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主に養われる羊の群れ

2010-09-12 07:14:32 | メッセージ
宣 教  詩編100編  

この詩は、エルサレムの神殿に巡礼にのぼる時に歌われたものだと言われます。時代的にはバビロン捕囚後、エルサレムに帰還を許されたイスラエルの民が、主に感謝と喜びの賛美をもって主に礼拝を捧げていった神殿の礼拝の様子が、歌によって物語られているのです。かつて神への背きの結果、エルサレムの崩壊、捕囚という暗黒、死の陰の谷を歩んだイスラエルの民でしたが、そこで神の愛と戒めから離れて生きることの罪の深さとその闇を思い知らされたのでした。長い悔い改めの年月を経て、活ける神はその民をバビロンの捕囚から解き放ち、エルサレム帰還へと導かれるのです。
この詩編100編は、そのようにイスラエルの民が捕囚からイスラエルの民が捕囚から解き放たれ、遂にエルサレムへの帰還を果たすという大いなる歓喜のもと、解き放たれ、主に礼拝をささげていったそのような感謝と喜びの歌なのであります。又、その感謝と喜びを心新たに思い起こすよう呼びかける歌であるのです。
それは現代に生きるキリスト者の私どもにとりましても、然りでありましょう。人生の暗闇から、死の陰の谷から、罪における裁きと滅びから贖われ救い出された感謝と喜びを、この詩編100編によって思い起こし、歌うのであります。

3節にこう歌われています。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ」と。ここには、わたしども人間のいのちのルーツはどこから来るのか。わたしどもは何ものなのか。何に所属し、根源的にどのような根っこにつながっているのかが示されています。実にそれらの根拠が、「主こそ神である」という信仰の宣言と共に、「主はわたしたちを造られた」「わたしたちは主のもの、その民」「主に養われる羊の群れ」というみ言葉によってはっきりと示されています。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙14章8節に、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、『わたしたちは主のものです』」と書き記しています。「生きるにしても、死ぬにしてもわたしたちは主のもの」。詩編100編の詩人もまた、「わたしたちは主のもの、その民」と声高らに歌います。この言葉は私どもキリスト者の存在そのものをいい表しているいわばアイデンティティーともいえるものです。

本日は特に召天者記念礼拝として、故人をしのびつつ、主に礼拝をささげていますが。
私は、この「わたしたちは主のもの、その民」とのみ言葉のもとにあって、本当に主に感謝すること、主を喜ぶことができると思うのです。生きるにも、死ぬにも「わたしたちは主のもの、その民」との大いなる平安に、主は私どもを招いてくださっています。

ここで興味深いのは、詩人が「わたしは主のもの」とは言わず、「わたしたちは主のもの、その民」と歌っている点です。実はそこにわたしどもが主に属する豊かさが示されているのです。それは「共に」祝福と恵みに与ってゆくという豊かさであります。

連日のように社会がすさみきっていることを反映するような事件や犯罪が連日のように新聞やニュースで流れてきます。娘(もう高齢ですが)がタンスに親(生きていれば100歳以上)の遺体を隠し、既に亡くなった親が生きているかのようにしてその年金をもらい暮らしていたということです。考えがたいことですが、どうもこういうことが幾例も起こっているようです。様々の事情もあっての事でしょうが。虐待の事件などもそうでありますが。それは確かに個人や肉親の問題ではありますけれど、それはまた私どもの社会そのものに問題があることを露呈しています。地域の方、ご近所の方というつながりの喪失がこれらの事件の要因であるとしたら、あまりに寂しすぎることです。これはわたしどもの生きている地域社会の問題でもあります。共に生きるという命の関係性が取り戻されることは、現代の社会に切実に必要とされていることだと、考えさせられます。

詩編に話を戻しますが、詩人は自らの存在の根源が造り主なる神にあることを認めつつ、「わたしたちは主のもの、その民」と、それがわたしであると同時に、わたしたちであると歌います。わたし独りではないのです、わたしたちという主の交わりのなかに互いがおかれ、主にあってともに生かされ、養われているのです。

詩人は、「わたしたちは主に養われる羊の群れ」と歌います。
あの詩編23編「主は私の羊飼い」という歌は、羊飼いと羊という個人的な関係を示す歌でありますが。この詩編100編はいわば「主はわたしたちの羊飼い」という歌であります。それは羊飼いと羊の群れの関係が歌われています。羊という動物は一匹では迷いやすく害敵から襲われやすい弱い動物なので、羊飼いのもと、群れをなして飼われ、養われるわけですね。それはキリストと教会の関係に重ね合わせて見ることができるでしょう。

私たちの血縁や親族という絆は尊いものであります。召天者記念礼拝も故人のご家族やご親族と共に守ることができるのはありがたいことです。けれども、たとえそれが叶わなくなったとしても、「わたしたちは主のもの、その民」と信ずる礼拝者の群れによって故人は記憶され再び主のみもとにおいて相まみえるその日を待ち望みます。今日というこの日に、主によって招かれたわたしどもが、故人をはじめ、会衆一同と共々に「わたしたちは主のもの、その民」と喜びの叫びをあげて、主を賛美できる豊かな恵みを今日も覚えてまいりましょう。
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