エレミヤ28章(27章参照)より
本日の箇所でエレミヤが首にはめたくびきには、旧約聖書において苦難とか柔順という意味があります。バビロン王のくびきを負うというのは、その王に柔順に仕えるということなのでしょうが、神さまが異教の王をしてそのよう言うのはおかしいと思うかも知れません。しかしバビロン王に対抗して戦争をすることではなく、神の支配下にある彼に従うことに神の意図とご計画があったのです。
罪の結果やがてユダの国にもたらされる審きの時を前に、神が示したもう逃れの道、それがバビロンへの降伏でした。そしてそれは真の神のみ声を聞き分け、従うことが出来るか否かという、最後的な神からの通告、肯定的に言えば神からの信仰のチャレンジでもあったのです。そこに平和につながる道があったのです。それは人間的な思いや感情によってなかなか理解しがたいことであります。主は、そのみ言葉に従い、バビロン王のくびきを負い、従うなら、そのことによって平和のうちに最終的にバビロンの統治が終わり、解放される日が来ると言われました。
しかし、ユダの国は神ならざるもの、安易に平和を語る者に聞き従い、神の言葉に逆らい続けたため、本当に悲惨な経験をしなければなりませんでした。エレミヤの預言は現実のものとなりました。ユダは壊滅的に崩壊し、バビロン捕囚がなされるのであります。しかし、エレミヤの言葉どおり、後にユダの捕らわれの民はバビロンから解放されるのであります。まさに9節の「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」と言われた通りであります。現代の社会に生きる私たちもまた、まことの平和につながる言葉(たとえば:戦争の過ちから生まれた「平和憲法」)に聞き、行う者とされていきたいものです。
本日の箇所でエレミヤが首にはめたくびきには、旧約聖書において苦難とか柔順という意味があります。バビロン王のくびきを負うというのは、その王に柔順に仕えるということなのでしょうが、神さまが異教の王をしてそのよう言うのはおかしいと思うかも知れません。しかしバビロン王に対抗して戦争をすることではなく、神の支配下にある彼に従うことに神の意図とご計画があったのです。
罪の結果やがてユダの国にもたらされる審きの時を前に、神が示したもう逃れの道、それがバビロンへの降伏でした。そしてそれは真の神のみ声を聞き分け、従うことが出来るか否かという、最後的な神からの通告、肯定的に言えば神からの信仰のチャレンジでもあったのです。そこに平和につながる道があったのです。それは人間的な思いや感情によってなかなか理解しがたいことであります。主は、そのみ言葉に従い、バビロン王のくびきを負い、従うなら、そのことによって平和のうちに最終的にバビロンの統治が終わり、解放される日が来ると言われました。
しかし、ユダの国は神ならざるもの、安易に平和を語る者に聞き従い、神の言葉に逆らい続けたため、本当に悲惨な経験をしなければなりませんでした。エレミヤの預言は現実のものとなりました。ユダは壊滅的に崩壊し、バビロン捕囚がなされるのであります。しかし、エレミヤの言葉どおり、後にユダの捕らわれの民はバビロンから解放されるのであります。まさに9節の「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」と言われた通りであります。現代の社会に生きる私たちもまた、まことの平和につながる言葉(たとえば:戦争の過ちから生まれた「平和憲法」)に聞き、行う者とされていきたいものです。