鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

嗚呼、軽井沢

2019-02-06 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 5 時 5 7 分

長 野 県 北 佐 久 郡 軽 井 沢 町

軽 井 沢 駅 前





避暑地・軽井沢にやってきました。



駅前にあるバスプール。
これに乗って、ペンションにでも赴きましょうか・・・・・・。


むなしい・・・・・・。


停車中のバスは、JRバス関東 碓氷線 横川駅行き
軽井沢の東にそびえる碓氷峠を越え、群馬県の横川へと向かいます。
JRグループではありますが、18きっぷは利用できません。
運賃の510円を乗車前に支払うこととなります。


バスに乗車すると、空席はすでに五指に数える程度。
発車時刻は18時05分だそうですが・・・横川へ向かう人々をすべて収容しきることができるのでしょうか?

予想どおり、発車時刻を待たずに空席は埋まってしまいました。
すると運転手氏、後れてやってきた乗客には補助席を使うように指示します。

通路の最後尾から順番に補助席が埋まっていき、最前列まで達しようかというところで、発車時刻を迎えました。

軽井沢での滞在時間、わずか10分。


発車直前の18時04分に「城攻め」をし、峠の向こうの群馬県にある坂本城(安中市)を攻略できました。



路線バスは軽井沢の駅周辺をうろうろ進んだのち、国道18号・碓氷バイパスへ。
バイパスに入ってからは、最初やや上り、峠を越えてからはただひたすら下ります。

制限速度50km/hの碓氷バイパスを、その速さで下っているであろうバス。
傾斜はかなり急なようで、バスのエンジンブレーキの音がいやでも耳に入ってきます。
なかなかに怖いバスですねぇ。


傾斜が落ち着くと、ほどなくJR横川駅へ。
所要時間35分のところ、4分ほど早く到着しました。




【今回のバス乗車記録】

JRバス関東 軽井沢駅バスターミナル 5番のりば 18時05分発
碓氷線 直通 横川駅行き
横川駅バス停 18時36分着(早着4分)

*所要時間 31分
*移動距離 20.3km
*運賃  510円




午 後 6 時 3 7 分

群 馬 県 安 中 市

J R 横 川 駅


横川といえば、「峠の釜めし」



釜めしを提供する荻野屋は、現在もなお横川に本社をおいているようです。



横川駅
かつてはJR信越本線の途中駅でしたが、現在は終着駅になってしまいました。



残念ながら、お弁当屋さんは閉まっていました。


 

横川駅の構内へ。
白い駅名標の脚には、「海抜 三八六、五六М」とあります。
峠を越えて長い長い下り坂を駆け抜けてきたのですが(JRバス関東さんが)、横川もまだまだ高地なんですね。



山の中にある、横川駅のプラットホーム。



レールの先にはどんづまり。
かつては軽井沢駅までレールが繋がっていましたが、長野新幹線(現在は北陸新幹線)の開業と同時に廃線となってしまいます。



1番線ホームに展示されているアプト式レールの模型
横川・軽井沢間は碓氷峠がそびえ立つ難所中の難所。
この難所を乗り切るために、昭和38年までこのアプト式で運行されていました。
アプト式鉄道が廃止されてからは、横川駅で電気機関車を接続することで、碓氷峠を乗り越えていました。
電気機関車接続のための停車時間を利用して売り出されたのが、「峠の釜めし」なのです。
平成9年(1997年)の新幹線開通により、信越本線は第3セクターに移管することとなりましたが、横川・軽井沢間は維持費と採算性の関係で廃線となってしまったのです。

なお、現存する国内のアプト式鉄道は、静岡県の大井川鐡道井川線のみとなっています。



18時50分、信越本線 普通電車 高崎行きが出発しました。




19時03分、磯部駅
窓ガラスにある温泉マーク♨からわかるように、周辺には磯部温泉があります。
そしてこの磯部温泉こそ、温泉マーク♨の発祥の地だといわれています。
寛文元年(1661年)土地境界の裁定を行った幕府の文書に♨のマークが記載されているのが、現存する文書における最古の♨使用例なのだとか。


信越本線内での「城攻め」・・・

18時55分、西松井田駅松井田城(群馬県安中市)を攻略。
19時08分、安中駅安中城(群馬県安中市)と里見城(群馬県高崎市)を攻略。


19時21分、定刻どおり高崎駅に到着。




午 後 7 時 2 3 分

群 馬 県 高 崎 市

J R 高 崎 駅




今度の電車は、19時33分発 高崎線 快速「アーバン」 上野行きです。
発車時刻まで10分弱ありそうなので、夕食として駅そばをいただきました。


19時33分、快速電車が発車。
停車駅は、熊谷までの各駅と、鴻巣、桶川、上尾、大宮、浦和、赤羽、上野です。
地味にさいたま新都心尾久を通過してくれます。


高崎から1駅の倉賀野から、忍城で立ち寄った行田の間は、「城攻め」空白路線なので、この機会にこなしていきます。

19時52分、本庄駅本庄城(埼玉県本庄市)を攻略。
19時57分、岡部駅岡部陣屋(埼玉県深谷市)を攻略。
20時01分、深谷駅深谷城(埼玉県深谷市)、庁鼻和城(埼玉県深谷市)と人見館(埼玉県深谷市)を攻略。



20時07分、籠原駅別府城(埼玉県熊谷市)を攻略。

この日の「城攻め」は、熊谷の別府城で〆となりました。





21時07分、上野駅に到着。



あとはいつもの帰り道。
この日最後の電車は、21時17分発 常磐線 快速電車 取手行き



21時45分、柏駅に到着。



【今回の鉄道乗車記録】

JR東日本 横川駅 1番線 18時50分発
信越本線 普通 高崎行き 6両
高崎駅 5番線 19時21分着

高崎駅 7番線 19時33分発
高崎線 快速 アーバン 上野行き 10両
籠原駅 1番線 20時05分着 5両増結
[JU02] UEN 上野駅 14番線 21時07分着

[JJ01] UEN 上野駅 6番線 21時17分発
[JJ]常磐線 快速 取手行き 15両
[JJ07]柏駅 4番線 21時45分着

*所要時間 2時間55分 (乗車時間 2時間33分 待機時間 22分)
*移動距離&運賃 160.2km
*運賃  18きっぷ使用(不使用の場合、2,590円)



この日の旅は、これにておしまい。
ですが18きっぷは残り3日分もあります。

平成30年の夏、その3日分を使って各所の城へ行ってまいりましたが・・・調子に乗って関東地方を脱出してしまいました
なので「関東・甲信地方続100名城・ア・ラ・カルト」の旅は、いったんここで締めといたします。



日本100名城・続100名城登城の旅・第16弾「関東・甲信地方続100名城・ア・ラ・カルト」 完

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行くぞ!軽井沢

2019-02-06 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 3 時 4 5 分

長 野 県 長 野 市

国 道 4 0 3 号 ・ 松 代 城 付 近





松代城&真田邸【国指定史跡】を辞し、付近にある国道403号を千曲市方向へ走っていました。

この先にある高架は、上信越自動車道
これをくぐって、



赤坂橋南交差点から県道385号に入ります。



赤坂橋を渡ります。



流れる川は、日本一の長さを誇る千曲川(信濃川)



渡った先の交差点を左に曲がり、そのまま県道を進みます。
道なりに進んでいくと・・・



JR篠ノ井駅に着くことができます。


そうそう、私はレンタサイクルを使っていましたので、





自転車を駐車場に返し、鍵はセブンイレブンに返します。



【松代→篠ノ井駅の行程】



松代城付近 15時45分発
国道403号・長野県道385号経由
セブンイレブン篠ノ井布施高田店 16時03分着

*所要時間 18分(かなり飛ばしました)
*移動距離 5.7km




午 後 4 時 0 8 分

J R 篠 ノ 井 駅


これより帰路ですが・・・なるべく同じルートを使わないという私の困った性格上、篠ノ井線&中央本線は使いません。だったら・・・

行くぞ! 軽井沢!
どうせ柏に帰っても暑いし、せっかくなので軽井沢に滞在してゆっくり過ごしたいところです。



しなの鉄道は18きっぷが使えないため、あらたに乗車券を購入しなければなりません。



今度乗車するのは、16時25分発 しなの鉄道線 普通電車 小諸行きです。
おおぅ、小諸に行くのも約8年ぶりですねぇ。
残念ながら今回は通過とさせていただきますが。


16時25分、定刻どおりにやってきた電車に乗ります。
篠ノ井駅は乗降客が多いため、扉は自動で開きましたが・・・



なんとこの電車、通常は扉が自動で開かないのです。
そういうことは、仙台暮らしの経験がある私からすれば驚くことはありません。
しかしこの電車は、押ボタンじゃなくて手で開けろというのです。
なかなかレトロな扉です。


帰りは、日没までは車窓を楽しみつつ、「城攻め」を怠りなくこなします。

16時31分、屋代駅屋代城(千曲市)を攻略。
16時37分、戸倉駅到着前で荒砥城(千曲市)と葛尾城(埴科郡坂城町)を攻略、村上国清を登用。



荒砥城の攻略をもって、通算300城攻略を達成しました。
次は500城を目指しましょうっていうからには、500城を達成した時もこんなメッセージが出るのでしょうね。
それでも300城で、まだ10分の1・・・道は果てしなく長いですね。


16時47分、



100名城の旅・第3弾でも取り上げたテクノさかき駅です。
カタカナとひらがなで構成された駅名ってのも珍しいですね~って記述したんだっけかな。
せっかくなので、ひらがな&カタカナで構成される駅名を挙げてみましょう。
 ・アプトいちしろ駅(大井川鐡道井川線)
 ・ささしまライブ駅(名古屋高速臨海鉄道西名古屋港線)
 ・たまプラーザ駅(東急田園都市線)
 ・テクノさかき駅(しなの鉄道)
 ・バルーンさが駅(JR九州長崎本線)
 ・りんくうタウン駅(南海空港線・JR西日本関西空港線)
2010年当時はこれら6駅だったのですが、
 ・とうきょうスカイツリー駅(東武伊勢崎線。「スカイツリーライン」? そんなものは知らん!)
 ・あしかがフラワーパーク駅(JR東日本両毛線)
こいつらが新たに加わり、現在は8駅となっています。


16時52分、西上田駅発車後に岡城(上田市)を攻略。



堀田作兵衛、高梨内記を登用。
大河ドラマ「真田丸」で注目された武将たちですね。
そろそろ真田の本拠地・上田に近づいてきたので、絶え間なく「城攻め」・・・



日本100名城第27番・上田城攻略!



「表裏比興の者」真田昌幸
「日の本一の兵」真田信繁

父は家康に次ぐ能力値99、弟は行動力最高の99です。
ふたりとも超一流の能力値を有するため、要求される石高も合わせて25万石です。

とりあえず無事に上田城を「城攻め」できました。
あとは実物を目に入れておきたいところですが・・・



よ~し!
これはたしか・・・東虎口櫓門【再建】と南櫓【長野県宝】です!
北櫓【長野県宝】もちょっと見えていました。




16時54分、上田駅に到着。




このまま電車に乗り続け、終着駅のひとつ前の滋野駅
ここに立っているのが「雷電為右衛門生誕の地」という看板。
気になったので調べてみると、雷電為右衛門はこの地で生まれた江戸時代後期の力士で、254勝10敗、勝率 .962というとんでもない成績を残しているのだとか。
それにもかかわらず、番付の最高位は大関どまりだったそうです。
雷電為右衛門が横綱にならなかったorなれなかった理由は諸説ありますが、この当時は横綱という位がまだ確立していなかったともいわれています。


小諸駅にそろそろ着こうかという17時14分、



日本100名城第28番、小諸城攻略!
ついでに長窪城(長野県小県郡長和町)も攻略し、



仙石秀久、依田信蕃のぶしげを登用できました。
現在残る小諸城は、センゴクさんの普請によるものなのですが・・・九州で大ポカをやらかした御仁なので、能力値は低めですね。



上田城に続いて、小諸城も撮影成功!
小諸城跡の公園・懐古園の入口にあたる、小諸城三ノ門【国指定重要文化財】です。
小諸城はしなの鉄道によって分断されており、線路よりも低位置にある三ノ門の先に二の丸や本丸があります。
城の奥に行くにしたがって土地が低くなるという穴城の構造を、ここからも感じ取ることができます。


電車は定刻どおり、17時17分に小諸駅に到着しました。




午 後 5 時 1 9 分

長 野 県 小 諸 市

し な の 鉄 道 小 諸 駅




小諸駅
しなの鉄道とJR小海線が発着するターミナル駅です。
めざすは避暑地・軽井沢ですので・・・



今度の電車は、17時30分発 しなの鉄道線 普通電車 軽井沢行きです。




小諸駅からしばらくの間は、JR小海線と並走します。
右奥の単線が小海線。



小諸駅を出て最初に見えるJR東小諸駅は小海線のみの駅で、しなの鉄道線は通過します。



東小諸駅の次、JR乙女駅を通過すると、小海線は南へと進路を変えていきます。
しなの鉄道線はこのまま東へ進み、一路軽井沢へ。


沿線風景に別荘やらペンションやらが見えてきたら、軽井沢駅はあとわずか。




午 後 5 時 5 5 分

長 野 県 北 佐 久 郡 軽 井 沢 町

し な の 鉄 道 軽 井 沢 駅




ついに避暑地・軽井沢へ!





レトロ調に装う駅舎を出て、旅は最終章へ・・・・・・。



【今回の乗車記録】

Sしなの鉄道 篠ノ井駅 1番線 16時25分発
しなの鉄道線 普通 小諸行き 3両
小諸駅 2番線 17時17分着

小諸駅 3番線 17時30分発
しなの鉄道線 普通 軽井沢行き 2両
軽井沢駅 1番線 17時55分着



*所要時間 1時間30分 (乗車時間 1時間17分 待機時間 13分)
*移動距離 65.1km
*運賃  1,440円





松代城・終章~真田邸にて

2019-02-06 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 3 時 1 6 分

長 野 県 長 野 市

真 田 邸



松代城の100名城スタンプが置いてある、真田邸【国指定史跡】の表門前。



せっかくここまで来たので、真田邸の中に入ることとしました。


文久2年(1862年)薩摩藩国父・島津久光によって推進された文久の改革により参勤交代の制度が緩和され、藩主の妻子が国元に帰ることが許されました。
松代藩9代藩主・真田幸教(ゆきのり)は、松代に入った義母・貞松院のため、元治元年(1864年)新たな御殿を松代城の南側に建てることとしました。
貞松院はその年の10月に新御殿に移り住みますが、翌年に参勤交代が旧に復すると、また江戸に戻ることとなりました。

その後新御殿は、藩主の座を退いた幸教の隠居所として用いられました。
明治以降は、真田家の別邸として使われていましたが、昭和41年(1966年)に松代町(現在は長野市)に譲られました。

昭和56年(1981年)4月、松代城の「(つけたり)」として、国の史跡指定を受けました。



入場料は、大人200円。
ちなみに、真田邸と文武学校との共通券は300円で、100円割引。
さらに、真田邸、文武学校と真田宝物館との共通券は500円で、こちらは200円も割引となります。

しかしながら、私が松代にいられる時間はあまりなさそうなので、今回は真田邸のみに入ることとし、200円を支払いました。



いざ、参らん!



「真田六文銭」の垂れ幕が掲げられている玄関
扉は格式高い舞良戸です。
玄関は訪問客や主人の見送り、出迎えの場所として利用され、普段はあまり用いられなかったようです。



通常の出入りに用いられたのは、玄関の脇にある勝手口
ですが現在は玄関がメインゲートとなっているようで、観光客も玄関から靴を脱いで上がることになります。


御殿建築の中は、大きく2つのゾーンに分かれています。
ひとつは、「公」



玄関から入ってまず目に入るのが、御役所の間です。
御殿お付きの藩士が事務を行う、公的な空間でした。
内装も、ふすまに模様が描かれてはいますがいたって質素。



「真田伊豆守 信之」の書が展示されています。
大河ドラマ「真田丸」において実際に使われた小道具だそうです。
作中では、父の真田昌幸、弟の真田信繁(幸村)に比べ、真田信幸(信之)は決して無能ではないんですが平凡。
だが温厚な人柄で、「乱世よりも泰平の世で活躍する」という描かれ方をしていますね。
信幸役の大泉洋先生が、水曜どうでしょうでもないのにボヤいているシーンが多くておもしろかったです。



手前が御次の間
読んで字のごとく、次に入る人が控えている部屋です。

その先は書院



藩主が執務を行う部屋です。
壁紙に紋様が入ったり、違い棚上のふすまに松が描かれたりと、他の部屋よりは華やかな造りになっています。
それでも公的な間なので、装飾は控えめな感じです。



回廊に現れる杉戸
御殿は4ヶ所の杉戸により、公的な空間と私的な空間とが仕切られているのです。

これより、御殿の私的空間へ。




こういう小さな庭が、案外好きだったりします。




まずは御寝所
藩主の寝室であり、床の間などの意匠はありません。
壁紙やふすまの模様が、松に変わっています。



御持仏の間
正面の扉の中に位牌が置かれていたと考えられています。



御化粧の間
藩主夫人など女性のための私的な部屋で、御殿のもっとも奥にありました。
小ぶりな床の間が据えられ、部屋から望める小さな庭もあります。

御居間・・・藩主の私的な部屋・・・は撮影し忘れてしまいました。



そのかわり高度に私的な空間の撮影に成功。
トイレの壁紙も、松です。





御殿からながめた「水心秋月亭」と名付けられたという庭園。




杉戸を経て公的な空間に戻り、玄関へ。






最後に外から真田邸を眺めて、松代城の登城はこれにて終了。





松代城・第2章~本丸

2019-02-06 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 2 時 5 0 分

長 野 県 長 野 市

松 代 城 跡



海津城に到着しました。



復元整備された太鼓門が見えます。
ママチャリは入口向かいの駐輪スペースに停めまして・・・



本丸の南側を守る太鼓門【復元】です。
前方に高麗門、後方に櫓門がひかえています。



前後の門と城壁で囲われた長方形の空間。
お城業界おなじみの枡形虎口でございますね。

そして通常では、枡形虎口の外側にある門を一の門、内側の櫓門を二の門と呼びます。
逆の場合もありますし、この太鼓門のように決まっていない場合もあるようです。



太鼓門を南東方向から見ました。画になりますねぇ~
松代城を紹介する書籍がよく採用する画が、本丸入口の太鼓門の画なのです。



太鼓門の正面に戻ります。
外の高麗門と内の櫓門は、それぞれの位置が互いにずれています。
侵入してきた敵軍の進路を曲げることによって、敵軍の勢いを削ぐねらいがあります。
枡形虎口の門は互いに直角の位置にあることが多く、ここ松代城の太鼓門はこのようにずれているだけのケースはあまり見たことがないように思えます。






本丸に入る前に、太鼓門の東側から。



太鼓門の南西側。
書籍での写真は、この画角がよく採用されるのだとか。
この画像は少し左に寄り過ぎていますけどね。



太鼓門をくぐり、本丸へ。



本丸の北西に立つ海津城址之碑
松代城は、はじめ海津城と呼ばれていました。


甲斐を制し信濃に勢力を伸ばした武田信玄は、その後の来たるべき上杉謙信との闘いに備え、この地に拠点となる城を築くこととしました。
『甲陽軍鑑』によると天文22年(1553年)、軍師・山本勘助によって築かれた城が海津城です。
信玄は、海津城を腹心・春日虎綱(高坂昌信)に守らせました。
以後、海津城は対上杉の重要拠点となっていきます。

信玄の子・武田勝頼甲州征伐によって滅亡すると、海津城は織田家臣・長可(ながよし)に与えられました。
しかしほどなく本能寺の変が起こると、旧武田領は無秩序状態に陥ります。
長可は武田の旧臣に裏切られ、自らの所領がある美濃へと逃げ帰ってしまいます。
本能寺の変で織田の脅威がなくなった上杉景勝は、空城となった海津城を占拠しています。

慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移ると田丸直昌、慶長5年(1600年)2月には森忠政が城主となりました。
忠政は、兄の長可が苦汁をなめさせられた信濃の所領を自ら望んだといい、「待ち望んでいた」ということで待城(まつしろ)と改名します。
そして兄を裏切った旧臣一族を探し出して皆殺しにする、重税を課したために勃発した一揆を皆殺しにするなどの暴政を行ったそうです。

慶長8年(1603年)森忠政は美作津山へと移り、松平忠輝が入ります。
忠輝は加増されて越後高田に移りますが、その家老・花井良成が城代となり、領内の整備を行いました。
元和2年(1616年)忠輝が改易され、松平忠昌が城主となり、このとき「待城」から「松城」に改名されました。
元和5年(1619年)忠昌が越後高田に移り、酒井忠勝が入ります。

そして元和8年(1622年)酒井が庄内藩に移ると、上田より真田信之が13万石で入りました。
以後明治維新まで、真田家の居城となりました。
正徳元年(1711年)幕命により松代城と名を改められました。

明治5年(1872年)に廃城。





石碑のそばにある石垣は、築城当時のものだそうです。
往時にはその上に戌亥(いぬい)隅櫓【現在はない】が立っていました。



戌亥隅櫓の櫓台に上がってみました。
西を望むと、本丸から土塁がのびています。
この土塁には、かつては漆喰塀がこしらえられていて、二の丸を取り囲んでいたそうです。
画像中央やや上に見えるくぼみは埋門で、土塁を掘って造ったトンネルがありました。

そして向こうに見える山こそ、上杉謙信が本陣を構えた妻女山です。



本丸を見てみると・・・樹木が茂っていてあまりよく見渡すことができませんでした。
かつては本丸に本丸御殿【現在はない】があったようです。
ですが度重なる水害を受け、江戸時代中期にはここを放棄。
南西の花の丸という曲輪に花の丸御殿【現在はない】が建築されたようです。



地上に下りました。
本丸には樹木が多く植わっていますね。


本丸の北側、



北不明門櫓門【復元】。内側からの画です。



北不明門高麗門【復元】。やはり内側。



北不明門櫓門、今度は表側から。



搦め手を守る北不明門の枡形虎口。
こちらは、門の位置関係が互いに直角になっていますね。



それでは松代城の本丸に戻って・・・「城攻め」



松代城、攻略! そして・・・



真田信之高坂昌信、登用!
海津城時代の名将と、松代城の名君をゲットできました。



さて、100名城スタンプはどこにあるのでしょう???



そういえば入口にこのような看板がありました。
これにしたがい、真田邸に向かうとしましょう。

  

路傍の掲示にしたがって、真田邸へ。



真田邸の表門に到着。その向かいに・・・



こんなところにありました。



日本100名城・第26番、松代城!
この旅唯一の100名城のスタンプをゲットできました。
絵柄は、本丸太鼓門本丸戌亥隅櫓石垣ですね。



真田邸の目と鼻の先まで来ましたので、せっかくだからと入場することとしました。