日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

隠れておられる神

2013-02-03 21:06:12 | メッセージ
宣教 マタイ25:31-46  

①「序」
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。

本日の箇所は、世の終わり(終末)に際して神の国のご支配が完成されるときに、王であられる主が来られて「すべての民族を裁く」というお話であります。
イエスさまはそれを羊飼いが羊と山羊を分ける日常的で身近なたとえにしてお用いになられました。聖書の時代から今日に至るまで中近東の遊牧民族等は羊と山羊を一緒に飼っているのが一般的であります。羊は群れをなす動物であることに対し、山羊は群れに馴染まず孤立性の強い動物です。しかし羊飼いたちはそれらを一緒に飼っているのです。
一日を終える夜になると彼らは羊と山羊をより分けるという作業をするのですが。これは、山羊が夜になると暖かさを求めるため、羊とは別の暖かい場所に連れて行く必要があるからです。山羊は羊と違い自分から集ろうとしないので、羊飼いにとってこれは大変な作業だそうです。
ここでは羊飼いにたとえられる主が人々を右と左に分けられるのでありますが。当時のユダヤの法廷では有罪者と確定された者を左に、無罪が宣告された者は右に立たせる慣習があり、イエスさまはそれをたとえとしてお用いになって、世の終わりの最後の審判がどのようなものかをお示しになられたのです。

②「右と左に分けられた人々」
まず、王なる主は右側にいる人たちに対して「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸でいたときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と、その行いをほめ、
永遠の命に与る祝福を告げます。
しかし彼らは、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」、心当たりがありませんがと尋ね返します。つまり、彼らは主に認められようとしたのではなく、又自分の名誉や徳目のためにしたのでもないことが分かります。
すると王なる主は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とお答えになります。
あなたが、飢え渇いている人に食べ物と飲み物をあげ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に服を着せ、病人を見舞い、投獄された人を訪ねたのは、実はわたしにしてくれたことなのだよ、と主はおっしゃるのです。

主がここで言われた「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは、勿論主の弟子や教会の兄弟姉妹、私たちの主を信じている者同志を指しているといえるのでしょう。
けれども、それだけとは限りません。それは、私たちが日々日常において出会う、今、助けを必要としている様々な人々もまた、主の御目によれば「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」であるかも知れません。
トルストイの名作「くつ屋のマルチン」というお話、ご存じの方もおられるでしょうが。一人でくつ屋を営む孤独なマルチンは、夢でイエスさまが「明日行くから待っておいで」とおっしゃる声を聞きます。目を覚ましたマルチンの店の前では、その日様々な弱さや痛み、問題を抱えた人が通りかかり、マルチンは一緒にお茶を飲んだり、食事や服を与えたり、仲介に入ったりします。そして一日を終えたマルチンは、聖書を読みながら夢で聞いたイエスさまの言葉を思い出すのですが。その日に出会った人たちが目に浮かんできます。「マルチン、分からなかったのか。あれはみんなわたしだったのだよ」、との御声を聞くのです。
いつ、どこに主がおられるのか、私たちには分かりません。けれども、今日のイエスさまのメッセージによって、私たちは主が私たちの本当に身近なところにおいでになるのだということを知ることができます。

さて、王なる主は左側にいる人たちにも言われます。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸でいたときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」。
彼らは右に分けられた人たちとは異なり、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか」と、自分たちのしてきた事を正当化しようとします。

すると王なる主は、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」とお答えになるのです。
左に分けられた人たちは、自分たちは主の掟を守り、社会的にも立派に生きているのだから、その行いによって当然よい報酬がもらえるものだとたがをくくっていたのかも知れません。「主よ、主よと口では言ったとしても、本当には主イエスの救いを必要としない人たちであるのです。

③「最も小さい者の一人とは」
この右と左に分けられた人々に対して語られた王なる主の言葉から教えられますことは、
何よりも主は、最も小さい者たちと御自分を同一視され、「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」。又逆に「最も小さい者の一人にしてくれなかったのは、わたしにしてくれなかったことである」と言われていることです。
それは、救い主として世に来られたイエスさまが地上においてあゆまれた道とも重なります。イエスさまは世にあってさまよう私たち人間の魂を憂い、慈しまれました。又嘆き悲しむ人を慰め、病人には手をおいて祈り、苦しむ人のために執り成し、世において疎外された人や忘れ去られたような人の友となられました。そしてその最後には罪に滅びゆくしかない私たち人間のために、自らの命を引き渡して十字架におかかりなってその贖いを果たして下さったのです。
「苦難の僕」として知られるイザヤ書53章には、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている方である」と、その主のお姿が描かれております。そして5節には「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打たれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と書かれています。主イエスはそのように自ら最も小さい者の一人となられることで、私たちに救いと希望をもたらして下さったのです。主イエスが天の父の御心に従って自ら最も小さき者の一人となってくださった。そのことを忘れてはならないのです。

さて、そのような主イエスの愛と救いを受けた私たちキリスト者は、このイエスさまのお姿に倣い、神の御心に生きる道が備えられています。
マタイ7章21節以降で、イエスさまは「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われました。この「主よ、主よと言う者」とは、「主よ、主よ」と言って祈り求めることを否定しているのでは決してありません。律法の書によれば「神の御名を用いて偽り誓う」(レビ19章12節)ことを指し、神を偽ることを指しています。
世界の歴史上において聖なる神の名を騙り、利用して如何に残虐な悪政や戦争が繰り返されてきているでしょうか。「自分たちは神の国民で、あちらは悪魔の国民だ」と戦争を正当化する政治のリーダーたちが今も報復の連鎖を作りだしています。
今日のたとえの左側に分けられた人々は、「主よ、いつわたしたちがそれをしなかったでしょうか」と、自己弁護していますが。どんなに人前で益と思えるような業をなしたとしても、偽善は神の前でやがて明らかにされるのです。最後の審判が臨むそのとき、主の救いを受けている者はみな、「神の御心を行ったかどうか」を、その審判の座で問われるのだということを心して聞きとっていきたいものであります。

話は変わりますが。1月~2月まで毎週金曜日の夕方から、喜望の家の夜回り・よろず相談に参加し、日本橋・難波・心斎橋で路上生活を余儀なくされておられる方々を細々とではございますがお訪ねしています。随分寒さも厳しい折ですが、路上や終電後の駅ホームに段ボールを敷いて野宿されておられる方、段ボールを積むリアカーの中で寝泊まりされている方など様々です。
路上で寝泊まりをされている方々の中には、障害や病を抱えておられる方が少なくないのが現状です。よくリアカーいっぱいに段ボールを積み上げて重たいリアカーをゆっくりと運んでおられる方々がおられますが、大概は「自分はまだ働けるから保護など考えていない」という言葉が返ってきます。だけど路上で怪我や事故、病になった時、どうするんですか?と尋ねると、きちんと答えられる方はほとんどいない。その日、その日の暮らしだけで精いっぱいなのです。もし何かあった時はここに来て、困難なときは誰でもいい人に声をかけてここに電話して、救急車を呼んでここの病院に運んでくれるように頼んで、というアドバイスをしたり、多くの方々の善意の募金(大阪教会からもイブ礼拝でお献げしましたが)や献品によって準備された食べ物や着る物をお配りしています。
この前ある方を夜回りでお訪ねした時でしたが。この方とはかれこれ3年位の関わりがあり、夜回りの度にいつも日本橋で野宿生活をされていて「保護のお世話にはならん、自分で段ボールや廃品を売って何とかできる」と言い続けておられた方でしたが。先日「いろいろ世話になったが、生活保護の世話になることに決め、住む場所も決まりそう」と笑顔で報告してくれました。この報告に、「無力に思える働きも決して無駄ではないのだ」という安堵と共に、私の方が大変励まされました。

最後に、本日の最後の審判の光景で右側に分けられた人々は、「いつ、あなたに対してそれらのことをなしたでしょうか」と答えています。自分自身としては主のために何も行えなかったと思っていたのに、主はその人々が御心を行っていた事を、その彼ら以上にご存じであられた、ということであります。人の眼には見えない事も「神さまはちゃんんと見ておられる」。人の眼には隠れておられる。それは私たちにとっての希望であります。
 共に主の御心を行う者として、唯、主イエスに倣う者にならせて下さいと祈り、願い求めてまいりましょう。まず、この礼拝において主のご愛をいっぱいに戴き、それぞれの日常、生活の場に遣わされ、主の御心を行う者とされてまいりましょう。
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