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主が、あなたに先立って行かれる

2012-05-06 15:05:26 | メッセージ
宣教 士師記4章1~16節 

今日から3週にわたり礼拝で「士師記」を読み、御言葉を聞いていきます。
私も実に15年前に礼拝で取り上げて以来ですので、久しぶりの士師記となります。まず、この「士師」という存在についてでありますが、まあ士師記にはデボラやギデオンなどよく知られる士師がいますけれども。その最初に士師として立てられたオトニエルについて、3章10節に「主の霊が彼の上に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いた」と、記されています。そのように士師として立てられた人たちは単なる善悪を裁く裁判官というより、主が立てたもうイスラエルの救助者であり、主の御心を行うように指導し、治める権利を有する力をもった存在であったといえます。

それでは、どうしてこのような士師たちが登場したかというその背景でありますが。それは2章10節以降に記されていますように、ヨシュアの死後イスラエルの中に「主を知らず、主がイスラエルに行なわれた御業も知らない別の世代が興り、イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行って、主を捨て、他の神々に従い、それらにひれ伏すという状況に陥っていたということです。
 聖書にはそのことで主がイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せ、周囲の手に渡し、その約束の地において災いをくだされたと伝えています。彼らは苦境に立たされると、主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出されました。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々に従い、ひれ伏したのです。
「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、憐れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ絶たなかった」と記されています。

そのようなイスラエルに対して主は怒りに燃え次のように言われます。
2章20節「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだときに残した諸国の民(異教の神々に仕える民)を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである」。
このようにしてイスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、なおも悔い改めることなく諸国の神々、偶像に仕えたのです。

本日の4章において士師デボラとバラクが登場いたしますが。それまでにもオトニエルやエフドといった士師たちが神によって立てられていきます。ところが一連のパタ-ンといいますか、その道筋はいつも同じなのですね。
「まずイスラエの人々が主の目に悪とされることを行う。主が怒られて異教の諸国の民にイスラエルを渡されてイスラエルは支配され苦境におかれる。そこでイスラエルの人々は主に助けを求めて叫ぶ。主は士師を立てて圧迫されたイスラエルを解放し、平穏な時代が訪れる」のです。
しかし、「その士師が死ぬと、イスラエルの人々はまたまた主の目に悪とされることを行
い、主の怒りを受け、偶像の神々に仕える諸国の民に渡され、その支配と圧迫の中で苦しむ」と、まあ性懲りもせずと言いますか毎度このパターンが繰り返されるわけです。
解放され、平穏を得ては士師が亡くなり世代が変わると、また神ならざる者に従い、ひれ伏すそういう罪を何度も繰り返すイスラエルの民。

この記事をとおして人の心の移ろいやすさ、優柔不断で脆弱な信仰があるがまま記され
いますが。その一方で、主なる神がそういったイスラエルの人々であるにも拘わらず、憐れみをもって変わることなく寄り添い続けておられることが分かります。それは何とかイスラエルの人々が真心をもって立ち返り、主の戒めと教えとを守り、生きていくことを、忍耐をもって見守り、願っておられたからではないでしょうか。神さまの厳しくも深い、あたかも父親のような愛を知らされる思いがいたします。
 ヘブライ人への手紙12章5節に「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」と旧約聖書伝来の御言葉が記されています。
 その父なる神の愛を知らされた者は、むしろ与えられた恵みを軽んじることなく、救いの道を逸れないように、主の御心に聴き従って生きることが日々必要なのではないでしょうか。

さて、今日の4章も、「士師のエフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、主はカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された」とあります。「イスラエルの人々は二十年に亘りヤビンの支配下において力づくで押さえつけられていた」というのです。
そういう中イスラエルの人々は、主の救いを思い起こし、主に助けを求めて叫んでいました。「ラビドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである」と4節にありますが。そのデボラが士師となって指導力を発揮していたので、イスラエルの人々はデボラのいるエフライムに迄彼女に裁きを求めて上っていったというのです。まあこの時代に既婚の女性で士師というのは大変珍しかっでありましょうが。彼女はカナンの王による圧迫の支配からイスラエルの人々を救い出すために、イスラエルの兵隊長であったバラクを呼んで、神からの言葉を伝えます。
「行け、ナフタリ人とゼブルン人一万人を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前の前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す」と。
このデボラから神の言葉を聞いたバラクは、デボラに答えました。「あなたが共に来て下さるのなら行きます。もし来てくださらないのなら、わたしは行きません」。デボラはその頼みを聞いて、直ちにバラクの率いる一万人の兵士と一緒にタボル山に向かいます。

一方、カナンの将軍シセラはイスラエルの兵隊長バラクがタボル山に上ってきたとの知らせを受けると、すべてのカナンの鉄の戦車900台に加えて自分に属するすべての軍隊を召集し、バラクたちのもとに向かってきます。鉄の戦車はこの時代のものとしては最新鋭の最強の武器でした。イスラエルはソロモンの時代まで鉄の戦車はなかったのです。又、これといって優る武器はありません。戦いのために特別な訓練をしているわけでもありません。バラクとイスラエルの兵士たちはきっと恐れと不安でいっぱいであったに違いありません。

そんなバラクに向かってデボラは神の言葉を伝え、励まします。
「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに
先立って出て行かれたではありませんか」。
バラクはこのデボラを介して語られた神の言葉に押し出されるように、一万の兵を従え、タボル山を下ります。すると主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられたのです。具体的にどういうことが起こったかはここに記されていませんが、この戦いの後に謳われた5章のデボラの歌の中に「キション川は彼らを押し流した」(21節)云々とありますことから、多分この戦いはタボル山の麓の地中海へ流れ込むキション川のほとりでなされたようで、そこは夏はささやかな流れですが、冬の雨季には凄まじい勢いで流れたようです。戦いは丁度川の水が氾濫した時に起こって、戦車もぬかるみ士気をくじかれ混乱を来たしたのではないか、というのが通説であります。
まあ、いずれにしましても、まさにこの雨を降らせたのはカナンの偶像の神々ではなく、生ける主なる神であり、その「主が先立ち行かれる」ことで、イスラエルの人々に解放の道が開かれていったということであります。

ここを読む時にデボラの働きの大きさを覚えます。
彼女は直接的に戦いをなした訳ではありませんが、バラクらと共に行って神の御言葉を伝え、励まし、力づけます。それはバラクをはじめ、イスラエルの民の心を神に信頼することへと導きました。民は戦車に象徴される軍事力によるのではなく、共におられる主の力に依り頼み、勝利を得たのです。又、デボラは感謝と賛美の歌(旧約時代最古の賛歌)によって主にその栄光を帰したのです。民は真に畏れるべきは主であること、共におられる生ける主の愛を再確認したことでありましょう。そのような主の器として用いられたのが、女性であり、既婚者でもあったことは当時の社会状況を考えますとセンセーショナル(衝撃的)な出来事であったでしょう。性別、あるいは立場や年齢に関わらず、主は自由な霊の選びによって、日々、主のご用を果たしていく者たちを起こされていくのです。私たちもそれぞれのおかれた状況は異なりますが、主の御心に聴き従い、御言葉と祈りと賛美による励ましをもって、それぞれの身近な隣人のもとへ遣わされていきたいと願います。

最後に、今日のこの箇所から強く思わされますことは、「主を畏れることの大切さです」。
それは、何度も神に背いて罪を犯し続けるイスラエルの人々に向けられていますが、しかし、これは今日の時代に生きる私たち人間すべてに向けられたメッセージでもあります。
時代や科学技術が発展しても万全なものはありません。絶対といえるものはありません。
カナンの鉄の戦車が今日のお話で登場しましたが、これなど当時としては最新鋭の武器・力を象徴するものでした。それが、平地では大きな力を発揮しても、山には上れません。そして洪水には流されてしまうしかなかったのです。日本にある50基の原発が昨夜からゼロ稼働となりましたが。また、カナンの将軍ヤエルの不面目で惨めな最期は、世の権力をまとった人の誉が、如何に卑小なものであるかを語っています。

礼拝の招の言として、エレミヤ書9章22~23節が読まれました。
「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」。

私たちは、何を畏れ、何を頼みとし、何を誇りにして生きているのか?
今日の聖書の箇所は、何よりもそのことを問いかけているように思えます。その答えを捜し、見出し、それることなく生きよ、と招いています。
この世の中には神ならざるものを神のように祭りあげ、神格化し、誇ろうとする勢力がいっぱい働いています。そのことに、私たち自身も取り込まれていかないように、ほんとうに畏れ敬うものは何か、何に依り頼み、何を誇りとしていくべきか。その確信を持って生きることがとても大事ではないでしょうか。

コヘレトの言葉12章13節
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』これそこ、人間のすべて」。
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