宣教 マタイ13:1-23
今週から教会敷地の測量が隣接する近隣の方々のご協力を得て行われます。
感謝なことですが、ご近所のよしみということで今回ほんとうにありがたかったのは、とおりの向かい側のOビルさんと大阪教会との関係がずっと昔からあったということで、仮会堂としてのビルの一室をお借りすることができたということです。先日オ―ナ―のご厚意で賃貸契約を交わすことができたのですが、通常なら「教会の登記簿」「資産」「保証人」などなど細々とした文書を提出し、手数料も必要なのですが、曰く「もう昔からのお付き合いがあるから、十分わかっているつもりですから、いりません」と、契約書を確認して法人印だけを互いに交わしてすんなりと契約させて戴くことができました。多分賃貸仲介業者を挟むと、こうはいかなかったと思います。
昨年末から、仮会堂の候補地として数件あげ賃貸会社に仲介してもらっていたのですが、すべて断られていました。ある近くのビルに見学に行った時などは、ビルの管理会社の方の話に唖然としました。いくら賃貸の規定はあるとはいえ、「何人くらいですか、何曜日の何時から何時迄ですか、音はその時間だけですか、表札を出してはダメとか、出るときリフォームで数十万円かかる」とかですね、すぐにそこのビルとの交渉は断りましたけれども。そして、以前から気になっていたのですが、ここも無理だろうと半ばあきらめていた大川ビルに、もう仲介業者を挟まず祈りつつダメもとで直接電話してみたら、何とそこで長い間働いておられる女性の方が、「前の大阪教会ですよね、昔からよく写真を撮らせてもらいに行きました、オ―ナ―に話しときましょう」と快いお返事がすぐ返ってきまして、 その後ビルのオ―ナ―とお会いしてお話をすることができました。すると、息子がお子さんと同級生であったり、写真家の弟さんにもお世話になっていたことも幸いでした。まあ事務所ビルということで音の問題を考慮する必要はありますが、何とか相互に歩みより対応して戴けるようになったのです。ここならお車の方も今のまま教会の駐車場に入れてすぐに来れますし、第一新会堂が建てあげられてゆくのを毎週目にすることができます。ほんとうに神さまがそこを選んでお与え下さったのだと感謝しきりですが。
私はもう一つこの度のことを通して、「近所のよしみ」という事の意味をつくづく考えさせられました。それは今から60年前に与えられたこの土地に、変わることなく福音の種が蒔き続けられて来たことによる祝福だと思いますし、ここに大阪教会が存在していることが認知されていることのあかしだと言えましょう。これからも主にあって良い近隣との関わり、福音の種蒔きをし続けてゆくことが期待されていることを思わされます。
①「種を蒔く人」
さて本日の聖書は、イエスさまが大勢の群衆や弟子たちに「種を蒔く人」のたとえを通して、「天の国」の奥義を話された箇所です。
この種は大麦や小麦の種であったようで、パレスチナの地で育つ農作物として昔から今日まで住民の主食になっています。農夫は種を蒔きますが、日本では先に土を耕してから種を蒔きますよね。しかしパレスチナでは笊に入れた種をまず大雑把に蒔いてから土を耕すそうです。そういうことで農夫が種をそこら中に撒き散らすために、まあ道端にも、石だらけの土の少ない所にも、いばらの間にも落ちるようになります。最初から整地された土地に農夫が種を蒔くのではないのです。後でその地は耕され整えられるのです。 福音の種は、まさにそうですね。今や世界中のありとあらゆるところに蒔かれ、人種、性別、年齢を問わず実に多くの人たちが主イエスの福音や聖書の言葉を耳にする機会が与えられていると言ってもよいでしょう。
農夫であるイエスさまは、さまざまな多様性を持つ全人類にいわば全地に「天の国」の種を蒔かれたのであります。その種が蒔かれる私たちのうちには、たとえ話に示されるような種の成長を阻む要素が数知れずあることを十分承知していながらも、しかしイエスさまは種を成長させ、実りを与えて下さる御神に信頼して、私たちのところにおいでくださり、福音の種蒔きをしてくださったのです。
さて、この福音の種とは何でしょうか。ヨハネ12章24節にはこのようにあります。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。この一粒の麦、一粒の種とは、十字架の苦難と購いの死をもって「天の国」に通じる道をうち拓いて神の子イエス。キリストご自身のことであります。
私たちは主ご自身が、この一粒の麦として地に落ちてくださったことと、その命を戴いて生かされていることを大切に受けとめてまいりたいものです。
②「御言葉を受け入れる土壌」
次に重要なのは、「天の国」の御言葉を聞いて悟る者になるかどうかということです。
蒔かれた御言葉を、どのような心で受け入れるかによってその実りが全く変わってくることをイエスさまは、種の落ちた土地の状態になぞらえてお教えになったのです。
イエスさまは、預言者イザヤの「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」との御言葉を引用されて、御言葉を聞いても、それをほんとうに受け入れ、その御言葉に聞いて従っていくことが出来ない人間の弱さを示されました。
イエスさまは「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ」、どんなに御言葉が語られたとしても、せっかく心の中に蒔かれたものが、奪い取られてしまうよ。実をつけることはできないよ、とおっしゃっているのです。
この「悟る」という言葉は、マルコ4章の同じ並行記事では、「御言葉を聞いて受け入れるもの」という訳になっています。御言葉を神さまからの語りかけとして聞き、自分の生活や考え方と照らし合わせ、御言葉を生きる力とする人。御言葉の招きに応答して生きようとする人。それが御言葉を聞いて受け入れる人であり、天の国の力、御言葉の力を体験していく人だということです。御言葉自体に「命」が宿っているのですから、それに信頼して生きる者に、神さまは百倍、六十倍、三十倍もの計り知ることのできないほどの実りを与えてくださるのです。ここに「天の国」の奥義があるのです。クリスチャンはそういった恵みに生かされているのですから、ほんとうにありがたく、感謝なことです。
そして何よりも、天の神さまは、罪深い私たちを救うために、御独り子を与えてその愛をお示しくださいました。Ⅰヨハネ手紙4章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。心から神さまに信頼し、神さまとのつながりをしっかりと築いてまいりましょう。「まず神の国と神の義を求めて生きる」。そこに豊かな実を結ぶことができるのですから。
最初にもお話をしましたが。まだまだこの教会周辺においては、「キリストと教会についてほとんどご存じでない人」や「誤解をもってらっしゃる人」がたくさんいらっしゃるという現実があります。その一方で、好意的にキリスト教会の存在を受けとめておられる方もいらっしゃいますが。
3月から仮会堂に移り、新会堂が建てられるまでの期間は、私たちにとりましては大事な時となります。そこでもう一度、「大阪教会」の宣教使命について祈り、確認し、「福音の種を蒔く」ための備えとなっていくからであります。これからさまざまな出来事が待ち受けていると思いますが、まず私たち自身が御言葉に聞き、御言葉を受け入れ、御言葉に生きる証人とされていきましょう。豊かな実を結ばせてくださる主の御言葉の力に、期待と信頼をもって歩んでまいりましょう。
今週から教会敷地の測量が隣接する近隣の方々のご協力を得て行われます。
感謝なことですが、ご近所のよしみということで今回ほんとうにありがたかったのは、とおりの向かい側のOビルさんと大阪教会との関係がずっと昔からあったということで、仮会堂としてのビルの一室をお借りすることができたということです。先日オ―ナ―のご厚意で賃貸契約を交わすことができたのですが、通常なら「教会の登記簿」「資産」「保証人」などなど細々とした文書を提出し、手数料も必要なのですが、曰く「もう昔からのお付き合いがあるから、十分わかっているつもりですから、いりません」と、契約書を確認して法人印だけを互いに交わしてすんなりと契約させて戴くことができました。多分賃貸仲介業者を挟むと、こうはいかなかったと思います。
昨年末から、仮会堂の候補地として数件あげ賃貸会社に仲介してもらっていたのですが、すべて断られていました。ある近くのビルに見学に行った時などは、ビルの管理会社の方の話に唖然としました。いくら賃貸の規定はあるとはいえ、「何人くらいですか、何曜日の何時から何時迄ですか、音はその時間だけですか、表札を出してはダメとか、出るときリフォームで数十万円かかる」とかですね、すぐにそこのビルとの交渉は断りましたけれども。そして、以前から気になっていたのですが、ここも無理だろうと半ばあきらめていた大川ビルに、もう仲介業者を挟まず祈りつつダメもとで直接電話してみたら、何とそこで長い間働いておられる女性の方が、「前の大阪教会ですよね、昔からよく写真を撮らせてもらいに行きました、オ―ナ―に話しときましょう」と快いお返事がすぐ返ってきまして、 その後ビルのオ―ナ―とお会いしてお話をすることができました。すると、息子がお子さんと同級生であったり、写真家の弟さんにもお世話になっていたことも幸いでした。まあ事務所ビルということで音の問題を考慮する必要はありますが、何とか相互に歩みより対応して戴けるようになったのです。ここならお車の方も今のまま教会の駐車場に入れてすぐに来れますし、第一新会堂が建てあげられてゆくのを毎週目にすることができます。ほんとうに神さまがそこを選んでお与え下さったのだと感謝しきりですが。
私はもう一つこの度のことを通して、「近所のよしみ」という事の意味をつくづく考えさせられました。それは今から60年前に与えられたこの土地に、変わることなく福音の種が蒔き続けられて来たことによる祝福だと思いますし、ここに大阪教会が存在していることが認知されていることのあかしだと言えましょう。これからも主にあって良い近隣との関わり、福音の種蒔きをし続けてゆくことが期待されていることを思わされます。
①「種を蒔く人」
さて本日の聖書は、イエスさまが大勢の群衆や弟子たちに「種を蒔く人」のたとえを通して、「天の国」の奥義を話された箇所です。
この種は大麦や小麦の種であったようで、パレスチナの地で育つ農作物として昔から今日まで住民の主食になっています。農夫は種を蒔きますが、日本では先に土を耕してから種を蒔きますよね。しかしパレスチナでは笊に入れた種をまず大雑把に蒔いてから土を耕すそうです。そういうことで農夫が種をそこら中に撒き散らすために、まあ道端にも、石だらけの土の少ない所にも、いばらの間にも落ちるようになります。最初から整地された土地に農夫が種を蒔くのではないのです。後でその地は耕され整えられるのです。 福音の種は、まさにそうですね。今や世界中のありとあらゆるところに蒔かれ、人種、性別、年齢を問わず実に多くの人たちが主イエスの福音や聖書の言葉を耳にする機会が与えられていると言ってもよいでしょう。
農夫であるイエスさまは、さまざまな多様性を持つ全人類にいわば全地に「天の国」の種を蒔かれたのであります。その種が蒔かれる私たちのうちには、たとえ話に示されるような種の成長を阻む要素が数知れずあることを十分承知していながらも、しかしイエスさまは種を成長させ、実りを与えて下さる御神に信頼して、私たちのところにおいでくださり、福音の種蒔きをしてくださったのです。
さて、この福音の種とは何でしょうか。ヨハネ12章24節にはこのようにあります。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。この一粒の麦、一粒の種とは、十字架の苦難と購いの死をもって「天の国」に通じる道をうち拓いて神の子イエス。キリストご自身のことであります。
私たちは主ご自身が、この一粒の麦として地に落ちてくださったことと、その命を戴いて生かされていることを大切に受けとめてまいりたいものです。
②「御言葉を受け入れる土壌」
次に重要なのは、「天の国」の御言葉を聞いて悟る者になるかどうかということです。
蒔かれた御言葉を、どのような心で受け入れるかによってその実りが全く変わってくることをイエスさまは、種の落ちた土地の状態になぞらえてお教えになったのです。
イエスさまは、預言者イザヤの「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」との御言葉を引用されて、御言葉を聞いても、それをほんとうに受け入れ、その御言葉に聞いて従っていくことが出来ない人間の弱さを示されました。
イエスさまは「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ」、どんなに御言葉が語られたとしても、せっかく心の中に蒔かれたものが、奪い取られてしまうよ。実をつけることはできないよ、とおっしゃっているのです。
この「悟る」という言葉は、マルコ4章の同じ並行記事では、「御言葉を聞いて受け入れるもの」という訳になっています。御言葉を神さまからの語りかけとして聞き、自分の生活や考え方と照らし合わせ、御言葉を生きる力とする人。御言葉の招きに応答して生きようとする人。それが御言葉を聞いて受け入れる人であり、天の国の力、御言葉の力を体験していく人だということです。御言葉自体に「命」が宿っているのですから、それに信頼して生きる者に、神さまは百倍、六十倍、三十倍もの計り知ることのできないほどの実りを与えてくださるのです。ここに「天の国」の奥義があるのです。クリスチャンはそういった恵みに生かされているのですから、ほんとうにありがたく、感謝なことです。
そして何よりも、天の神さまは、罪深い私たちを救うために、御独り子を与えてその愛をお示しくださいました。Ⅰヨハネ手紙4章10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。心から神さまに信頼し、神さまとのつながりをしっかりと築いてまいりましょう。「まず神の国と神の義を求めて生きる」。そこに豊かな実を結ぶことができるのですから。
最初にもお話をしましたが。まだまだこの教会周辺においては、「キリストと教会についてほとんどご存じでない人」や「誤解をもってらっしゃる人」がたくさんいらっしゃるという現実があります。その一方で、好意的にキリスト教会の存在を受けとめておられる方もいらっしゃいますが。
3月から仮会堂に移り、新会堂が建てられるまでの期間は、私たちにとりましては大事な時となります。そこでもう一度、「大阪教会」の宣教使命について祈り、確認し、「福音の種を蒔く」ための備えとなっていくからであります。これからさまざまな出来事が待ち受けていると思いますが、まず私たち自身が御言葉に聞き、御言葉を受け入れ、御言葉に生きる証人とされていきましょう。豊かな実を結ばせてくださる主の御言葉の力に、期待と信頼をもって歩んでまいりましょう。