本日は、スチュワードシップ・特に「献金について」の宣教をさせて戴きます。使徒パウロが書いたⅡコリント8章1~9節から「豊かな献げもの」と題し、み言葉を聞いていきます。
パウロは異邦の教会からエルサレムの教会を助ける献金を募りました。それはユダヤ人信徒たちと異邦人信徒たちの間の和解の道となりうるすべでもあったのです。そして何よりも、福音宣教の基盤地エルサレム教会が貧しくてその働きが十分にできないのを助けて、支援するものでありました。この手紙が書かれる以前から、すでにコリントの教会の信徒たちは、この献金に賛同し、それを献げていたようであります。が、何事も継続的に続けて行ない、全うすることは難しいものです。彼らは熱意をもって始めましたが、当初の目標を達成することができない状況にあったのです。そこでパウロはマケド二ア州のフィリピやテサロニケの教会がなした献げものを例にとり奨めをなします。パウロはマケドニアの諸教会がエルサレムの教会を助けるために献金したことをして、「神の恵み」と言い表しました。この献げものは神から受けた恵みによるものである、というのです。
与えることができるのは恵みです。これは使徒20章35節で、「主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」と、パウロが語っているとおりです。
さて、献金のためパウロが引き合いに出したマケドニア州の諸教会でありますが。彼らの献げものは決してその有り余っていた中からしたものではありませんでした。彼らは極度の貧しさにおかれていました。又、苦しみによる激しい試練を受けていたのです。マケドニア地方は、肥沃な土地に豊かな天然資源に恵まれた地域であったのですが。当時はローマ帝国の支配下にあったため、人々はすべての資源を採取する権利が奪われるなど搾取され貧しかったのです。又、政治的な迫害を受け、過大な税をかけられていました。さらに、キリスト教会の信者たちはそれらに加えてユダヤ教徒たちからの迫害を受けていたのです。
けれどもマケドニアの教会の信徒たちは、このような極度の貧しさや、苦しみによる激しい試練を受けている中にも、救いの福音に満たされた喜びがありました。それはまた、喜びを共に分かち合おうとする心となって溢れ出るほどのものでありました。
2節「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」とあるとおりです。しかし、この「極度の貧しさが溢れ出て」というのは、ほんとうに印象的な言葉であります。豊かな中から溢れ出てというのは、誰でもわかります。けれども、貧しさ。それも極度の貧しさが溢れ出た、というのです。マケドニア州の諸教会の献げものは、何かゆとりがあるからなされたものではなく、「満ち満ちた喜びと極度の貧しさ」があふれ出て、惜しまず施す「豊かさ」となったのです。信徒たちが抱えていた貧しさや苦しみによる激しい試練。しかしそれが、福音の満ち満ちた喜びの中で、溢れ出る愛と献身になっていったというのです。これが福音の力であります。
私たちは普通常識で考えますと、貧しくなれば献金はできないと考えるでしょう。仕事もなく、収入も少ないと献金できない、と思います。しかし福音の力に満たされた人はそうではないんですね。貧しい中で真の豊かさを見出し、苦しい中でも悲しみ喜びを分かち合い、人を思いやることが出来るのであります。そのことをマケドニアの諸教会の献げものは示しているのです。
それはどうしてでしょうか?どうしてそんなことが出来るのでしょうか?それは、私たちクリスチャンは、「主イエスさまの恵みを知っている」からです。「主は豊かであったのに、わたしのために貧しくなられた」。その豊かな恵みに与って生かされているからです。
ここに、マケドニアの諸教会の献げものは「人に惜しまず施す豊かさとなった」とありますが。この「豊かさ」は、ただ、献金の額が多いということを意味するものではありません。マルコ12章で、レプタ2枚を献げた貧しい女性に対して、イエスさまは「他の誰よりもたくさん献げた」と言われました。それは、自らを与える、献げることを喜ぶ、その大きな広い心を表しています。
この豊かさは、献金の額が多いということによりません、この豊かさは、「献げものに伴う犠牲(痛み)によって表されます。イエス・キリストの恵み、「主が豊かであったのに、わたしのために貧しくなられた」。その大きな犠牲を主が払われたことを知っている人は、主のために献げる犠牲(痛み)をいとわない。それは又、イエス・キリストのからだなる教会を助け、欠乏している兄弟姉妹を支えるために献金を喜んで献げることができる。犠牲を伴うような献げものをなすことができるのです。
パウロはマケドニアの諸教会の信徒たちの事についてまた3節以降でこう証ししています。
「彼らが自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに願い出た」。その献げものは、人に強要されてなすものではなく、自分から進んで心からなされたものでした。そしてさらに重要な点ですが、「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」というのです。この、まず自分自身を主に献げる、ということが献金の精神といえるでしょう。それは結果的に人のために用いられますが、まず主に献げられるものです。
さて、パウロはそのようなマケドニアの諸教会の証しをなしつつ、コリント教会の信徒たちに向かって奨励します。すでにコリント教会の信徒たちの間で開始されていた献金の業を継続し、全うしていきなさいというのです。パウロはコリント教会が信仰、知識、あらゆる熱心など、すべての点で豊かなのだから、この献金の業においても豊かになりなさい、と勧めます。
そして最後に、パウロは献金の雛形はイエス・キリストご自身に表されているといいます。
9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
今アドイヴェントの時節ですが、神の独り子イエスさまが私たち人間の姿となって救い主としてお生まれくださった恵みの出来事クリスマスを覚えつつ、日々を過ごしております。フィリピ2章6節以降にも、「神の御独り子であられるキリストは、神の身分でありながら、それに固執しようと思わず、かえって自分を無にして」とありますように、主は、その地位や権力を放棄し、ご自身を捨て、しもべの姿をとって人となられ、最期には人類の罪を背負って十字架で死なれました。
このことによって、私たち神の前に罪深い人間は赦され、贖われたのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。この尊い神の御子が受肉された、そこに献げものの精神が豊かに示されています。
私どもクリスチャンにとりまして、礼拝や祈祷会に出席することは基本的なことでありますが、献げものについても又、聖書から学び実践することは、自らの信仰を見つめ直す機会となります。「主イエスの恵みを知っている」という私たちが、主のみ前にあって具体的にその恵みに応えてゆく、応答していく時だからです。
もう一つ、献げものは、教会がキリストの愛によって互いにつながり、共に建て上げられていくうえで大事な有機的な働きをなすものであります。それはキリストの体の一部としての自分の存在の意味を見出すことにもなるからです。主に献げる時、主は数えきれないほどの恵みの生きた証しを与えてくださいます。キリストのからだなる教会を通して、これからも喜びを共に分かち合いたいものです。
終わりに、Ⅱコリント9章6節~8節をお読みして閉じたいと思います。
「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆるよい業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。
神さまは、祝福としてあらゆる善い業を私どもにさせてくださると同時に、そこにあらゆる恵みを与えてくださると、聖書は約束しています。この主に信頼し、神と隣人に愛をもって仕える務めを、喜びをもって共になしてまいりましょう。