鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

赤穂・大石神社

2016-03-22 | 神社


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 前 9 時 2 8 分

兵 庫 県 赤 穂 市

J R 播 州 赤 穂 駅





播州赤穂ばんしゅうあこうで下車した私が、この先向かうのは赤穂城【国指定史跡】。

駅の中にある観光案内所で、赤穂城までのアクセスを確認し、パンフなどの資料を入手。
そして、



この日もまたレンタサイクルの力を借りることとします。
赤穂の観光案内所では、なんと手荷物も預かってくれます。ありがたい限りです。

自転車を借りて駅の外に出てみると、



花壇を手入れしている女性、ではなくその向こうの背中・・・



やはりこの方、大石内蔵助くらのすけ良雄がさっそくご登場です。


赤穂といえば、「忠臣蔵」の舞台。
歴史上では赤穂事件と呼ばれる一幕の舞台です。


赤穂藩の殿様であった浅野内匠頭たくみのかみ長矩ながのりは、江戸で吉良上野介こうずけのすけ義央よしなかとともに、勅使饗応役という朝廷の使者を接待する役目を務めていました。
このとき吉良上野介は「指南役」つまりは浅野内匠頭の先生のような立場でした。

ですが、元禄14年3月14日(現在の暦で1701年4月21日)、江戸城本丸大廊下(松の廊下)で突然、内匠頭が「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで上野介に斬りかかったのです!
(遺恨の理由は不明ですが、「忠臣蔵」ではわいろを贈らない内匠頭に対し、上野介が陰湿な嫌がらせを繰り返したように描かれています)
上野介は背中に傷を負いましたが命に別状はなく、内匠頭は周りの者に取り押さえられてしまいました。

朝廷との関係を重視していた将軍・徳川綱吉は激怒、即日で内匠頭に切腹を命じ、赤穂藩の取り潰しを決めました。
いっぽう上野介は刀を抜いて応戦しなかったことから、何の罪にも問われなかったのでした。

内匠頭切腹、赤穂藩取り潰し・・・突然の悲報を受けた地元赤穂では、家臣たちが連日合議を繰り返していました。
幕府の命令におとなしく従うべきか、城に立てこもって討死すべきか、吉良上野介を討ち取って主君の恨みをそそぐべきか。
筆頭家老・大石内蔵助が採ったのは、吉良を討つことでした。
そしておとなしく赤穂城を明け渡し、内蔵助以下四十七名の浪士は江戸に移ったのでした。

江戸に入った四十七士は、町人に身をやつして吉良を討ち取る機会をうかがい、入念な作戦を立てていきます。

そして元禄15年12月14日、吉良邸討ち入り
大石以下四十七士は見事に吉良上野介の首級を上げると、泉岳寺にある内匠頭の墓前にその首を供えることができたのでした。

四十七士の討ち入りに対し、江戸の町民は拍手喝采を挙げましたが、幕府は「仇討ち」とは認めませんでした。
四十六名の浪士たちは身柄を拘束され、4つの大名家の屋敷に預けられることに。
(一人だけ、討入後に行方不明になった者がいます)
4大名家は、赤穂浪士たちを罪人ではなく客人のようにもてなしたといいます。
しかし幕府からの処分は切腹。
切腹して果てた浪士たちは、主君の眠る泉岳寺に葬られています。



それでは赤穂城へ向かいましょう。

駅前の丁字路から続く道を進むと、



大手隅櫓【復元】と、



大手門一の門【復元】に着きます。
一の門の前には車止めが据え付けてありますが、自転車は問題なく通れますので、このまま城内に入ります。



大手門の枡形虎口を通り抜けて進むと、



通路左手側に近藤源八邸跡長屋門【赤穂市指定文化財】が見えてきます。


近藤源八正憲は、浅野家時代の赤穂藩の家臣で、甲州流軍学を修めました。
ちなみに父の正純も甲州流軍学を修めており、その知識に則って赤穂城の設計を担当しています。
また源八の妻は大石内蔵助の叔母にあたり、大石家とは縁戚関係にあります。
赤穂藩取り潰しにおいては、はじめから内蔵助とは行動を異にし、討入には加わりませんでした。



ここの長屋門は中に入ることができるようですが、この日は時刻が早かったためか、入ることはできませんでした。


近藤源八邸跡長屋門の斜め向かいに、大石良雄邸址【国指定史跡】があり、



長屋門が構えています。
ここの長屋門からは中に入ることはできません。



大手門から続く道を進み、丁字路に差しかかったところの右手側に、大石神社は鎮座します。



参道の両脇に松の並木と、四十七士の石像が配置されています。



参道左手最初の石像は、寺坂吉右衛門信行
四十七士では唯一足軽の身分で、討入後に唯一脱走した浪士です。
脱走した理由は不明ですが、大石からの密命を受けてあえて隊を離れたといわれています。
そのため幕府による切腹の命令を受けることなく、天寿を全うしたといいます。

参道右手最初の石像は、片岡源五右衛門高房
幼いころから浅野内匠頭に仕えた側用人そばようにんです。
江戸城での刃傷を最初に知り、江戸の藩屋敷に知らせて事態の収拾に当たりました。
内匠頭の切腹直前にも顔を合わせましたが、両者の会話はなかったそうです。



左手側のかなり後方に、剣豪・堀部安兵衛武庸たけつね
赤穂藩に仕える前、高田馬場の決闘にて助太刀したことで名を上げました。
その後赤穂藩に仕えました。



右手側、安兵衛のさらに後方に、こちらは堀部弥兵衛金丸
高田馬場の決闘での顛末を聞いた弥兵衛は、安兵衛を高く評価し、自己の養子に迎え入れました。
刃傷のおりにはすでに隠居していましたが、討入には参加しました。

この石像を見ていたあるおじさんは、こちらが堀部安兵衛だと勘違いしていたようです。
(弥兵衛を「やすべえ」と読むのだと結論付けていました)



参道の終わりに構えている神門は、義芳門というそうです。

この門は明治5年、楠木正成を祀る湊川神社の神門として建てられましたが、昭和17年に大石神社に移築されたものです。
湊川神社の建造物は、空襲により焼失してしまいましたが、この門は移築のため焼失を免れました。



義芳門そばの右脇には、筆頭家老・大石内蔵助良雄



左脇には、大石内蔵助の子・大石主税ちから吉金
大石内蔵助は吉良邸討入りで表門隊の大将(いわば総大将)を務め、主税は裏門隊の大将を務めました。



義芳門をくぐって境内へ。



まず目を惹いたのが、身近な怒りの川柳コンクール大絵馬なる絵馬。

忠臣蔵の原点は、赤穂義士達の幕府に対する義憤公憤という「怒り」なのです。
この怒りが討ち入りとなり、本懐を遂げたのです。
赤穂は、皆様の身近な怒りを川柳としてお預かりし、怒りを鎮めて参ります。


忠臣蔵の原点って、「怒り」だったのかい?
それはともかくも社会風刺の川柳が多く連ねられていますねぇ。

もう少し 長生きします 悪しからず

おとなりの 旦那が家事を やりすぎる


社会風刺の川柳よりも、こういった川柳のほうが私は好きですね。


そのとなり、御守りなどを販売するところ。



大石内蔵助以下の四十七士、浅野内匠頭に、敵役の吉良上野介。
なんと赤穂では49種類のご当地キティを売っているのです!
ご当地キティのコンプリートはなかなかの行であることがわかります(^_^;)




拝殿でこの旅の無事を祈願し、あっさりと大石神社を後にしました。