鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

月山富田城登城・第1章~謀聖と麒麟児

2020-12-31 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 壱 日 ( 月 )

午 後 拾 弐 時 廿 六 分

島 根 県 安 来 市

安 来 節 演 芸 館 を 出 る



足立美術館で日本一の庭園に圧倒され、横山大観をはじめとする巨匠たちの作品に感動しました。
安来節演芸館で安来節・・・は観ませんでしたが、お昼ご飯でどじょう鍋に舌鼓を打ちました。

しかしながらわが旅は、「城攻め旅」。
これから向かう月山富田城【国指定史跡】こそ、この日の本当の目的地なのです。



月山富田城へのアクセスは、JR安来駅から出ているコミュニティーバス「イエローバス」広瀬行きに乗車します。
広瀬行きのバスは途中足立美術館などを経由して、市民病院(安来市民病院)の前に停まります。
市民病院が月山富田城の最寄りのバス停となります。





さて私は、安来節演芸館の敷地を出て、イエローバスが通っている県道へと歩いています。
このあたりには鷺の湯温泉という温泉が沸いているようですが、一風呂浴びることもなく先を急ぎます。
なにせこの先行くのは難攻不落の山城、時間には余裕をもって臨みたいですからね。



途中のバス停。
三日月が描かれているのは、あの麒麟児にちなんでいるのでしょうか。
時刻表を見ると本数は1時間に1本ほどあるのですが、今度のバスは約1時間後。
運悪くバスの運行がない時間帯に当たってしまったようです。
足立美術館&安来節演芸館から月山富田城までは、道のりにして約3キロほどなので、今回は歩いていくこととしました。



歩いている道は、島根県道45号・安来木次きすき
左脇を流れる水路とともに進んでいきます。



安来市広瀬町。
「山陰の麒麟児」山中鹿介幸盛が生まれた地だそうです。


 

歩き始めて約15分ほど、月山富田城が見えてきました。




さらに歩いて8分ほど。
“ひろせ”の立看板の先にある交差点で、県道から外れます。



安来市立病院の方へ向かって歩いています。
その途中にあるのが・・・



「山中公一騎討之處」の碑文です。


永禄8年(1565年)毛利元就は、約3万の軍勢で月山富田城の攻略をめざしました。
籠城する尼子義久の家臣・山中鹿介幸盛富田川(現在の飯梨川)の堤を巡回していると、対岸の毛利軍から一騎討ちを申し込む者が現れました。
その者は、毛利方・益田藤兼の家臣・品川大膳将員まさかず
武勇の誉れ高い鹿介を倒すため、大膳は自らの名を棫木狼介勝盛たらぎおおかみのすけかつもりに変えて勝利を祈願したといいます。
鹿介は一騎討ちの申込みを承諾し、富田川の中州(川中島)で両者は戦うこととなりました。
戦いは鹿介が勝ち、
「石見国(島根県西部)より出でたる狼を、出雲の鹿が討ち取った。もとよりタラノキは好物なり」
と叫びながら、味方の陣に戻っていったといいます。

しかしながらこの戦いによって戦況が好転したかといえば、そうではありませんでした。
毛利軍は月山富田城を兵糧攻めにし、尼子義久とその重臣に離間の計を施して内部分裂させ、尼子軍を疲弊させていきました。
永禄9年(1566年)11月、ついに尼子義久は毛利軍に降伏することとなります。



この碑文があるところが、鹿介と大膳の一騎討ちの行われた中州だったそうです。
富田川(飯梨川)は洪水などで流れが変わってしまい、中州は跡を留めていないのです。
また近所には敗れた品川大膳の墓が立っているそうですが、ここには行きませんでした。




月山富田城の最寄りのバス停となる安来市民病院
ここに立ち寄って、帰りのバスの時刻を確認しておきました。


市民病院から県道、飯梨川方面へ歩いていくと、



三日月公園があります。
こちらには・・・



「名将とよばれる者は、皆、悪徳と背中合わせに生きておる」



「謀多きは勝ち、少なきは負ける。戦いの世に生きる男の有りようだ」

「謀聖」尼子経久公の銅像が立っております。
大河ドラマ「毛利元就」で緒形拳さんが演じられた経久公は、私の中でいまだに強烈に印象に残っております。


尼子経久は、長禄2年(1458年)出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国で生まれました。
当時の出雲国は出雲守護・京極政経の勢力下にありましたが、政経はほかに飛騨、隠岐、近江の3ヶ国の守護も兼任し、自身は京都に滞在していたため出雲は守護代の尼子氏が治めていました。
文明10年(1478年)ごろに家督を父から譲られ、最初こそ京極氏の代官の任を果たしていましたが、そのうち自己の勢力拡大に努めるようになりました。
そのため主君・政経や出雲国の国人(在地の武士)と不和となってしまい、文明16年(1484年)ごろに守護代の職を剥奪されてしまいます。

経久はこのときに居城・月山富田城を追われてしまい、代わって塩冶えんや掃部助かもんのすけが守護代となりました。
経久は放浪生活のさなかに同志を募り、月山富田城の奪還を狙っていました。
そして文明18年元旦、新年祝賀の宴が催されていたところに、経久が奇襲をかけてきました。
経久は見事に月山富田城を奪い返し、塩冶掃部助は討ち死にしてしまったそうです。


これは軍記物のストーリーで、実際には城を追い出されることはなかったようです。
ただし守護代に返り咲くのは明応9年(1500年)のことで、永正5年(1508年)に主君・京極政経が死ぬと、その後継となって出雲を支配しました。
その後は周防すおう国(山口県)の大大名・大内義興よしおきと争い、主に謀略を用いて勢力を広げていき、「十一ヶ国の太守」と称されるまでになりました。

安芸国(広島県)に毛利元就が台頭してくると、経久の勢力に陰りが見え始めます。
毛利ははじめ経久の勢力下にありましたが、大永4年(1524年)に元就が毛利家当主となると、これを阻止しようとして失敗、翌年に元就は大内方に鞍替えしてしまいます。
天文6年(1537年)家督を嫡孫の詮久あきひさ(のちの晴久)に譲りますが、詮久は天文9年(1540年)元就の居城・吉田郡山城を大軍で攻めますが、これに完敗。
大内軍が直接月山富田城を攻めようかというところで、天文10年(1541年)84歳で亡くなりました。



経久公が扇子で指している方向は・・・



台頭してきた若き「謀神」毛利元就の居城・吉田郡山城の方角でしょうか。
街路樹の間から頂を現わす山は三笠山で、そこにかかった月に向かって山中鹿介が尼子家再興を祈願したといいます。



角度を変えて北西方向。
左の薄緑色の屋根のところにある山が京羅木山、そこから2つ右の頂が勝山です。
京羅木山は、天文12年(1543年)の第1次月山富田城攻防戦で、攻め手の総大将・大内義隆が本陣をおいたところです。
また勝山は、永禄8年(1565年)からの第2次月山富田城攻防戦で、毛利元就が本陣をおいたところです。




三日月公園から月山富田城に行くには、飯梨川を渡らなければなりません。
月山富田城の攻防戦でも、川を挟んで両軍がにらみ合っていました。
現在は近場に2本の橋が架かっており、



下流側にある新宮橋を渡ります。



登城の前に、安来市立歴史資料館に立ち寄ります。




午 後 壱 時 廿 四 分

安 来 市 歴 史 資 料 館




資料館の入口で早速・・・



65番、月山富田城!
絵柄は・・・山と小屋ふたつ?!
なんだかショボいような気もしますが・・・後ほど画角探しもしていきます。


さて資料館の入場料は、大人210円。
受付で300円を支払い、御城印も購入しました。



国指定史跡・日本百名城、富田城!

3つの家紋は、尼子家の「平四つ目結めゆい、吉川家の「丸に三つ引両紋」、堀尾家の「分銅紋」
さらに、三日月に祈る山中鹿介がシルエットに描かれています。




月山富田城の立体模型を確認。
パンフレットもゲットしたところで、これより月山富田城を登城していきます。