鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

夜の国道16号~大宮到着

2014-09-19 | チャリ旅


2 0 1 4 年 8 月 1 4 日 ( 木 )

午 後 4 時 5 9 分

埼 玉 県 春 日 部 市

東 武 野 田 線 豊 春 駅 付 近



岩槻の慈恩寺で旅の無事を祈願し、国道16号線に戻ってきました。
豊春駅入口交差点から、ふたたび進路を西にとります。


埼玉県に入って降り始めた雨は、慈恩寺の御利益なのか、このときはすっかり止んでいました。
「埼玉地図問題」、埼玉県の「ライトマップル」がないという問題はまだ解決されていません。




午 後 5 時 0 7 分

さ い た ま 市 へ 入 る




ついに本日の目的地・さいたま市に入りました。
といっても目的地は大宮区。こちらはまだ岩槻区です。



岩槻は「人形のまち」と言われています。
ひな人形や五月人形など、日本人形の生産が日本一なのだそうです。

当初の計画では、この青看にある岩槻城址公園に寄り道して、公園近くのラーメン屋で「トーフラーメン」なるものを食べる予定でしたが、時間が押しているのでそのまま進みます。



青看に「狭山」が初登場。
さいたま市内なのに、いまだに「さいたま」の表示が・・・。
国道16号の通らない浦和(さいたま市役所の所在地)までの距離にはまったく興味がないのですが・・・。
それとも岩槻はさいたまにあらずなのでしょうか。

この青看を撮影した直後、またも遊びのない雨が降ってきたのです!



レインコートを買ったにもかかわらず、カッパなんて着るのは面倒だと思った私は、ためらわず近くにあったジョナサンに避難しました。
ここの店員さんはなかなか可愛いかったです(#^.^#)




午 後 7 時 3 0 分

旅 を 再 開




あたりはすっかり暗くなってしまいました。
これ以上滞在すると、鬼ヅモ大会への参加に支障が出るので、意を決して外へ。
幸いにして雨はすっかり止み、この日は今後雨が降ることはありませんでした。

(この日の午後9時に、大宮駅近辺に会員が集まるということだったので、その時刻に大宮駅に着く必要がありました。詳しくは第63回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記へ。)


岩槻のジョナサンから1kmもしないところで、



横浜の高島町まであと100kmのキロポストがありました。
それよりも大宮まで8kmというのが励みになりました。


100kmのキロポストからだいたい1km。



国道122号との交差点である加倉交差点に差しかかりました。
ですが自転車はあさっての方向へと運ばれる気配・・・。



あっさりと16号に復帰できましたが・・・この通路の仕打ちもなかなかです。
階段の両サイドにある自転車用の通行帯が細い。
それ以上に自転車を阻むかのごとき車止め。
自転車を持ち上げなければ越えることはできません。


埼玉県も、自転車への仕打ちがひどいです。




高速道路のインターチェンジ沿いによくある妖しいネオン。

 

東北自動車道岩槻インターです。
ここは歩道橋を使うことなく、横断歩道で通過することができます。


岩槻インターを通過して直後の大きな交差点、宮ヶ谷塔交差点です。



青看には左折で「大宮」。
本日の目的地・大宮駅付近に行くには、ここを曲がるのが一番の近道です・・・が、
「なるべく国道16号を通っていく」という制約のため、このまま直進します。
直進方向の「池袋」というのが、私にとってはツボに入りました。



この交差点を渡った先は、歩道が草に覆われて通れません
常磐道・柏インターと双璧をなす最凶の雑草地帯が始まります。
ここは仕方がないので、危険と知りながらも車道の側道を強行突破します。



宮ヶ谷塔交差点を通過して直後の青看。
17号のおにぎりマークとともに「池袋」が登場。
千葉の東京依存症よろしく埼玉の池袋依存症の一端を見ることができます。



宮ヶ谷塔交差点からはどうやら跨線橋になっているようです。
そして草だらけの歩道ではない脇道があったようですが、このまま危険な側道を走りました。

この跨線橋がまたぐのは東武野田線です。
東武アーバンパークラインだと?! 認められんなぁ、そんなわけのわからん名前など。
ついでに東武スカイツリーラインなどというたわけた名前も認めぬぞぉ~、おぬしは東武伊勢崎線なのじゃ!!

東武野田線の跨線橋を渡り、下り坂が終わるところで、



側道にはみ出る草!

歩道に戻れそうなところで、側道から歩道に復帰して、



安堵したところの草!
夜の雑草はどんな生物がいるかわからないので、より精神に堪えます(T_T)


最凶の雑草ゾーン・宮ヶ谷塔から3kmほど進みました。



池袋まで39km、川越まで19km、大宮までの距離はわからず。
このあたりの青看は、国道17号に出会うまでやたらと池袋推しをしてきます。
ちなみに池袋に行くには、接続先の国道17号(新大宮バイパス)から道なりに続く国道254号に進む必要があります。




午 後 8 時 0 5 分

埼 玉 県 上 尾 市


「池袋推し」の青看から100メートルほど、



国道16号は少しだけ上尾市をかすめます。
上尾に入った途端に上り坂・・・JR宇都宮線の跨線橋です。



宇都宮線を越えると、車道は上に行ってしまい、歩道は下におりろといいます。
千葉市内でさんざん苦汁をなめたこのパターンの再来です。
しかもこの歩道橋、自転車通行路が2本に分かれていて、中央はなぜかほっそ~い階段。
そのため自転車通行路は、幅がだいたい20cmほどです。注意しないと道を踏み外して階段に当たってしまいます。
(私はかつてそれが原因でパンクをしたことがあるので、かなり気を遣いました)
通行路を上下2本に分ける必要はわかりますよ、でもどうして中央に階段をつける必要があるんだ!!

寂しい夜の道で、私はひとり憤慨します。

少し進んで、国道16号の車道が下り坂になっているのが見えました。



自転車はまた上り坂か・・・とうんざりしつつも脇道を上っていきます。



まさかの行き止まりです!
この脇道もかなり草っぽかったので、精神的なダメージを受けました。

後戻りしながら。私はひとり憤慨していました。

紆余曲折の末、歩道と車道が一緒になった・・・と思ったら、またも車道がどこかに行ってしまいます。



しかし今度は自転車にやさしい地下立体交差、車道だけが地下に潜るというパターンです。



「あげおし・はらいち」です。お笑いコンビ・ハライチのふたりはこのあたりの出身だそうです。
千葉県民はついつい「あげお・いちはらし」と読んでしまいがち?
それにしてもこの「はらいち」が妙に頭に残り、先ほど憤慨しまくっていた陸橋のワナも「ハライチのワナ」だと思い込んでいましたが、実際は原市地区ではありませんでした。




午 後 8 時 2 3 分

再 び さ い た ま 市 へ


車道が地下から復帰し、小さな川を渡ると、再びさいたま市へ。



ここの市境標はなぜかさいたま市章がありません。
おそらく旧大宮市の市境標を上塗りして使っているのでしょう。

市境からすぐに見える東北新幹線の高架橋、その高架橋の両側を通る埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)吉野原駅を通過。



この日最後の青看。
と言っても青看から大宮までの距離はわからず、埼玉県の「ライトマップル」もなかったので、



この日のゴールと定めていた吉野町インターがあっけなくやって来た、という印象を受けました。

国道16号はここからしばらくの間、国道17号・新大宮バイパスとの重複区間になります。



暗くてかなり見えにくいですが、吉野町インター分岐点の青看です。
ここで新旧の国道17号線が分かれます。
大宮駅方面へ向かうのは中山道の国道17号、池袋方面へ向かうのは新大宮バイパスの国道17号です。
国道16号は新大宮バイパスの国道17号と重複します。



新大宮バイパスへ向かうルートは、栄光へのゲートといわんばかりに桃色の電飾が施されていました。
このゲートの先は池袋、妖しいネオンがきらめく大都会です。



自転車は妖しげなゲートを通ることができないので、そのまま中山道へ。
いちおう「原付東日本縦断ラリー」でどうでしょう班が通ったというれっきとした道路です。
なのに主要道とは思えないほど暗いです。

当初は中山道を南下していこうと思ったのですが、あまりにも暗いので、早急に別ルートへ曲がりました。



午後8時50分ごろ、無事に大宮駅東口付近に到着。

そして午後9時10分ごろ、鬼ヅモ会員とセヴンイレヴンで合流。
そのセヴンでついに埼玉県の「ライトマップル」を買うことができました。



国道16号の旅、第1日目が終了。
そして第63回鬼ヅモ同好会麻雀大会が開幕します。



◆大宮で鬼ヅモ麻雀大会に参加 ⇒ 「第63回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記」第1話へ。

◆国道16号の旅・2日めに進む ⇒ ママチャリの旅「国道16号完全走破」第8話へ続く。


坂東33箇所霊場12番札所・慈恩寺

2014-09-19 | 寺院仏閣


2 0 1 4 年 8 月 1 4 日 ( 木 )

午 後 3 時 5 0 分

埼 玉 県 春 日 部 市

国 道 1 6 号 沿 い の コ ン ビ ニ で 待 機



ママチャリの旅、春日部で無情の雨が降ってきました。



コンビニで急遽雨ガッパを購入しましたが、蒸し暑い中こんなものは着たくありません。
軒先で雨足が弱まるのを待ちます。
しかしながら、雨が弱くなる気配はありません。

これから行こうとしているのは、坂東33箇所霊場の第12番札所となっている慈恩寺
春日部の隣町・岩槻に鎮座する寺院です。

このまま待っても時間がいたずらに過ぎるだけ。
夕刻になるとたいていの寺院は、寺務所が閉まってしまい、ご朱印をもらうことができなくなってしまいます。

コンビニにある分厚い地図で慈恩寺までのルートを頭に叩き込み、ふたたび春日部の街へ。
カゴの荷物は、船橋市指定ゴミ袋の中にしまい込んで雨水をガードします。
レインコートは着ないまま、雨降る道中を強行突破していきました。



国道16号線から慈恩寺までのルートは・・・
まず豊春駅入口交差点を駅方向に曲がります。
道なりに進み、東武野田線を越え、豊春駅を右に見ながら通過。
岩槻市に入ったあたりで急カーブがあるものの、そのまま道なりに進みます。
右手に岩槻北陵高校が見えてきたら、その次に見えるお寺が慈恩寺です。





進行方向右側に駐車場と、味のある鐘楼が見えてきます。
もう少し進むと、

 

寺名標と、正面に見える本堂
道路を挟んで駐車場。木々が囲うように立っていて、ちょうど雨除けになりました。


慈恩寺は、天長元年(824年)慈覚大師・円仁によって開かれた寺院です。

円仁は、15歳の時に比叡山に入り伝教大師・最澄の弟子になりました。
その後承和5年(838年)遣唐使とともに唐に入り、中国各地に留学、修行を積みました。
承和14年(847年)に帰国し、「入唐求法巡礼行記」4巻は、当時の唐の様子が克明に記されています。
61歳で第3代天台宗座主に就任。71歳で亡くなり、「慈覚大師」の諡号が与えられました。

「慈恩寺」の寺号は、慈覚大師が学んだ長安の大慈恩寺にちなんでいます。



正面からそのまま本堂へお参りします。



この本堂は、天保14年(1843年)に再建されたもので、昭和12年(1937年)に改修されています。



「鬼ヅモ大会、優勝」
「とりあえず雨を止ませてくだされ」



本堂でお参りした後は、寺務所でご朱印を頂戴します。



12番、慈恩寺!


境内を少しばかり散策。



なかなか立派な藤棚です。
大きさでは、市川の高圓寺亀戸天神にも引けを取らない・・・かも。



藤棚のすぐ近くに山門がありました。
山門は元禄4年(1691年)に建立されたと記録にあるそうです。


山門を出て駐車場に戻ってきましたが、これで慈恩寺の参拝はおしまい、というわけではありません。
慈恩寺と深いかかわりにある三蔵法師・玄奘(げんじょう)その人のお墓が、境内とは離れたところにあるというのです。


昭和17年(1942年)、日中戦争で日本軍が南京を占領していたときのこと。
稲荷神社を建立するために整地をしていたおり、ひとつの石棺を発掘します。
この石棺の記述から、中に納められたお骨が三蔵法師・玄奘その人であると確認されました。

そして南京に玄奘塔が建立されることとなり、その完成式典が行われました。
そのときに「三蔵法師の遺徳に感謝すべく、日中の仏教徒でともに霊骨を保管しよう」ということで、分骨がなされました。
お骨ははじめ東京の増上寺に保管されましたが、米軍の空爆にさらされるようになったため、岩槻の慈恩寺に疎開されることとなりました。

戦争が終わり、お骨は慈恩寺から別の奉安地を定めることとなっていたのですが、分骨が南京政府(日本軍の傀儡下にあった汪兆銘政府)のもとで行われたため、「中国に返還すべきではないか」という議論が起こりました。
そこで中華民国・蒋介石総統と親交のあった僧が総統の意向を問うたところ、「返還には及ばない。保管地が、三蔵法師にかかわる大慈恩寺にちなんだ寺院であるならば、その地を顕彰の地と定めてはいかがか」と回答を受け、慈恩寺に奉安されることになったそうです。

その後、三蔵法師の霊骨は、国民政府の脱出先である台湾と、奈良の薬師寺に、それぞれ分骨されています。



玄奘のお墓へは、まず山門の前の丁字路を曲がった細い道を進みます。
そのまま進んでも何の案内もなく不安になったところで、四差路とともに案内表示が現れます。
その表示に従って進んでいくと、しばらく何もなく不安になってくるところで、



「玄奘塔」と銘打った中国風の門構えが現れます。



奥には13層の玄奘塔
玄奘の遺骨はこの中に納められているそうです。

合掌。


「三蔵法師」の称号は「経」「律」「論」の3つに精通する高僧の尊称をいいますが、普通「三蔵法師」といえば玄奘を表します。
「西遊記」に登場する「三蔵法師」が玄奘その人であり、決して女性ではありません。

玄奘は13歳で僧となり、629年、26歳のとき、陸路でインドに旅立ちます。
16年後の645年に、経典657部などをもって帰国しました。経典の部数はかつてないほど膨大なものであり、帰国時には皇帝・太宗(李世民)みずからが出迎えたといいます。

そして、長安の大慈恩寺などで国家的事業のとして経典の翻訳が進められました。
「大般若経」の翻訳が完成した翌年、65歳(63歳とも)で亡くなりました。



門構えの脇には玄奘の銅像が立っています。

 

多くの経典を背負いつつ、天嶮の砂漠地帯である中央アジアを踏破した苦労が偲ばれます。



三蔵法師にははるかに及ばないながらも、私とて道中の身。
旅の無事を祈願して、玄奘塔を後にしました。



◆参考資料
慈恩寺 坂東三十三観音札所  http://www.jionji.com/
やさしい仏教入門 三蔵法師  http://tobifudo.jp/newmon/okyo/sanzo.html/