鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

出石城~断念

2020-05-06 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 後 二 時 十 五 分

兵 庫 県 豊 岡 市 出 石

い ず し 観 光 セ ン タ ー



城下町出石に降りしきる、遊びのない雨。
その城下町で、私は皿そばをたらふく食べてしまいました。
城に登るにはマイナスの要因ばかりではありますが、これより出石城【豊岡市指定史跡】へ向かいます。



その前に、出石観光の拠点・いずし観光センターに立ち寄ります。



観光センターのインフォメーション窓口に、続100名城スタンプが置いてあります。



162番、出石城・有子山城!
162番だけは2城でひとつとなっています。
前方の石垣と櫓が出石城、後方の山にポツンとある石垣は有子山城【国指定史跡】です。
なぜここだけセットになっているのかというと・・・


応永5年(1372年)ごろ、出石の北にある此隅山(このすみやま)に、但馬国の守護であった山名時義により此隅山城が築城されました。
応仁元年(1467年)の応仁の乱では、時義の孫・持豊(宗全)は此隅山城から出陣しています。



なぜここで此隅山城【国指定史跡】が出てくるのかというと・・・
此隅山城と有子山城がセットで「山名氏城跡」として史跡指定されているのです。
この2城は歴史的にも密接な関係があります。


此隅山城は、室町時代後期から戦国時代まで山名氏が保持していました。
しかし祐豊(すけとよ)の代、永禄12年(1569年)織田信長の家臣・木下秀吉(豊臣秀吉)により落城してしまいます。
天正2年(1574年)祐豊は此隅山より急峻な有子山に城を築き、此隅山城は廃城となりました。
天正8年(1580年)祐豊は再び羽柴秀吉に攻められ、有子山城は落城してしまいます。
秀吉の弟の秀長が城主となり、石垣の城郭に改修されます。
天正13年(1585年)前野長康が城主となりますが、のちに豊臣秀次事件に連座して切腹。
文禄4年(1595年)小出吉政が城主となり、以降江戸時代中期まで小出氏が出石を治めることとなります。

小出吉政の弟・吉英(よしふさ)は有子山城の山上の郭を廃し、山ろくの郭と居館のみを出石城と名付けて幕府に届け出ました。
これにより有子山城は廃城となりますが、現在にも残る出石の城下町が整備されていきます。
元禄9年(1696年)跡継ぎがないため小出氏が断絶となると、松平忠周(ただちか)が出石に入封しました。
宝永3年(1706年)松平忠周が移封となり、代わって信州上田より仙石政明が出石に入封しました。
政明は上田よりそば職人を連れてきたため、出石にそば食の文化がもたらされたといいます。
19世紀になると白い磁器である出石焼の生産が始まります。




出石の名物である皿そばのルーツは、仙石氏時代までさかのぼるんですね。



皿そば、うまかったなぁ。


その後天保6年(1835年)「日本三大お家騒動」のひとつとされる仙石騒動が起きてしまいます。
この騒動で、石高を5万8000石から3万石に減封されてしまいますが、出石藩の取り潰しは免れ、そのまま明治維新を迎えます。
明治元年(1868年)に出石城は廃城となりました。



観光センターで出石城のスタンプとパンフレットをゲットし、いざ城へ。



出石の城下町に降りしきる雨は、その勢いが衰えません。
手持ちの折り畳み傘では防ぎきれないほどで、せっかくもらったパンフレットを見ることができません。
予備知識を頭に入れることのできないまま、登城することになってしまいました。



大手前通りをそのまま進み、



出石城三の丸へ。
悪天候のため、有子山の頂は雲がかかって見えません。



登城橋登城門【模擬】。
流れる川は谷山川です。

江戸時代には、ここに(うずみ)がありました。
そして谷山川は別のところを流れていたので、橋は架かっていませんでした。

 

門の左右を固める石垣は、当時のものが残っています。




登城門を経て、二の丸下の曲輪に入りました。

 

西の隅櫓に向かって歩いていくと、続100名城スタンプの画角が見えてきます。
私が撮影したこの画は・・・有子山が全く見えていません。


二の丸をあっさり通過して、本丸へ。



本丸のさらに上にある稲荷曲輪を固める高石垣です。
高さは13.5メートルで、但馬地方では最大の規模を誇るのだそうです。
苔むして、石の間から草木が茂っていて、悠久の時の流れを感じる・・・なんとも味わい深い石垣です。



本丸に鎮座している、何らかのお社。
登城当時はそんな風に捉えていましたが、こちらは感応殿という建物。
出石藩主仙石家の祖である仙石権兵衛秀久の木像が安置されているそうです。


本丸のさらに上・・・



鳥居が林立する石段の参道を歩きます。
雨降りしきる木立の中に、ひときわ映える朱塗りの鳥居。
この先に、出石城の最上段の曲輪である稲荷曲輪があります。





参道の脇に目を向けると、稲荷曲輪を固める石垣が続きます。
こちらの石垣は苔むしていて、一段と味わい深いですねぇ。



稲荷曲輪に鎮座する有子山稲荷神社の拝殿。
「有子山」ということで、



稲荷神社の参道を上ったところで拝殿の反対側に進むと、有子山の登山口が見えてきます。
この登山口こそが、有子山城【国指定史跡】の入口です。



有子山城に到着!・・・ってことでいいですね。





有子山城から戻り、稲荷神社の参道を下りました。
本丸の角に建っている東の隅櫓【模擬】は、当時の豊岡町の町民の寄付で建てられた模擬建築なのだそうです。




二の丸に下りました。



二の丸から見た西の隅櫓
なかなか画にはなっていますが、模擬建築です。



下の曲輪
野面積みの石垣が見事です。



登城門から退城します。



そうそう、出石を後にする前に「城攻め」しなければ・・・!



続日本100名城・第162番、出石城攻略!



続日本100名城・同じく第162番、有子山城じゃなくて山名氏城館?!
いやいや、「山名氏城館」は此隅山城と有子山城を合わせた呼び方ですね。



有子山城主・山名祐豊と、その弟・豊定
秀吉の古参の部下で、同じく有子山城の城主となった前野長康を発見し、登用しました。





最後にもう一度振り返ってみましたが、有子山は相変わらず雨雲の中にありました。





福知山城登城・後編~バチ当たりな石垣?

2020-05-06 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 十 時 廿 七 分

京 都 府 福 知 山 市

福 知 山 城 本 丸





資料館となっている福知山城の大天守【外観復元】を出ました。



天守出入口の目の前に建っている釣鐘門
その向こうに腰を掛けてたたずんでいる壮年紳士。
なんだか画になりますねぇ~。



釣鐘門前は記念撮影のスポットとなっているようです。
日付を表示する看板に描かれているゆるキャラは・・・



レンタサイクルのカゴについていたものと同じようですね。
洗練された知識人という光秀のイメージからはだいぶ離れている光秀くんと、その妻のひろこ(熙子)さん
作画は「忍たま乱太郎」の原作者でもある尼子騒兵衛氏です。
「このゆるキャラ、Eテレあたりで見たような気がするなぁ」と感じたのは、あながち誤りではなかったようです。

ちなみに尼子騒兵衛さん、じつは女性です。






釣鐘門から外へ。



ここでやっぱり気になるのが、「転用石」
矢印が指し示す方向をしらみつぶしに探します。



見事な扇の勾配
しかしながら、転用石は見つかりません。



本丸の裏手の石垣。
味のある野面積みの石垣ですが、どの石も自然石をそのまま使用しているようです。



天守台の足下まで来ました。
よく見ると、自然石とは到底思えないような方形の石が混じっています。

 

これらはまぎれもなく転用石です。
福知山城は転用石が多く使われている・・・事前にチェックしていたのですが、それほど多くないようですねぇ。
う~ん、ここはスマホで調べてみましょうか・・・。





再び本丸へ。
どうやら大天守の石垣に、転用石が多く用いられているとのこと。



ありました、ありました!
画像中央の模様のある石は、仏塔を解体したものが用いられているようです。
角の石の中にも、自然石とはとうていかんがえられない異なる方形の石があります。



転用石がこんなにもゴロゴロと。
私はなんでこれを見落としていたのか・・・・・・自問自答してしまうほどです。



転用石をよく見ると、梵字のようなものが刻まれているようです。



天守の石垣をよく観察してみると、石垣に境界線があるかのように見えます。
これは天守台の拡張の名残りで、境界線の手前(右側)が明智光秀の時代に築かれた石垣、その先が拡張されて新たに築かれた石垣なのです。
そしてよく見ると、転用石は右側の石垣だけに存在していることがわかります。


多くの国人領主が割拠していた丹波国(京都府中部)を武力で征服した明智光秀
戦国乱世、力こそ正義の時代ですから、逆らう者は武力で屈服させねばなりません。
当時の寺院は、現在のそれとは異なり、僧兵を擁するひとつの勢力でした。
比叡山を焼き討ちした織田信長と同様、光秀もまた、抵抗する寺院を武力でもって屈服させ、仏塔や墓石などを解体していったそうです。
その石を己の城郭の天守に用いることにより、一種の見せしめにしたといいます。

また一方、光秀は丹波でも善政を敷きました。
城郭を築くにあたり石材が不足したため、後にあがなうことを約束して、寺院の石材を得たのだともいわれています。



信長の部将として、比叡山焼き討ちを忠実に行った光秀。
謀反人のイメージが強かった江戸時代においても、福知山の領民に名君と慕われていた光秀。
硬軟両面の顔をもつ光秀なので、やはり硬軟両面の方策で石を調達したのかもしれませんね。



福知山城の登城、最後を飾るのはやはり天守。



東側の昇龍橋から。



西側の福知山市役所から・・・・・・あ!
天守のたもとにある銅門(あかがねもん)番所【移築現存】をスルーしてしまった!




午 前 十 一 時 ち ょ う ど

福 知 山 駅 ・ 観 光 案 内 所


途中小雨に降られながらも、無事に戻ってきました。



明智家の家紋・「桔梗紋」の御朱印帳を1,800円で購入。
今後はこれを御城印帳とさせていただくこととします。

そしてここでも取りこぼしが。
御城印帳を購入したのに、御城印をもらうのを忘れてしまったのでした。





福知山城登城・前編~麒麟の天守

2020-04-12 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 九 時 四 十 一 分

京 都 府 福 知 山 市

J R 福 知 山 駅







兵庫県北部地方の荒天のため予定を変更し、やってきた福知山。



駅に併設している観光案内所で、レンタサイクルを借りることとします。
借用料は2時間までで400円で、以後1時間ごとに100円増しとなります。
上の画像では、観光案内所の職員殿が私の乗るべき自転車に空気入れをしておられますなぁ。
また手荷物も1点300円で預かってくれるので、ここでも装備を最小限にして出かけることとしました。



今回の自転車。
カゴのところに、なにやら「忍タマ乱太郎」を想像させるようなゆるキャラがふたりいます。



登城前ではありますが、観光案内所の中に続100名城スタンプが設置してありますので・・・



158番、福知山城!
押印に大失敗してしまいました・・・・・・。
絵柄は、実物を見るまでもなく天守であろうことが一目瞭然ですね。
どこからの画角なのか、今回もじっくり探してみることとしましょう。



自転車にまたがって福知山の街へ繰り出すと・・・・・・無情の雨。
但馬地方の荒天は、隣接する京都丹波地方にもその影を落としていたようですね。
それでも小雨程度で済んでいたことは、幸いなことでした。

福知山駅北口に面する京都府道24号・福知山停車場線をひたすら東に進みます。



福知山市役所に差しかかると、 小天守【外観復元】と大天守【外観復元】が並立する姿が目に入ってきました。



歩道ギリギリに立つ「福知山城」の石標が見えたら、あと少し。
福知山城沿いを流れる法川という小さな川を渡り、



城門のような何か?が建っているゆらのガーデンというところに駐車場&駐輪場があるので、ここで自転車を降りました。




午 前 十 時 五 分

福 知 山 城 公 園


駅から自転車で走ること約15分、福知山城公園に到着しました。



公園の入口から本丸へと続く昇龍橋という橋を渡ります。
法川をもう一度渡河することになりますね。



昇龍橋の中央から望む福知山城。
う~ん、市役所側からのほうがなんとなく画になるような気がしますね。



古めかしい石垣です。
石垣は当時のものが現存しているということで、福知山市によって史跡に指定されています。
石垣が城郭に造営され始めた時期、すなわち明智光秀さんが活躍していた時期のものだそうです。



頭上の門は釣鐘門【模擬】というそうです。
時刻を知らせる梵鐘でも釣り下がっていたのかもしれませんが、外観は城門というより寺院の鐘楼といった感じです。

それよりも、下にある赤い矢印
「転用石」を指し示しています。
転用石とは、石垣に用いられる石材の不足を補うために、石臼や石仏など他の石製のものをもってきて補ったものをいいます。
この矢印が指している方向を見ると・・・



これ、転用石なのかな???
なんだか腑に落ちないまま、天守の方に向かいました。



光秀時代の豪放な野面積みの石垣です。
この石垣をたどって歩いていくと、



本丸に到達。
大天守とご対面です。



何らかの石碑と、「福知山歩こう会」のベンチがあるこの地点。
ここから大天守を見ると・・・

 

158番、福知山城! のような画となります。
・・・・・・う~ん、返す返す押しミスが痛い。


福知山城ははじめ横山城といい、在地の国人・塩見氏により室町時代に築城されました。

戦国時代になり織田信長による天下布武が推し進められると、丹波国の国人たちはこれに敵対。
信長は明智光秀に命じて丹波国の征討を開始し、光秀は天正7年(1579年)までにこれを平定しました。
丹波国平定後、光秀は横山城を福智山城と改名し、娘婿の明智秀満を城代とし、また石垣を造成するなどの大改修を行いました。

本能寺の変の後の山崎の戦いで光秀が敗死すると、福知山城は羽柴秀吉の軍勢によって攻略されました。
秀吉は自身の養子である羽柴秀勝(信長の四男)、杉原家次(秀吉の正室・寧々の伯父)を福知山城に置き、彼らが相次いで病没すると、小野木重勝を城主としました。
秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いで重勝は西軍についたために切腹させられ、福知山は有馬豊氏に与えられました。
有馬豊氏は福知山城を改修し、現在残る姿としました。

有馬豊氏は元和6年(1620年)に久留米藩に加増移封し、岡部稲葉松平の各氏の統治の末、寛文9年(1669年)6月に朽木稙昌が福知山に入り、以後明治維新まで朽木氏が城主となりました。





大天守の入口側に回りました。



大天守に隣接する続櫓と、小天守
その足元には・・・



豊磐井(とよいわのい)という大きな井戸があります。
深さは50メートルもあり、現在も水をたたえており、その水深は37メートルもあるそうです。
名称は朽木氏初代城主・稙昌の父・稙綱の神号「豊磐稙綱命」にちなんでいます。



その隣りには朝暉(あさひ)神社が鎮座していて、朽木稙綱が祀られています。
稙綱は旗本として将軍・徳川家光に仕えて功績を挙げ、常陸国(茨城県)土浦3万石に加増されています。



大天守の中は福知山市郷土資料館となっており、福知山城関係の史料が展示されています。
入場料・大人330円を支払い、中へ。



明智光秀画像のレプリカ。
よく見る光秀の肖像画ですが、実物は大阪の岸和田にあるそうです。



明智光秀家中軍法【福知山市指定文化財】のレプリカ。
こちらは福知山市内にある御霊(ごりょう)神社に実物が保管されています。
御霊神社は、祭神の宇賀御霊大神(うがのみたまのおおかみ)(お稲荷さん)とともに、明智光秀が合祀されています。

 

大天守最上層からの眺め。
市内を流れる由良川は、舞鶴市で日本海に注ぎます。
たびたび氾濫していた由良川の流れを改善したのも、明智光秀によるものだといいます。
丹波地方では光秀の善政がいきわたっていたため、謀反人の汚名があったとしてもなお、光秀は民衆に慕われていたようです。
光秀の御霊神社への合祀は、江戸時代中期に城主となった朽木氏によるものです。




おおぅ・・・

明智軍の精鋭であっただろう足軽さんに見送られ、天守を出ました。





笠間城リベンジ・後編~荒れ果てた石垣

2020-01-05 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 3 1 日 ( 日 )

午 後 1 2 時 3 5 分

茨 城 県 笠 間 市

笠 間 城 天 守 曲 輪



笠間城【笠間市指定史跡】の登城リベンジ。
ふもとの山麓公園にレンタサイクルを停め、山を登り始めてから約25分。

 

スタンプの絵柄にもなっている天守台に達しました。
スタンプの画角はよく捉えることができたと思いますが、石垣を覆うビニールシートがとても残念ですね・・・。

東日本大震災の影響で石垣が崩れたのだそうですが、その修復がすすんでいないことを見るにつけても、復興が道半ばなのだと感じざるを得ません。





天守台の石垣は、安土桃山時代に城主となった蒲生郷成によって普請されたものです。
近江出身の蒲生氏によって、この地に石垣を造成する技術がもたらされたのでしょう。
それに加え、笠間の地が現在も花崗岩を産出するという、採石に恵まれた地であったこともあり、笠間城は茨城県で唯一、本格的な石垣を備えています。









石垣が、荒れるに任せた状態になっている?
巨石が崩れ落ちそうで、ちょっと怖いですね。



天守跡に鎮座する佐志能神社拝殿
足元の石垣もあやうい感じがしますが、拝殿自体もなんだか荒れてしまっているように見えます・・・。





本丸に戻りました。





本丸から二の丸へと下る石段。
ここにも蒲生時代の石垣が残っています。



二の丸
草木が生い茂り、往時の広さは感じられません。



二の丸から石段を下り、舗装路に出ました。
このあたりで見られる石の造形物は、蒲生時代の石垣ではないようです。



すぐ近くのロータリーのような道。
このあたりは帯曲輪だったそうです。

 

ロータリーから見下ろすと、前回の登城の最終到達地点であった大手門跡です。
これでいちおう笠間城の登城リベンジは達成!・・・ということにしましょう。



まだまだ寒い春先。
さすがにやぶ蚊の大群はいませんでしたが、ユスリカの小さな群れはすでに発生していました。
ユスリカは蚊とは違って吸血しないのですが・・・・・・やっぱり鬱陶しいですね。



帰り道、



笠間のお稲荷さんに登城の達成を報告し、笠間の地を後にしました。





笠間城リベンジ・前編~佐白山登頂

2020-01-05 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 3 1 日 ( 日 )

午 前 1 1 時 3 5 分

茨 城 県 笠 間 市

J R 笠 間 駅



笠間城【笠間市指定史跡】のリベンジを果たすべく、ふたたび笠間の地に下り立った私。



駅を出て右にある観光案内所でレンタサイクルを借ります。



今回の自転車は、いたって普通のママチャリ。
料金は300円で、電動アシストつきのものと比べると200円お安くなっています。
前回の登城の経験を踏まえ、今回は山麓のハイクングコースから一気に本丸を衝くこととしたので、電チャリはいらないと判断したのです。


駅からの道は緩やかながらも上り坂でしたが、己の健脚で走破。



笠間稲荷神社の鳥居を通過し、急ぎ笠間城へと向かいましたが・・・



笠間稲荷といえば、やはりお稲荷さん!・・・ということで、店頭の淑女に誘われて「きむらや」さんへ。
くるみ稲荷、そば稲荷、そぼろ稲荷・・・どれも130円。
そば好きの私としては、ここはぜひともそば稲荷を食べたいところですが・・・

なんと! そば稲荷には我が天敵のキューカンバーが入っているのか!



5個で650円のお稲荷さん。



くるみ稲荷、甘酸っぱくてうまい!
最初はそば稲荷をオーダーしたのですが、くだんの理由でくるみ稲荷に変更。
淑女は「キュウリ抜きもできますよ」とおっしゃっていたのですが、新たに作る時間を考えて、オーダーを変えました。



続100名城スタンプがもらえるかさま歴史交流館 井筒屋
ここでチャリを停めてお稲荷さんを食し、さらにハイクングコースについての情報を確認し、笠間城へと向かいます。



【笠間駅→井筒屋のルート】



JR笠間駅 11時36分発
かさま歴史交流館 井筒屋 11時48分着

*所要時間 12分
*移動距離 1.8km 



井筒屋からは・・・



そばにある丁字路を佐白山方面へ右折。



右手に大石邸址と、大石内蔵助像が見えます。
前回の登城以降に整備されたようで、すっかり小ぎれいになっています。



大石邸址そばの丁字路。
前回の登城ではここを直進したのですが、今回はここを右折します。
ややきつい上り坂がありますが・・・



ホテルなんとか・・・の分かれ道は左折。
すると左手側に開けた土地が見えてきます。



佐白山麓公園に到着。
笠間城主下屋敷の跡地であり、ハイキングコースのスタート地点でもあります。
レンタサイクルを停めて、ここからは徒歩で進みます。



【井筒屋→笠間城主下屋敷跡のルート】



かさま歴史交流館 井筒屋 11時56分発
笠間城主下屋敷跡 12時06分着

*所要時間 10分
*移動距離 0.5km 





山麓公園内に建つ時鐘楼【復元】。
江戸時代から用いられてきた時鐘【笠間市指定文化財】が掛けられています。



ふたつの碑の間から上っていく階段道。
笠間城の山登り、ここに開幕。




午 後 1 2 時 1 2 分

佐 白 山 ハ イ キ ン グ コ ー ス を 上 る


上り始めて、初っ端から分かれ道。



ここは「城址公園」の看板がさし示す右が正解。



整備されたハイクングコースで段差がそれほど大きくありません。
まぁ、疲れますけどね。



上り始めて約5分、ガードレールが見えてきました。
ここでハイキングコースと公道と交差します。





このポイントで、多くの登城者が迷うのだとか。
パッと見だと、山麓公園からの階段道、左右の公道の3方向の道があるにもかかわらず、方向をさし示す看板は2方向だけ。
しかも看板の表示が、山麓公園では「城址公園」なのに、ここでは「佐志能神社」となっているのです。
佐志能神社は笠間城の天守台に鎮座する社なので、笠間城址へ向かうには佐志能神社の方向へ進めばいいのです。
しかし佐志能神社を指している方向・・・これが非常に誤解されやすいのです。



この画からだと、佐志能神社の方向はコンクリートの公道だと誤解してしまうでしょう。



じつは、斜向かいに上りの階段道がひっそりとたたずんでいます。
この階段道こそ、佐志能神社への正解の道。



よ~く見るとこの立て看板、不自然な方向を指しています。
古ぼけて傾いているようにも見える看板ですが、佐志能神社のさす方向の延長線上に・・・



この階段道があるのです。

多くの登城者を混乱の渦に陥れてきた立て看板。
これは改めたほうがいいんじゃないですかねぇ。




再び始まる坂道。



時折「石垣かな?」と思わせるものも見受けられます。
(実際には石垣ではないようです)



公道との交差ポイントから上ること約8分、本丸に到達しました。
ハイクングコースは終始緩やかな階段と坂道で整備されていて、上りやすかったです。




午 後 1 2 時 2 5 分

笠 間 城 本 丸




ハイキングコースという搦め手をたどって、一気に本丸を衝きました。



本丸では、家族連れが一足早いお花見をしていました。



本丸の中にある高台に上ってみます。



高台には八幡台櫓という櫓が建っていました。



八幡台櫓【茨城県指定文化財】は現在、笠間市内の真浄寺に移築されています。




八幡台櫓の高台を下り、本丸の隅からさらに山登り。



こちらはハイキングコースではないので、いささか上りづらい石段。



「笠間城天主跡」の石標が見えたら、石段もあと少し。


本丸から約3分、



天守曲輪に到達しました。





天守台を上り、天守跡に鎮座する佐志能神社へ。
佐白山、標高205メートル、登頂しました!





本佐倉城リベンジ・最終章~Ⅶ郭そしてスタンプは?

2019-11-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 2 時 5 9 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

本 佐 倉 城 妙 見 神 社



春先の本佐倉城【国指定史跡】登城リベンジ。



マムシ、イノシシ、カミツキガメには遭遇しませんように・・・。
妙見神社で祈願し、パンフレットの推奨ルートを忠実にたどって散策を続けます。



本佐倉城の内郭を構成する小高い山を下りました。



田が広がる窪地と、その先にはさらなる小高い山。
現在田んぼとなっているところには、かつては中池という池があったそうです。
そしてその池には中島小島が浮かんでおり、弁天神社が鎮座していました。
画像にある建物の背後に立つ山は向根古谷(Ⅸ郭)で、侍屋敷が密集していた郭でした。

窪地を取り囲むかのように立っている山は、それぞれ荒上(Ⅷ郭)、向根古谷(Ⅸ郭)、根古屋(Ⅹ郭)を構成し、それぞれに侍屋敷が集まっていた郭でした。
これまで散策したⅠ~Ⅵ郭と、このあと訪れるⅦ郭が内郭、Ⅷ~Ⅹ郭が外郭とされています。



向根古谷から見た内郭。
左が奥ノ山(Ⅱ郭)、右奥が城山(Ⅰ郭)です。
奥ノ山のふもとには妙見神社の鳥居が見えます。

かつて中島にあった弁天神社は、現在、向根古谷のふもとに移されています。




妙見神社の参道を進まずに、左の道へ。



根古屋(Ⅹ郭)荒上(Ⅷ郭)の方へ進みます。



あたりが鬱蒼としてきました。
イノシシでも出るんじゃないか???



樹木が生い茂っていてよく見えませんが、道の左側は水の手という低地になっていて、ここにも貯水池があったそうです。
中池と並ぶ、城内の貴重な水源であったとされています。





荒上へと続く公道を外れ、



荒れるに任せた竹林の道へ。
右側から垣間見えるのが・・・



セッテイ空堀です。
竹が自由気ままに生えているので、画像からは良くわからないかもしれませんが、とても深い堀です。



何者かが不法投棄したと思われるドラム缶がありますが、空堀の規模を推しはかるにはいいかもしれません。
案内看板によると、崖上のセッテイ山までの高低差は約16メートルもあるといいます。



散策路はくだんのセッテイ空堀の中を通ります。
深いだけでなく、なかなかに幅が広くなっています。



反対側を向くと、空堀は東光寺ビョウ(Ⅵ郭)からのびていることがわかります。



最後の郭・セッテイ山へ。



坂道を上り、左右に土塁が控えるセッテイ虎口へ。
このあたりは発掘調査がされていないようですが、木戸や塀などが立てられていたと推定されています。
空堀といい、虎口といい、主殿のあった城山よりも厳重な構えになっているようにみえますね。



竹林の小径を進み、右に分かれる脇道へ。



ひっそりとたたずむ脇道を上り、



セッテイ山(Ⅶ郭)に到達しました。
広さは奥ノ山をやや小さくした程度と、それなりの面積はありますが、竹木がギッシリと生えているためかなり狭く感じます。
「セッテイ」という名称は「接待」に通じるとされ、賓客を接待するための館があった、あるいは賓客ではなく人質を住まわせるための館があったと推定されています。
人質を収容するというのであれば、その逃亡や奪還を防ぐために厳重な構えをしていたというのも頷けますね。



セッテイ山を下り、



倉跡・セッテイ空堀へ。
その名のとおり、セッテイ山(Ⅶ郭)と倉跡(Ⅲ郭)を隔てる空堀で、倉跡までの高低差は約10メートル。
2つの深い空堀で隔てられていることからも、セッテイ山が特別な郭であったことが読み取れますね。



この空堀から、外に出ましょう。



南奥虎口です。
左右の土塁で進路がねじ曲げられるという構造になっています。
また土塁には木戸がこしらえられ、さらに木戸からは柵がのびていたそうです。
そのため、外側から空堀の様子を窺うことはできなかったようです。



東光寺ビョウ(Ⅵ郭)に戻りました。



東光寺ビョウから見た南奥虎口。




前回の登城で、私を退却に追い込んだ忌まわしの立看板。
妙見神社の御加護か、危険な生物に遭遇することはありませんでした。



東光寺ビョウから、本佐倉城を後にします。



帰りは大佐倉駅から。



続100名城スタンプは、酒々井町中央公民館とこの駅に設置されています。
大佐倉駅のスタンプは、改札機の外、券売機の裏に置いてあります。



スタンプはすでに押印済み。
しかし・・・この絵柄はいったいどこだ???


う~む・・・・・・


京成電車に乗って、本佐倉城の登城はこれにて終了。





本佐倉城リベンジ・第3章~Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ郭

2019-11-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 2 時 2 5 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

本 佐 倉 城 Ⅳ 郭



春先の本佐倉城【国指定史跡】登城リベンジ。



東山馬場跡に到着した私は、本佐倉城のパンフレットを手に取り、その推奨ルートを律儀にたどることとしました。
そして・・・



東光寺ビョウ(Ⅵ郭)



東山馬場(Ⅴ郭)



名も無きⅣ郭



チラ見程度ですが倉跡(Ⅲ郭)まで足を運びました。



Ⅵ、Ⅴ、Ⅳ、Ⅲとくれば、次はⅡ、Ⅰとめぐるのがスジというものでしょう。



Ⅳ郭虎口からの通路を左に曲がり、



大堀切が現れます。
ひとつの高台を掘り進んでふたつに分け、それによってできあがった通路が堀切です。
この大堀切を挟んで左側が城山(Ⅰ郭)、右側が奥ノ山(Ⅱ郭)です。

Ⅳ郭から進むと、大堀切は高低差約2メートルのスロープになっています。
そしてスロープを上りきった地点に、木戸が構えられていたようです。



大堀切の底と奥ノ山とは、約6メートルほどの高低差でしょうか。



いったん下って、城山と奥ノ山の岐路。
ここでは左を選択、Ⅱ郭の奥ノ山ではなくⅠ郭の城山へ。
郭のカウントダウンよりも、パンフレットの推奨順路を律儀にたどっていきます。







下ったところにある岐路から、急激な上り坂となる城山通路
高低差は約7メートル、蛇行を繰り返す狭い通路です。
この先の城山は、その先には逃げ場がない詰め城、本佐倉城の最後の拠点になっています。



城山の入口・城山虎口に到達。
白い看板の立つあたりには、城山虎口の一ノ門が構えられていたようです。
一ノ門跡の後ろは一段高くなっているので、坂道は続きます。
さらには、虎口の周囲を塀が取り囲んでいました。
最後の砦でもあるので、とりわけ厳重な守りになっていますね。



虎口の二ノ門の役割を担っていた城山門の跡地。
城山の外側に向かって、塀は立てられていました。



城山門跡からは、もう一本の通路が伸びていました。
木橋を経由して奥ノ山へとショートカットできる通路です。



城山の突端、向かいが奥ノ山です。
平時にはここから木橋が架けられ、往来が可能になっていました。
戦時には木橋を叩き壊して往来不能にし、



大堀切を進まんとする敵軍を、頭上から攻撃する構えになっていました。



城山(Ⅰ郭)に入ります。

城山門を通過して目前にあったのは、遠侍(とおさぶらい)という警護兵の詰所であった建物です。
その隣りには、城主の屋敷である主殿
主殿よりさらに奥には、公的な行事や遊興的な催しが行われたと考えられる会所があり、その傍らには庭園や庭池などの痕跡が確認されています。
また、用途は不明ですが、ほかに建物4棟の痕跡も明らかになっています。

先に登城していた観光客に、引率していたボランティアガイド(と思われるお爺様)が、熱心に語っておられました。
お爺様は、ここでとある事件について語り出します。

オナラ事件。

これは某学校の某生徒が巻き起こした数回の騒動とは違い、たった2発のオナラがお家騒動に発展してしまうというお話です。


天正16年(1588年)本佐倉城、書院。新年の祝賀の席にて・・・

ぷぅぅぅ~

齢18になる近習の桑田万五郎、膳を配っている最中に放屁をしてしまったのです。
人間だれしも突発的な粗相はしてしまうもので、主君の千葉邦胤もそう考えて咎めませんでした。
しかし・・・

ぷぅぅぅ~

万五郎またしても放屁
邦胤もだまって見過ごすことはできず、万五郎を叱りつけました。
これに万五郎は、書院の中央でひざまずき、

「卒爾の失錯は庸常有之べきことなるに、かかる曠なる座中に於て斯くの如く顔面に辱を蒙る條、つれなき仕合なり」
(突発的な粗相は誰しもあることなのに、万座で恥をかかせるなんて、ひどいじゃないですか)


と口答えをしたため邦胤が激怒、座を立ち上がると万五郎を蹴飛ばし、刀に手をかけたのでした。
家臣たちが慌てて間に入り、万五郎を引き立てて、邦胤をなだめたため、この場は収まりました。

万五郎は別の家臣の屋敷にて謹慎することになりました。
数ヶ月後に邦胤の勘気は解け、万五郎は再び邦胤のそばに仕えることとなりました。
しかし万五郎は、万座で恥をかかせた主君への恨みを忘れずにいたのです。

同じ年の7月4日夜、万五郎は邦胤の寝所に忍び込むと、寝ている邦胤を短刀で2度刺して逃走しました。

「憎き小倅めが所為かな」
(やりやがったな、くそガキめ!)


邦胤が叫ぶと、宿直の者が駆けつけました。
邦胤は血だらけで倒れており、虫の息。

「・・・桑田面を脱さず討ち取れ」

そう言って息絶えてしまったのです。享年39歳といわれています。
万五郎は千葉家の追っ手によって捕捉され、斬首されたとも自害したともいいます。

邦胤亡き後の千葉家には嫡子・重胤がいたのですが、「若年のため家中をまとめきれない」として北条氏政が介入し、実子の直重を千葉家に送り込んで家督を継がせたのでした。





オナラ事件の舞台になった会所(書院)跡
その先は崖になっていて、



東山馬場(Ⅴ郭)を見渡すことができます。
現在は駐車場が整備され、城の間近まで車で来られます。便利な世の中になったものよのぅ。





城山を退去して、今度は奥ノ山へ。



通路ぎわは崖になっており、なかなかの深さ。



奥ノ山(Ⅱ郭)へ。



なかなかに広い郭です。



倉跡(Ⅲ郭)寄りにある土塁。
このあたりに妙見宮が祀られていました。
妙見宮は千葉氏の守護神とされ、当主が元服するときには妙見宮で儀式を行っていました。
もともと妙見宮は亥鼻(いのはな)の地(現在の千葉市中央区)にあったのですが、「小弓公方」足利義明やその同盟者・里見氏といった外憂が生じるようになると、妙見宮を城内に遷宮したうえで元服の儀式が行われたようです。





土塁で構成されていたと思われる虎口を抜けて、



倉跡(Ⅲ郭)に戻ってきました。



倉跡(Ⅲ郭)は本佐倉城最大の郭です。
ここでは発掘調査で炭化米が発見されており、倉庫群が建っていたと推定されています。





倉跡を奥ノ山ぞいに進むと、崖下へと通じる道が現れます。



進んでいくと、脇道から妙見神社の横に出ますが・・・



通路を下って、表から入ります。
小ぶりな鳥居をくぐり、



妙見神社で参拝。
奥ノ山に鎮座していた妙見宮は、奥ノ山の腰曲輪ともいうべき場所に移っています。

ここまではマムシ、イノシシ、カミツキガメといった危険生物には遭遇していません。
この先もこいつらには遭遇しませんように・・・と祈願し、本佐倉城の散策はまだまだ続きます。





本佐倉城リベンジ・第2章~Ⅵ・Ⅴ・Ⅳ・Ⅲ郭

2019-11-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 1 時 4 6 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

本 佐 倉 城 東 山 馬 場 跡





本佐倉城登城のスタートは、東山馬場跡から。
手持ちのパンフレットが推奨する順序にしたがって、馬場を見下ろしている城山に上ってまいります。

さて、最初のポイントは・・・東光寺ビョウ???



東光寺ビョウは本佐倉城の郭のひとつで、田園の広がる城の北側にあります。
東山馬場からですと、山を隔てた向こう側。
京成大佐倉駅からの登城口に位置しています。

なんだぁ、結局前回と同じところから始まるんじゃねぇか・・・と思いながらも、東光寺ビョウに移動します。



千葉家の家紋月星(げっせい)の描かれた楯が並ぶ空間の脇に入り、



東山虎口から出て、





東光寺ビョウ



大佐倉駅側からの登城口に至りました。
ここから改めて本佐倉城の登城、スタート!




午 後 1 時 5 9 分

千 葉 県 佐 倉 市

本 佐 倉 城 東 光 寺 ビ ョ ウ




最初のポイント、東光寺ビョウです。
郭名の「東光寺ビョウ」は、江戸時代幕末の書物の表記をそのまま借用しているそうです。
しかしながら発掘調査はここに寺院の痕跡はなく、まったくもって謎のネーミングなのだとか。
酒々井町に東光寺というお寺はあるので、それに関係があるとは考えられますね。

ちなみにこの東光寺ビョウの領域だけは、佐倉市に属しています。



東光寺ビョウから城内へは、登城口がふたつあります。
そのひとつである南奥虎口
前回の七夕の日の登城で、私を戦慄させた「マムシ注意」の看板が立っているところです。
しかし今回登城したのはまだまだ冷える時季、草も繁っておらず、マムシも冬眠から覚めてもいないでしょう。

ただ今回の登城では、本佐倉城さんがやたら「イノシシ」推しをしてくることが気になります・・・。
こんなところにイノシシなんて出るのかなぁ~? とは思いながらも、内心ビクビクしながら・・・



もうひとつの登城口・東山虎口を上っていきます。
正確には、先ほど出た虎口を再入場するんですけどね。





東山虎口の入口。



かつては、この階段を上がった先に門柵が設けられていました。



門柵を通過しても狭い通路へ。
両サイドは崖になっており、とても狭く感じられます。



さらに、狭い通路内にもうひとつの門柵が設けられていたそうです。
そのためこの虎口は、あたかも枡形虎口のような構造になっていました。
外の門を突破されても内側の門で食い止めて、頭上から矢石で攻撃するという、堅い守りとなっていたんですね。



東山虎口を抜けて、楯の並ぶ空間が見えてきました。
このまま城の内部へとは急がず、



東山虎口と東山馬場を見下ろしている東山に上ると・・・



印旛沼にかけて広がっている田園が一望できます。
天気が良ければ、常陸国の秀峰・筑波山も見渡すことができます。
この日は残念ながら曇天で筑波嶺を見ることはできませんでしたが、ちょうど京成電車が成田空港へと急ぐ姿を拝見できました。



見晴台の南側。
楯の並ぶ空間が2段になっています。
画像右の高い空間はⅣ郭、低い空間は東山馬場です。

「Ⅳ郭」というネーミングは、城の内側から数えて4番目・・・くらいの意味でしょうか。
他の郭はその用途や名称が推定あるいは判明しているのに対し、Ⅳ郭は不明点が多いため、便宜上番号で呼ばれているようです。
ちなみに東山馬場は「Ⅴ郭」、



東光寺ビョウは「Ⅵ郭」です。



東山虎口を見下ろした画。
非常時はここから敵軍に矢を浴びせることになっていたのでしょう。



東山馬場に戻り、



Ⅳ郭に上ります。



通路はゆるやかながらも狭い上り坂。
そしてⅣ郭側には塀が築かれていて、



坂を上りきったところには城門が構えられていたようで、ここにも虎口Ⅳ郭虎口)が形成されていました。



Ⅳ郭から隣の倉跡(Ⅲ郭)にかけては、なだらかな斜面が広がります。
片隅には鎮守の杜がたたずんでおり、



城山への道も、Ⅳ郭から伸びています。



枝には梅の花、地には水仙の花が咲き誇っています。春ですねぇ~。



その先には、広い空間である倉跡へと続きますが・・・



まず脇にある鎮守の杜へ。





諏訪神社が鎮座しています。
ここで登城完遂を祈願しました。



静かな城に咲く梅の花。
ここは・・・ゆるキャラ・勝ったネ!くん・・・じゃなくて、城主・千葉勝胤が編纂したという『雲玉和歌集』からの一首を。

かすがなる 野べの一木の 梅が枝は
行きかふ袖や あらしなるらん

(春の日の野原に生える一本の梅の枝にとっては、その脇を行き交う人々の袖が立てる風であっても、嵐のようなものであろうな)




下総千葉氏桓武平氏をルーツとする下総の豪族で、著名な人物としては源頼朝の旗揚げに助勢した千葉常胤がいます。
常胤は頼朝に功を認められて下総守護に任じられ、「千葉介」を名乗りました。
千葉家の当主は、以降代々「千葉介」を名乗っていきます。

千葉勝胤は、本佐倉城を本拠とする下総国の戦国大名でした。

このころの千葉氏は下総国での勢力が揺らいでおり、永正14年(1517年)には足利義明が突如現れて小弓城を乗っ取ってしまいました。
小弓城は現在の京成おゆみ野駅の近くにあった城ですが、ここは千葉氏の重臣であった原氏が守っていました。
この乗っ取りのときにまだ若かった原虎胤は逃亡を余儀なくされ、甲斐国の武田信虎を頼り、後世に「夜叉美濃」「鬼美濃」と呼ばれ「甲陽五名臣」に挙げられる猛将に成長するのですが・・・それは別の話ですね。
小弓城を乗っ取って本拠地とした足利義明は「小弓公方」を名乗り、本流である「古河公方」足利成氏とも対立するようになりました。

武勇に優れ、足利氏の血を引くという権威も持ち合わせていた足利義明に対し、千葉家は苦戦を強いられていました。
享禄5年(1532年)に勝胤は亡くなりますが、小弓城の奪還は、天文7年(1538年)の第1次国府台合戦で足利義明が戦死した後のこととなります。



・・・千葉勝胤の事蹟をまとめるつもりだったのですが、小弓公方の記述の方が長くなってしまいました。
勝胤さん、あまり勝ってないんじゃ・・・?



本佐倉城の登城、東光寺ビョウのⅥ郭、東山馬場のⅤ郭、名も無いⅣ郭、倉跡のⅢ郭まで来ました。
郭のカウントダウン、Ⅱ郭とⅠ郭は次回にて。





本佐倉城リベンジ・第1章~酒の出る井戸?

2019-11-10 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 5 4 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

京 成 電 鉄 酒 々 井 駅



京成大久保で二郎さんをガッツリ食らい、やってきたのはさらに東・・・



京成酒々井駅です。
京成酒々井のひとつ前の駅は、京成電鉄随一の秘境駅・大佐倉駅
いずれも、私が登城前に引き返した本佐倉城【国指定史跡】の最寄駅です。


平成最後の城攻め旅。
平成時代に中途半端で積み残してしまった城攻めを、ひとつずつ完遂する。
・・・・・・それは無理というほど中途半端で終わらせた城が多いので、今回は本拠地に近い千葉&茨城の城攻めを完遂していきます。

題して、「ちばらぎリベンジ」。

忌まわしきマムシやぶ蚊の大群がいない春先に、私は再びちばらぎの城に立ち向かうのです!





駅構内にある本佐倉城跡への進行ルートに従い、



下り立ったのは、京成酒々井駅の南口



駅ロータリーから進んで最初の信号を右へ。



交差点にはこのような道しるべが立っているので、迷うことなく登城できそうです。



その先の宗吾入口交差点で、本佐倉城に進むルートはふたつに分かれます。
水色の表示が「近道・平坦コース」
黄緑色の表示が「歴史散策コース」

この日は本佐倉城以外に登城する城もありません。
そして何より酒の井の碑というのが気になったこともあり、「歴史散策コース」をたどることとしました。


ふたつのコースの分岐路を過ぎると、上り坂へ。
進んでいる道は、成田山へと繋がるかつての成田街道
そして坂を上った台地に、街道の宿場町でもあった酒々井宿があったのです。



かつての街道の名残りである石碑で、下り松三山碑というそうです。
一番大きな右の石碑が出羽三山碑で、「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」と刻まれています。
この石碑は道路拡張工事でこの地に移されたものなのですが、かつては坂の下にあったようです。
宿場町のはずれにあったためにもの寂しい場所にあったようで、宿場町がそれほど発展していない黎明期には追いはぎがよく現れたとも。


街道沿いの小学校の隣りに鎮座しているのが、



麻賀多(まがた)神社です。
酒々井宿の下町(成田寄り)にあったことから、下宿麻賀多神社ともいいます。



「本佐倉城でマムシさんが出ませんように・・・」



神社のそばにある分岐路。
どっちをとっても本佐倉城跡?! ですが酒の井に立ち寄るために、そのまま街道を進みます。



酒の井へは、青い塀の道に入ります。
ここだけなぜか道しるべがない!



青い塀に沿って進み、



酒の井に到着。



どうやらこれがのようです。
おやおや、音声ガイダンスがありますなぁ・・・ポチッ。


むかしむかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。
父親はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて、父親に酒を買っておったんじゃ。
ところがある日、息子はどうしても酒を買う金が作れず、途方に暮れておった。
とぼとぼと歩いていると、道端の井戸からなんともよい香りがぷぅんとしてきた。
そこで井戸の水を汲んでなめてみると、それは本物のお酒だったんじゃ。
さっそく帰って父親に飲ませると、
「こりゃあうまい酒だ。ありがたい、ありがたい・・・」
とたいそう喜んだ。
息子はそれから毎日、毎日井戸から酒を汲んで、父親に飲ませたんじゃ。
ところがこの酒は、親子以外の人が飲んでも、ただの水になってしまうんじゃ。
「きっと孝行息子の真心が天に通じたにちがいない」
と、みながほめたたえた。
この酒の話が広まり、村もいつしか「酒々井」と呼ばれるようになったということじゃ。





井戸の中をのぞいてみると、水が湧いて出てくるではありませんか!
音声ガイダンスのボタンを押すと、湧き出るようになっているのだそうです。
さすがに酒が出てくることはありませんが・・・便利な世の中になったものよのぅ。



そしてこちらが酒の井碑
正しくは下総式板碑といい、鎌倉・室町時代に盛行した供養碑なのだそうです。
碑をよく見ると、蓮花と梵字が刻まれています。



春先に咲き誇る枝垂れの梅を眺め、酒の井を後にします。



下宿麻賀多神社付近まで戻りました。



先ほどの分岐路で、街道から脇道に入ります。



幅が2車線程度の道を進んでいくと、

 

道が狭くなり、下り坂へ。
酒々井の街がある台地を駆け下ります。
樹木の切れ目から・・・



本佐倉城【国指定史跡】が見えてきました!



水色「最短・平坦コース」と合流して、





本佐倉城の東山馬場跡に到着しました。
現在はこちらが駐車場になっており、



給水ポイントである自販機も設置されていて、本佐倉城登城の拠点となっています。
自販機に描かれているゆるキャラは、勝ったネ!くん
戦国時代の本佐倉城主・千葉勝胤(かつたね)をモチーフとしています。



本佐倉城の鳥瞰図。
本佐倉城は、台地の突端(舌状台地)の地形を巧みに活かした縄張りとなっていることがわかります。
台地の下は、現在は水田になっていますが、築城当時は湿地になっていて、南、東、北の三方からは攻めづらい構造になっていました。

なお、この案内板のところに本佐倉城のパンフレットが置かれています。
まぁ、私は前回の登城で手に入れたものがあったので、ここではもらいませんでしたが。



仮設のトイレもあります。
自販機ともども城内にはありませんので、ここで給水&用足しは済ませておきたいところです。



「イノシシ出没注意」?!
「カミツキガメを見た」??!!

せっかくマムシは出ないであろう時季にやってきたのに・・・危険のタネは尽きないものですなぁ。



ともあれ、今回ばかりは引き返すわけにはいきません。
本佐倉城リベンジ、ここに開幕!





唐沢山城・最終章~山頂の高石垣

2019-09-08 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 0 7 分

栃 木 県 佐 野 市

唐 沢 山 城 二 の 丸



唐沢山城【国指定史跡】の散策を続けます。



山の西側から登山道を上り、天狗岩避来矢(ひらいし)のそびえ立つ虎口からいったん本丸まで上りました。
今回は二の丸へと下り、



この虎口から、本丸の東側に尾根伝いで連なる郭を見てまいります。



ヒェッ・・・



本丸の北側にある郭。
案内看板によると局曲輪(つぼねくるわ)と呼ばれていたそうです。
このあたりには侍たちの屋敷が建っており、搦め手から攻め寄せる軍勢を待ち受ける武者溜となっていたようです。



郭の外周には、高さ1メートルほどの土塁が残っています。



本丸を見上げると、頭頂部には石垣が施されています。



あれだけの石が落っこちてきたら、ひとたまりもありません。
この局曲輪は、終始本丸から見下ろされる位置にあります。
搦め手における重要な防衛線、といったところでしょうか。




局曲輪の東隣に位置する郭は、長門丸
佐野家の重臣・弓削(ゆげ)長門守の屋敷があったところです。
この郭で薬草の栽培をおこなっていたことから、御花畑とも呼ばれていたそうです。



長門丸から振り返ったところです。
車道の両脇を土塁が構えていて、喰い違い虎口が形成されています。
車道を造成するために土塁を削ったため、わかりづらくなっています。
虎口の先にそびえるのは、本丸の石垣です。
本丸からの援護射撃も期待できる、防御力の高い虎口であったことが想像できますね。




その隣りは、平城
ここには金蔵が建っていたことから、金の丸宝蔵曲輪とも呼ばれていたそうです。



平城から振り返ると、長門丸との間に施されている堀切がわかります。
といっても、舗装された道路が敷設されているので、雰囲気はあまり感じられませんね。



堀切に下りたところ。
深さは約4メートル、それほど深くはありません。



反対側も、堀切で隔てられています。
ここも道路が敷設され、雰囲気を味わうことはできません。




平城の隣りは、杉曲輪
かつては御仏殿があったとされています。
郭の外周には土塁も残っています。



東側の堀切。
規模はそれほど大きくはないものの、はっきりとわかる堀切です。
舗装された道路がないので、堀切らしさを感じることができますね。




その先は平とや丸北の丸ともいいます。



案内看板によると、平とや丸の東には二重の堀切があるとのことです。
単純に、堀切が連続してふたつあるのだろう。
そう考えて進むと・・・



二重の堀切???
たしかに堀切のようなものはあるようですが、それが二重にあるのかはよくわかりません。
車道が造成されてしまっているので、「これが堀切だ!」とは言い切れないのです。
(私の観察眼や劣っている、山城登城の経験値が少ないということに他ならないのですが)

 

 

周囲を見渡すと、いかにも奈落の底へと続いている竪堀のようなみぞが複数見受けられます。
これらが二重の堀切を構成していたのでしょうか。



二重の堀切の行方よりも、異様に目立つ3基の仮設トイレが気になってしまいました。



本丸付近に戻りました。



恒例となりました、スタンプの画角探しです。
絵柄は、唐沢山が誇る本丸の高石垣唐澤山神社の神門です。
本丸の周囲を歩き、



二の丸を退出すると、



さっそく登場!



関東でこれほどの石垣は、そうそうお目にかかれません。
まぁ、江戸城という例外中の例外はありますが。



なんとも見事な石垣。
日本100名城に唐沢山城が落選したのが不思議なくらいです。
さすがに続100名城には選定されましたけどね。

高石垣の下にも、ネコさまが闊歩しておられます。
癒されますねぇ~。

しかしスタンプの画角がなかなか見つかりません。

 

ここ? わずかに違うなぁ。

 

ここでもない。

 

ここだと神門が映らない。



木が多すぎる。



まったく違う。

 

やはりここか!?

 

足下の苔を蹂躙することになるので、これ以上の画角の追求はやめておきましょう。





レンタサイクルを停めた、唐沢山レストハウス前の駐車場に戻りました。
おだやかな陽光に、眠りこけておられるネコさまに別れを告げ、



旧田沼町の市街地を眺めつつも、下り坂を一気に下る・・・のはかなり怖いので、ブレーキいっぱい握りしめてゆっくりゆっくり下っていきます。



唐沢山、下山!




午 前 1 1 時 1 6 分

佐 野 ラ ー メ ン を 食 べ な が ら


忘れていました! 唐沢山で「城攻め」するのを。
とはいえ唐沢山城自体はすでに攻略済みではありますが、



城主・佐野房綱と、その重臣・山上道及を登用できました。



これにて、唐沢山城は登城完了!