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神の力とは?

2010-09-05 06:30:53 | メッセージ
宣教 詩編62編6~13節

去る8月15日の日曜日の午後に、関西地方連合社会委員会主催の「8・15おとな&こどもの平和祈祷集会」が大阪教会を会場に開かれました。講師の梶原寿先生から公民権運動で知られるキング牧師のことを中心に大変興味深いお話を聴くことができました。
梶原先生は、「われらの悲しみを平和への一歩に9・11犠牲者家族の記録」という本の翻訳をどうしても自分にやらせて欲しいと出版元に申し出、それが叶われたそうですが。その内容は、あの世界貿易センタービルが一瞬に崩壊したテロ事件で、その犠牲者のある家族たちが、「自分たちの受けた悲しみを理由も無く他者に押し付けるべきでない」と主張して、米国の報復戦争に反対しました。そういう犠牲者家族の会の記録集であるそうです。この犠牲者家族の会の名称は、「平和な明日を求める9・11犠牲者家族の会」(略称:ピースフル・トウモロー)というそうでありますが。それはキング牧師がベトナム戦争に反対して述べた、「戦争は平和な明日を彫り出すことにおいては、切れない彫刻刀のようなものである。」「平和は単にわたしたちが求める遠い目標ではなく、わたしたちがその目標に達する手段でもある。ここが大切なのですが、わたしたちは平和的目標を平和的手段によって追求しなければならない」との言葉からピースフル・トウモローというこの名称がつけられたそうです。
梶原先生は、この人びとが自分たち家族の犠牲死の意味を{贖罪死;自己犠牲を通して他者を救う}と捉えてこの会が結成されたことを知り、キリスト教の牧師、神学者としても日本でこの{贖罪死の意味}を証ししたかったという思いから、この記録集の翻訳を自らかって出られたとおっしゃっていました。

この詩人はダビデとされていますが、彼が具体的にどのような暴力の中で苦悩し、痛んでいたかは定かでありません。しかし、彼はその苦しみの中で心が激しく揺れ動き、葛藤していたことが読み取れます。人は信頼すべきものが暴力でないと頭では分かっていても、自分に襲いかかり、苦しめるような勢力や暴力に対して、同じように仕返し、やり返すというのは自然の考えともいえます。その力の魅力は大きいです。しかし、詩人はそういう中で、「わたしは神にのみ、希望を置いている」「わたしの救いと栄えは神にかかっている」と、何度も激しく動揺し、葛藤しながらも、なお繰り返し自分に言い聞かせています。そしてそのような苦悩と葛藤の中で神と向き合い、祈る中で詩人は12、13節にありますように、「力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」との信仰の確信へと導かれていくのであります。

11節に、「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心奪われるな」とあるとおり、暴力に対して暴力という手段によれば、争いと憎しみの連鎖は絶えません。暴力による報復が繰り返され力をもってして、決して明日の平和は築けないということであります。正義の戦争。平和のための戦争などあり得ません。暴力をもちいる限り、明日の平和を築くことなどできないのです。この11節には、今の世界各地で起こっている戦争や紛争の要因。又、経済力でもってあらゆるものを奪い、手中に治めてゆこうとする大国や政治家の策略などが重なって見えてくるようです。核やミサイルといった軍事力に依存しようとする国がどれ程多いでしょう。支配し、従属させ、搾取して肥え太ってきた国、わが国日本も例外とはいえません。又、力ある国がさらに力を得ようとそのことに心奪われるような政治がなされているのが世界の現状といえます。このような不均衡でいびつな世界から、神が本来すべての人びとにお与えになった祝福が取り戻されるためには、暴力を手段とせず、平和的手段でもって、平和を築いていく道が、今の世界に、又日本に、さらにわたしたち一人ひとりに求められているのです。

では、その「神の力とは一体何のだ?」とお思になるでしょうか。実はその回答も梶原先生の言葉の中に既に与えられていたのです。それは、9・11のテロで犠牲者家族の方たちが、自分たちの家族の犠牲死の意味を贖罪死(自己犠牲をとおして他者を救う)と捉えて「9・11明日の平和を求める会」を結成されたということを、はじめに紹介させていただきましたが。ここに、この神の力というものが示されているのです。つまり、神はその独り子イエス・キリストを地上に送り、その御子イエス・キリストのいのちを犠牲にして他者である私ども人間を救われた、その贖罪の死に神の力が示されたということです。それはまた、神の御慈しみをも示しています。神ははらわたがちぎれるような断腸の思いをしながら他者である私ども人間を憐れんでくださっておられるのです。

そのような神の力と憐れみに思いを馳せながら、詩編62編を先週何度も黙読し、黙想している中でわたしに示されたのが8、9節のみ言葉でありました。そこを読んでみます。
「わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」
ただ読めば淡々と読み過ごされてしまうようなところですが、ここに深いみ言葉のメッセージが秘められていることに気づかされたのです。
ここで詩人は、はじめに「神はわたしの救い」ということを言っているのでありますが。
「わたしの救い」ということだけで詩人は終わってはいないのです。彼は「神はわたしたちの避けどころ」とこのように告白する者となっているのです。

私たちも、ただ主イエスの尊い十字架の贖いによって、わたしの罪が贖われ、救われた。その神さまとわたしの関係がまずあるわけです。しかしキリスト信仰は、神とわたしの関係だけで終わるものではなく、神とわたしたちという関係性を抜きにはないのです。
それは、贖罪死という神の力が、単に個人だけの救いのためにあるのではなく、その救いは他者を生かすためのものであることを意味しているからです。

先の9・11被害者家族の方がたが、自分たちの家族の犠牲死の意味を贖罪死(自己犠牲をとおして他者を救う)と捉えて「9・11明日の平和を求める会」を結成されたということが物語っていますように、「神の力」は、このような救いの深い広がりを具体的にもっているというリアルな神のあかしでありましょう。

わたし自身、キング牧師の無抵抗主義、公民権運動を支えたその信仰の精神が、「贖罪の死による救いであった」ということを今回改めて教えていただき、本当に心の目が開かるような思いでした。贖いの十字架、贖罪の死などの賛美歌や聖歌を、わたしはこれまで個人的な信仰の高揚のために歌ってきた気がしますが。改めて、神の贖罪の死による救いの深さと広さを示す9・11犠牲者家族の会の信仰者としてのあかし、又、自分のいのちを犠牲にして他者を救うことを最期まで実践されたキング牧師の言動からもう一度、神の前に悔い改めを迫られました。

神の力とは?と題し、み言葉を聞いてきました。自己を犠牲にしてまでも他者を救う。それこそが神の力であります。それはまた神の慈しみです。イエス・キリストの十字架の道から、それぞれの歩むべき道をしっかりとみ言葉から聞き、祈り続け、主に従いゆく者とされていきましょう。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5・9
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