鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

足利氏館リベンジ~鑁阿寺完全参拝

2019-11-03 | 城郭【日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 後 2 時 0 0 分

栃 木 県 足 利 市

足 利 学 校 入 徳 門 前





8年越しの足利学校に入学、そして卒業を果たした私。
足利にてやり残したことをひとつ成し遂げたわけですが、足利にはもうひとつやり残したことがあるのです。



まぁ、とりあえず一杯・・・酒ではなく、お味噌汁、うまい!
学校前に構える「銀丸」本店で、二条大麦味噌のお味噌汁を試飲させていただきました。


さて、入徳門を出て「銀丸」さんを左手にしつつ歩くと、鑁阿寺(ばんなじ)に通じる石畳の参道に当たります。
その参道を、8年前とは正反対の方向に歩いていきます。



征夷大将軍足利尊氏公像にもお会いしました。
・・・ちなみに足利は足利一族出身の地ではありますが、足利尊氏の出生地はここではないという説が有力です。


そして参道の先には、当然鑁阿寺・・・



太鼓橋【栃木県指定文化財】と、その背後に構える楼門【栃木県指定文化財】です。



100名城スタンプの絵柄、そのまんまです。



太鼓橋は江戸時代後期の建造物で、栃木県では唯一の屋根つき橋なのだそうです。
背後の楼門とのつり合いも素晴らしいですね。



鑁阿寺の三門である楼門
室町幕府13代将軍・足利義輝により再建されたものが現存しています。



楼門の扁額「金剛山」
鑁阿寺を略さずに称すると「金剛山仁王院法華坊鑁阿寺」というそうです。
この日は、楼門に多くの鳩が羽を休めていました。

 

境内を取り囲む水濠土塁
これらこそが、鎌倉時代に造成された武士の居館であったことを物語っているのです。



水濠には鴨。
多くの参拝客とともに、多くの鳥たちでにぎわう三門です。


12世紀半ば、足利氏の祖である源義康がこの地に居館を構えました。
義康は「八幡太郎」源義家の孫にあたる人物で、居館のある地から「足利」を名字としました。

建久7年(1196年)義康の子・足利義兼は、自宅である居館に持仏堂を建立しました。
義兼の戒名は「鑁阿」であり、このころに鑁阿寺の礎が築かれたといえます。
文暦元年(1234年)義兼の子・足利義氏が伽藍を整備し、足利氏の氏寺となりました。





午 後 2 時 0 6 分

鑁 阿 寺 境 内 へ


楼門をくぐって、まずは右側。



鐘楼【国指定重要文化財】です。
鐘楼ははじめ建久7年(1196年)に建てられ、後に再建されていますが、その時期はわかっていないのだそうです。



現在も梵鐘が吊るされている、現役の鐘撞き堂です。




楼門の先に建っているのが、本堂【国宝】です。
8年前当時は重要文化財でしたが、平成25年(2013年)8月7日に国宝に指定されました。

 

足利家2代当主・足利義兼が居館内に建立した持仏堂がはじまりで、現在の本堂は足利貞氏が正安元年(1299年)に再建したものです。
当時最新の建築様式であった禅宗様を取り入れたものです。
室町時代中ごろの修理で、屋根が瓦葺となりました。



本堂にてお守りを買うこともでき、100名城スタンプもこちらでもらえます。
スタンプは8年前にいただきましたので・・・



今回はご朱印を頂戴しました。



本堂の中では・・・おやおや、ここにも猫さまがおわしますなぁ。


鐘楼の向かい側・・・



多宝塔【栃木県指定文化財】と大銀杏【栃木県指定天然記念物】です。

 

多宝塔も他の伽藍と同様、はじめ建久7年(1196年)に建てられたとされています。
現在のものは、寛永6年(1629年)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院によって再建されたものです。
なおこの「多宝塔」は本邦最大のものとされており、これより大きいものは「大塔」と称されるようです。

 

2本の大木のようにも見え、実際に1本なのか2本なのかはよくわかっていないそうです。
樹齢は約550年と推定されています。


多宝塔&大銀杏の北側には・・・



経堂(一切経堂)【国指定重要文化財】が建ちます。



こちらは応永14年(1407年)に関東管領・足利満兼により再建されたものです。
宝永5年(1708年)には屋根の修理がなされています。
経典を収蔵する経堂としては大型の建造物であり、珍しく貴重なものとされています。


経堂と本堂の間には・・・



中御堂(不動堂)【足利市指定文化財】が鎮座しています。
文禄元年(1592年)足利国朝によって再建されたともいいますが、建物の組み物や彫刻のつくりから、江戸時代中期のものであろうと推測されています。


経堂のさらに北、旧居館の北西には・・・



西から順に御霊屋大酉堂宝庫が並んでいます。
宝庫から少し離れたところに、智願寺殿御霊屋が建っています。



まずは御霊屋【栃木県指定文化財】。
正面に棟門を設けて周囲を瑞垣(みずがき)で囲み、中に本殿が建っています。
ここには室町幕府の歴代将軍15代の像が安置されています。



隣りには、大酉(おおとり)
元々は足利尊氏公を祀るお堂として、室町時代に建てられたものでした。
しかし明治中期より足利尊氏逆賊の皇国史観が台頭すると、祀られていた尊氏公木像を他所へ移すこととなりました。
そして、鑁阿寺にゆかりある大酉大権現を本尊とすることとなったのです。
大酉堂は昭和61年(1986年)に解体修理されて、現在に至っています。



さらにその東には、宝庫(校倉・大黒堂)【足利市指定文化財】。
宝暦2年(1752年)再建の校倉造(あぜくらづくり)の建物です。
その名のとおり宝物倉だったのですが、42世住職の忍空上人により宝物が他に移され、足利氏伝来の大黒天をお祀りしたことから「大黒堂」となりました。



少し離れて東には、智願寺殿(ちがんじでん)御霊屋(蛭子(ひるこ)【足利市指定文化財】が建ちます。
某路線バスの大先生になぞらえて「えびすどう」と読みたくなるところですが、「ひるこどう」が正解です。
鑁阿寺の開祖である足利義兼の妻・時子をお祀りし、「智願寺殿」は時子の法名です。
そして時子は鎌倉初代執権・北条時政の娘であり、将軍の妻・北条政子の同母妹と考えられています。
しかしこのお堂、なぜ「蛭子堂」なのでしょうか?


夫の義兼が鎌倉にて奉公している間、足利の地で留守を守っていた時子は、ある日侍女が井戸から汲んだ生水を飲みました。
程なくして時子の腹は膨らんでいき、さながら妊婦のよう。
鎌倉から戻った義兼に対し、侍女は「時子が不義を働いた」と讒言し、義兼は時子を疑うようになりました。

時子は「死後わが身体をあらためよ」と言い遺して自害してしまいました。

遺言のとおりに時子の身体をあらためると、その腹からは大量のヒルが出てきたのです。
義兼は大いに悔み悲しんで時子を篤く弔い、井戸を塞いだうえで侍女を殺したのだそうです。



これより時子は「蛭子女尊」として、安産の女神として信仰されています。



鑁阿寺の伽藍をひととおり見たところで、鑁阿寺の周囲をひと回りしていきます。



まずは北門【足利市指定文化財】。



鑁阿寺の開祖である足利義兼の子・義氏は、水濠の外に12の支院を建て、その筆頭を千手院と定めました。
この門はその千手院の三門だったものを、大正7年(1918年)に移築してきたものです。
棟札の記載から、弘化2年(1845年)に建てられたと推定されています。
主扉の脇に小さな副扉を擁する薬医門形式となっています。


東へ回り、



東門【栃木県指定文化財】へ。



こちらは質素剛健な造りの四脚門で、鎌倉時代の建造と推定されています。


西門【栃木県指定文化財】をスルーしてしまいましたが・・・
入口の楼門(南門)に戻りました。



水濠にたたずむ鴨を眺め、足利氏館の登城・・・というよりも鑁阿寺の参拝は、これにて終了。





足利学校・後編~卒業なるか?!

2019-11-03 | 美術館・博物館


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 後 1 時 1 1 分

栃 木 県 足 利 市

足 利 学 校



8年前は入学すら許されなかった足利学校



学校の門戸は開け放たれ、私は無事に入学できたのでした。



入学できたとあらば、今度は無事に卒業しなければなりません。
学校の勉学の場であった方丈にて・・・

卒業試験を受けるのです!




午 後 1 時 3 0 分

足 利 学 校 卒 業 試 験



問題一 漢字には、音と訓の二つの読み方があります。
    次のア~トの音をひらがなで(  )内に記入しなさい。
    音がない場合は、(  )内に×を記入しなさい。

 ア、山(   )  イ、川(   )  ウ、草(   )  エ、木(   )  オ、森(   )
 カ、雪(   )  キ、組(   )  ク、犬(   )  ケ、麦(   )  コ、屋(   )
 サ、笛(   )  シ、戸(   )  ス、林(   )  セ、炭(   )  ソ、糸(   )
 タ、札(   )  チ、束(   )  ツ、耳(   )  テ、竹(   )  ト、肉(   )


問題二 次のア~トの訓をひらがなで(  )内に記入しなさい。
    訓がない場合は、(  )内に×を記入しなさい。
 
 ア、雨(   )  イ、右(   )  ウ、円(   )い エ、月(   )  オ、子(   )
 カ、夕(   )  キ、千(   )  ク、先(   )  ケ、土(   )  コ、遠(   )い
 サ、会(   )う シ、楽(  )しい ス、記(   )す セ、市(   )  ソ、社(   )
 タ、太(   )い チ、直(   )す ツ、売(   )る テ、歩(   )む ト、育(   )つ


問題三 次のア~コの十字形(※原文ママ)の中央の□に、ある漢字一字を入れ、
    上下左右(※ここも原文ママ)の矢印の方向に読むと単語ができます。
    例を参考にして、□に一字を記入しなさい。

   (例)最・夢 → □ → 央・心
       上の□に「中」を入れると、「最中」「夢中」「中央」「中心」になります。

 ア、選・苦 → □ → 芸・紙   イ、天・長 → □ → 神・王   ウ、風・水 → □ → 輪・窓
 エ、役・注 → □ → 前・的   オ、木・起 → □ → 場・案   カ、見・絵 → □ → 立・気
 キ、作・注 → □ → 化・集   ク、満・遠 → □ → 音・場
 ケ、親・級 → □ → 人・達   コ、早・明 → □ → 日・顔


問題は50問で各2点、100点満点となっています。
60点以上80点未満で「初段」、80点以上で「二段」とされているようです。



さて私は・・・



100点中94点! 合格

私が間違えてしまったのは、音読み&訓読み問題です。
漢字の読み方が音読みか訓読みかということは、小学校を卒業して以降は気にも留めませんでしたからね。
いや、小学校の時でさえ音読み訓読みの区別は、それほど意識してなかったかも・・・。


まずは「戸」の音読み。
普通の読みは「と」だけど・・・他には読み方はなかったはずだよなぁ? だから「と」は音読みだ!・・・というのは誤りです。
「戸」は、「と」の他に「へ」とも読みます。青森県の八戸(はちのへ)のように。
しかし「と」「へ」はともに訓読みなのです。
「戸」はさらに「こ」とも読みます。戸籍(こせき)のように。
そして「こ」の読みが音読みとなるわけです。


次は「夕」の訓読み。
普通の読みは「ゆう」ですが、これを音読みと勘違いしてしまいました。
「夕」は「ゆう」の他に「せき」とも読みます。一朝一夕(いっせき)がいい例です。
私はすっかり忘れていた「せき」の読みが音読みで、「ゆう」は訓読みとなるわけです。


最後に「千」の訓読み。
「千(せん)」に限らず「一(いち)」「二(に)」といった数の呼称は、意外にも音読みであることは知っていました。
「一」は「ひと(つ)」、「二」は「ふた(つ)」といった呼称もあり、これが訓読みであることからも察しがつきます。
しかし「千」は・・・???
なので「千」に訓読みはない!と考えたのですが、これは間違い。
「千」は「せん」の他に千葉の「ち」という読み方があります。
そして意外なことに、この「ち」が「千」の訓読みになっているのです。


問題三はパーフェクト! まぁ、当然ですな。



これでも大学出てますから。



私の点数は94点なので、文句なしの卒業!といった感じですが・・・
足利学校の方針は「自学自習」で何年制という定めはなく、自分自身が納得いくまで学んだら卒業ということになっていたそうです。
なので点数の多い少ないに関係なく、自分はこのとおり音読み訓読みの復習をして納得いくまで学んだので、足利学校を卒業いたします!




午 後 1 時 4 4 分

学 び 舎 を 出 る


勉学に勤しんだ学び舎を後にします。



校舎の南庭園を眺めた後、



歴代校長の墓を詣で、



旧足利学校遺蹟図書館【足利市指定文化財】でさらに学問を深め、



足利学校を後にしました。



振り返ると、学校は新入生を多く迎え入れていました。



日本100名城登城の旅・第20弾~「東武鉄道で行く両毛城めぐり」第9話へ続く。


足利学校・前編~念願の入学

2019-11-03 | 美術館・博物館


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 1 8 分

栃 木 県 佐 野 市

佐 野 駅 前



犬伏唐沢山城【国指定史跡】を訪れました。
そして朝に1杯、昼に2杯の佐野ラーメンを平らげ、佐野駅に戻ってきました。



さのまるに別れを告げ、



JRのほうの佐野駅へ。

お次の目的地は、日本100名城・足利氏館【国指定史跡】です。
こちらは平成23年(2011年)1月に訪れたのですが、時刻が夕暮れ時であったために駆け足の訪問とならざるを得ず、当時所有していたデジカメさんの体力が異常に弱かったために、あまり画像が残っていないのです。
同じく時刻が遅かったために、足利学校には入学できずじまい。

私にとっては、足利はぜひともリベンジしなければならない場所でありました。



というわけで、JRのほうの佐野駅へ。



今回は「ふらっと両毛 東武フリーパス」を所持しているのだから、できれば東武佐野線の佐野駅に向かいたいところです。
しかし・・・

 (東武鉄道のサイトより引用)

佐野駅から足利市駅に向かうには、いったん館林駅に南下してから再北上するというルートをたどることとなります。
いっぽうJR両毛線ならば、佐野駅から西にサクっと進め、足利駅までわずか3駅、13分。
さらに東武足利市駅は、JR足利駅よりも市街地から離れていることもあるので、移動時間短縮のためにもJRを使うこととしました。


12時29分、JR両毛線 普通電車 高崎行きは佐野駅を発車。
富田駅と、近年設置されたあしかがフラワーパーク駅を経て、



12時42分、足利駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 佐野駅 1番線 12時29分発
両毛線 普通 高崎行き
足利駅 2番線 12時42分着

*所要時間 13分
*移動距離 11.km
*運賃 237円(IC運賃) ※消費税率改定前(8%)のときの運賃です。





足利駅を出ます。
画像には写っていませんが、8年前に食事したはなまるうどんさんはご健在のようですな。
嬉しいかぎりです。



いかにも「学問の街」というような案内看板に導かれ、



学校への道を進み、



足利学校【国指定史跡】にやって参りました。



足利学校の最初の門・入徳門
もともとあった入徳門は天保2年(1831年)に焼亡してしまい、現在の門は明治42年(1909年)に裏門を移築したものとされています。
「入徳」は「道徳心を養う」すなわち学校に入ることを意味しており、扁額は紀州徳川家11代藩主・徳川斉順(なりゆき)の揮毫によるものです。



孔子立像
儒学の祖・孔子の像であり、足利学校でも孔子が祀られていました。
足利学校の教員は主に禅僧がこれを務めていましたが、仏教の経典については寺院で学ぶべきとされ、講義内容から排除されていました。
したがって、教育は儒学が中心となっていました。



8年前とは違い、この日は学校の門戸が開いておりました!
傍らには遅咲きながらも、学問の象徴とされる梅の花が咲き誇っています。

足利学校。
入学金は大人420円、高校生は半額の210円。
中学生以下は無料となっています。
憲法26条1項の教育を受ける権利と、これに基づく教育基本法&学校教育法の精神が、こんなところにも及んでいるのでしょうか?!



足利学校のシンボル・学校門
寛文8年(1668年)に建てられ、今日まで足利学校の表玄関の役割を果たしています。


足利学校は、奈良時代もしくは平安時代に下野(しもつけ)国の国学(律令制下の学校)として成立したともいいます。
承和6年(839年)ごろに小野(たかむら)によって創設されたともいいます。
あるいは12世紀末に足利義兼によるともいいます。

学校の成立・起源ははっきりしていませんが、15世紀半ばの関東管領・上杉憲実(のりざね)は、このころに衰退していた学校の再興に尽力しました。
学校で仏教を扱わないという指針は、上杉憲実により定められたといいます。
戦国時代には講義内容が儒学のみならず易学、兵学、医学にも及び、学生も3,000人を数えたともいいます。

江戸時代に入ると、朱子学の官学化により、また平和な時代が続いたことによって兵学などが好まれなくなったこともあり、足利学校の学問は時代遅れとなってしまいます。
しかしながら学校は貴重な古書を多数所蔵していたので、図書館としての役割を果たすこととなります。

明治5年(1872年)足利学校が廃校となりますが、大正10年(1921年)国の史跡に指定され、建物や蔵書の保存が図られることとなりました。





午 後 1 時 0 7 分

栃 木 県 足 利 市

足 利 学 校 に 入 学


学校門をくぐって歩くと、右側に・・・



字降(かなふり)という背の高い松が立っています。
学生が典籍の中で読めない字と遭遇すると、紙に書き記して松の枝にくくりつけていたそうです。
それを講師である和尚が見つけると、ふり仮名や注釈を書き加えていたといいます。

字降松の正面には・・・



儒学の祖・孔子をお祀りする孔子廟が建っています。
しかしこの日は、改修工事のために入れず。



孔子廟は、このようなお姿をしているのだそうです。




いよいよ学校の校舎へ。



後者の南側に広がる南庭園
発掘調査と当時の絵図面を参考に、江戸時代中期の姿に復元されたそうです。
この日は、学問を象徴する梅の花が美しく咲き誇っていました。



正面玄関・・・ですが、ここからは校舎に入れないようです。
もう少し外をぶらりとしましょう。



空は青く晴れ渡り、梅の花が咲き誇っています。
学校で勉学に励むのはもったいないような、すばらしい天気です・・・これはとんだ失言でしたかな。
学生が勉学に励んでいた校舎は方丈【再建】といいますが、現代でも机を前に学徒が物書きをしているようですね???



南庭園から外に通じる裏門【再建】です。
「裏門」とはいいますが、実際は学生が日常的に利用していた出入口だったそうです。



裏門付近にあった茶園場(さえんば)
江戸時代の絵図面にはカタカナで「サエンバ」と表記されているようですが、「茶園場」という字が充てられていたと推測されています。
そしてここでは茶、薬草から大根などの食料、そして観賞用の花なども栽培されていたそうです。



茶園場の傍らに建っているのは、衆寮【再建】。
一言でいえば学生寮です。



校舎のほうに戻ります。
勉学の場である方丈に連なる大きな建物は、庫裡(くり)【再建】です。
こちらはかまどのある土間や台所が備わっており、日常生活の場でした。
ここから中に入れるようです。



入口に据えてある珍妙な器械、その名は宥座之器
斜めに傾いている器に水を注ぐと、傾いていた器は直立して水をたたえるが、水が多すぎると器がひっくり返ってしまう。
このことをもって、孔子は中庸の大切さを説いたといいます。

私も試しに水を注いでみましたが・・・私はまだまだ中庸の何たるかがわかっていなかったようです。


校舎に入ります。



校舎の中は、足利学校が所蔵する蔵書や彫像が展示されています。
こちらは木造 小野篁坐像【足利市指定文化財】です。
学校の伝説上の創始者である小野篁の彫像で、江戸時代の延喜3年(1746年)のものだそうです。
たぶん本物・・・レプリカではないはずです。



こちらは木造 孔子坐像【栃木県指定文化財】。
普段孔子像は孔子廟で祀られていますが、廟は工事中のため、校舎に移されて安置されているようです。
こちらもたぶん本物・・・レプリカではないはず。



そしてこちらは宋刊本「文選」【国宝】!!・・・のレプリカですよね、たぶん。
押印されている印影は、関東の戦国大名・北条氏政「虎の朱印」とされています。
文選(もんぜん)は、中国の南北朝時代に梁王朝の昭明太子によってまとめられた詩文集で、中国古典文学の集大成といっていい詩集です。

諸葛亮「出師表」曹操「短歌行」曹丕「典論」論文曹植「洛神賦」
官渡の戦い前に、曹操を罵倒しまくったあまりに曹操自身の頭痛を治してしまったという陳琳の檄文。

・・・私の三国志熱が上がる前に、終了~。



校舎の北側にある書院
庠主(しょうしゅ)が来客に応対する場です。
つまりは校長室なのですが、それらしく落ち着いた造りになっています。



校舎の北側に築庭されている北庭園
陽光の陰になっているからか、落ち着いた雰囲気があります。
泉水の中島には、弁天様をお祀りする石祠が築かれています。


こうして校舎をめぐったところで、学生が勉学に励んだという方丈へ。
旅人であるはずの私も、ここで試験を受けることになってしまいます。
果たして私は、無事に学校を卒業できるのでしょうか?!