「主イエスの復活~新しい命のはじまり」 ヨハネ福音書20章1~18節
イースターおめでとうございます。先週はイエスのご受難とその死を心にとめて過ごす受難週でありましたが、皆様それぞれに祈りつつ過ごして来られたことでありましょう。人類の救いのみ業は、イエス・キリストの受難と死を通して成し遂げられました。この世にあって限りある命を生きる私たちにとって最も大きな闇と言える「死」、又「苦難」や「苦痛」「苦悩」といったあらゆる苦しみを神さまは自ら共にしてくだったのです。その暗闇から死に勝利して復活されたイエス・キリストは私たちの希望であります。
使徒パウロは申しました。「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与ってその死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
本日はその大いなる希望であります復活について、ヨハネ福音書20章よりみ言葉を聞いていきたいと思います。
まず、この主イエスの復活の記事を読みますと、マグダラのマリアを中心に描かれていることが分かります。他の福音書には複数の女性がイエスの埋葬された墓を訪れたと記されているのですが、ここではマグダラのマリアに焦点が当てられています。このマリアは、ガリラヤ湖西岸の町マグダラの出身で、イエスに7つもの悪霊を追い出してもらった女性でありました。そえからというもの彼女は終始イエスに付き添い、従ってきました。よい時ばかりでなく、多くの従う者たちがイエスのもとを去った時も、12弟子に従い、又その弟子たちも逃げ出した十字架の側までイエスに付き添った、そんな女性でした。そして本日の箇所においても、彼女の思いは、弟子たちが恐れて誰一人近づくことのなかったイエスの墓へ夜明け前のまだ暗いうちから向かった、もう日が明けるのが彼女は待ちきれなかったのですね、そのことからも分かります。イエスにどこまでも付いて仕えたいという思い、それは
弟子たちよりも強くこの女性は持っていたのでしょう。
ところが、マグダラのマリアが墓に来ると、墓の入り口をふさいでいた石がすでに取りのけられられてあったのです。
動転したマリアは、まずペトロと主の愛弟子のもとに走り、そして告げます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そして再び彼女は自ら墓を訪れ、墓の外に立って泣いたのです。するとそこに二人の天使が見えて、「なぜ泣いているのか」と尋ねたということであります。そこで彼女は天使たちに、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」答えます。それから更に、後方にいた復活のイエスに、それがイエスだと分からず園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と訴えました。
この弟子たち、天使たち、更に復活のイエスと、マグダラのマリアがそれぞれ訴えた言葉の中に共通していること、それは「主イエスはどこに」「主イエスは何処に」ということであります。せめてイエスの遺体の側に付き添っていたい、そんな彼女の切なる思いがひしひしと伝わってくるようです。
ところがそんな彼女の思いを誰よりもご存じであろう天使たち、そして復活のイエスは、そのマリアに、「なぜ泣いているのか」と同じ言葉かけをなさいます。天使にしても復活のイエスにしても、マリアが嘆き悲しんでいる理由は重々ご存知のはずです。それなのにどうしてそのようにお尋ねになったのでしょうか。
実は、そう問いかけることによって、「もう泣かなくてもよいのですよ」「もう泣く必要はなくなったのですよ」、「よく目を開いて、今ここにいるわたしを見なさい」と、そう語りかけておられるのです。そういう意味での「なぜ泣いているのか」というお言葉なのです。
実は、そこにマリアの「主イエスはどこに」という問いかけに対する答えがあるのです。イエスは復活されて、まさに「今この時、マリアの側におられる」のであります。まずここに、本日の聖書が伝える「復活」のメッセージがあります。(つづく)
イースターおめでとうございます。先週はイエスのご受難とその死を心にとめて過ごす受難週でありましたが、皆様それぞれに祈りつつ過ごして来られたことでありましょう。人類の救いのみ業は、イエス・キリストの受難と死を通して成し遂げられました。この世にあって限りある命を生きる私たちにとって最も大きな闇と言える「死」、又「苦難」や「苦痛」「苦悩」といったあらゆる苦しみを神さまは自ら共にしてくだったのです。その暗闇から死に勝利して復活されたイエス・キリストは私たちの希望であります。
使徒パウロは申しました。「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与ってその死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
本日はその大いなる希望であります復活について、ヨハネ福音書20章よりみ言葉を聞いていきたいと思います。
まず、この主イエスの復活の記事を読みますと、マグダラのマリアを中心に描かれていることが分かります。他の福音書には複数の女性がイエスの埋葬された墓を訪れたと記されているのですが、ここではマグダラのマリアに焦点が当てられています。このマリアは、ガリラヤ湖西岸の町マグダラの出身で、イエスに7つもの悪霊を追い出してもらった女性でありました。そえからというもの彼女は終始イエスに付き添い、従ってきました。よい時ばかりでなく、多くの従う者たちがイエスのもとを去った時も、12弟子に従い、又その弟子たちも逃げ出した十字架の側までイエスに付き添った、そんな女性でした。そして本日の箇所においても、彼女の思いは、弟子たちが恐れて誰一人近づくことのなかったイエスの墓へ夜明け前のまだ暗いうちから向かった、もう日が明けるのが彼女は待ちきれなかったのですね、そのことからも分かります。イエスにどこまでも付いて仕えたいという思い、それは
弟子たちよりも強くこの女性は持っていたのでしょう。
ところが、マグダラのマリアが墓に来ると、墓の入り口をふさいでいた石がすでに取りのけられられてあったのです。
動転したマリアは、まずペトロと主の愛弟子のもとに走り、そして告げます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そして再び彼女は自ら墓を訪れ、墓の外に立って泣いたのです。するとそこに二人の天使が見えて、「なぜ泣いているのか」と尋ねたということであります。そこで彼女は天使たちに、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」答えます。それから更に、後方にいた復活のイエスに、それがイエスだと分からず園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と訴えました。
この弟子たち、天使たち、更に復活のイエスと、マグダラのマリアがそれぞれ訴えた言葉の中に共通していること、それは「主イエスはどこに」「主イエスは何処に」ということであります。せめてイエスの遺体の側に付き添っていたい、そんな彼女の切なる思いがひしひしと伝わってくるようです。
ところがそんな彼女の思いを誰よりもご存じであろう天使たち、そして復活のイエスは、そのマリアに、「なぜ泣いているのか」と同じ言葉かけをなさいます。天使にしても復活のイエスにしても、マリアが嘆き悲しんでいる理由は重々ご存知のはずです。それなのにどうしてそのようにお尋ねになったのでしょうか。
実は、そう問いかけることによって、「もう泣かなくてもよいのですよ」「もう泣く必要はなくなったのですよ」、「よく目を開いて、今ここにいるわたしを見なさい」と、そう語りかけておられるのです。そういう意味での「なぜ泣いているのか」というお言葉なのです。
実は、そこにマリアの「主イエスはどこに」という問いかけに対する答えがあるのです。イエスは復活されて、まさに「今この時、マリアの側におられる」のであります。まずここに、本日の聖書が伝える「復活」のメッセージがあります。(つづく)