日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

イースター宣教

2008-03-25 12:23:06 | メッセージ
「主イエスの復活~新しい命のはじまり」② ヨハネ福音書20章1~18節

 さて、復活のイエスが「マリア」と喚ばれると、マリアはとっさに後ろを振り向いて、「先生」と答えたとあります。これはヨハネ福音書10章3~4節でイエスがおっしゃった「羊飼いは自分の名を呼び、羊は羊飼いの声を聞く」という、その事がここで起こったのです。それは1対1の向き合う信頼関係が結ばれている証しともいえましょう。

昔私の母が車にはねられて怪我をした迷い犬のマルチーズを家出引き取って買いました。その犬はもうだいぶ歳をとっていたのですが、その後何度も獣医に診てもらいながら7年も生きました。母が帰宅して玄関前に来ると、そんなに足音もさせないのに、よくワンワンと鳴いて玄関先まで迎えに来たものでした。こちらが声をかけないうちから分かるんですよ。以前福岡で全盲の藤井牧師を特伝でお呼びした時に、セイルという盲導犬も一緒だったのですが。普段は地べたにだらんとしていても、この先生が「セイル」と声をかけると、しゃきっと起きあがり次の指示を待ちます。しかし藤井先生以外の私とか他の人が「セイル」と言っても、地べたにのほほんとしたまんまなのです。この先生と盲導犬との信頼関係、これはよほどのものだなあと、思わされたものです。

 さて、私たちはこの地上にあって生きている時に、「主はどこにおられるのか」「主はいったいどこに行かれたのか」と問いたくなる時、又そのように嘆きたくなるような時がないでしょうか。それまでの信仰の言葉も、あゆみも、証しもふっとんでしまいそうな時に、復活の主イエスは、あなたの側に立ち、「なぜ泣いているのか」「もう泣かなくともよい」「見なさい、今ここにわたしがいる」と語りかけてくださいます。あなたの名を呼んで、信頼と平安という御手をのべてくださいます。

私たちの発する「主はいったいどこにおられるのか」という切なる叫び、その問いと嘆きは、実にイエス御自身が十字架の苦難と死を前に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのか」というその叫びに連動しているのです。つまり、イエスはこの地上にあって生きていくうえで体験する私たちすべての苦悩や苦痛、そして死の恐れさえ、十字架に担い抜いてくださったのです。それは私たち人間がイエスの十字架によって罪に死んで、神さまとの新しい交わり・新しい命に生きるようになるためです。
 ヨハネ福音書11章25節にこのようなみ言葉があります。 
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

復活の主イエスは、「主よ、どこにおられるのですか」と尋ね求める者を決してお忘れになりません。主は、その人の名を呼び、み言葉をもって臨み、語りかけてくださいます。

詩編4・4に「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、喚び求める声を聞いて下さると知れ。」とあります。うれしいお言葉です。

主イエスは復活なさって、「今この時、あなたの側におられます。」そして、「あなたの名を呼んでおられます。」

 さて、復活のイエスは、喜びのあまりすがりつくマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と制したとあります。どうしてそのようなことをおっしゃったのでしょう。ずっとお側に居たいというマリアの心情をイエスは十分知っておられたのではないでしょうか。それなら少しばかりよそよそしい態度のようにも思えます。

ここに実は二つ目の「復活」のメッセージがあります。
マリアにとってみればいつまでもこのようにしてイエスさまのお側にいることが、喜び、又幸いなことであったでしょう。けれどもそれは、復活のイエスのお働きを限定してしまう、ということでした。イエスは、ご自分が復活なさって天に昇られた後、「聖霊(真理の霊)」を送る(ヨハネ14章26節)と言われました。
ここに復活のイエスのお働きがあります。復活のイエスが天に昇り、聖霊を送られるのですが、それはまさに主を信じる者が聖霊を戴いて主イエスの証しをすることを通して、そのところ、そのところ、、世界の至る所に於いて、主の十字架と復活のみ業が実現されて行く、そこにこそ主のみ心があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)

復活のイエスとお出会いしたマリアのなすべきこと、それは弟子たちのところへ行って、復活のイエスが言われたとおり、「わたしは主を見ました」と、告げ知らせるということでした。
マリアにとってみれば、それは、確かに今までと違ったかたちでイエスさまと関わって生きていかなければならないことでした。けれどもそれは、この世の滅び行く命ではなく、「新しい命」を主から賜り、どこにいても、どんなときも、復活の主が共におられ、共に生きてくださるとの、この上ない約束をもってあゆみだすということであったのです。

復活の主イエスの証人として生きる、、、。ここにもう一つの「新しい命」のはじまりがあります。主に愛され、生かされている私たちに今日聖書は、「新しい命」をもって出で立ちなさい、と語りかけています。

イースターを心からよろこびつつ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする