宣教 士師記7章1~21節
今日の物語の主人公は士師として神さまによって立てられたギデオンです。彼の人となり、又召命については前の6章に詳しく記されていますが。彼はミディアン人が襲って来た時、酒船の中に身を隠す程恐れていました。ところが神さまはそのようなギデオンを見つけ出し、「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけるのであります。しかし、ギデオンは「主が共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたした
ちにふりかかったのですか」と答えます。
主はそれにお答えにならず彼の方を向いてただ「あなたはその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」と言われます。
なおも不安なギデオンは「わたしの一族は最も貧弱なものです。わたしも家族の中で年下のものです」「それならば、そのしるしを見せて下さい」と嘆願すると、それに対して主はギデオンと共におられるしるしを示して見せられた。そしてギデオンはそこに「平安の主」という名の祭壇を作った、というのですね。まあこの6章から、ギデオンという人のとても慎重な、又不安と弱さを抱えて悩む人間らしいその姿がよく読みとれます。
さて、ギデオンはある朝早くエン・ハロドのほとりに三万二千人の兵を率いて陣を敷きました。主はギデオンに言われます。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をそ
の手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分
の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」。
ギデオンはこの主の御言葉と共に「それゆえ、恐れおののいている者は皆帰りなさい」と呼びかけます。こうして二万二千人が帰り、一万人が残りました。ところが、主はギデオンに「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ」そこで「犬のように舌で水をなめる者、膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい」とお命じになります。そして、主の言われたとおりにすると、すきのない者のように思慮深く注意深く手で水をすくって飲んだのが三百人いて、主は彼らをもってイスラエルを救う要員とされることを約束され、他の九千七百人は戦列から離れて帰るよう指示されたというのです。
そのような中でギデオン自身きっと不安と恐れを抱いていたのではないでしょうか。何しろ12節にあるように敵の「ミディアン人、アマレク人、東方諸民族は、いなごのように数多く、平野に横たわり、らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなかった」。まあそのような大軍を前にして対するイスラエルは三百人をもって戦え、と主が言われたからです。
そんなギデオンの心を見抜かれたように主はその夜ギデオンに言われます。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。もし下って行くのが恐ろしいのなら、敵陣に下り、彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵人の中に下って行くことができる」。すると彼は主の言われるとおり、すぐに従者と共に敵陣の偵察に向かいます。前線にまで下るやいなや、一人の男が仲間に夢の話をしている声を聴くのですが、それはこんな話でした。
「大麦の丸いパンがミディアンの陣営にまで転がり込み、天幕にまで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった」。その仲間の一人はそれを聞いて答えます。「それはギデオンの剣に違いない。イスラエルの神は、我々ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ」。
ギデオンはその話を聞いて、主なる神さまこそ全てを支配し治めたもうお方であること。すなわち、「主に頼ることこそ力の源である」との確信をもち、その主の勇士たち三百人を率いて夜中に出陣するのであります。そうしてその大麦パンの夢のお告げどおりのことが起こるのです。このミディアン人たちが夢で見た大麦のパンは、日頃食べている普通の食物でした。同様にギデオンもいわば普通の人でした。彼に何か特別な能力があるわけでもなく、力もそんなに強かったわけではありません。むしろ少し臆病でもあった位なのです。
けれど主は、そのギデオンをして「勇者よ」と呼びかけ、お用いになられるのであります。
本日のお話は、初め三万二千人というイスラエルの兵を率いていたギデオンに、主なる神さまは次々とその兵士を減らし、最後には三百人にまでなっていく。まあその相手のミディアン軍は総勢十三万五千人もいたわけですから、そんなの常識で考えればイスラエルの敗北は戦わずとも目に見えているようなそんな状況の中で、主はギデオンとその三百人に力を与え、イスラエルの人々を苦しみから救うためにお用いになられます。
主は自らの栄光を現わされるため、又イスラエルが自分の力でそれをなしたのだと心おごることのないために、あえてそのようになさったのです。ギデオンもまた、人の作った武器や世の権力、又兵士や軍馬の数の力に頼るのではなく、「主に頼ることこそ力の源がある」と、信仰の行動をもってそれに応えました。又、それはただギデオンだけを通してなされるのではなく、イスラエルの勇者三百人が三つのチ―ム何とかに分かて、つまりチ-ムワークを発揮してギデオンと共に心一つになって、勝利のため向かって行ったのであります。「主に頼ることこそ力の源」。そのことをして主の采配による勝利へと導かれるのであります。
私ども大阪教会は、現在新会堂建築という主が与えられたビジョンの実現に向かって歩み出しておりますが。新会堂建築が主の福音宣教と主の御業を証ししていくためにまず、私たちが主にあって心を一つにして、祈り合い、捧げ合い、仕え合っていく、そういう信仰に根ざしたチームワークがほんとうに大切ではないでしょうか。もちろん数や数値の問題は気になるところです。しかしそれは大勢だからできた、力ある者がいたからできた、と私たちが心おごることのないよう、主の御業を求めるべく備えられた状況ともいえましょう。まず何よりも、「主に頼ることこそ力の源」だということを心に留め、共に新会堂建築の働きに関わらせて戴きましょう。
最後に、先週の8日~10日迄の3日間、連盟の公害問題委員会主催、震災被災地支援委員会共催による、福島フィールドワーク:現地研修に参加させて戴きました。その少し報告をさせて戴きます。
現在、連盟の震災被災地支援の働きは、北から「チ―ム岩手」「チ―ム宮城」「チーム福島」という三つの地区においてなされ、現在は避難所から仮設住宅で避難生活をされている被災者の方々に対する様々な支援が行われているそうです。
先週は、震災と津波に加えて原発事故の被災地でもある福島を3日間でしたがお訪ねし、部分参加も含め80数名の方々と現地研修に参加しました。その報告についは午後の信徒会の時にもお話させて戴きますが、いくつかの深く考えさせられたことについてお分かちしたいと思います。
①前福島県知事・佐藤栄佐久さん 講演より
「原発事故後、いくつかの町が合併はしたが、町が分断された。(数は力ではない。)
300のコミュニティーが崩壊。
原発は「世代間の共生さえ出来ない」。原発の一世代は道路、ビル建設いい思いする。
二世代は原発、使用済み燃料のみ残る。」
②飯館村の菅野典雄村長さん 講演より
「日本は世界一安全な国だったが、世界一危ない国に変わりつつある。
自分さえよければ他人はどうなってもいい。(アネハ事件)(福知山線脱線事故)を引き合いに出しながら、利己的で利益優先の考え方が日本に蔓延していると。
原発事故後、全村民避難(計画的避難)により町がゴ-ストタウン化。
「これはただの災害避難でない、放射能による災害は人の心を分断する。」
③福島市内にある福島旭町教会を訪ね、こひつじ幼稚園の礼拝に出席した。
教会と園の庭に、大きなドイツ製の放射線量計が設置されていた。子どもたちが賛美をもって歓迎してくれ大変励まされたが、歴史のある園だが原発事故以来園児の転居が増え、減少しているとのこと。子どもたちのおかれて状況の厳しさを思いしらされた。
④福島の飯館村役場、南相馬、長泥地区~川俣長~山木屋地区をバスの車窓から見学。
長泥地区のバス内の放射線量は放射線量測定器の10マイクロシーベルトを振り切りブザ―が鳴り続く。何でも16マイクロシーベルトはあるようで、バスの中であったが私も外部被ばくした。放射線量は目では見えないので、それを感じない恐ろしさを実感した。
津波の被害にもあった南相馬の津波の後地を歩いたが、まだ多くのがれきがいくつも積みあがっていた。一つ目が奪われたのは、その沼の川沿い咲かせていた黄色い花。近づくと2本のたんぽぽだった。ほんとうに美しいと思った。命の力に感動を覚えた。人も動物も植物も「生きたい」と切に願っている。それを阻む状況に憤りさえ感じる。
⑤最後の三日目は郡山市の緑が丘にある仮設住宅(富岡町の原発被災者避難者100人入所)を訪問させて戴いた。一輪のカ―ネションに研修参加者の思いを込めたメッセージカードを添えて一軒ずつお訪ねしました。
禁句;「がんばってください、信者になってください、きっといいことがあります、等。」また集会所で行われている歌声喫茶のお手伝いもさせて戴いた。郡山コスモス通り教会が、この仮設住宅に入所されている方々とずっと関わり続けておられるということ。
今回福島に初めて足を運び、ほんとうに山と海の自然に恵まれたその地の美しさを知りました。が、見えない放射性物質によって人、動物、自然の命が如何に脅かされ、危機に瀕しているという実情を知らされました。また、原発についての大阪と福島の温度差は確かにありますが、私のなかの温度差は少し縮まったし、このフィールドワークに参加できてよかったと思います。歩いてみて知らなかったことがこんなにもあるのか、それが実感です。
今日の物語の主人公は士師として神さまによって立てられたギデオンです。彼の人となり、又召命については前の6章に詳しく記されていますが。彼はミディアン人が襲って来た時、酒船の中に身を隠す程恐れていました。ところが神さまはそのようなギデオンを見つけ出し、「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけるのであります。しかし、ギデオンは「主が共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたした
ちにふりかかったのですか」と答えます。
主はそれにお答えにならず彼の方を向いてただ「あなたはその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」と言われます。
なおも不安なギデオンは「わたしの一族は最も貧弱なものです。わたしも家族の中で年下のものです」「それならば、そのしるしを見せて下さい」と嘆願すると、それに対して主はギデオンと共におられるしるしを示して見せられた。そしてギデオンはそこに「平安の主」という名の祭壇を作った、というのですね。まあこの6章から、ギデオンという人のとても慎重な、又不安と弱さを抱えて悩む人間らしいその姿がよく読みとれます。
さて、ギデオンはある朝早くエン・ハロドのほとりに三万二千人の兵を率いて陣を敷きました。主はギデオンに言われます。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をそ
の手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分
の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」。
ギデオンはこの主の御言葉と共に「それゆえ、恐れおののいている者は皆帰りなさい」と呼びかけます。こうして二万二千人が帰り、一万人が残りました。ところが、主はギデオンに「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ」そこで「犬のように舌で水をなめる者、膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい」とお命じになります。そして、主の言われたとおりにすると、すきのない者のように思慮深く注意深く手で水をすくって飲んだのが三百人いて、主は彼らをもってイスラエルを救う要員とされることを約束され、他の九千七百人は戦列から離れて帰るよう指示されたというのです。
そのような中でギデオン自身きっと不安と恐れを抱いていたのではないでしょうか。何しろ12節にあるように敵の「ミディアン人、アマレク人、東方諸民族は、いなごのように数多く、平野に横たわり、らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなかった」。まあそのような大軍を前にして対するイスラエルは三百人をもって戦え、と主が言われたからです。
そんなギデオンの心を見抜かれたように主はその夜ギデオンに言われます。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。もし下って行くのが恐ろしいのなら、敵陣に下り、彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵人の中に下って行くことができる」。すると彼は主の言われるとおり、すぐに従者と共に敵陣の偵察に向かいます。前線にまで下るやいなや、一人の男が仲間に夢の話をしている声を聴くのですが、それはこんな話でした。
「大麦の丸いパンがミディアンの陣営にまで転がり込み、天幕にまで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった」。その仲間の一人はそれを聞いて答えます。「それはギデオンの剣に違いない。イスラエルの神は、我々ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ」。
ギデオンはその話を聞いて、主なる神さまこそ全てを支配し治めたもうお方であること。すなわち、「主に頼ることこそ力の源である」との確信をもち、その主の勇士たち三百人を率いて夜中に出陣するのであります。そうしてその大麦パンの夢のお告げどおりのことが起こるのです。このミディアン人たちが夢で見た大麦のパンは、日頃食べている普通の食物でした。同様にギデオンもいわば普通の人でした。彼に何か特別な能力があるわけでもなく、力もそんなに強かったわけではありません。むしろ少し臆病でもあった位なのです。
けれど主は、そのギデオンをして「勇者よ」と呼びかけ、お用いになられるのであります。
本日のお話は、初め三万二千人というイスラエルの兵を率いていたギデオンに、主なる神さまは次々とその兵士を減らし、最後には三百人にまでなっていく。まあその相手のミディアン軍は総勢十三万五千人もいたわけですから、そんなの常識で考えればイスラエルの敗北は戦わずとも目に見えているようなそんな状況の中で、主はギデオンとその三百人に力を与え、イスラエルの人々を苦しみから救うためにお用いになられます。
主は自らの栄光を現わされるため、又イスラエルが自分の力でそれをなしたのだと心おごることのないために、あえてそのようになさったのです。ギデオンもまた、人の作った武器や世の権力、又兵士や軍馬の数の力に頼るのではなく、「主に頼ることこそ力の源がある」と、信仰の行動をもってそれに応えました。又、それはただギデオンだけを通してなされるのではなく、イスラエルの勇者三百人が三つのチ―ム何とかに分かて、つまりチ-ムワークを発揮してギデオンと共に心一つになって、勝利のため向かって行ったのであります。「主に頼ることこそ力の源」。そのことをして主の采配による勝利へと導かれるのであります。
私ども大阪教会は、現在新会堂建築という主が与えられたビジョンの実現に向かって歩み出しておりますが。新会堂建築が主の福音宣教と主の御業を証ししていくためにまず、私たちが主にあって心を一つにして、祈り合い、捧げ合い、仕え合っていく、そういう信仰に根ざしたチームワークがほんとうに大切ではないでしょうか。もちろん数や数値の問題は気になるところです。しかしそれは大勢だからできた、力ある者がいたからできた、と私たちが心おごることのないよう、主の御業を求めるべく備えられた状況ともいえましょう。まず何よりも、「主に頼ることこそ力の源」だということを心に留め、共に新会堂建築の働きに関わらせて戴きましょう。
最後に、先週の8日~10日迄の3日間、連盟の公害問題委員会主催、震災被災地支援委員会共催による、福島フィールドワーク:現地研修に参加させて戴きました。その少し報告をさせて戴きます。
現在、連盟の震災被災地支援の働きは、北から「チ―ム岩手」「チ―ム宮城」「チーム福島」という三つの地区においてなされ、現在は避難所から仮設住宅で避難生活をされている被災者の方々に対する様々な支援が行われているそうです。
先週は、震災と津波に加えて原発事故の被災地でもある福島を3日間でしたがお訪ねし、部分参加も含め80数名の方々と現地研修に参加しました。その報告についは午後の信徒会の時にもお話させて戴きますが、いくつかの深く考えさせられたことについてお分かちしたいと思います。
①前福島県知事・佐藤栄佐久さん 講演より
「原発事故後、いくつかの町が合併はしたが、町が分断された。(数は力ではない。)
300のコミュニティーが崩壊。
原発は「世代間の共生さえ出来ない」。原発の一世代は道路、ビル建設いい思いする。
二世代は原発、使用済み燃料のみ残る。」
②飯館村の菅野典雄村長さん 講演より
「日本は世界一安全な国だったが、世界一危ない国に変わりつつある。
自分さえよければ他人はどうなってもいい。(アネハ事件)(福知山線脱線事故)を引き合いに出しながら、利己的で利益優先の考え方が日本に蔓延していると。
原発事故後、全村民避難(計画的避難)により町がゴ-ストタウン化。
「これはただの災害避難でない、放射能による災害は人の心を分断する。」
③福島市内にある福島旭町教会を訪ね、こひつじ幼稚園の礼拝に出席した。
教会と園の庭に、大きなドイツ製の放射線量計が設置されていた。子どもたちが賛美をもって歓迎してくれ大変励まされたが、歴史のある園だが原発事故以来園児の転居が増え、減少しているとのこと。子どもたちのおかれて状況の厳しさを思いしらされた。
④福島の飯館村役場、南相馬、長泥地区~川俣長~山木屋地区をバスの車窓から見学。
長泥地区のバス内の放射線量は放射線量測定器の10マイクロシーベルトを振り切りブザ―が鳴り続く。何でも16マイクロシーベルトはあるようで、バスの中であったが私も外部被ばくした。放射線量は目では見えないので、それを感じない恐ろしさを実感した。
津波の被害にもあった南相馬の津波の後地を歩いたが、まだ多くのがれきがいくつも積みあがっていた。一つ目が奪われたのは、その沼の川沿い咲かせていた黄色い花。近づくと2本のたんぽぽだった。ほんとうに美しいと思った。命の力に感動を覚えた。人も動物も植物も「生きたい」と切に願っている。それを阻む状況に憤りさえ感じる。
⑤最後の三日目は郡山市の緑が丘にある仮設住宅(富岡町の原発被災者避難者100人入所)を訪問させて戴いた。一輪のカ―ネションに研修参加者の思いを込めたメッセージカードを添えて一軒ずつお訪ねしました。
禁句;「がんばってください、信者になってください、きっといいことがあります、等。」また集会所で行われている歌声喫茶のお手伝いもさせて戴いた。郡山コスモス通り教会が、この仮設住宅に入所されている方々とずっと関わり続けておられるということ。
今回福島に初めて足を運び、ほんとうに山と海の自然に恵まれたその地の美しさを知りました。が、見えない放射性物質によって人、動物、自然の命が如何に脅かされ、危機に瀕しているという実情を知らされました。また、原発についての大阪と福島の温度差は確かにありますが、私のなかの温度差は少し縮まったし、このフィールドワークに参加できてよかったと思います。歩いてみて知らなかったことがこんなにもあるのか、それが実感です。