鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

意宇六社めぐり・第2章~国宝・神魂神社

2021-07-23 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 八 時 五 拾 六 分

松 江 市 大 庭 町



八重垣神社縁結び占いをし、満足のいく結果が得られた私。
意宇(おう)六社めぐり、次なる神社をめざします。



国道432号を南下し、目的地たる神社への案内看板が現れました。

「神の魂の神社」という、なんとも光厳な社号。
世に「雀魂」なるゲームがありますが、それにならって「かみたまじんじゃ」・・・ではなく「かもすじんじゃ」と読みます。
「神」=「かも」はともかく、「魂」=「す」なんて読めねえよ・・・PCでもスマホでも漢字変換ができないくらいです。


国道から離れて約500メートルほど進み、



神魂神社に到着しました。



【八重垣神社→神魂神社 のルート】



八重垣神社 8時45分発
島根県道246号八重垣神社線・島根県道247号八重垣神社竹矢線・国道432号線・島根県道248号神魂神社線経由
神魂神社 9時03分着

*移動距離 3.1km
*所要時間 18分  (平均の速さ 10.3km/h)






午 前 九 時 参 分

神 魂 神 社


これより参道を上っていきます。



灯籠の脇にある、苔むした手水鉢。
ここから右への急な石段が男坂、そのまま前進するなだらかな坂道が女坂というそうです。



男坂を上っていくと、ダイレクトに神魂神社 拝殿の方へ。


神魂神社は、天照大御神アマテラスオオミカミの第2子・天穂日命アメノホヒノミコトが出雲の地に降り立ち、この地にとどまることとなった折りに創建されたといいます。
天穂日命は葦原中原平定(国譲り)において大国主神オオクニヌシノカミのもとに赴かれて国譲りを説いたのですが、逆に大国主神に心服してしまいます。
国譲りが成った後も大国主神に仕えることとなり、出雲国造くにのみやつこの祖となったといいます。

以上が伝承ですが、奈良時代の出雲地方の地誌『出雲国風土記』や、平安時代初頭の全国神社リスト『延喜式神名帳』にその記述がなく、はじめて文献に現れるのが承元2年(1208年)に記された鎌倉将軍の下文くだしぶみなので、創建時期は平安から鎌倉時代の間であろうと考えられています。
神々の母・伊弉冉尊イザナミノミコトを主たる祭神とし、神々の父・伊弉諾尊イザナギノミコトが配祀されています。





意宇六社・2番目の神社は、神魂神社でございます。

拝殿の後ろに鎮座する神魂神社 本殿【国宝】。
天正11年(1583年)に再建されたものが現存しているものと考えられています。
大社造という社殿の建築様式では、現存最古のものとされています。



大社造は出雲国(島根県東部)のみに見られ、その特徴は・・・
まず、掘立柱で建っていることが挙げられます。
土地を掘って穴を造り、柱はその穴に立てられて、掘り出した土で周りを固められます。
まぁ、この画からではわかりませんね。



屋根の構造が切妻屋根であることも大きな特徴です。
屋根の頂の棟から地上に向かって2つの斜面が、 ←本を伏せたかのような山の形をした屋根をいいます。
そして大社造では、切妻屋根が ではなく ・・・
つまりはゆるやかな曲線になっています。

本殿内部への出入口は妻入り、すなわち屋根の棟と垂直な面()に出入口が設けられています。
もっと簡単に表すならば、 の見える面に出入口があるということです。
そして出入口は、妻の中央より右側に設けられている場合が多いそうです。


ところで、神魂神社の境内は・・・



拝殿&本殿に向かって左に末社が5社、右には末社が4社、そして社務所があるだけ。
国宝を擁する神社の割には境内自体もそれほど広くなく、そして余計な案内看板がない、観光地化されていないように感じられました。
参拝客は朝の時間帯ながら20名ほどとそれなりにいましたが、それでも境内はおごそかな雰囲気を微塵も損なっておりませんでした。



私も新鮮な心持ちで、朝のお詣りをしていきます。
本殿に向かって左側の末社、画像左から武勇社蛭子社荒神社外山社・・・



本殿の脇に貴布祢稲荷両神社 本殿【国指定重要文化財】。



9時10分、お詣りはひと通り終了。
国宝に重要文化財を有する神社にしては、ほんとうに小ぢんまりとしています。



拝殿の脇にある社務所で、御朱印を頂戴しようと思っていましたが、社務所が開いていません。
すでに数名の参拝客が前で待っていましたが、社務所の中に人の気配はありません。

10分ほど待ちましたが、社務所が開く様子もありません。
この日はあと4ヶ所の神社をお詣りするなど、予定が目白押しだったので、神魂神社の御朱印はあきらめることとしました。





意宇六社めぐり・第1章~八重垣神社で縁を占う

2021-07-23 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 七 時 参 拾 九 分

松 江 ア ー バ ン ホ テ ル レ ー ク イ ン





松江のビジネスホテル、2日目の朝食をいただきます。
だいたい前日と似たラインナップですね、お肉料理がちょっと変わったぐらいです。
この日もご飯をおかわりし、己の腹に十分な養分をため込みます。

朝食とともに写っている、青いキーホルダの自転車の鍵。
こちらのホテルは、なんと宿泊者にレンタサイクルを無料で貸与してくれるのです。
というわけで「縁結びのたび」5日目は、こちらのレンタサイクルで松江市内を回っていきます。

この日はまず、意宇(おう)六社という松江市内の6つの神社を参拝します。
そして、この旅最大の目的といえる松江城【国指定史跡】へ。
さらに、旅立ちの前にお勧めされた月照寺【国指定史跡】にも訪れていきます。


意宇六社は、出雲国意宇郡、現在の松江市内にある6つの神社をいいます。
意宇郡は、出雲大社の宮司を代々務めた出雲国造(くにのみやつこ)家ゆかりの地。
そして6つの社も、出雲大社にゆかりのある神社ということになります。

 ・熊野大社【旧国幣大社・出雲國一宮】
 ・眞名井神社【旧村社】
 ・揖夜(いや)神社【旧県社】
 ・六所神社【旧県社・出雲國総社】
 ・八重垣神社【旧県社】
 ・神魂(かもす)神社【旧県社】

この6社を、自転車で巡って参ります。



ルートは、国道432号線を南に進み、途中で島根県道246号・八重垣神社線に入ります。


その道中、国道432号沿いには、元内閣総理大臣 若槻禮次郎生誕地の石柱が立っています。
なんの変哲もない、家賃の安そうなアパートの前にぽつんと立つ石柱。

若槻禮次郎は大正15年(1925年)から昭和2年(1926年)までと、昭和6年(1931年)の2度にわたって内閣総理大臣を務めました。
外務大臣には幣原(しではら)喜重郎を起用し、対外協調外交を基本とする「幣原外交」を展開。
昭和6年の第2次内閣のときには、満州事変が勃発したことがきっかけとなり、総辞職に追い込まれました。

戦前の政治をリードし、日本史の教科書に必ず載っている宰相の石碑にしては、あまりにも唐突な場所にあったため、写真を撮ることすら忘れてしまいました。






午 前 八 時 拾 七 分

八 重 垣 神 社 に 到 着




「意宇六社」・最初の神社は、八重垣神社でございます。


高天原を追放された素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、斐伊川(ひいがわ)に降臨され、その上流へと足を運ばれました。
すると、脚摩乳(アシナヅチ)手摩乳(テナヅチ)老夫妻が、ひとりの娘・奇稲田姫(クシイナダヒメ)とともに泣いています。
素戔嗚尊が事情をお尋になると、老夫妻には8人の娘がいたが、毎年八岐大蛇(ヤマタノオロチ)にひとりずつ食われ、いま最後の娘も食い殺されようとしているのだというのです。
八岐大蛇は、ひとつの胴体から8つの頭、8つの尾が生えている巨大な怪物。
素戔嗚尊は、奇稲田姫との婚姻を条件に、八岐大蛇の退治を申し出られます。

老夫妻がこれを了承すると、素戔嗚尊は奇稲田姫を櫛に変えられ、自らの頭髪にお挿しになって姫を守られました。
そして老夫妻に強い酒を用意させ、また8つの門をこしらえた垣根にそれぞれ8瓶の酒を据え置かせました。

怪物・八岐大蛇登場。
8門の垣根に至ると、8つの首をそれぞれの門から入れ、それらにあった酒を飲み始めました。
酒を飲み干した八岐大蛇は、その酔いから眠りこけてしまいます。
そこで素戔嗚尊は剣を抜かれ、八岐大蛇の首や尾を切り落とされました。
大蛇の尻尾を切りつけたときに剣が弾かれたので、中を切り裂いてみると、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が出てきました。
素戔嗚尊は、のちにこの天叢雲剣を姉の天照大神に献上されています。

八岐大蛇を退治された素戔嗚尊は、出雲の地をお気に召し、宮殿を造ることにしました。
宮殿を造る際に雲が立ち上がり、この様子をご覧になった素戔嗚尊は、

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣作る その八重垣を


と詠まれました。
この歌は、日本で初めて詠まれた和歌とされています。



お二人がお住まいになった宮殿が、現在の八重垣神社となりました・・・というわけではありません。
宮殿は「須賀宮」といい、これが八重垣神社の起源といわれています。
なお現在では須我神社(雲南市大東町)となっています。


『出雲国風土記』によると、素戔嗚尊の御子のひとりといわれる青幡佐草日古命(アオハタサクサヒコノミコト)がこの地に坐したといい、はじめは佐久佐神社が鎮座していたといいます。
しかし時代が下ると、八重垣神社は須賀の地から佐久佐神社の境内に遷座したのだそうです。
明治11年(1878年)に佐久佐神社から八重垣神社に改称し、現在に至っています。





神社の境内に入る前に、道路を挟んで向かい側・・・



連理の玉椿です。

奇稲田姫が2本の椿の枝をお立てになると、そこから芽吹いた椿の木はあたかも1本の木のように立っていきました。
椿の木が枯れてからも、境内には二股の椿が生えてくるようになったといいます。
以来、八重垣神社の椿の木は愛の象徴とされています。
この八重垣神社の椿の木が、化粧品会社・資生堂のマークのもとになったともいいます。




あらためまして、境内へ。



早速ながら、正面に拝殿が構えられています。
ここは当然ながら、縁結びを祈願いたしましょう。
こちらの参拝作法は、多くの神社と同じく二礼二拍手一礼
出雲大社に関わりある神社ですが、二礼四拍手一礼ではないようです。

 

拝殿の後ろに構える本殿
大社造という形式で、内部の空間は正方形、屋根は傾斜がきつめになっています。


拝殿の脇にある社務所にて、御朱印を頂戴しましょう。
300円支払って、御朱印帳を預けていきます。
それから・・・



100円支払って、和紙を1枚いただきます。




八重垣神社の境内はそれほど広くはないのですが、本殿に向かって左脇から佐久佐女(さくさめ)の森へと続いています。


八岐大蛇との戦いの前に、奇稲田姫の安全をどのように確保するか。
これには別の神話があり、大蛇との戦前に構えたのは8重の垣根で、この中の佐久佐女の森に奇稲田姫を避難させたといいます。





境内にある夫婦椿のひとつ・乙女椿



その先にある木戸から境内を下って小路を渡ると、佐久佐女の森へと進むことができます。




佐久佐女の森に入ると、まず立っている子宝椿
八重垣神社にある3本(6本?)の夫婦椿は、すべて拝見したことになります。



立派な一本の杉の木。
こちらのご神木なのだろうと思っていたのですが、どうも夫婦杉の一本のようです。
そして森の一番奥にある池が、鏡の池です。
池の画はないんですけどね。

鏡の池は、奇稲田姫が八岐大蛇から難を逃れていたおりに、日々の飲み水として、また化粧する際の鏡として用いられたといいます。
こんこんと湧き出る清水は、かつての姫のお姿を彷彿とさせる・・・かどうかはわかりませんが、現在は縁結び占いの池とされています。



社務所にて100円で購入した和紙。
この真ん中に10円または100円を載せて、池に浮かべます。
このとき、15分以内に沈むと良縁が早く30分以上かかってしまうと縁結びは遠いといいます。
また、近くで沈むと身近な人と結ばれ離れたところで沈むと遠方の人と結ばれるのだそうです。






午 前 八 時 参 拾 弐 分

縁 結 び 占 い 開 始




私としては、どうしても早く、そして近くで沈んでもらわなきゃ困るんだ!!
・・・というわけで、比較的質量のある100円玉を載せることにしました。

和紙を水につけると、文字が浮かび上がってきました。
「東と北 吉」ですか・・・千葉の柏から西の出雲国にやってきた私に、ちょっとばかり冷や水を浴びせるような言葉ですなぁ。
今回のたびも東北地方にすればよかったのか?!

このとき鏡の池で占っていたのは、私ともう一人の女性。
その方は、私よりも先に和紙を浮かべていたようですが・・・二人そろって、和紙が沈む気配なし。






午 前 八 時 参 拾 参 分

瑞 祥 現 る ? !


和紙に埋もれた池の底から、なにやら黒い生物が姿を現しました。



イモリです。
トカゲのような姿をしていますが、カエルと同じ両生類で、サンショウウオの仲間です。
背面は黒いのですが、腹面はオレンジ色ないし赤。
漢字で書くと「井守」、つまりは井戸を守る生き物とされています。

八重垣神社では、イモリは奇稲田姫の使いと考えられています。
鏡の池でイモリが現れるのは、なんという瑞兆・・・!
そして、浮かべた和紙にイモリが触れると、さらに幸運がもたらされるのだそうです。

イモリさんは、私の和紙には興味を示されなかったのですが・・・
それでも、今回の占いには期待できそうですね。


ちなみにイモリさん、じつはフグ毒(テトラキシン)をもっているのだそうです。






午 前 八 時 参 拾 七 分

新 た な 道 、 開 け る ? !


和紙を浮かべてから、約5分。



イモリさんの神通力か、和紙の中央が浸水し始めました!
そして・・・



午前8時38分、和紙は池の底へと沈んでいきました。
そして沈んだ場所は、池の端。
私にとっては、なんという理想的な占い結果なのでしょうか!・・・これで胸を張って柏に戻ることができますなぁ。

一方・・・先客の女性の和紙は、いまだに沈む気配なし。
ちょっとばかり気まずい感じを覚えつつ、鏡の池を後にしたのでした。





奉拝、八重垣神社!

和紙を買った社務所に戻り、預けていた御朱印帳を受け取って、八重垣神社を後にしました。





枝垂れ桜ハシゴ旅・最終章~吉高の大桜

2021-07-23 | 公園・庭園


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 4 月 3 日 ( 土 )

午 後 4 時 2 1 分

茨 城 県 北 相 馬 郡 利 根 町

若 草 大 橋



流山、守谷、そして般若院と全敗を喫した私。
このままじゃ帰れないということで、龍ケ崎の地からほど遠くないところで「泣きの一回」へ。



蒼天と利根川



時はすでに、斜陽を迎えつつあります。



若草大橋を渡り、千葉県へ戻ってきました。
柏からちょっと離れた、千葉県栄町。
読み方が難しい安食(あじき)がある町です。
あとは・・・この町で、利根川と印旛沼が分かれます。


そして、その・・・



印旛沼ぞいを進んでいきます。
印旛沼はかつて広大な湖でしたが、昭和21年(1946年)から約30年かけての干拓事業により、北東の北印旛沼と南西の西印旛沼に分かれました。
サイクリングロードは北印旛沼の西岸、両沼をつなぐ印旛捷水路(しょうすいろ)の西岸、そして西印旛沼の南岸を通っています。



日没までは、あと1時間ほど。



サイクリングロードを離れ、北印旛沼南西の高台へ。





地図のこの地点、吉高地区へ。
3年ぶりに訪れる・・・



吉高の大桜【印西市指定天然記念物】・・・・・・です。



こちらも完全に葉桜。



根元の菜の花がきれいに咲いています。



こちらはしだれ桜ではなくヤマザクラ(山桜)という品種のようです。
300年以上の歴史を重ねた枝振りは、その雄大さを感じずにはいられません。



わずかに残っていた桜の花。
ですが・・・3年前のような満開の桜が見たかったです。



帰路へ。



時計台が印象的な北総線印旛日本医大駅に日輪が沈みゆき、令和3年の葉桜観賞ツアーはここに終了。



お花見2021・最終話「葉桜ハシゴ旅・最終章~吉高の葉桜」 完

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枝垂れ桜ハシゴ旅・第3章~龍ケ崎コロッケ再び

2021-07-23 | 寺院仏閣


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 4 月 3 日 ( 土 )

午 後 3 時 1 7 分

茨 城 県 龍 ケ 崎 市

金 剛 山 観 仏 寺 般 若 院



牛久沼の湖畔・かっぱの小径から、ママチャリで移動すること約50分。



国道6号JR常磐線ぞいから東へ進んだところ。
関東鉄道竜ケ崎線の終点・竜ケ崎駅がある、昔ながらの市街地へ。



今回のママチャリの旅の目的地・般若院に到着しました。
山号は「金剛山」、寺号は「観仏寺」で、創建は平安時代という歴史ある寺院です。


般若院は、天元元年(978年)に道珍法師によって創建され、大永4年(1525年)に現在の地に移されました。
江戸時代初頭の慶長11年(1605年)龍ケ崎は伊達政宗の所領となり、仙台藩の陣屋が構えられ代官が置かれました。
般若院は伊達家代々の位牌所とされ、寺院領として3石を付与されました。
寛永年間(1624年~1644年)朗月晃順法印は後水尾天皇の勅命により法談(説法)を行い、般若院は別格寺の待遇となりました。
また江戸の雨乞いに功があったとして、3代将軍・徳川家光より「虎の尾」を拝領するなど、般若院は隆盛をきわめました。
しかし幕末の安政3年(1856年)暴風雨により伽藍の大部分が倒壊してしまいます。
昭和38年(1963年)に再建がなざれ、現在に至っています。



龍ケ崎って、あの「独眼竜」の領地だったんですねぇ~、初めて知りました。
「独眼竜」の領地だったから「龍ケ崎」なんでしょうかねぇ~って、そんなわけないですね。



般若院の入口。
前回訪れたときは駐車場を見つけることができず、女王様の怒りを買ってしまったわけですが・・・
正面入口に駐車場がありましたね・・・なんで当時はこれを見逃してしまったのか・・・。



駐車場の一角にママチャリを停め、境内へ。



ご立派なケヤキの木。



昭和時代に再建されたと思われる本堂



本堂の左側から裏手に進むと、



般若院のしだれ桜【茨城県指定天然記念物】が立っています・・・・・・。
ああ、カンペキに葉桜ですね。

樹齢は推定500年だそうです。
もしかしたら、政宗公もこのしだれ桜をご覧になったのかもしれませんね。



しだれ桜はこのとおり、本堂の真裏にあります。







枝ぶりがなんとも見事なしだれ桜。



やっと見つけた・・・桜の花!



根元には、スイセンの花がきれいに咲いていました。



この日のしだれ桜・・・見事なほどにすべて葉桜ということになってしまいました。



失意のうちに柏へと帰りますが・・・その前に、



やっぱりコロッケは食べていきます。
今回のお店は、龍ケ崎の市街地から少し離れたところにある平野精肉店さん。



ポテトコロッケ(120円)と、カレーコロッケ(120円)をいただきます。
普通ならメニューの3番目くらいに表示されているカレーコロッケが、こちらでは筆頭に挙がっています。
お店イチ推しのカレーコロッケはあとにいただくとして・・・



ポテトコロッケ、うまい!
あっさり目の味付けで、じゃがいもの味をしっかりと感じることのできるコロッケですね。
何より、揚げたてのコロッケをハフハフいいながらいただくのがいいんです。



カレーコロッケ、おいしゅうございます!
まず前面に出ているのは、じゃがいもの甘み。
それも変に甘いのではなく、カレー粉によってうまく醸し出されているかのよう。
メニューの筆頭に挙げられているのも納得の、素晴らしいカレーコロッケです。

「平野」さんで鋭気を養って、柏へ戻ります。




午 後 4 時 2 1 分

茨 城 県 北 相 馬 郡 利 根 町

若 草 大 橋




流山、守谷、そして般若院と全敗を喫した私。
このままじゃ帰れないということで「泣きの一回」をすべく、若草大橋を渡ってもうひとつの桜の木をめざして行きました。



お花見2021・第7話「枝垂れ桜ハシゴ旅・第3章~龍ケ崎コロッケ再び」 完

お花見2021・最終話「枝垂れ桜ハシゴ旅・最終章~吉高の大桜」へ続く。

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半周!牛久沼

2021-07-23 | チャリ旅


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 4 月 3 日 ( 土 )

午 後 1 時 1 9 分

茨 城 県 龍 ケ 崎 市

牛 久 沼





河童にまつわる伝説が多く残っているという牛久沼
水辺にたたずむ柳が風に揺れ、とてものどかな感じがします。



少し進み、牛久沼の突端部分に到達。
このあたりは泊崎(はっさき)というそうです。



泊崎の先端部には、なんとなく味のある桜の木が1本。
傍らには七浦弁財天が鎮座しています。



桜の木は花びらを多く散らせ、葉桜になりつつあります。





春の終わりを惜しみつつも、枝いっぱいの花を咲かせ、牛久沼を彩る桜。



弁天様に旅の無事を祈ります。




午 後 1 時 2 7 分

茨 城 県 つ く ば 市

泊 崎 大 師 堂


弁天様の鎮座するところから、高台に上りました。



こちらは泊崎大師堂
岩崎山守徳寺に属しています。

平安時代初期の大同年間(806年~810年)に、弘法大師が泊崎の地を訪れ、座護摩を修めたといいます。
その後この場所に弘法大師堂が建てられ、大師をお祀りしているのだそうです。



現在のお堂は、平成27年(2015年)に再建されたものだそうです。


ここでも旅の無事を祈願し、合掌。




大師堂の裏手にある見晴台へ。
ここからの牛久沼は、また格別です。



弁天様の桜も、きれいです。



このあたりは川魚料理のお店、とくに鰻屋がよく見られるのですが・・・素通りして、先へ。
なるべく牛久沼をなぞっていくルートをとっていきますが・・・



泊崎から対岸に行けない!
地図を見てもわかるように、かなり北まで行かないと対岸に渡れないようです。



橋をめざして、進路を北へ。
筑波山の山影が、だんだん大きくなってきたような・・・?
そういえば、ここはつくば市でしたね。



うっすらと彩りを添える桜の花。
それにしても、なかなか対岸に渡れませんなぁ。



ようやく橋が見えてきました。
茎崎(くきざき)というようです。
(ちなみに私は最初「茎崎」を「にらさき」って読んでました。「にらさき(韮崎)」は山梨県ですね)



茎崎橋を渡ります。
向こうに見える茎崎運動公園の桜もきれいでした。


橋を渡り、今度は進路を南へ。




午 後 2 時 1 9 分

茨 城 県 牛 久 市

牛 久 観 光 ア ヤ メ 園




茎崎橋から南進して15分。
牛久沼に注ぐ稲荷川という川を渡りました。



稲荷川にかかる三日月橋
橋詰にはかっぱの像が据えられています。



三日月橋のすぐそば、同じくかっぱさんがたたずむ牛久観光アヤメ園に到達。



相変わらず牛久沼をなぞるように進んでいます。



かっぱの小径という遊歩道へ。





のどかですなぁ。



かっぱの小径が終わると、牛久沼沿いの道はなくなります。
向こうに見える泊崎、そして弁天様の一本桜ともお別れです。