早朝5時半よりさいたまを発って約11時間。
コインランドリーの探索に手間取りながらも、手荷物を預けて盛岡駅を出ました。
夕刻に差しかかってようやく、この日の城攻めが始まります。
この旅最初の城は、盛岡城【国指定史跡】。
築城以来盛岡藩南部氏の居城であり、明治維新後は岩手公園となって市民の憩いの場となっています。
盛岡城は公園なのでほぼ年中開放されています。
そのためまずは100名城スタンプを確保しておくこととしました。
今回利用する交通手段は、盛岡都心循環バス「でんでんむし」です。
どこまで乗車しても100円というリーズナブルなバスで、まずはスタンプ設置場所であるプラザおでってに向かいます。
左回りコースの「でんでんむし」に乗車します。
右回りでも行けますが、遠回りのため時間がかかってしまいます。
あと、岩手県内のバスは、Suicaなどの交通系ICカードは使えません。
登城に割ける時間が限られている中で、この日は道路も混雑ぎみでした。
盛岡も交通量が多いのかな・・・と思いながら車窓を眺めると、
盛岡秋祭り(盛岡八幡宮例大祭)の山車行列に出くわしました。
前々から旅の準備を進めてきましたが、この日に大祭があるとは想定外。
残念ながらお祭りを楽しむ時間がない私にとっては、祭りによる渋滞にヤキモキするしかできませんでした。
盛岡城跡公園前バス停付近。
目の前に盛岡城の石垣が現れます。なかなかに圧倒的。
ですが、ここのバス停では下車せず、もう少し先へ。
バスは岩手地方裁判所、岩手県庁、盛岡東警察署といった公の機関が立ち並ぶ中央通へ。
この通りにある県庁・市役所前バス停で降りることとしました。
料金箱に100円玉1枚を投入して、下車。
【今回の乗車記録】
盛岡駅東口バスのりば 16番のりば 16時20分発
岩手県交通 ●盛岡都心循環バス「でんでんむし」 左回り
県庁市役所前バス停 16時29分着
*乗車時間 9分 *運賃 100円
最初の目的地はプラザおでって。
その最寄バス停は、盛岡バスセンター。
このとき私はカン違いしていて、そのひとつ前で下車してしまいました。
すぐに誤りに気が付きましたが後の祭り、仕方なく手持ちの地図を頼りに歩くこととしました。
下車して徒歩10分。
レンガ造りの格調高い建造物は、旧岩手銀行本店本館【国指定重要文化財】です。
中央停車場(現東京駅)を手がけた辰野金吾と葛西萬司が設計を担当しました。
明治41年(1908年)に着工し、3年後の明治44年(1911年)に竣工し、当初は盛岡銀行の本店として開業しました。
しかし盛岡銀行は昭和6年(1931年)に昭和恐慌のあおりを受けて破たん、2年後に解散することとなりました。
昭和11年(1936年)、岩手殖産銀行がこの建物を買い受け、本店としました。
昭和35年(1960年)岩手殖産銀行は岩手銀行に商号変更し、昭和58年(1983年)本店を移転しましたが、引き続き中ノ橋支店として使用されました。
平成6年(1994年)現役の銀行建物としては初めて国の重要文化財に指定されましたが、平成24年中ノ橋支店は隣地に新築し、この建物は現役を引退ということになりました。
現在は「岩手銀行赤レンガ館」として内部が公開されています。
旧岩手銀行本店本館と道を挟んで向かいにあるのが、
プラザおでってという観光案内施設です。
「おでって」とは、盛岡弁で「おいで」という意味で、「おでってくなんせ」(おいでください)が短くなった表現だそうです。
この日は例大祭があったからか、プラザおでって前広場にも出店が出ていました。
しかし私は出店のニオイ攻勢をくぐり抜け、プラザおでって2階へ。
ひとまず6番! 盛岡城!
少し失敗してしまいましたが・・・絵柄は本丸・二の丸間の石垣です。
ここでは盛岡城跡公園のパンフレットも入手できます。
中のガイドマップは、盛岡城の見どころが細かく記載されていて、登城時におおいに役立ってくれました。
それでは盛岡城跡公園へ。
プラザおでってのそばを流れている中津川。
盛岡城を防衛する天然の水濠の役割を果たしたことは、想像に難くありません。
先に見えるのは、おそらく岩手山でしょうか??
(実際は岩手山ではないようです)
中津川に架かる中の橋を渡った先に、まず見えてくるのはもりおか歴史文化館です。
本来ならばここで盛岡城の歴史を学び、盛岡を統治した南部家の歴史を学ぶのがスジというものですが、なにぶん時間がありません。
ここでも100名城スタンプがもらえますが、歴史文化館は割愛させていただきました。
歴史文化館前の広場には、ペットボトルで再現した御三階櫓【現在はない】が展示されていました。
今度こそ盛岡城跡公園に入ります。
しかし「もりおかじょうあとこうえん」という読みはなんだかヘンな感じがします。
そもそも盛岡城跡公園は、もとは「岩手公園」という名称でした。
盛岡城が明治政府に明け渡され、城内の建物は破却されました。
その後明治39年(1906年)、「岩手公園」として一般に開放されました。
そして長く「岩手公園」の名称で親しまれていました。
岩手県出身の作家・宮沢賢治の作中でも「岩手公園」が出てきます。
しかし平成18年(2006年)、開園100周年を記念して盛岡市は公園の名称変更を発表しました。
これに対しては反発が強かったらしく、名称変更から愛称設定とトーンダウン。
そして愛称が「盛岡城跡公園」となったのでした。
私も「岩手公園のままでいいんじゃねぇ?」とは思いますが、とにかく紆余曲折、賛否両論ある盛岡城跡公園を歩きます。
まずは、公園の外郭を囲う池泉・鶴ヶ池です。
中津川と同様、盛岡城を守る水濠の役割も担っていました。
その先に、
櫻山神社の神門が立っています。
櫻山神社は江戸時代中期の寛延2年(1749年)、盛岡8代藩主南部利視公が初代信直公のご遺徳を偲び奉るため、神殿を建立したことに始まります。
さらに盛岡藩11代利敬公は信直公を「櫻山大明神」と尊称し、文化15年(1818年)には南部家初代光行公を、大正元年(1912年)には利直公、利敬公を合祀致しました。
(櫻山神社社務所の立看板より)
さらに看板の案内表示を丸パクリさせていただいて・・・櫻山神社の御祭神となっている南部家の4人の当主をかんたんに紹介すると、
(1)南部家初代 南部光行公
800年を超える南部家を興し、北東北の平安に努めた「永続神」。
(2)南部家26代・盛岡藩初代 南部信直公
戦国を英知・勇気・決断をもって駆け抜け、盛岡に藩を拓いた「開拓神」。
(3)南部家27代・盛岡藩2代 南部利直公
城を築き、町を整え、農産業の振興と五穀豊穣、領地安堵を図った「安泰神」。
(4)南部家36代・盛岡藩11代 南部利敬公
法律と 消防組を整え、学問を奨励し、藩校教育を推進した「学問神」。
(櫻山神社社務所の立看板より)
・・・というわけで、
雨を降らせず、空を晴れさせたまへ~
4柱の御祭神を詣でました。
天候の安泰だから、今回のご担当は南部利直公でしょうか。
境内をもう少し歩いてみました。
御神木でしょうか。石垣の上に植わっていて、葉を繁らせています。
石垣と神木が一体となっているかのような、見事な姿です。
神木脇の階段を上がると、目の前にそびえ立つ大きな岩。
盛岡城築城時、この地を掘り下げた時に、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。
この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の“お守り岩”として、今日まで崇拝されています。
(櫻山神社社務所の立看板より)
一般的に、東北地方は石垣に用いられる石の産出が少なく、石垣のある城郭は少ないとされています。
その中で、盛岡城は東北唯一の総石造の城郭といわれていますが、盛岡の地は東北にはめずらしく採石に適した地だったのかもしれません。
石垣で囲われた曲輪と、その上に鎮座する烏帽子岩。
烏帽子岩の大きさもさることながら、石垣を構成する石がなかなか大きいのも目を惹きます。
(この画像では遠近法で烏帽子岩が小さく見えますが、実際見たところでは石垣の石も大きかったです)
この後は櫻山神社の境内を出て、石造りの城郭へと足を踏み入れます。