鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

唐沢山城・第2章~唐澤山神社

2019-09-05 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 前 9 時 1 8 分

栃 木 県 佐 野 市

唐 沢 山 城



現在は神社が鎮座する唐沢山城【国指定史跡】。



唐澤山神社の鳥居をくぐり、城の本丸へと向かいます。

 

私をまず出迎えるのは、大炊(おおい)の井
直径8メートル、深さ9メートルの大きな井戸です。
伝説によると、築城の際に厳島大明神に祈願したところ、大明神が夢に現れて水源を告げたそうです。
お告げの場所を掘ったところ、水がこんこんと湧きだしたそうで、今日に至るまで水涸れをしたことがないそうです。



石鳥居をくぐって、先へ。



石製の神橋
その下は四ツ目堀という空堀で、唐沢山の山頂部分を東西に分断しています。
当時は曳き橋が架けられていて、防戦時には橋を引き払って防衛したようです。

 

四ツ目堀ぞいを歩いてみました。
入口側の舗装道から見ると深さは2メートルほど、奥側からは深さが6メートルほどでしょうか。
この舗装道は、天狗岩とともに入口の虎口を取り囲む避来矢(ひらいし)へと続きます。



避来矢山に建つ霊廟。
唐澤山神社創建の功労者をお祀りしているそうです。
「避来矢」の名称は、城主の佐野氏の先祖で、平将門の乱の平定に大功のあった藤原秀郷の鎧から来ています。


神橋まで戻り、



唐沢山城内&唐澤山神社境内を進みます。
唐澤山神社の参道は、唐沢山城の本丸へと至る大手道でした。



大手道の途中にある桜の馬場跡
唐沢山城の兵士が馬を訓練した場所で、桜の木が多くあったことからこの名があるそうです・・・が、馬場というにはかなり手ぜまな感じがします。
ここの斜面は崖下まで続いており、三ツ目堀という竪堀を形成しています。



大手道神社の参道を引き続き歩いていきます。
大手道はこの手前で急旋回し、急斜面を駆け上がっていきます。
私はこの大手道を見逃してしまったわけですが・・・。



南城という郭に入りました。



唐澤山神社の社務所は、南城にあります。
外に据えられている机には、続100名城スタンプがありますね。



114番、唐沢山城!
絵柄は高石垣のようですね・・・あとでスタンプの画角を探すことにしましょうか。
続100名城のスタンプは朱肉のいらない「シヤチハタ式」なのですが、ここのスタンプはインクの出が悪いようです。
スタンプとともに据えてある緑色のスタンプ台を使わざるを得ず、印影の外にスタンプの淵がついてしまいました。
少し残念ですね。


唐沢山城【国指定史跡】は、伝説によると藤原秀郷によって築城されたとされています。
しかし史料にはその事実はなく、実際の築城時期は室町時代の後期、15世紀後半ごろという説が有力です。

戦国時代の佐野氏は、相模の北条氏康・氏政、越後の上杉謙信の2大勢力に挟まれていました。
城主の佐野昌綱は北条方、上杉方、再び北条方と立場を変え、そのたびに軍を差し向けられますが、唐沢山城の堅い守りをもって撃退していきました。
とくに上杉謙信は9度も唐沢山城を攻め、時には撃退し、時には降伏することもありましたが、謙信が越後に帰ると即座に北条方に寝返るなどして、佐野家の命脈を保ちました。
このことで、唐沢山城は「関東一の山城」とも謳われました。
昌綱の子・宗綱の代になると、北条と手切れして常陸の佐竹義重と同盟を組みます。
このときも北条氏照率いる大軍に攻められますが、佐竹の援軍とともに撃退しました。

しかし天正13年(1585年)宗綱が不慮の死を遂げると、佐野家にお家騒動が勃発します。
宗綱には嫡子がいなかったため、養嗣子を佐竹から迎えるか北条から迎えるかで家中が二分し、そこを北条に利用されてしまい、北条氏政の弟・氏忠を城主に据えられてしまいます。
反北条方の叔父・房綱らの有力家臣は唐沢山城を離れ、のちに豊臣秀吉小田原征伐に参加することとなります。

北条家の滅亡後は房綱が城主となって佐野家が再興。
房綱は秀吉の家臣・富田信高の弟・信種を養子としており、天正20年(1592年)に家督が譲られて信種改め佐野信吉が城主となりました。
信吉は関ヶ原の戦いで東軍に属して所領を守りましたが、慶長7年(1602年)ふもとに佐野城【佐野市指定史跡】が築城され、唐沢山城は廃城となりました。
慶長19年(1614年)兄の富田信高が改易されると、これに連座するかたちで信吉も改易にあってしまいます。





スタンプの設置場所は神社の社務所ということで、ここでは御朱印ももらうことができます。
100名城スタンプは無料でもらえますが、御朱印は1枚につき500円支払う必要があります。



唐澤山神社の御朱印はバリエーションが豊富にあり、月ごと、時節ごとに絵柄が変わるそうです。
2月は春の訪れにちなんだ絵柄で、私が選んだのは「勝利の揚羽~春を告げる鶯色~」という題がついていました。



社務所のある南城は、標高800尺だそうです。
1尺=30.3センチほどなので、800尺はだいたい242メートルほど。



雲が消え晴れ渡る唐沢山の空。
空気が澄んでいる日には、東京のビル群まで見渡すことができるそうですが、この日は少し霞かかっていました。
スカイツリーくらいは見えるかな~とも思ったのですが、見えそうで見えませんでした。

 



南城を取り囲む石垣です。
廃城から400年の風雨にも耐えてきた、素朴で荒々しい野面積みの石垣。




神社本殿への参道を上ります。
本殿は唐沢山城の本丸に鎮座しています。



引局(ひきつぼね)と呼ばれる、本丸と南城の間に位置する腰曲輪へ。
先に見える神門のあるところが本丸ですが・・・



本丸を取り囲む石垣を拝見。
こちら側の石は、比較的小さめでしょうか。


神門をくぐって、



唐沢山城の本丸へ。
唐澤山神社の拝殿本殿が鎮座します。
ここでいつもどおりの祈願をして、



別の石段から本丸を退出。
こちら側は唐沢山城の大手道にあたり、



その下は二の丸です。

 

こちらの石は大きいです。
城の主要道である大手道なので、城主の威勢をアピールするために大きな石が用いられているようですね。
それにしても、こんな山の上によくもこんな大きな石を運んできたものです。



二の丸から見上げてみると、なるほど高い石垣です。
土造りの城が主流の関東地方で、これだけの高石垣はなかなかお目にかかれません。



二の丸からの出口。
石垣による虎口が築かれています。



ここは大手道ではなく、本丸の東側に尾根伝いで連なる郭への道になります。
いわば裏道、搦め手といえるでしょうか。



唐沢山城は山ひとつをそのまま城にしてしまった広大な城なので、すべてを見回るのは困難です。
そこで二の丸から続く東の連郭を見つつ、スタンプの絵柄を探していくこととします。





唐沢山城・第1章~猫城

2019-08-28 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 前 8 時 0 5 分

栃 木 県 佐 野 市

犬 伏 町 ・ 大 庵 寺



戦国の英雄、真田昌幸・信幸・信繁親子。



親子の運命を決めた地・犬伏を後にしました。



広い栃木県道16号・佐野田沼線に入り、田沼方面に進みます。



しばらく進んでいくと、唐沢山方面の青看が現れます。
この交差点を右折。



行く手にそびえ立つ唐沢山



ハイキングコースがあるようですが、レンタサイクルを捨て置くわけにはいかないので、このまま田沼方面へ。
しば~らく進み、



北関東自動車道の高架が見えてきたら、あと少し。



丁字路に差しかかりますので右折すると、



栃木県道115号・田沼唐沢山公園線へ。
ここからが唐沢山の山道です。




午 前 8 時 3 1 分

唐 沢 山 を 上 る




山道の入口にある神社。
ここからもハイキングコースがあるようですが、私はレンタサイクルとともに県道をひたすら上っていきます。



「カーブ 1」という看板。
ここの山道では、きついカーブにナンバリングがなされているようです。
「カーブ いくつ」になったら到着するのでしょうか?



この先のカーブには、ナンバリングがされておりません。
唐沢山さんは、この程度のうねった道をカーブとは認めない模様です。



「カーブ 2」
曲がりっぷりもさることながら、上りっぷりも半端ではありません。
インコースの傾斜は異常とも言えるくらいで、レンタサイクルがだんだん足枷のように感じていきます。



3を飛ばして、「カーブ 4」
山道は終始きつい上り坂なので、レンタサイクルをこいで進むことはできません。



「カーブ 5」
ゴールはまだか・・・



「カーブ 6」
それにしても、朝っぱらから山登りさせられるのは岐阜城以来です。



「カーブ 7」



木の枝の切れ目からは、旧田沼町の市街地を見下ろす絶景が広がります。



「カーブ 7」より上った先の道からの眺め。
そのすぐ下を、カーブを経る前の道が通っています。
ふもとから一気に唐沢山を駆け上る、そんな道です。



「カーブ 11」に到達。
「唐澤山神社」ののぼりが立っており、いよいよゴールの予感・・・!



「カーブ 11」を曲がると、左側に駐車場が広がっていました。
どうやら唐沢山の山道を踏破したようです。


上り始めてから約1.4kmで、駐車場に到着。
その間の標高差は約140メートルなので、平均の傾斜は約10パーセントということになります。
昨年行った沼田城への道にも肩を並べるキツさです。



【犬伏→唐沢山の行程】



犬伏町(大庵寺) 8時05分発
栃木県道141号唐沢山公園線・同16号佐野田沼線・同115号田沼唐沢山公園線経由
唐沢山城(唐沢山レストハウス) 8時54分着

*所要時間 49分
*移動距離 7.5km




午 前 8 時 5 4 分

唐 沢 山 レ ス ト ハ ウ ス 前




唐沢山城【国指定史跡】の登城拠点となる唐沢山レストハウス
唐沢山城のパンフレットが欲しかったので、登城前に立ち寄りたかったのですが・・・まだ開いていません。

 

レストハウス前の駐車場には、なぜか猫ちゃんたちがくつろいでいます。
その数は、だいたい15匹くらいでしょうか。



レストハウスに貼ってある貼り紙。
唐沢山に捨てられてしまった飼い猫たちを、地域のボランティアの皆さんが保護しているようです。
その甲斐もあって、唐沢山は猫の楽園となっているようです。


レストハウスの開業時刻がよくわからなかったのですが、9時には開くだろうと考え、



レストハウスの裏手にある鏡岩を見てきました。



唐沢山城の城主であった佐野氏は、上杉謙信につくか北条氏康つくかで揺れていました。
はじめは上杉についていましたが、やがて北条に鞍替えしたため、唐沢山城は幾たびも上杉謙信に攻められることになります。
鏡岩は、西日を反射させて攻め手の上杉軍の眼を惑わせたといいます。

上杉謙信は、唐沢山城を9度も攻めたといいます。
そのさいに鏡岩は上杉軍の兵火に遭い、表面が黒く焦げてしまったといいます。



鏡岩の近くにも、猫さまがいらっしゃいました。
昔は戦場でもあったこの地が、今や猫の楽園に・・・なんだか、ホッとしますね。





時刻は9時を回り、レストハウスが開きました。
ここではパンフレットを入手して、



枡形虎口から入ります。



かぎ状に折れ曲がっている虎口。
これを形作っているのは石垣です。

唐沢山城は関東でも珍しい、石垣がふんだんに造成されている城郭です。
関東では採石に適した地が少なく、石垣を造成するには江戸城のように権力財力にものをいわせて西日本から運ぶ場合が多いのです。
唐沢山城の城主であった佐野氏は、江戸城の征夷大将軍のような権力はないので、この山が採石に適していたと考えるのが自然です。



虎口の先にある、天狗岩の登り口。



荒々しい岩肌の天狗岩。
この岩も、唐沢山が採石に適していたことを示唆しているように思えます。



天狗岩からの眺望、見事!
北西の旧田沼町方向を眺めています。
早朝に犬伏の別れの現場を訪れなかった場合は、あちらにある田沼駅から歩いてくることになっていました。



南西の佐野市街。
太い帯は北関東自動車道で、この唐沢山城の地下をトンネルで貫いています。



南方向、東京方面。
この日はさすがに東京までは見えませんでしたが、江戸時代初頭にはここから江戸の火事が見えたといいます。
ときの城主・佐野信吉は江戸で兵火が起きたと思い込み、軍勢を率いて江戸に入ったのですが、これを無断参府、幕府の許しも得ずに軍を率いて江戸に入ったことを咎められ、のちに改易になってしまいました。
幕府としては、江戸のほど近くに外様大名を置いとくわけにはいかないという処置だったのでしょう。

江戸の様子までも見渡すことのできる天狗岩。
唐沢山城を攻め寄せる軍勢の様子は、手に取るように見ることができたでしょうね。


天狗岩から下りました。



虎口にたたずむ虎・・・?



唐澤山神社の鳥居をくぐって、唐沢山城の本格的な登城は始まります。





吉田城・最終章~炎の祭典に背を向けて

2019-07-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 2 時 4 5 分

愛 知 県 豊 橋 市

豊 橋 公 園 ・ 吉 田 城 金 柑 丸





吉田城の本丸にある(くろがね)で城の歴史を学び、



続100名城スタンプをゲットできました。



本丸の東の出入口にあたる東御門跡から金柑丸へと退出し、引き続き城址を散策します。




本丸と金柑丸をつなぐ土橋

 

本丸と金柑丸を隔てる、見事な空堀です。
見づらいですが、本丸側には空堀の下部分にのみ腹巻石垣が施されています。
北向きの画では、豊川がわずかに見えていますね。
ここは現在でこそ空堀なのですが、往時は水濠であったそうです。


金柑丸へ。



現在は豊城神社の境内となっているようです。



社号標の横には、おそらく土塁でしょうか。



その土塁の隣りにはかつて堀があり、金柑丸と三の丸を隔てていたそうです。


・・・このあたりから耳に入ってくる、イベントの音響。


何のイベントを催しているのか突き止めるべく、この道をたどってそのまま吉田城址を出ました。




午 後 2 時 4 9 分

「 炎 の 祭 典 」 イ ベ ン ト 会 場




マイクの音声が響き渡る、豊橋公園の緑地。



地元のFM局のブースが立っています。



こちらのFM局は、公開生放送中?
ご当地アイドルも出演中。


この日は9月の第2土曜日。
「炎の祭典」の開催日だったのです!!!



「炎の祭典」は、豊橋の花火大会です。
豊橋は手筒花火の発祥の地で、花火師たちが花火の入った竹筒を抱えながら演舞する「炎の舞」が見どころとなっています。
昼間は模擬店などのブースが並び、また様々なイベントが開催されます。
平成8年(1996年)豊橋市の市制施行90周年を記念して始まり、以後は毎年9月の第2土曜日に開催されています。



残暑厳しいこの時節に、また熱そうな祭りとあっては、私もまいってしまいます。



ついつい出店のかき氷(500円)に手を伸ばしてしまいました。



かき氷、うまい!
かき氷を味わっているときに、隣り合わせた地元民から「炎の祭典」について耳にしたのでした。
炎舞の開始は午後5時すぎとのことでしたが・・・帰りの電車の都合上、祭りを見ることはできません。


かき氷を食べ終わると、「炎の祭典」を尻目に、豊橋公園を後にしました。




午 後 3 時 2 3 分

国 道 1 号 ・ 吉 田 大 橋


吉田城の登城、残るは・・・



恒例となってきた、スタンプの画角探しです。
絵柄は豊川越しの鉄櫓なので・・・



ここに行かなきゃいけないようですね。



豊川にかかる吉田大橋



吉田大橋の下流には、豊橋



吉田大橋のたもとには、吉田大橋記という碑文が置かれています。


東海道五十三次のひとつ・吉田宿
この地を流れる豊川に、人馬の往来にために1本の橋が架けられました。

戦国時代末期の元亀元年(1570年)吉田城主・酒井忠次は、現在の吉田大橋がある地点に土橋を架けました。
これが初代の吉田大橋です。

吉田城主が池田照政(輝政)に代わると、吉田城を拡張するために初代の吉田大橋を取り壊し、現在の豊橋のあるところに木橋を架けました。
これが2代目の吉田大橋です。
江戸幕府が成立すると、吉田大橋は幕府の管理下に置かれました。
吉田大橋は、吉田城の鉄櫓とともに浮世絵にもその姿が描かれています。
2代目の吉田大橋は明治期に架け替えられ、その名を豊橋(とよばし)に変わりました。

そして昭和34年(1959年)初代の吉田大橋のあった場所に新たに橋が架けられました。
これが現在の吉田大橋です。





豊川に臨む吉田城鉄櫓
イイ画ですなぁ。



その対岸は湿地帯・・・どこまで足を踏み入れることができるのか?!


橋詰脇の小道を進んでいくと、



小舟の船着場のような場所に出ました。

 

う~ん、角度にかなりズレがあるようですが・・・船着場の先からは道がないので、ここからってことにしよう、うん。





吉田城・第2章~浮世絵の櫓

2019-07-25 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 2 時 1 8 分

愛 知 県 豊 橋 市

豊 橋 公 園 ・ 吉 田 城 本 丸



すっかり公園化してしまった、かつての吉田城



城郭があったことをあらわすものもほとんどなく、こりゃあガッカリな城かな・・・そう思い始めていた時、





本丸を取り囲むように造成された石垣を見た刹那、俄然気分が昂ぶってきました。



本丸入口、千貫櫓跡付近に立っている看板。
かつての吉田城を描いた絵図面が掲載されています。

二の丸から本丸に向かうところには、冠木門と呼ばれていた薬医門?と、南御多門と呼ばれていた櫓門が構えられていました。
そして門の左右を千貫櫓辰巳櫓がにらみをきかせていました。
いっぽう豊川に面する北側にも北御多門が構えられており、その左右を(くろがね)【模擬】と入道櫓が脇を固めていました。
とくに鉄櫓は最大の櫓で、天守の役割も担っていたようです。



看板の右下に記載されている、石垣の刻印についての案内。
なるほど、本丸の石垣にはこれだけ刻印が隠れているのだな・・・これは全部見つけてやろうではないか。
しかし・・・

むむむ、まったくわからん・・・。



かろうじて見つけた刻印。
先ほどの案内の②だと思います。
見つかりましたか~?

正解はこちら。





本丸南東、辰巳櫓跡の石垣。
本丸側には櫓へと上がる石段が設けられていました。
入口側と石の形が異なるように見えます・・・造成の時期が異なるのかな?



こちらは本丸南西の千貫櫓跡の石垣。





日当たりがよくないためか、石の表面に苔が生えていますね。



東側の石垣。
ここにも石段がこしらえられていますね。



すぐそばで石垣が途切れています。
ここは東御門跡
先ほどの石段は、この櫓門に入るためのものだったんですね。



ひっそりと「東御門跡」の石標が立っています。



東御門跡付近にたたずむベンチ。
ここは本丸井戸があったそうです。





本丸北東、入道櫓跡の石垣。



入道櫓跡から・・・



北御多門跡へ。
こちらは吉田城の裏手で、豊川を渡ってくる者に備えていました。
豊川はなかなかに幅広の川ではありますが、本丸の背後は急峻ながけではありませんので、敵兵の襲来に備える必要があったのです。



吉田城本丸のもうひとつの玄関だからなのか、ここの石垣も比較的大きな石が用いられているようですね。



ここから、豊川へ下りられます。



本丸から、川手の腰曲輪へ下る石段。
この石垣はなかなかに急峻ですね。


本丸に戻って、



鉄櫓【模擬】へ。



続100名城スタンプは、この鉄櫓の中でもらえます。
開場時刻は午前10時から午後3時までと、意外と早くに閉まってしまうようです。
また月曜日が休業日となっていることにも注意をしなければなりません。
当時私はあまり時刻を意識しておらず、鉄櫓に入ったのが午後2時半ごろと、一歩間違えばスタンプをもらい損ねていたようです。

浜松で餃子屋の列に並ばなかったのは正解でしたね。

鉄櫓の入場料は無料です。
ここのスタンプはタダでもらえますね。



151番、吉田城!
絵柄は鉄櫓本丸腰曲輪です。
画角は間違いなく北から、すなわち豊川越しの画ですね。
後で探してみましょう。

そして「城攻め」も・・・



続日本100名城・第151番、吉田城!
さらに伊奈城(豊川市)も攻略。



武将は池田輝政さんを登用。
彼の事蹟に比べて、能力値はいまひとつですねぇ。
酒井忠次さんは・・・おそらくここで登用できそうなのですが、吉田城を登城する前に登用してしまったのでした。


鉄櫓内は、吉田城関連の資料が展示されています・・・って、どこの城もそうなんですけどね。
しかしここの展示は、入場料を取らない割にはかなりの力の入れようです。



吉田城ははじめ今橋城といい、永正2年(1505年)在地の武将・牧野古白が駿河守護・今川氏親義元の父)の命で築城されました。
しかし古白は、その翌年に敵対する戸田氏によって戦死、今橋城は以後牧野氏と戸田氏の争奪戦の舞台となります。
大永2年(1522年)ごろ、今橋城は吉田城と改称されたようです。



天文15年(1546年)今川義元が吉田城を攻め、城主・戸田宣成を討ちました。
義元は吉田城を直轄とし、東三河の統治や西三河の松平、尾張の織田攻略の拠点としました。
しかし義元が桶狭間の戦いで戦死すると、徳川家康が西三河で独立し、今川領へと進出していきます。
永禄7年(1564年)家康は吉田城を攻め取り、「徳川四天王」筆頭の酒井忠次を城主としました。
元亀2年(1571年)武田信玄が西上作戦前の示威のために吉田城を襲撃しましたが、忠次が堅守して武田軍を退けました。



豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、徳川家康は関東へ移りこととなりました。
代わって吉田城主となったのが、池田照政(輝政)です。



照政は吉田城を大改修しました。
本丸を取り巻く石垣は、照政が城主のときに普請されたものです。
照政は関ヶ原の戦いの戦功により姫路へと移封加増され、姫路城を大改修しています。

その後の吉田は、豊川にかかる吉田大橋もあることから、江戸幕府はここを西国に対する防衛拠点と位置付けていました。
そのため吉田を治める大名は有能な譜代大名が多く置かれ、老中や京都所司代などの幕閣に就く者も輩出し、「出世城」とも呼ばれていたそうです。
浮世絵師・歌川広重「東海道五十三次」では、「吉田」の一枚に、豊川にかかる吉田大橋とほとりにそびえ立つ鉄櫓が描かれています。



 

吉田城本丸の模型。
往時の姿がとてもよくわかります。
入場料無料でありながら、この充実した展示・・・吉田城について不勉強だった私にはありがたかったです。



最上層からの眺め。
豊川がすぐ下を流れています。
吉田城の近くで、川がしゅう曲しているんですね。



すぐ下流には、吉田大橋がかかっています。
浮世絵に描かれた橋はあれなのかというと、実は違います。
浮世絵の橋は、吉田大橋の1本先にある豊橋という橋です。





鉄櫓を出ました。



東御門跡から本丸を退出。
ですがもう少し吉田城の散策をしていきます。





吉田城・第1章~路面電車に乗って

2019-07-21 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 1 時 1 5 分

浜 松 市 中 区

J R 浜 松 駅



浜松城【浜松市指定史跡】の訪問を終え、浜松餃子をたっぷり胃袋に送り込んだ私は、次の城へと動きます。



めざす先は、西。
13時20分発 東海道線 普通電車 岐阜行きに乗車します。
岐阜行きの電車に乗るとはいっても、岐阜はおろか名古屋までは行きません。



13時20分、電車は定刻どおり発車。
浜松から先は車両が8両なので、悠々と座席を確保できます。



そうそう、キオスクで飲み物を買うついでに、食後のお菓子を買ってみました。
玉華堂みそまんじゅう(105円)です。



直径は約6センチ、高さは約1.5センチと、小ぶりなおまんじゅうですが・・・



みそまんじゅう、うまい!
味噌は前面に出てくるのではなく、あくまで風味として登場する程度です。
かわは味噌風味、その後に黒糖や蜂蜜の風味が追いかけてくる、といった具合。
中のあんこは、言うに及ばず甘いですねぇ。




浜松駅から2駅目の舞阪駅を過ぎると、電車は浜名湖を渡っていきます。
浜名湖に浮かぶ埋立地にある弁天島駅を過ぎ、



さらに浜名湖を渡ります。
進行方向右手に浜名湖競艇が見えてきたら、浜名湖の景色はおしまい。
電車は新居町駅へ。


う~む、今回も天気の良くない浜名湖の画でしたね・・・。



そして13時55分、



豊橋駅で下車しました。



【今回の乗車記録・其之壱】

JR東海 [CA34]浜松駅 3番線 13時20分発
[CA]東海道線 普通 岐阜行き 8両
[CA42]豊橋駅 7番線 13時55分着

*所要時間 35分
*移動距離 36.5km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、670円)



「城攻め」は? もちろんやっていきましたよ~。


【今回の「城攻め」成果】

[CA]東海道線
13時20分 [CA34]浜松駅  出発
13時30分 [CA36]舞阪駅  宇津山城(湖西市)を攻略
13時55分 [CA42]豊橋駅  到着




午 後 1 時 5 8 分

愛 知 県 豊 橋 市

J R 豊 橋 駅 東 口


豊橋駅といえば、乗り鉄の世界では「秘境駅の宝庫」として知られるJR飯田線の起点ですが・・・
お城業界でも、続日本100名城のひとつである吉田城の最寄駅であります。



最寄駅・・・とはいいましたが、この豊橋駅から吉田城へは別の電車で向かうこととします。

 

豊橋駅東口のペデストリアンデッキから下ると、豊橋鉄道市内線駅前停留場へ。
城攻め旅では函館以来の路面電車です。



今度の電車は、14時03分発 市内線 赤岩口行きです。
ちなみに「市内線」「豊橋市電」は通称で、本名は東田(あずまだ)本線というそうです。



こちらが市内線の時刻表。
市内線に限れば、運賃はどこまで行っても大人150円、子供は80円。
料金は均一なので、前から乗って、運賃を先に払うことになります。
降りるときは、中ほどの扉から。

それより気になるのが、「炎の祭典」という案内文。
平成30年9月8日(土)、まさに私が豊橋を訪れたこの日に、「炎の祭典」なる催しが執り行われるのです!!!
某氏は烈火のごとく憤慨し、鬼ヅモ会員は狂喜乱舞しそうな、なんというドンピシャ!なネーミングの催し物。

「炎の祭典」の登場に、逸る気持ちをおさえて市電に乗車。



駅前停留場から4つ目、



市役所前停留場で下ります。



「役」の字に少しばかりの違和感を感じる、市役所前停留場。
そのそばにある信号を渡り、



豊橋市公会堂【国登録有形文化財】の脇の道へ入り、



豊橋市役所庁舎が見える方へ歩いていきますと、



吉田城があった豊橋公園に到着しました。



【今回の乗車記録・其之弐】

豊橋鉄道 ①駅前停留場 14時03分発
市内線(東田本線) 赤岩口行き
⑤市役所前停留場 14時09分着

*所要時間 6分
*移動距離 1.4km
*運賃 150円




午 後 2 時 1 3 分

豊 橋 公 園 ・ 吉 田 城 址


豊橋公園の門から入ると、早速吉田城の案内板があります。



吉田城の縄張りは輪郭式と呼ばれるもので、中心に本丸があり、二の丸、三の丸が取り囲むように配置しています。
本丸の背後は豊川が流れており、見方によっては「背水の陣」とも考えられます。
岡崎城今川氏真から独立した徳川家康はまず吉田城を攻め取りましたが、「背水の陣」となっている縄張りを嫌ったため、吉田城に本拠地を移すことはありませんでした。



公園を取り囲んでいる三の丸土塁
三の丸と城外を隔てる空堀を造成した際に、掘り起こされた土砂で造られたものです。
現在は豊橋公園を取り囲む外壁の役割を果たしています。



芝生の真ん中に立っているのは、戦災復興碑だそうです。
「○○の像」というタイトルはとくにないのだとか。
このあたりは二の丸口門という二の丸へと通じる門が構えていたそうです。


公園化によって、吉田城の空堀はあらかた埋め立てられてしまいました。
入口付近の三の丸、復興碑付近の二の丸の境界は、今となってははっきりと区別できませんでした。
いつの間にか二の丸に入っていた、そんな印象を受けました。
しかし・・・



二の丸と本丸を隔てる内堀は健在です。
そして、本丸を取り囲むように造成された石垣もまた、健在。



二の丸から本丸に向かって左側は、千貫櫓跡の石垣。



右側は辰巳櫓跡の石垣です。


石垣の登場で一気に盛り上がってきた感のある、吉田城の訪問。
これより、石垣豊かな本丸へと足を踏み入れます。





浜松城・最終章~出世して太閤殿下へ

2019-07-14 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 5 6 分

浜 松 市 中 区

浜 松 城 公 園



浜松城【浜松市指定史跡】の本丸を退出し、



浜松城公園の駐輪場へと戻りました。
これにて浜松城の攻略は完了・・・?


否。
浜松城を語る上ではもう1箇所訪れなければならない所があります。


徳川家康が浜松城を築く前、この地には曳馬(ひきうま)がありました。

曳馬城の築城は諸説ありますが、室町時代初期に遠江今川家4代当主・今川貞相(さだすけ)によるものとされています。
その後、遠江今川氏は遠江国(静岡県西部)の支配権を失い、応仁の乱で室町幕府の権威が揺らぎ始めると、駿河今川家の今川義忠が侵攻を始めます。
そして義忠の子の今川氏親の代で曳馬城を制圧し、遠江の支配が確立しました。
氏親は家臣の飯尾乗連(のりつら)を城主としました。

氏親の子の義元桶狭間の戦いで戦死すると、今川家の衰退が始まります。
曳馬城の城主はこの時期に、乗連の子の連竜(つらたつ)に代わりますが、今川家を継いだ氏真(うじざね)に疑惑をもたれ、謀殺されてしまいます。
以後の曳馬城は飯尾家の家臣によって守られるものの、内紛を抱えたまま徳川軍の侵攻を受け、あっさりと陥落してしまいます。

この地を得た家康は、曳馬城を西南方向へと拡張し、本拠を構えました。
その際、「馬を曳く」という名は敗北を意味しており縁起が悪いということで、地名を「浜松」に改めたのでした。





やってきたのは、元城町東照宮



小さく「曳馬城跡」とあります。
こちらがかつての曳馬城本丸だったのです。



拝殿でいつもどおりの祈願。



拝殿の傍らに立っているのは、近年できたであろう二公像
家康はわかるけど、なんで豊臣秀吉が?!


曳馬城主・飯尾乗連の寄騎のひとりに、頭陀寺(ずだじ)(浜松市南区)松下加兵衛という武将がいました。
加兵衛の家来に、「木下藤吉郎」と名乗る若者がいました。
この藤吉郎が、のちの豊臣秀吉です。
加兵衛は、若き日の藤吉郎に武芸、学問や兵法を教えたといわれています。
藤吉郎は同僚からいじめを受け、それを哀れに思った加兵衛が路銀を与えて送り出し、その後織田信長に仕えたといいます。
(藤吉郎が使いの金子を持ち逃げした、という説もあります)

今川家が凋落すると、加兵衛は徳川家康に仕えますが、天正2年(1574年)の第1次高天神城の戦い武田勝頼に破られます。
勝頼に赦されて解き放たれると、織田家で頭角を現していた羽柴秀吉に招かれ、その家臣となりました。
秀吉は加兵衛を優遇し、若年時の恩に報いたそうです。



藤吉郎が浜松にいた時は、年齢は16歳から18歳ごろとされています。
銅像の秀吉公はちょっと若すぎるのではないでしょうか・・・?



さて、ここは秀吉にもゆかりがあるという場所。
ここで「城攻め」をしたら、秀吉公が発見できるかもしれませんねぇ・・・

・・・・・・武将、誰もいねぇ。

しかし、



「海道一の弓取り」の称号を獲得!
はじめは今川義元がこの称号で呼ばれていましたが、桶狭間の戦いで戦死。
その後小牧長久手の戦いで勝利した徳川家康が、この称号で呼ばれるようになったそうです。
ゲーム上では、浜松城を攻略するとゲットできるようですね。





さてこの二公像、浜松屈指のパワースポットとされています。



両英傑の間に立って撮影すると、出世運がうなぎのぼりなのだとか。
そしてその画をSNSにアップすると、運気を広く周囲に振りまくことができるのだとか。

・・・境内に誰もいない。
三脚のようなものもない・・・。


ひとり旅の私は、こうして出世を棒に振ったのでした。





浜松城・第2章~出世する大名達

2019-07-13 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 4 分

浜 松 市 中 区

浜 松 城 本 丸



浜松城【浜松市指定史跡】の本丸まで到達しました。



本丸の高台に構える天守門【再建】をくぐります。



模擬天守がそびえ立つ天守曲輪に入りました。



天守曲輪から振り返ってみる天守門
櫓門ということで、脇から中に入ることができるようです。
後ほど入ってみることとしましょう。



天守曲輪から仰ぎ見る模擬天守
「模擬」ということで、残念ながら浜松城の天守は史実に基づいていないのです。



しかしながら、天守台は400年前から残っているものだといいます。
400年前というと、初代城主・徳川家康の頃よりもだいぶ時が流れています。
家康が浜松城を築城した頃は、石垣の技術はまだ浜松に伝わってきておらず、浜松城は土造りの城だったといいます。


徳川家康江戸城へ移った後、浜松城主となったのは堀尾吉晴でした。
吉晴は豊臣秀吉に古くから仕え、のちに「三中老」に列せられたといわれています。
浜松城は堀尾吉晴の手によって、石垣が造成されるなどして生まれ変わりました。
堀尾家は関ヶ原の戦いで家康方につき、戦後、出雲松江24万石に加増されました。
堀尾吉晴もまた、浜松城から出世していったのですね。

その後浜松城は「東照公(家康)ゆかりの城」として特別視され、有望な譜代大名が浜松城主となる例が多かったようです。
彼らは老中など、幕府の要職に就任することが多かったことから、「出世城」と称されたといいます。
幕末に天保の改革を指揮した水野忠邦も、浜松城主を歴任しています。



石垣、天守などの築城技術は近畿地方で発展を遂げていき、そこを治めていた織田信長・豊臣秀吉の家臣が、自らの居城を普請するすることによって伝播していきました。
そして、本丸を区分して天守のための曲輪を形成する手法は、豊臣系の大名によく見られるものだといいます。
現在にも残っている浜松城が、徳川方ではなく豊臣方の影響を色濃く残しているのは、なんとも興味深いところです。



天守曲輪の西側は、埋門(うずみもん)があったそうです。





天守の中へ入りましょう・・・なにやら老人の群れが入口で渋滞をなしていますなぁ。
さっさと・・・(自主規制)

入場料は、大人200円。
団体割引は、30名以上で1割引き、100名以上で2割引きとなっています。
一人旅を愛する私に「団体割引」というのは無縁なものですけどね。



まずは地階。
天守台に設けられていた地下構造で、穴蔵と呼ばれていました。
そこには井戸があり、籠城戦では最後の拠点となるであろう天守や本丸に、飲み水が確保されている構造だったのですね。

同じような構造は、ほかに名古屋城松江城でも見られるのだそうです。
松江城は、出世していった堀尾吉晴が築いた城郭。
ここにも堀尾=豊臣系のカラーが残っているのかもしれませんね。


地上1階は、浜松城関連の資料が展示されています。
なかでも、浜松一の出世頭というべき徳川家康のものが多いです。



家康が身に付けていた甲冑のレプリカ。



左の金ぴかな甲冑は、金溜塗(きんためぬり)具足

家康の初陣となる大高城攻防戦で身に付けていたとされています。
大高城攻防戦は桶狭間の戦いの前哨戦。
織田軍によって包囲された大高城(名古屋市緑区)を救援するため、出陣した今川義元の軍勢。
今川軍に加わっていた家康(当時は松平元康)は、義元より大高城に兵糧を運び入れる使命を受け、これを成功させたのでした。

本物は久能山東照宮に保管され、国の重要文化財に指定されています。



右のシブめの甲冑は、正式名を伊予札黒糸威胴丸(いよざねくろいとおどしどうまる)具足といいます。
兜の前立てから歯朶(しだ)具足」とも呼ばれ、こちらの方がメジャーな呼び方でしょうか。

こちらは関ヶ原の戦いで着用され、大坂の陣でも携行された甲冑です。
徳川家の天下を定めた2つの戦役で用いられたため、吉祥の鎧として尊ばれたそうです。

こちらも本物は久能山に保管され、また国の重要文化財に指定されています。



有名な徳川家康の肖像画です。
正式名は徳川家康三方ヶ原戦役画像というそうですが、通称の顰像(しかみぞう)方が有名でしょう。
本物は名古屋の徳川美術館に保管されており、浜松城のものはレプリカです。

三方ヶ原の戦い武田信玄に大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰った家康。
恐怖のあまりにう●こを 家康は自己の短慮から多くの将兵を失ったことを反省し、絵師に己のみじめな姿を描かせて、後の教訓としたといわれていますが・・・・・・
どうもこの話はマユツバのようです、ここでは詳しくは触れませんが。


最上階に上がりました。



東側を見下ろし、本丸富士見櫓跡
ここから天守曲輪を眺めると、なかなか画になりますよ。



西側を見下ろすと、天守台より一段高い区画があります。
ここは八幡台と呼ばれ、武家の守護神とされる八幡大菩薩をお祀りする神社が鎮座していたといいます。


再び1階へ。



続100名城スタンプは、天守の1階に設置されています。



148番、浜松城!
絵柄は模擬天守天守門ですね。
どのアングルからの画なのか、後で探してみましょう。



天守を出ました。



今度は天守門の中に入ります。



骨組みはシンプルで、装飾性はまったくありません。
戦争に備えるための施設なので、短期間に建築できる構造となっているのです。敵はできあがりを待ってはくれませんから。
それでいて、戦闘に耐えうる堅固さをも備えています。

・・・どこの城でも同じような画じゃないかと思われますが、仕方ないことです。



棟束にかけられている棟札
「浜松市長 鈴木康友」とあるので、天守門再建工事の施主は浜松市のようです。



天守門からの模擬天守
なかなか画になりますね~。
「おんな城主」の顔出しパネルがありますが・・・そういえば平成30年の大河は「おんな城主 直虎」だったか・・・見てないなぁ。
平成30年の大河ドラマは「西郷どん」でした。見てませんでしたねぇ。



天守門から、天守曲輪を出ました。
この後は、100名城スタンプの画角を探します。



天守門の真下。ここじゃないですね。



横を向くと、「若き日の徳川家康公」像
正面から、はじめて拝謁します。



やっぱりあまり若くなさそう・・・。
手に持つのは・・・歯朶の前立て?!
家康が歯朶具足を作らせたのは、関ヶ原に赴く前の頃なので・・・やっぱり若き日の家康ではなさそう。


少し離れて、富士見櫓跡からの画。

 

たしかにいい画ですが、天守と天守門の位置関係が逆です。


「若き日の・・・」付近に戻ってきました。



浜松市役所が見渡せる、このあたりからだと・・・



ううむ・・・位置関係は正しいのですが、ここからだと天守がよく見えません。
視界を桜の木々に阻まれてしまいます。


二の丸に下り、



浜松市役所本館入口へ。

 

ううむ、もう少し高さが必要ですね。



もしかして、市役所の中から撮ったのか?!
とはいえこの日は土曜日、役所は当然閉まっております。


そうそう、忘れずに「城攻め」



続日本100名城・第148番、浜松城



発見できたのは堀尾吉晴さんだけ。
徳川家の武将は、江戸城付近であらかた登用してしまいましたからね・・・。



スタンプの画角探しはここで断念し、自転車を停めた場所へと戻りました。





浜松城・第1章~出世大名家康くん

2019-07-09 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 2 8 分

浜 松 市 中 区

J R 浜 松 駅



わが本拠を発って約6時間、JR浜松駅までやってきました。
う~~~ん、静岡は長かったですねぇ。

浜松駅の北口から、今回の登城旅が始まります。
目的地は言うまでもありませんね・・・浜松にある浜松城【浜松市指定史跡】です。


駅の北口にあったのは徳川家康公の銅像ではなく、



何だ、このかぼちゃのお化けみたいなのは・・・出世大名家康くん!?



北口から、高架沿いに東へ・・・どうやらこの御仁が家康くんのようですね。
ちょんまげは浜名湖のうなぎ、袴にはYAMAHAのピアノ
そしてこの画では隠れていますが、紋付の家紋は葵ではなく静岡温州みかんがあしらわれています。


出世大名家康くんは、浜松市の公式マスコットキャラクターで、徳川家康の生まれ変わりを称しています。
平成23年(2011年)に浜松市長によって公式のマスコットに指定され、赤塚不二夫のキャラクターであるうなぎイヌに代わって「はままつ福市長」に就任したのでした。

平成25年のゆるきゃらグランプリでは、「天下統一宣言」を行い、さらに浜松市を挙げてのバックアップにより選挙戦を優勢に戦いますが、終盤で栃木県佐野市のさのまるに逆転を許して敗北。
家康くんは「宣言」時に公約したとおりにうなぎのまげを落とし、「出家大名」となってしまったのでした。

この「出家」は、「ピアノとみかんはそのままで、なぜうなぎだけ?」という漁業関係者の声もあったようで、翌年に「復活の儀」を行って見事に蘇生。
そして平成27年(2015年)ついにゆるきゃらグランプリを獲得したのでした。



「はままつ福市長」もいらっしゃるかもしれない浜松城へは、浜松駅から約2キロほどの行程になりそうです。
そこで今回も、



レンタサイクルの力を借ります。
今回の自転車はえらいカラフルですね~、さらにハンドルにはスマホさんを据え付けるポケットが備えられています。
城攻め旅史上最高にヤル気のあるレンタサイクルです。



自転車を借りられる場所は駅北口から東へ、新幹線の高架沿いに進んだところにあるはままつペダルというお店です。
電チャリ、折り畳み自転車、ロードレーサーなどあらゆる種類の自転車を借りられ、ロッカーなどのスペースもあるそうです。
私はシティサイクル・・・要するにママチャリを4時間500円で借りることとしました。


※はままつペダルは、平成31年1月に新幹線の高架下から遠州鉄道の高架下に移転しました。
 浜松駅からは少しだけ遠くなってしまいました。



スマホさんの地図で確認しつつ、



国道152号沿いの浜松市役所へ。
市役所と、その隣りの元城小学校との間から脇道を進み、



浜松城公園へと到着しました。




午 前 1 0 時 4 8 分

浜 松 城 公 園


さて浜松城公園入口のあたりは、浜松城の二の丸だったところです。
二の丸は江戸時代に政庁が置かれた場所で、藩政を行っていた表御殿と藩主の私的場所であった奥御殿が建っていました。
現在は浜松市役所元城小学校が建っています。



さて、自転車をどこに停めよう?
城内に自転車を停められるような場所はなさそうですし、市役所の駐輪場はやや遠い場所にあるようです。
天守とは逆方向ですが、浜松城公園の駐車場に向かい、そこの駐輪スペースに停めることにしました。



ここにも出世大名家康くんがいらっしゃいますなぁ。
おやおや、出世法師直虎ちゃん???
直虎ちゃんは本当に出家していますが、「出家法師」じゃないんですね。


公園の駐車場から進み、



本丸に到達。
桜の木に覆われている模擬天守、天守の前に立ちはだかる櫓門は天守門【再建】。
曲輪をとりかこむ石垣は、組成する石がとても粗々しいですね。



天守門付近から見下ろすと、あのお方は・・・



若き日の徳川家康公の像のようです。
私の目が良くないせいか、あまり若々しくは見えませんねぇ。
たぬきに喩えられた晩年と比べれば体躯がスリムなので、壮年期の家康公なのでしょうか。


徳川家康は、はじめ三河(愛知県東部)の岡崎城に拠っていました。
織田信長と同盟を組むと東へ勢力を伸ばし、さらに甲斐(山梨県)の武田信玄とも同盟して今川氏真を攻め、遠江(静岡県西部)を獲得しました。
元亀元年(1570年)、居城を曳馬(ひきうま)に移し、さらに名を「浜松」と改めたのでした。

浜松城に移った家康を待っていたのは、強敵である武田との闘争でした。
隣国の駿河(静岡県中部)を攻め取った信玄は信長包囲網に加わり、西進作戦を開始します。
家康は武田軍の侵攻を受けますが、盟友の信長も余力はなく、ほとんど独力での対応を迫られます。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いで信玄の兵力と用兵の前に惨敗を喫し、家康の生涯最大の危機を迎えますが、直後に信玄が病死して難を逃れました。

信玄の死後に当主となった武田勝頼との闘いも、はじめは劣勢のまま推移しますが、天正3年(1575年)長篠の戦いでの大勝を機に勢力を盛り返していきます。
しかしこれ以降、信長との関係は対等なものから従属的なものとなっていき、信長の指示により嫡子の信康と正妻の瀬名姫(築山殿)を処断しなければなりませんでした。
(信長の指示ではなく、父子関係が悪化したため家康の判断で処断したともいわれています)

天正10年(1582年)信長とともに甲州征伐に加わり、武田勝頼を滅亡させます。
その功績で信長より駿河を与えられますが、こののち信長は本能寺の変で死亡。
本能寺の変後のどさくさで武田の旧領であった甲斐と信濃(長野県)を攻め取り大大名となりますが、そのころには豊臣秀吉が信長の後継者として台頭していました。

天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで豊臣軍を破りましたが、外交戦では後れを取り、また近畿を領有する秀吉とは国力で大きな差があったのでした。
家臣間にも親豊臣と反豊臣とで亀裂が生じ、三河時代以来の重臣・石川数正(かずます)が出奔してしまいます。
ここに及んで家康は秀吉のもとに上洛し、秀吉に臣従することとなります。

天正14年(1586年)家康は居城を駿府城に移します。
石川数正の出奔により、浜松城の機密が漏れてしまうことを恐れたためともいいます。



秀吉が天下統一を果たすと、家康は江戸城へと移封されてしまいます。
当時は未開の地であった関東が、家康雄飛の地となっていくわけですが、これはまた別の話ですね。
ともあれ、浜松時代の困難に打ち克ったことが、家康の出世へとつながっていることは間違いないでしょう。





さて私は天守門【再建】をくぐり、浜松城の中心部・天守曲輪へと入っていきます。





白石城リベンジ・後編~小十郎になる

2019-06-16 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 1 日 ( 土 )

午 後 3 時 2 1 分

宮 城 県 白 石 市

白 石 城 三 階 櫓



8年ぶりに白石城【白石市指定史跡】を訪れ、





以前、文字通り門前払いを受けたという城門を越え、



白石城のシンボル・三階櫓【白石市指定文化財】に入りました。
その1階の奥に、なにやら思惑を秘して微笑む老紳士と若淑女がたたずんでいます。

「戦国武将になってみませんか」

一言でいえば、コスプレです。
白石城ゆかりの戦国武将たちの兜と陣羽織が、すでに用意されているではありませんか。

白石城の城主・片倉小十郎
小十郎の主君・「独眼竜」伊達政宗
そしてなぜか、「日の本一の(つわもの)」真田信繁(幸村)のものまで・・・・・・これにはれっきとした理由があるのですが。

こんなコスプレなど、普段の私ならばにべもなくはね退けるのです!・・・



片倉小十郎重綱、ここに推参!



(なお顔は、ナムコ「独眼竜政宗」片倉小十郎景綱を使わせていただきました)



兜は神符八日月前立筋兜
片倉景綱・重綱父子が所用していた兜ですが、重綱は大坂の陣に赴くにあたって「愛宕山大権現守護所」の御札を授かり、前立ての半月(八日月)に貼って戦に臨んだといいます。


ここは白石城。
伊達さんも真田さんもいいのですが、やはり片倉小十郎になってしまいました!



1階に掲げられている「白地黒釣鐘」
天正16年(1588年)ごろに小十郎景綱の姉・喜多より授けられ、以後片倉家の旗印となりました。
「鐘のように、片倉の武勇を天下に響かせよ」という願いが込められているといいます。
また片倉家は神官の家柄なので、「死んでいった者たちが怨霊にならないように、心安らかに眠れるように」という願いが込められているともいわれています。
現在の白石市の市章は、この旗印をモチーフとしたものになっています。




階段を上って、上層階へ。
史実を忠実に再現したのでしょうか、傾斜もなかなか急なものです。



2階に上がりました。
ここには、白石城の復元に使われた木材についての説明書きがあります。
柱は吉野の檜、化粧材は青森のひば、山陰の松丸太や赤杉などの国産を用いているそうです。

 

最上階へ。
最低限の消防器具が備わっているのは消防法の制約上やむを得ないことですが、それでも木造の大櫓は圧巻ですね。



天井には棟札が据え付けられていますね。



三階櫓からの本丸
芝生や樹木が茂る一帯は、かつては本丸御殿が建っていました。



本丸大手門
入口の一ノ門【再建・白石市指定文化財】から二ノ門【再建・白石市指定文化財】に進むにつれて空間が狭くなる、変則的な枡形構造になっています。
さすがに櫓門の二ノ門の前は広くなっているように見えますが、進路に注目するとカギ型になっていて、進軍しづらい構造になっていますね。





白石の街・・・あいにくの雨でかすんでしまいました。



横に伸びる白い筋は東北新幹線の高架と、JR白石蔵王駅です。
在来線のJR白石駅は平屋のため、よく見えませんでした。


それでは、三階櫓のてっぺんで・・・「城攻め」



続日本100名城・第105番、白石城攻略!
同じく白石市内にある地蔵院館も攻略できました。



2代目小十郎・片倉重長・・・ほか3名を登用。
甘粕(あまかす)(甘糟)景継白石宗実は、片倉家の前の白石城主です。
桑折(こおり)貞長は伊達家の重臣で、伊達稙宗・晴宗の壮大な親子ゲンカ・天文の大乱で晴宗を支持して勝利し、白石城のあった刈田郡の万行楯城の城主を務めました。


2代目小十郎・片倉重長は、初代小十郎・景綱の嫡男です。
天正12年(1584年)に生まれ、同19年に元服、はじめは「重綱」と名乗りました。
ときの権力者・豊臣秀吉への奉公から、重綱は京都伏見に滞在することとなりますが、その間に見目麗しい青年に成長します。
主君・伊達政宗ともきわめて親密な関係であったそうです。
その容姿は諸大名の間でも語られ、関ヶ原で大活躍した小早川秀秋熱心にアプローチをかけてきたそうな。

時代は下り、戦国最後の合戦・大坂夏の陣では、病身の景綱に代わり出陣します。
このとき重綱は主君・政宗に対し、伊達軍の先鋒を志願します。
「お前以外、誰を先鋒にするのか」
政宗は重綱の手をとって引き寄せ、頬へ御喰付きなされたそうな。

こうして大阪に参陣した重綱は、玉砕覚悟で野戦に打って出た豊臣軍を相手に奮戦。
猛将と名高い後藤又兵衛基次と、武芸者とされる薄田兼相(すすきだかねすけ)を討ち取り、「鬼小十郎」と賞賛されました。
しかし大将でありながら自ら槍働きをしたために、白石に戻ると父の叱責を受けてしまったといいます。

父・景綱が死ぬと白石城主の座を受け継ぎました。
のちに4代将軍徳川家綱が将軍位に就くとその諱を避け、「重長」と改名しました。



「頬へ御喰い付き」・・・要するにほっぺにチュウしたのだそうな。
しかも喰い付くくらいだから、かなり情熱的なものだった?!
この話は、片倉家の記録にしっかり記述があるそうです。

♂♂の関係(衆道(しゅどう)は、当時としては当たり前のことだったようです。
♂♂を嗜まない有名人は豊臣秀吉くらいだといわれています。
また主君の相手に選ばれることはこの上なく名誉なことであり、また主君に示す最高の忠節であったそうです。



三階櫓を下りて、外に出ました。



三階櫓のそばにあった本丸井戸



さらには鐘堂【再建】。
本丸の枡形に突出している部分に建っていたそうです。
鐘は重長の子・景長のときに修理され、現在は福島県の桑折町に現存しているそうです。



三階櫓・本丸井戸・鐘堂

 

入口付近の三階櫓
こちらがスタンプの画角のようですね。





うーん そうとうすばらしいですぞ




本丸御殿跡地に立っている片倉小十郎景綱公頌徳(しょうとく)
「頌徳」が読めませんでしたが、初代小十郎の徳をたたえた石碑ということになります。


2代目小十郎・片倉重長は、なんと生まれる前に人生最大の危機を迎えます。
天正12年(1584年)当時、主君の政宗は18歳で家督を継いだばかり、まだ男子は生まれておりません。
「伊達家に嫡男が生まれるまでは、片倉家に慶事はまかりならぬ!」
恐ろしく主君第一主義の景綱は、
「もし生まれる子が男児ならば、殺すべし」
と妻に命じたのです。
この話を政宗が聞きつけ、慌てて景綱に手紙をよこします。

もうすぐ生まれる子を、殺そうとしていると聞いた。
もし本当なら、やめてほしいという私の気持ちに免じて、助けてやってくれまいか。
私自身、この先どうなるかもわからないのに、お前のことをとやかくいうのは如何なものかとは思うが、お前のことも子のことも私に任せてほしい。
もし私の願いを聞き入れず子を殺してしまったら、お前のことを深く恨むぞ。
だから、どうか助けてやってくれ。

しきりに子を殺すと聞いたので、急いでこの手紙を書いた。
お前にも考えはあるのだろう。
だが、人にとって子は大切なものだから、あえて口を出すことにした。
何度も言うが、どうか私を信じて任せてほしい。

   かた小                       政


政宗のこの手紙もあって景綱は考えを改め、重長は無事に生を受けることができたのでした。



政宗への忠義のあまり、ときにとんでもない言動に出る小十郎景綱さん。
晩年は糖尿病を患ってしまい59歳で亡くなるのですが、このときに景綱を追って家臣数名が殉死したといいます。

なお、政宗の手紙で「かた小」は片倉小十郎、「政」は政宗を表します。
木村拓哉を「キムタク」(政宗的には「きむ拓」?)というように、政宗は手紙で人名をよく省略することが多かったそうです。





雨がしとしとと降る中、白石城をあとにしました。





白石城リベンジ・前編~天守の中へ

2019-06-16 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 1 日 ( 土 )

午 後 2 時 5 3 分

宮 城 県 白 石 市

J R 白 石 駅 前



 

白石うーめんを食べながら雨が止むのを待って、外に出ました。



JR白石駅うーめん処なかじま前のロータリーから伸びる道。
白石温麺のお店や、仙台銘菓のお店などが建ち並ぶ道をまっすぐ進んでいきます。



突当りにある白石市民バスターミナルの敷地に入ってしまいます。



バスターミナルの敷地からは、小石交じりのコンクリートの道が続いています。
これが白石の城来道(シロクロード)です。
敷地を出た突当りを、案内看板に従って左折します。



路傍を水路が走る城来道。
水の流れは豊かで、白石の街をおおいに潤しています。
この豊かな水を利用した名産品が「白石三白」
白石葛白石和紙白石うーめんの3つの白い製品です。



城来道を折り返して、白石城址である益岡公園に到着しました。




午 後 3 時 0 0 分

白 石 城 址 ・ 益 岡 公 園


益岡公園入口の坂はなかなかのもの。
レンタサイクルを手押しして上ります。

 

二ノ丸大手二ノ門跡地。
二ノ門は明治時代に移築され、現在は市内にある当信寺というお寺の三門となっているようです。
そして「二ノ門」ということは、「一ノ門」がどこかにあったわけであり、後で調べたらそれは城来道沿いにあったようです。
このあたりの門は完全にスルーしてしまいました・・・さらなるリベンジが必要ですな。



進路左手側が本丸であり、それを取り囲むように石垣が造成されています。
現在は下部のみ石垣が残っていますが、これは明治政府による石垣の破却があったためであり、往時は上まで石垣が造成されていました。



入口側の石垣は、自然石をそのまま用いた野面積み
造成された年代は文禄年間(1592年~95年)と推定されています。
中に入っていくと、成型された石で隙間なく積まれている切込接ぎ
最初はブロック塀じゃないのかと勘違いしたほどの成型ぶりですが、江戸時代に地震で崩落した石垣を改修して造成されたものだそうです。



本丸大手二ノ門【再建・白石市指定文化財】が見えてきました。



土塀付近で石垣の色が変わっていますね。
上部の石垣は建物の再建時に造成されたものですが、下部は江戸時代から存続しているものです。
公園入口から続く石垣も、白石市により文化財指定されています。


大手門がチラッと見える石垣の向かいに、白石城歴史探訪ミュージアムがあるので、ここの前にレンタサイクルを駐車させていただきました。
ミュージアムでは白石城にまつわるドラマが上映されているほか、お土産物も販売されています。
100名城スタンプはこちらではありません。


そして・・・



白石城御三階櫓【再建・白石市指定文化財】に8年ぶりのお目見えです。
白石城の建造物は、文政6年(1823年)ごろの姿を忠実に、当時の工法で木造で再建されました。
学術的にも評価が高く、再建建物でありながら市の文化財に指定されています。



三階櫓の足元には、二ノ丸井戸屋形【再建】が建っています。



井戸の向かいに立っている、「白石城の歴史」。
歴代城主の内容は、かなりマニアックに記載されています。


藤原清衡の弟にあたる刈田(かった)経元が白石の地に居館を築いたことが、白石城のはじまりとされています。
刈田経元は後三年の役での功績を鎮守府将軍・源義家に認められ、白石の地の支配を与えられたといいます。
のちに刈田氏は姓を白石氏と改め、戦国時代には伊達稙宗の支配下に入っていきます。

天正19年(1591年)の奥州仕置により伊達政宗は白石の地を蒲生氏郷に譲り渡すことになります。
氏郷の家臣・蒲生郷成が白石に入り、現在にも続く白石城と城下町が築かれました。
慶長3年(1598年)氏郷が死んで蒲生氏が減転封されると、会津若松に上杉景勝が入り、甘糟(あまかす)景継(清長)が白石城主となり、白石城の修築をすすめました。

慶長5年(1600年)徳川家康によって上杉征伐が起こると甘糟景継らの部将は会津に寄せ集められ、徳川方の伊達政宗は城主不在の白石城を攻め取りました。
政宗は白石城に叔父の石川昭光、次いで腹心の片倉景綱を配しました。
江戸幕府による武家諸法度・一国一城令の発布後も、白石城はその例外として公認され、片倉氏が代々城主を務めました。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、白石城で白石列藩会議が開かれ、奥羽越列藩同盟の結成へとつながっていきました。
列藩同盟軍が推戴した輪王寺宮(北白川宮能久親王)も、白石城に滞城されていました。

戊辰戦争後は明治政府の管理下に置かれ、明治7年(1875年)に民間に払い下げられ解体されました。
そのときの売却代金は、主に片倉家中の北海道移住にあてられました。
片倉家中が北海道で開拓した地が、現在の札幌市白石区となっています。





井戸から振り返ると、本丸への順路が見えてきます。
手前側の本丸大手一ノ門【再建・白石市指定文化財】、その奥に本丸大手二ノ門【再建・白石市指定文化財】。
このように門扉は開け放たれ、本丸へと立ち入ることができます!



櫓門となっている二ノ門。
双方の門が並列しているように見える珍しい枡形構造ですが、一二の門の門扉を結ぶ線はしっかり曲線となり、侵入軍の勢いを減殺できるようになっています。
一二の門で囲まれる枡形が細長く、私が歩いたときはなかなか窮屈な空間という印象を受けました。


二ノ門をくぐって、本丸に入ったところで・・・強めの雨。
本丸の検分は後回しにして、急いで三階櫓に駆け込みました。

三階櫓の入場料は、大人400円。
三階櫓+武家屋敷+ミュージアムの上映 の3点共通券は大人800円で、200円お得となっていますが、私はミュージアムでドラマを見るつもりはなかったため、黙って400円を支払いました。


靴を脱いで、中へ。



やはり木のお城はイイですねぇ。



石落としや、



鉄砲狭間もしっかり備わっていますね。
そして続100名城スタンプも、三階櫓の1階に置いてあります。



105番、白石城!
絵柄はもちろん三階櫓ですね。どのアングルなのかは後編で。
それにしても・・・



・・・・・・奥の方から、何者かの視線を感じる・・・・・・。