鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

再訪!初詣・鹿島神宮

2014-02-12 | 神社


2 0 1 4 年 1 月 6 日 ( 月 )

午 後 3 時 0 4 分

茨 城 県 鹿 嶋 市

常 陸 国 一 ノ 宮 ・ 鹿 島 神 宮



長い連休明けの仕事始めであるこの日、世の動きに背を向けるがごとく、私は初詣のために鹿島神宮にやってきた。



2011年3月の震災からもうすぐ3年がたとうとしているが、震災による崩壊の危険から撤去された白い石の二の鳥居はいまもない。

そしてそれをいいことに(!?)テキヤの連中が境内入口のそばまで露店を構え、そして社号標の前にトラックを停めやがった!!

まったく民度の低い連中である。
境内で露店を構えさせてもらっているのに、神宮に対してこの不敬な振る舞い。
観光客相手の商売であろうに、その観光客が写真を撮るであろう社号標の前に車を停める短慮。

こうして私は、鹿島地域一帯の祭りにわいて出るテキ屋の輩にはびた一文払わないと固く誓うこととなる。



・・・・・・取り乱して失礼しました。



手水舎でみそぎをした私は、初詣客のためにほんの少しだけ装いを加えた楼門【国指定重要文化財】をくぐる。



寛永11年(1634年)水戸徳川家初代当主・徳川頼房光圀の父)により奉納されたもので、筥崎(はこざき)八幡宮(福岡県)、阿蘇神社(熊本県)とともに日本三大楼門のひとつとされる。
また「鹿島神宮」の扁額は、東郷平八郎元帥の書によるものという。


楼門をくぐると、杜の参道からひらけた空間があらわれる。



参拝者でにぎわう拝殿【国指定重要文化財】。
朱色の目に映える楼門に対し、落ち着いた色調の拝殿である。

仕事始めのこの日は、地元の企業や営業所の従業員とおぼしき黒服の連中が昇殿していた。
中から聞こえる祝詞をかたわらに、私も5円を賽銭箱に入れて二拝二拍一拝。


拝殿の奥には、本殿【国指定重要文化財】と御神木がたたずんでいるが、



この日は初詣用の造作が多く、向こうの本殿はよく見えなかった。

もとは伊勢の神宮のように、20年ごとに社殿を建て替えていた。
現在の社殿は、元和5年(1619年)2代将軍・徳川秀忠により奉納されたものだ。



拝殿から右向かいに建つ仮殿【国指定重要文化財】。
拝殿とは対照的に、参拝客にはあまり見向きもされないのであるが、本殿の修復などの際に、祭神の仮のすまいとされた。


また、拝殿の向かいには宝物殿がある。入館料は300円。
直刀・金銅黒漆塗平文拵(ちょくとう こんどうくろうるしぬりひょうもんごしらえ)【国宝】という奈良時代の刀が奉納されている。
ほかに源頼朝が奉納した乗馬の鞍(梅竹蒔絵鞍【国指定重要文化財】)もある。



神宮の杜はさらに続く。




鹿島神宮は、下総国一ノ宮・香取神宮、神栖市の息栖神社とともに「東国三社」にかぞえられる。
「東国三社」は、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)国譲りにかかわる神が祀られている。

御祭神は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

地上では、出雲の大国主命により国づくりがすすんでいた。
高天原の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、地上の国は神の子孫によって治められるべきと考え、国を献上するよう何度も使いを送った。
しかし大国主は、のらりくらりとかわして、なかなか前進しない。

ついに天照大御神は、武力に秀でた武甕槌大神と経津主大神(ふつぬしのおおかみ)(香取神宮の祭神)を使者として送り込んだ。

二神は、出雲の浜に剣を突き刺し、国譲りを強く迫った。
大国主は、「息子たちが同意したら、自分も同意する」と返事する。
大国主の長子・事代主命(ことしろぬしのみこと)は承知したが、末子・武御名方命(たけみなかたのみこと)は承服しなかった。

そこで武甕槌と武御名方は、力比べをすることとなり、武甕槌は武御名方をぶん投げてしまった。
これが相撲の起源とされている。

なおも追う武甕槌、逃げる武御名方。
現在の諏訪湖で追いつめられた武御名方は降伏。
武御名方は諏訪の地から離れないこと約束、その後は信濃国の発展に尽力した。
(武御名方神は、諏訪大社の祭神として祀られている)

こうして国譲りは完了する。
武甕槌と経津主の二柱の神は、以後も東国に留まって経国に力を尽くしたという。

武甕槌大神は、のちに熊野で東征中の神武天皇布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を授け、その窮地を救っている。


なお古事記や日本書紀の記述では、香取神宮の経津主大神よりも鹿島神宮の武甕槌大神の活躍が目立っている。
これは一説によると、中臣鎌足の父の出自が鹿島神宮の神官であったためであるともいわれる。
そして武甕槌大神は藤原氏の氏神でもある。




拝殿からだいたい200mほど歩くと、少しばかりかぐわしいにおいとともに鹿園があらわれる。



「鹿島」という地名だけあって、鹿とのゆかりは深い。
もともとは「鹿島」ではなく「香島」であったという。

祭神である武甕槌大神のもとに、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を伝えにきた。
奈良の春日大社の創建に際しては、鹿島の鹿が多く奈良まで行ったとされる。
奈良公園の鹿は、元をたどれば鹿島の鹿がルーツである。
鹿島の鹿は、長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の鹿の系統を受けている。


鹿園の脇には、さざれ石が鎮座している。



小さな石の集まりが、降雨により石灰質が溶け、再び固まって岩のようになったものである。

我が君は 千代に八千代に さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで

(古今和歌集巻七・賀歌巻頭歌、題知らず、詠人知らず)



鹿園からさらに進むと、摂社奥宮本殿【国指定重要文化財】。



楼門、拝殿や本殿とは趣を異にする質素で、まるで神宮の杜に溶け込んでいるような。
慶長10年(1605年)徳川家康により奉納されたもので、元はこちらが本殿であった。
秀忠が本殿を奉納するにあたり、こちらの旧本殿は奥宮として移された。

時刻は午後3時半を回ろうとしていた。
参拝客が多かったからなのか、閉園時刻?が近づいているからか、職員が賽銭を回収していた。
(画像の賽銭箱右に職員のジャンパーが写ってます)



鹿島神宮の奥宮からは、坂を下る道と細い脇道に分かれている。

まずは坂を下らない道を奥に進んだ。
武甕槌大神が大ナマズの頭上に立っている石像が据え置かれていて・・・







パワースポットとしてすっかりメジャーとなった要石
大地震を起こすという大ナマズの頭を押さえつけているという。
「鹿島の七不思議」のひとつであり、水戸の徳川光圀が要石を掘り起こそうとしたが、領民が7日7晩掘り続けても底が見えなかったという。



次いで、坂を下った道を進み、



清らかな水を絶えることなくたたえる御手洗池
本来の参拝は、この池に全身を浸しみそぎをする。
その水位は、大人小人によらず、みそぎをする者の乳を超えないという。
底なしの要石とともに、「鹿島の七不思議」のひとつとされる。





震災後にはなかったナゾのがけ崩れが起きていた。




御手洗側にそびえ立っていた鳥居も、いまだ撤収されたままだった。




午 後 3 時 4 7 分

も と の 参 道 を 戻 る


もとの参道を逆に戻る。
御手洗池から奥宮にかけての坂道がえらくキツい。





空は朱色に染まり始め、神宮の杜は暗がりに包まれつつある。



楼門をあたたかい陽ざしが包む。



私のすさんだ心をも温めるかにみえたが・・・



二の鳥居の跡地。
邪魔なテキ屋どもが撤収準備を始めて、ようやく見ることができた。


なっ! まだトラックをどけてないのか!!
神宮の厳かな雰囲気をぶち壊す・・・というより社号標のちゃんとした画像を撮影できなかったことに、またも怒りがこみ上げたまま神宮を後にする。




午 後 4 時 3 5 分

茨 城 県 鹿 嶋 市

国 道 5 1 号 新 神 宮 橋


実家に帰るべく、私はママチャリ「飛電」を駆って国道51号を疾走する。



北浦を照らす陽光は・・・



鰐川のほとりに立つ鹿島神宮の一の鳥居を照らしていた。




靖国神社境内散策

2013-11-28 | 神社

2 0 1 3 年 6 月 2 0 日 ( 木 )

午 前 1 1 時 4 6 分

靖 国 神 社 境 内



小雨の中、さらに靖国神社の境内を散策していく。




旧日本軍に関する資料を展示する遊就館

この日は「大東亜戦争七十年展」もやっており、入館する気満々であった。
しかし財布を見ると思いのほか貧弱な陣容である。
周囲にATMなどあろうはずもなく、泣く泣くあきらめることとなった。


境内の奥まったところまで歩き、神池庭園へ。





境内の茶室?「靖泉亭」と庭園。















庭園に立つ一台の自販機。



財布の内情は、鯉にえさを与えることを許さなかった。



雨が止んで再び拝殿前へ。



拝殿の脇の南門から、



境内を出て、靖国通りへ。



靖国通り方の入口である石鳥居を背にして、靖国神社を後にした。



・・・遊就館、行っとけばよかったなぁ。
入口ロビーに展示されている「零戦」は無料で見れたのだった・・・。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第10話へ続く。

靖国神社参拝

2013-11-28 | 神社

2 0 1 3 年 6 月 2 0 日 ( 木 )

午 前 1 1 時 1 7 分

東 京 メ ト ロ 九 段 下 駅



平日の真昼間。
この日は立川にて私用をなし、その帰りに寄り道をしたのだった。

前話までで回りきれなかった江戸城を制覇しよう。

なお今回はデジカメが故障しており、スマホのカメラを使うこととなる。




この日の予定ルートは、東京メトロ九段下駅から日本武道館のある北の丸公園へ。
北の丸公園の南から北桔橋(はねばし)門より皇居東御苑(江戸城本丸・二の丸・三の丸)に入って大手門に至る。
前話の大手門から本丸に入っていくルートとは逆になる。



その前に、江戸城制覇を祈念して、聖地・靖国神社を参拝する。



靖国神社は明治2年(1869年)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりであり、明治12年(1879年)に明治天皇の命名により「靖国神社」と改称された。

靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853年)以降、明治維新、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、国を守るために尊い生命を捧げた人々が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じた尊い神霊(靖国の大神)として祀られている。

靖国神社には、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達、さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国家防衛のために亡くなった人々の神霊が祀られており、その数は246万6千余柱に及ぶ。
その中には、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなった学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれ、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された者の神霊も祀られる。

このように多くの神霊が、身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られているのは、靖国神社の目的が唯一、「国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にある。
靖国神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」であるという一点において共通する。




さて、九段下駅から靖国通りを歩き、早稲田通りとの交差点のところから、靖国神社の神域となる。



「靖国神社」の社号標を傍らに、大きくそびえ立つ大鳥居(第一鳥居)
大きさは日本一で、高さは25メートル。
現在の鳥居は3代目で、昭和49年(1974年)に奉納されたものである。

大鳥居の中からも伺える銅像。



参道の中央にそびえ立つ孤高の銅像・大村益次郎像
日本最初の西洋式銅像であり、明治26年(1893年)に建てられた。
(西洋式銅像ってのは、西洋の鋳造技術を用いて造られた銅像、だそうな。
これ以上のことはよくわからん)


参道を歩いて、公道を一本はさむ。
この時期は7月中旬のみたままつりに向けての準備が始まっていた。



参道の両側に侍立する大灯籠も、ちょうちんやぼんぼりを懸ける骨組みに囲まれている。
灯籠の脚部のレリーフには、祀られる神霊たちの勇姿が刻まれている。

 ※執筆時に「骨組み」という言葉が出なくて、これ以降約5か月放置することに・・・



第二鳥居も大きいねぇ。
明治20年(1887年)に建てられ、青銅製の鳥居としては日本一大きい。



手水舎で手と口を清め、参拝へ。


参拝客を迎え入れる神門は、昭和9年(1934年)建造。





大きな菊の御紋は直径1.5メートルもある!




靖国神社の灯籠はどれも豪奢で見事なものばかりだ。




中門鳥居拝殿
鳥居はまだ新しく、檜でできている。



拝殿からで二百四十余万柱の神霊を拝す。
明治34年(1901年)建造、屋根は平成元年(1989年)に葺替え。



拝殿の先に、明治5年(1872年)建造の本殿が建つ。
本殿は神霊が鎮まる場所であるから、拝殿の撮影は本殿の中が見えないようにわずかに斜めの角度からしなければならない。
(守衛さんがどこかの外国人に言っていました)


歩き疲れたのでベンチで一休み。



ベンチの向こうにたたずむ能楽堂
明治14年(1881年)に芝公園に建てられたものを、明治36年(1903年)に靖国神社に奉納、移築したものだという。


足の疲労が引いてきたころ、小雨が降ってきた。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第9話へ続く。

雪よ止むべし・・・尾山神社

2012-10-28 | 神社

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 後 2 時 1 0 分

石 川 県 金 沢 市

尾 山 神 社



尾山神社にたどり着いたとき、風雪+1時間に2回の割合でカミナリという最悪の天候でした。

尾山神社・東神門

神社の裏口にあたる東神門【国指定登録有形文化財】から境内に入ります。


尾山神社の庭園もなかなかのものなのですが・・・

尾山神社・庭園1

尾山神社・庭園2

こう風雪が強いとなると、観賞なんてまったくできません。
早いとこ参拝して帰ろうかなぁ。


尾山神社の祭神・前田利家の銅像。

前田利家公像

「赤母衣衆」という、織田信長の側近を務めていた若かりしころの銅像です。

金鯰尾兜

前田利家所用の「金鯰尾兜」(←読めない)の像?

そして前田利家の正妻・お松の方(芳春院)の石像。

お松の方石像

お松の方も尾山神社の祭神になっています。


神社でお参り。

尾山神社拝殿

「この風雪を止ませたまえ!」
「カミナリ止めて!!」

尾山神社・ご朱印

拝殿の脇にある社務所でご朱印をもらい、神社をあとにします。


尾山神社・神門(境内側)

表門は、尾山神社のシンボルともいうべき神門【国指定重要文化財】。

尾山神社・神門(入口側)

明治に建てられた神門は、見た目にもわかるように和洋折衷のめずらしい造りになっています。
神社建築で和洋折衷のものはそれほど多くないのだそうです。


神門から境内を出ました。
そのころには、ひどかった天候も落ち着きを取り戻していました。

たった5円の賽銭にあれだけの霊験を示す前田利家公・・・さすがは戦国の「律義者」です。



尾山神社から、金沢のショッピング街・香林坊こうりんぼう方面へ歩きます。

旧第四高等中学校本館

旧第四高等中学校本館【国指定重要文化財】。
旧四高は、現在の金沢大学にあたります。
現在は、石川四高記念文化交流館と石川近代文化館として一般に開放されています。



そしてこの日最後の目的地・金沢21世紀美術館へ歩いていきました。