山形のランドマーク・霞城セントラルの展望室からの山形城。
大きな水濠に囲まれた霞城公園は、山形城の二の丸にあたる。
内側にある空堀に囲まれた部分は本丸。
霞城公園の外側は三の丸にあたり、現在は埋め立てられた外堀までの曲輪である。
霞城セントラルから最も近い南大手門跡から入城。
水濠からも、山形城の規模の大きさがわかる。
しかし石垣は一部に造成されているのみ。
山形城は、羽州探題・斯波兼頼により築城される。
のち、斯波氏の一族・最上氏の居城となった。
戦国時代後期、最上家当主・最上義光 は所領を山形県村山地方・最上地方に広げる。
関ヶ原の戦役では、上杉景勝・直江兼続軍の侵攻を受けるも、長谷堂城の戦いでこれに耐え抜き(慶長出羽合戦)、戦後に山形県庄内地方を獲得、57万石の領主となった。
上杉勢が陣を構えたところは山形城からそう遠いところではなかったが、山形城には霞がかかっており、上杉勢からは見えなかったという。
ゆえに山形城は「霞城 」とも呼ばれる。
山形城は、57万石の領主にふさわしい大規模な城郭に整備された。
最上義光の死から9年で、最上家は改易。
代わって鳥居忠政が入城し、山形城の改修がなされた。
その後も領主がたびたび代わるも、その石高は減り、大きな山形城の維持もおぼつかなくなる。
幕末には、本丸が更地になり、三の丸の半分は田畑になっていたという。
明治に入ると、陸軍歩兵32連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸や三の丸の堀は埋め立てられた。
現在、二の丸の内側は霞城公園となっている。
内部はすっかり公園化してしまい、いろいろな施設が置かれている。
将来的には史跡として整備されるため、野球場などのスポーツ施設を中心に撤去される予定なのだとか。
本丸堀をはじめ、本丸は復元工事中。
往時は空堀ではなく水濠であった。
本丸一文字門も工事中。
堅固そうな枡形門が早く復元されるといいですなぁ。
霞城公園の南東部に移築された旧済生館病院本館【国指定重要文化財】。
1873年(明治6年)に私立病院として設立、当時の県庁そばに本館が竣工した。
建物自体は公園内に移築され、現在は山形市郷土館となっている。
もうしばらく本丸堀ぞいに歩き、二の丸の東側へ。
最上義光公勇戦像、むちゃくちゃかっこえぇ~。
ご覧のとおり、馬が二本脚で立っている。
この造型は、寄贈者である鈴木傳六(でん六創業者)たっての意向であるという。
二の丸東大手門【復元】。
その大きさは、江戸城の大手門にも匹敵する規模である。
最上義光公勇戦像ちかくのベンチで休憩して、いったん霞城公園を出る。
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