鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

別れの快速エアポート

2017-10-04 | 鉄道の旅


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 4 時 4 5 分

J R 小 樽 駅



小樽の地に下り立ち、そろそろ6時間が経とうとしています。
時は夕刻、風情ある街並みはそれぞれに明かりを灯し、宵闇に煌かんとしている頃・・・。

私はこの日、東京に戻らねばなりません。



後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、小樽の玄関口・JR小樽駅に戻りました。
コインロッカーに預けていた手荷物に、



新たに購入したお土産を加え、小樽駅本屋【国登録有形文化財】に入ります。



今回乗車する電車は、17時00分発 快速エアポート174号 札幌方面 新千歳空港行きです。
当時はこの駅舎が文化財であることを気にしていなかったので、あっさりホームに入ってしまいました。

 

快速エアポート174号は、すでに5番線に入線していました。
その向かいの4番線、なんだか表示が特別な仕様になっているようですね??

4番線はかつて、昭和の俳優・石原裕次郎がテレビ番組かなにかで4番線に下り立つシーンがあり、のちに「裕次郎ホーム」と呼ばれるようになったそうです。
よくよくみると「4」の数字は、裕次郎が趣味にしていたヨットをかたどったものになっています。
ほかに4番線には石原裕次郎のパネルなどがあるそうですが、私はすべてスルーしてしまいました。



JR北海道731系電車に乗って、札幌方面へ戻ります。




小樽駅から2駅目の小樽築港駅を過ぎると、電車は石狩湾ぞいを走ります。
札幌から小樽に向かった時とは違い、逆方向の電車はまさに海岸線すれすれを走っていきます。



西側を振り返ってみました。
小樽の街を見ているつもりでしたが、たぶんその先の余市方面だと思います。



東の方角。
遠くにぼんやり見えるのは札幌かな?



朝里駅を過ぎると、夕空にいささか寂しげな恵比須岩が登場。



恵比須岩の姿をもって、この旅の車窓は見納めとなります。



18時12分。



札幌を通過し、終着・新千歳空港駅に到着してしまいました。



【今回の乗車記録】

JR北海道 (S15)小樽駅 5番線 17時00分発
[S][H][AP]函館本線 快速エアポート174号 千歳線直通 新千歳空港行き 6両
(AP15)新千歳空港駅 1番線 18時12分着

*所要時間 1時間12分
*移動距離 80.4km  *運賃 1,780円





旧手宮線跡地

2017-10-04 | お散歩


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 4 時 3 1 分

小 樽 駅 へ の 戻 り 道



港町・小樽は夕刻を迎えました。
私は駅へと戻るべく、



旧手宮線跡地を歩いていました。



かつて利用されていた線路の脇に、遊歩道が整備されています。



こらこら~!
こんなところに車を停めるでない!!



あらためまして、旧手宮線を歩きます。



明治13年(1880年)、官設幌内鉄道が北海道で初めての鉄道として開通しますが、運営は安定せず、その後北有社が運営を委託されます。
明治22年(1889年)、石炭生産と輸送の一体化をめざした北海道炭礦鉄道(北炭)が設立され、幌内鉄道を引き継ぎました。
北炭は、空知地方の炭鉱と小樽、室蘭を結ぶ路線を増強し、石炭輸送は飛躍的に増加しました。
明治39年(1906年)、鉄道国有法が施行され、北炭の鉄道部門は国有化され、明治42年(1909年)、手宮・小樽間は国鉄手宮線となりました。
(当時の小樽駅は、現在の南小樽駅にあたります)
輸送量増強のための複線化も、このころ実施されました。
しかし太平洋戦争の影響で乗客取扱いを廃止し、物資供給のため複線部分の線路も失われてしまいました。
戦後一時的に旅客運転が再開されますが継続せず、また複線部分も復元されませんでした。
昭和62年(1987年)の廃線まで、単線での貨物営業を行いました。
(この看板の記載内容を編集)


現在は、旧手宮駅である小樽市総合博物館 鉄道・化学・歴史館から、函館本線分岐点近くの寿司屋通りまで、遊歩道が整備されています。


地図でいうと・・・



ココです!!




廃線なので、線路の上を歩いてもOK。



なかば線路に横たわりながらの撮影もOK。



かつての遮断機も残っていますが、自動車は一時停止しなくてもOK。
「停まんなくていいよ」という案内標識もありました。



なんか・・・画になるねぇ・・・。



やっぱり小樽はふたりで歩きたかったな。





小樽運河散策・最終章~日本郵船

2017-10-04 | 教会・洋館


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 2 時 4 8 分

北 海 道 小 樽 市

運 河 公 園



北運河(小樽運河北側)からほど近い運河公園



西日に輝く噴水の向こうにある建物は、



旧日本郵船株式会社 小樽支店【国指定重要文化財】です。
・・・・・・むむっ、タクシーがなかなかどいてくれない(T_T)

明治39年(1906年)建築、石造り2階建て。
この建物は、日本郵船株式会社が小樽支店として新築したものです。
設計は工部大学校(現在の東京大学工学部)出身の佐立七次郎工学博士で、当時としては最新の石造洋風建築でした。
新築後まもなく、ポーツマス講和条約による樺太国境画定会議がこの建物で開かれました。
昭和30年(1955年)小樽市が建物を譲り受け、小樽市博物館として使用していました。
昭和59年から62年にかけて保存修復工事を実施し、現在の姿となっています。
(小樽市の案内看板の記述を編集)


・・・・・・建物正面の画を撮りたかったのですが、このタクシーがどいてくれなかったので、仕方なくそのまま中に入りました。
入館料は、大人300円。
小樽市総合博物館「運河館」との共通券は500円でしたが、私はその存在をスルーしてしまいました(^_^;)
入口で履物をスリッパに履き替えて、入館します。



まずは1階、業務が行われていた営業室です。
外部とは木製のカウンターで仕切られていて、柱はギリシアの神殿建築に用いられたエンタシスを思わせます。
商業施設としての機能性と、会社の「顔」を担う優美性を兼ね備えた意匠は、小樽の建築物の「横綱」にふさわしいといえます。



営業室は海運資料の展示コーナーとなっています。
調度品、ブラケットライトなど、往時の会社の雰囲気が再現されているかのよう。



外来客との商談は、



応接室で行われていたのでしょう。


一般業務、一般顧客のフロアである1階から、

 

特別業務、重要顧客用のフロアであった・・・



2階へ。



階段正面の部屋は、貴賓室です。



壁紙、照明、カーテン、調度品、じゅうたん・・・1階の応接室とは比べるまでもない、豪奢な内装です。



2階で最も広い部屋、会議室です。
ここで、日露両国の代表による樺太国境画定会議が開かれました。
その結果、北緯50度を境として南側が日本領となりました。

第2次世界大戦後の日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で、日本政府は南樺太の領有を放棄しました。
しかしこの条約では旧ソ連(現在のロシア)が締約国とはなっていないため、日本政府は「南樺太の領有権は宙に浮いている」という立場をとっています。

 

隣りの食堂室には、境界標のレプリカが展示されています。



再び1階に下りました。



玄関とは反対側の戸口から、渡り廊下でつながる附属舎へ。
会社の顧客の目が届かないこの質素なフロアは、もっぱら従業員のための空間で、宿直室倶楽部室球戯室(ビリヤード室)などもありました。

ここで無料ガイドに遭遇、しばし同行することに。



附属舎にある男性用トイレ
ですがここのタイルがなかなか凝っていて・・・と、たしかガイドさんがおっしゃっていたような???


附属舎から営業室に戻ります。
最後の部屋は、



金庫室です。



金庫です・・・・・・以上。



外に出ると、時計の針は午後4時を回っていました。



建物前に居座っていたタクシーもさすがにいなくなり、ようやく建物の全貌を目にすることができました。



隣りには旧日本郵船株式会社小樽支店 残荷倉庫【小樽市指定歴史的建築物・第54号】が建っています。
こちらは横目に眺めるにとどめ、小樽運河をめぐる街ブラはこれにて終了。