松江の郷土料理と地酒を堪能し、居酒屋やまいちを出ました。
空は暗闇に覆われ、街灯が照らす大橋川。
やまいちさんで酒を飲んでしまったので、ここからはママチャリを手押しして徒歩移動となります。
自転車とはいえ酒酔い運転をするわけにはいきませんからね。
大橋川の北を流れている京橋川は、松江城の外濠でもあります。
夜の川は街灯に照らされ、格別の美しさがありますね。
水の都・松江を、夜風に当たりながらそぞろ歩いていきましょう。
島根県庁前の広場。
松江城天守【国宝】を向いている松平直政公騎馬像。
ライトアップされている松江城二之丸。
この日は風もなく水濠が鏡のように実像を反射し、見事な「逆さ石垣」を見ることができました。
沿道には提灯が吊り下げられ、そぞろ歩く観光客の目を愉しませてくれます。
直政公に加え、堀尾吉晴公像もライトアップされています。
老齢の吉晴公にこのライトアップは、ちょっとお体に堪えるかな・・・と妄想。
それにしてもこの画は・・・私のスキルのなさが顕わになってしまいますなぁ。
黄色のネコ2匹が気になるところですが・・・
この日は、松江
松江城とその周辺が、秋の夜長に幻想的な燈火で彩られるイベントで、「神在月」の10月に行われます。
水辺の路に行燈を並べる光のイベントということで「水燈路」というのだそうです。
手作りの行燈に導かれ、松江城に入っていきます。
ライトアップされている石垣もまた、魅力。
大きめの行燈は、プロのアーティストさんの作品。
松江城の建造を指揮した「仏の茂助」堀尾吉晴さん。
吉晴さんの来歴は、こちらをどうぞ。
同じアーティストさんの作品、「山陰の麒麟児」山中鹿介さん。
松江城とは関係がない鹿介さんの来歴は、こちらをご覧ください。
こちらも同じ方の作品、堀尾忠氏さん。
お父様の吉晴公ばかりが表に立っていますが、松江藩の初代藩主はこの御方。
忠氏さんの来歴はこちらをどうぞ・・・って、当ブログでも取り上げてなかったですね。
堀尾忠氏は、天正6年(1578年)堀尾吉晴の次男として生まれました。
天正18年(1590年)兄が早世したことから、吉晴の嫡男となりました。
(異説として、忠氏は次男ではなく長男だったともいいます)
元服に際しては、徳川秀忠から一字を受けて「忠氏」と名乗りました。
慶長4年(1599年)父が隠居し、遠江浜松12万石を相続。
翌年の関ヶ原の戦いでは、父が加賀井重望の刃傷沙汰に巻き込まれて負傷したため、代わりに出陣。
徳川家康の東軍につき、前哨戦で武功を挙げて、戦後に出雲24万石を与えられ、月山富田城に入りました。
関ヶ原前の小山評定にて、忠氏は親交のある山内一豊に居城の浜松城を家康に献上して家康の歓心を買う策を話したといいます。
評定の場に臨むと、一豊は忠氏の策をパクり、忠氏に先んじて居城の掛川城を献上すると宣言してしまいました。
この一豊の宣言で、去就に迷っていた諸将はこぞって家康に味方し、一豊は大きな武功を立てずして、土佐20万石を与えられたといいます。
月山富田城に入った忠氏は父と共同で藩政を運営し、また新しい城下町の形成を図って新たな城の建造を考えます。
築城の地をめぐっては父と意見を異にしましたが、忠氏の案が採用されました。
しかし慶長9年(1604年)に27歳の若さで急逝してしまいます。
子の忠晴は幼かったため、隠居の父・吉晴が復帰して藩政を主導することとなりました。
慶長12年(1607年)松江城の築城が始まり、慶長16年(1611年)正月に落成。
松江城の完成を見届け、吉晴は6月に亡くなりました。
小さな行燈を伝いながら、二之丸上の段へ。
これらの行燈は、松江市民のみなさんの手作りなのだそうです。
昼間は行燈の倉庫となっていた太鼓櫓【復元】。
櫓から出た行燈は、ほのかな光を放っています。
松江市民のみなさんによる小さな行燈。
プロのアーティストさんによる大きな行燈。
ライトアップされている明治後期の洋館・興雲閣【島根県指定文化財】。
各々がはなつ光と、見物客の影による競演。
昼間は立ち寄らなかった興雲閣を、じっくりと拝見。
夜の松江神社を詣でて、
夜の松江城本丸へ!
再びまみえた松江城天守【国宝】!
当然中には入れませんが、眺めるだけでもいいですねぇ。
夜の天守、水燈路バージョン!
出雲国の神在月、良い時季に登城できたものです。
催し物を見ながら、松江城を散策していました。
松江城のお濠の外へ。
遊覧船でめぐるお濠沿いを、ママチャリ・・・だと酒酔い運転になってしまうので、チャリを手押ししながら散策していきます。
堀尾さんがいらっしゃる広場からお濠沿いを北に歩くと、見えてくる最初の橋が北惣門橋。
松江護国神社の参道にもなっています。
松江城の北側に走る通り・塩見縄手。
昼間は観光客でにぎわう通りも、静寂とともにほのかな光で照らされています。
「縄手」というのは「縄のように一筋にのびた道」のことで、かつては大八車(リヤカーのことですね)1台がようやく通れるくらいだったといいます。
このあたりには、家禄50石から1000石の「中老」クラスの武家屋敷が築かれました。
50から1000って、随分と幅が広いような気もしますが。
「塩見」は塩見小兵衛さんのことだそうです。
小兵衛さんのご先祖さまは、松江松平家初代・直政公が信州松本藩主を務めていたころからの家臣で、直政公といっしょに松江に移転しました。
そしてここの武家屋敷街のほぼ中央に小兵衛さんが住んでいましたが、あるとき異例の昇進を果たしました。
その栄誉を称え、この小道は「塩見縄手」と呼ばれるようになったそうです。
夜のために閉門されている武家屋敷【松江市指定文化財】。
小兵衛さんが住んでたかどうかはわかりませんが、江戸時代当時のまま残っている唯一のお屋敷です。
塩見縄手ぞいの蕎麦屋「八雲庵」。
ここには寄りませんでしたが、翌日店名が似ている出雲市内の蕎麦屋さんに行く予定。
小泉八雲旧居(ヘルン旧居)【国指定史跡】。
ギリシア生まれの明治の文豪・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が5ヶ月の間住んでいました。
松江城のお濠回りを散策し、
翌日お世話になる一畑電車さんの松江しんじ湖温泉駅に立ち寄りました。
あらかじめ一日乗車券を購入しておこうと思いましたが、当日でないと購入できないとのことでした。
この日は駅の場所を確認するだけにとどめました。
宍道湖沿いを歩きます。
翌日帰路に就くので、今宵は松江の最後の夜。
心地よい涼風に酔いも醒めていき、水と光に彩られた美しい松江の夜を愉しむのでした。
否、今宵が松江の最終夜ではなかったのです。