有名詞ではありません。



本殿での祈願のあとは、境内を散策します。



葛飾八幡宮の御神木・千本公孫樹【国指定天然記念物】です。



この公孫樹の根元を見ると、複数の木がまるで束になって一本の木をなしているようにも見えます。
また根回りは10.2m、目通りは10.8mと、上の方が少し太いのも、「千本」のように見える要因になっています。

この公孫樹は千本ではなく一本です。
かつて落雷にあって折れた太い幹を囲うように、多数の枝が根元から合着して立ち上がっています。
またこの公孫樹は雄株なので、銀杏は落としません。



神社なのに鐘楼があります。
これも随神門と同様、神仏分離前にあった寺院の名残です。


境内末社をひととおり。



まずは鐘楼の前にある厳島社



次に富士塚&浅間神社



そのとなりは八坂社



さらに尾上稲荷社



最後に葛飾天満宮です。

このあたりに本宮の鳥居が立っていて、裏参道の入口となっています。



二の鳥居付近まで引き返しました。
時刻は午前9時52分。

これから横浜へ・・・行く前に、私はもう1ヶ所市川市内で寄り道をします。



※「勧請」
  ほかの社の祭神の神霊を分けて、別の神社にうつすことをいいます。

※「摂社」「末社」
  本社の管理に属する別の社を「摂末社」といいます。そして、
   (1)本社の祭神の后神や御子神など、関係ある祭神が祀られている社
   (2)本社の祭神の荒ぶる魂を祀る社
   (3)本社が遷る前に、当地で祀られていた祭神を祀る社
   (4)その他、特別な由縁がある社
  に当てはまる場合は「摂社」、当てはまらない場合は「末社」といいます。
   




水戸黄門神社

2014-04-01 | 神社

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 3 7 分

水 戸 市 三 の 丸



水戸城跡通りから国道51号に入った私は、このまま水戸駅方向へ歩きました。

すると、左車線側になにかを発見。



道路を横切って確認してみると、「水戸黄門神社」とありました。



水戸黄門神社は通称で、正式名称は義公祠堂というそうです。
義公とは、水戸黄門こと徳川光圀おくりな(死後に与えられる尊称)で、このあたりで光圀が生誕したといいます。



しかしこの筋骨隆々の光圀公ののぼりはなんなんだろう(^_^;)


徳川光圀は、徳川家康の孫、水戸徳川家初代頼房の三男で水戸藩の2代藩主となりました。

家臣の三木仁兵衛の屋敷で産まれました。頼房は流産させるように命じていたようですが、三木はその命に反し光圀の母をかくまったといいます。
若いころは吉原通い辻斬り(!!)をするなど札付きのワルでしたが、『史記』の「伯夷伝」を読んで素行をあらためたといいます。
光圀の名は、3代将軍家光から「光」の字を拝領したものであり、家光の高い評価を受けて頼房の次の藩主に指名されたといいます。
光圀は兄を差し置いて藩主になることをかなり気にしたようで、後に自分の子を兄に養子に出し、自らは兄の子(綱條(つなえだ))を養子として藩主の座を継がせました。

長じて学問を好み、『大日本史』の編纂事業を開始したのはあまりにも有名です。

水戸藩主は参勤交代の例外として、常に江戸に滞在するのが通例でした。
光圀は歴代藩主の中で最も水戸に入った回数が多いそうです。
また隠居したあとは、西山荘(常陸太田市)で『大日本史』の事業に勤しんでいました。

諸国を漫遊したのはもちろんフィクションで、実際には鎌倉や日光などに数回、最西端は熱海、最北端は勿来(福島県いわき市)までは足を運んだそうです。





それでは参拝。
「このまま天気がもちますように」
10円玉をお賽銭として奉納し、水戸黄門神社を後にしました。あっさりしたもんですな。




黄門様御一行の後ろ姿が見えて、水戸駅に到着。
このままもういちど水戸城三の丸へと歩き出します。

次は弘道館【国指定特別史跡】に入ります。


水戸城跡通りから水戸黄門神社、弘道館への足取りです。




いい天気なんだけど、少し暑いですな(^_^;)




二度目詣で・神崎神社

2014-03-03 | 神社


2 0 1 4 年 1 月 7 日 ( 火 )

午 前 1 1 時 3 5 分

千 葉 県 香 取 郡 神 崎 町

神 崎 神 社



加藤洲十二橋から利根川まで進み、そのまま利根川沿いを西へ。


神崎大橋で利根川を渡ると、森に覆われた小高い丘が見えます。
鎮守の森の中に、神崎神社は鎮座しています。



表参道と思われる入口まで来ました。
ママチャリ「飛電」はとなりの空き地に留め置いて、参拝へ。

参道の階段を上りきると、



あれれ、下り階段です。



右側にはコンパクトな境内末社・金刀比羅宮が鎮座しています。

ゆるやかな下り階段を下りると、



今度は上り階段。なんなんじゃ~(^_^;)

階段に挟まれた谷間のところには、境内末社・三峯神社が鎮座しています。




神社の入口から階段を上って下りてまた上ると、ようやく神崎神社の拝殿に到着です。
ようやく、といってもまっすぐ進めば5分もかかりません。


神崎神社の起源はかなり古く、社伝にとれば白鳳6年(673年)に常陸国と下総国の境界にあった「大沼浦二つ塚」というところから移ってきたそうです。
前は「子松神社」という呼称でしたが、明治以降に神崎神社と改められ、県社に列せられています。

主な祭神は天鳥船神(あめのとりふねのかみ)です。
国譲り(葦原中国平定)の際に、鹿島神宮の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)や香取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)らの副使として派遣されました。
また、その名のとおり、神々が乗る船にもなれたそうです。
そのため、航行の神、交通の神として祀られています。





神崎神社拝殿で、本年二度目の参拝。
お祀りされているのは交通の神様ということなので、「ママチャリがパンクしませんように」と重々お願いしました。





拝殿の右隣に立っているたいそうご立派な大木は神崎の大クス【国指定天然記念物】で、「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれています。


某時代劇の影響で「副将軍」の役職をもっていたとか、老齢なのに日本全国を歩き回ったとか思われている「水戸黄門」こと徳川光圀
もちろんこれらはフィクション。
水戸藩主は江戸に最も近い徳川御三家の当主として、江戸に常駐していました。参勤交代の例外とされます。
徳川光圀は歴代水戸藩主の中では比較的よく外出したようで、領国の常陸にもよく戻っていました。
そのお出かけにぶらりと立ち寄ったのが神崎神社で、光圀は神崎の大クスを見て驚嘆し、「この木は何というもんじゃろうか」と自分に問うたそうな。






神崎神社の境内はそれほど広くないのに、「なんじゃもんじゃの木」はえらくデカいので、カメラに収めるのはなかなか難しかったです。



滞在時間は15分くらいでしたが、少しばかりホッとする神社でした。
正月も終わり参拝客が私だけでしたので、とても落ち着くことができました。



交通の神様のご利益があったのか、「飛電」に大きなトラブルもなく、私は利根川沿いを西進していきました。



「第61回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記」最終話へ続く