長い連休明けの仕事始めであるこの日、世の動きに背を向けるがごとく、私は初詣のために鹿島神宮にやってきた。
2011年3月の震災からもうすぐ3年がたとうとしているが、震災による崩壊の危険から撤去された白い石の二の鳥居はいまもない。
そしてそれをいいことに(!?)テキヤの連中が境内入口のそばまで露店を構え、そして社号標の前にトラックを停めやがった!!
まったく民度の低い連中である。
境内で露店を構えさせてもらっているのに、神宮に対してこの不敬な振る舞い。
観光客相手の商売であろうに、その観光客が写真を撮るであろう社号標の前に車を停める短慮。
こうして私は、鹿島地域一帯の祭りにわいて出るテキ屋の輩にはびた一文払わないと固く誓うこととなる。
・・・・・・取り乱して失礼しました。
手水舎でみそぎをした私は、初詣客のためにほんの少しだけ装いを加えた楼門【国指定重要文化財】をくぐる。
寛永11年(1634年)水戸徳川家初代当主・徳川頼房(光圀の父)により奉納されたもので、
また「鹿島神宮」の扁額は、東郷平八郎元帥の書によるものという。
楼門をくぐると、杜の参道からひらけた空間があらわれる。
参拝者でにぎわう拝殿【国指定重要文化財】。
朱色の目に映える楼門に対し、落ち着いた色調の拝殿である。
仕事始めのこの日は、地元の企業や営業所の従業員とおぼしき黒服の連中が昇殿していた。
中から聞こえる祝詞をかたわらに、私も5円を賽銭箱に入れて二拝二拍一拝。
拝殿の奥には、本殿【国指定重要文化財】と御神木がたたずんでいるが、
この日は初詣用の造作が多く、向こうの本殿はよく見えなかった。
もとは伊勢の神宮のように、20年ごとに社殿を建て替えていた。
現在の社殿は、元和5年(1619年)2代将軍・徳川秀忠により奉納されたものだ。
拝殿から右向かいに建つ仮殿【国指定重要文化財】。
拝殿とは対照的に、参拝客にはあまり見向きもされないのであるが、本殿の修復などの際に、祭神の仮のすまいとされた。
また、拝殿の向かいには宝物殿がある。入館料は300円。
ほかに源頼朝が奉納した乗馬の鞍(梅竹蒔絵鞍【国指定重要文化財】)もある。
神宮の杜はさらに続く。
鹿島神宮は、下総国一ノ宮・香取神宮、神栖市の息栖神社とともに「東国三社」にかぞえられる。
「東国三社」は、出雲の
御祭神は、
地上では、出雲の大国主命により国づくりがすすんでいた。
高天原の
しかし大国主は、のらりくらりとかわして、なかなか前進しない。
ついに天照大御神は、武力に秀でた武甕槌大神と
二神は、出雲の浜に剣を突き刺し、国譲りを強く迫った。
大国主は、「息子たちが同意したら、自分も同意する」と返事する。
大国主の長子・
そこで武甕槌と武御名方は、力比べをすることとなり、武甕槌は武御名方をぶん投げてしまった。
これが相撲の起源とされている。
なおも追う武甕槌、逃げる武御名方。
現在の諏訪湖で追いつめられた武御名方は降伏。
武御名方は諏訪の地から離れないこと約束、その後は信濃国の発展に尽力した。
(武御名方神は、諏訪大社の祭神として祀られている)
こうして国譲りは完了する。
武甕槌と経津主の二柱の神は、以後も東国に留まって経国に力を尽くしたという。
武甕槌大神は、のちに熊野で東征中の神武天皇に
なお古事記や日本書紀の記述では、香取神宮の経津主大神よりも鹿島神宮の武甕槌大神の活躍が目立っている。
これは一説によると、中臣鎌足の父の出自が鹿島神宮の神官であったためであるともいわれる。
そして武甕槌大神は藤原氏の氏神でもある。
拝殿からだいたい200mほど歩くと、少しばかりかぐわしいにおいとともに鹿園があらわれる。
「鹿島」という地名だけあって、鹿とのゆかりは深い。
もともとは「鹿島」ではなく「香島」であったという。
祭神である武甕槌大神のもとに、鹿の神である
奈良の春日大社の創建に際しては、鹿島の鹿が多く奈良まで行ったとされる。
奈良公園の鹿は、元をたどれば鹿島の鹿がルーツである。
鹿島の鹿は、長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の鹿の系統を受けている。
鹿園の脇には、さざれ石が鎮座している。
小さな石の集まりが、降雨により石灰質が溶け、再び固まって岩のようになったものである。
巌となりて 苔のむすまで
(古今和歌集巻七・賀歌巻頭歌、題知らず、詠人知らず)
鹿園からさらに進むと、摂社奥宮本殿【国指定重要文化財】。
楼門、拝殿や本殿とは趣を異にする質素で、まるで神宮の杜に溶け込んでいるような。
慶長10年(1605年)徳川家康により奉納されたもので、元はこちらが本殿であった。
秀忠が本殿を奉納するにあたり、こちらの旧本殿は奥宮として移された。
時刻は午後3時半を回ろうとしていた。
参拝客が多かったからなのか、閉園時刻?が近づいているからか、職員が賽銭を回収していた。
(画像の賽銭箱右に職員のジャンパーが写ってます)
鹿島神宮の奥宮からは、坂を下る道と細い脇道に分かれている。
まずは坂を下らない道を奥に進んだ。
武甕槌大神が大ナマズの頭上に立っている石像が据え置かれていて・・・
パワースポットとしてすっかりメジャーとなった要石。
大地震を起こすという大ナマズの頭を押さえつけているという。
「鹿島の七不思議」のひとつであり、水戸の徳川光圀が要石を掘り起こそうとしたが、領民が7日7晩掘り続けても底が見えなかったという。
次いで、坂を下った道を進み、
清らかな水を絶えることなくたたえる御手洗池。
本来の参拝は、この池に全身を浸しみそぎをする。
その水位は、大人小人によらず、みそぎをする者の乳を超えないという。
底なしの要石とともに、「鹿島の七不思議」のひとつとされる。
震災後にはなかったナゾのがけ崩れが起きていた。
御手洗側にそびえ立っていた鳥居も、いまだ撤収されたままだった。
もとの参道を逆に戻る。
御手洗池から奥宮にかけての坂道がえらくキツい。
空は朱色に染まり始め、神宮の杜は暗がりに包まれつつある。
楼門をあたたかい陽ざしが包む。
私のすさんだ心をも温めるかにみえたが・・・
二の鳥居の跡地。
邪魔なテキ屋どもが撤収準備を始めて、ようやく見ることができた。
なっ! まだトラックをどけてないのか!!
神宮の厳かな雰囲気をぶち壊す・・・というより社号標のちゃんとした画像を撮影できなかったことに、またも怒りがこみ上げたまま神宮を後にする。
実家に帰るべく、私はママチャリ「飛電」を駆って国道51号を疾走する。
北浦を照らす陽光は・・・
鰐川のほとりに立つ鹿島神宮の一の鳥居を照らしていた。