日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主に結ばれて生きる仲間

2013-03-18 11:58:29 | メッセージ
宣教 フィリピ1章12~20節 
 
先週はイタリアで新しいローマ法王フランシスコ1世が南米から選ばれたそうですね。
日本でも大きく取り上げられ報道されていましたが。世界にカトリック信徒は12億人以上おられるそうですから。社会に影響する大きなニュースでありましょう。まあこの事を通してキリスト教が知れ渡る機会にもなったことでもありましょう。
今、旧会堂の解体の真最中ですが、そういう中、教会前を通られる方々はどういった印象を持たれているのでしょうね。先日は不動産関係会社でしょうか、あの土地を駐車場として用いてはどうでしょうか?という電話までかかってきました。どうも教会が完全になくなると勘違いされたようです。
そういう事もございましたが、先々週から旧会堂の玄関前に処分することになった教会の古書や聖書と讃美歌などを二つのボックス棚の中いっぱいに並べ、「ご自由にお持ち帰り下さい」と書いています。まあいって見れば、旧会堂の最後の福音伝道であります。
すると、サラリーマン、学生さん、ご年配の方と実に様々の方々が、立ちどまり手に取って御覧になっておられます。いっぱい置いていたのですが、随分減っています。三段ボックスに無造作に入れていて決して見た目が良いとはいえない置き方ですが。ともあれ、イエスさまとその御業に示される神さまの愛が、一人でも多くの人の魂に伝わることを願いつつ、主の今後のお取り扱いに期待をしています。

本日はフィリピの信徒への手紙より「主に結ばれて生きる仲間」と題し、共に御言葉を聞いていきたいと思います。この手紙は使徒パウロが福音を伝えていたがゆえに捕えられていた獄中からフィリピの教会の信徒たちに書き送られたものです。パウロが第二伝道旅行の折に、訪れて伝道し、建ちあがったフィリピの教会。パウロはその後、第三回目の伝道旅行の折にも、このフィリピの教会を訪ねています。
 
フィリピの教会の信徒の多くはユダヤ人以外のいわゆる異邦人で、その群は小さく、決して裕福な教会であったわけではありませんでしたが、彼らは使徒パウロを敬い、しばしば資金や物資を送ってその伝道の労苦を共にし、パウロの働きを支えていました。
フィリピの信徒たちは、今は獄中の使徒パウロを慰め、励ますために贈り物を集め、エパフロディトを使者として遣わし、パウロのそばにおいて、様々な世話や助け手としていたのですが、ほどなく彼は病気にかかり、その働きを断念せざるを得なくなってしまうのです。
この手紙は、フィリピの信徒たちの様々な好意に感謝の意を表すためのものであり、そのような失意のうちにあったエパフロディトを教会に執り成すため書かれたものです。同時に、自分の身辺について案じてくれるフィリピの教会と信徒たちに、自らはそのような捕われの状態であるにも拘わらず、むしろそのことを通して福音の伝道が推し進められていった、という驚きと喜びを伝えているものでありました。
使徒パウロはそのように、フィリピの信徒たちを力づけ、励ますため獄中からこの手紙をしたためて、フィリピに帰すエパフロディトとテモテに託した、これがフィリピの信徒への手紙であります。

「イエス・キリストこそ救いの主である」。この福音を伝えていった使徒パウロは、捕えられて獄中に閉じ込められました。けれども、そのことで思いがけないことに牢の番兵や兵営全体にもイエスさまの福音が伝わっていったんですね。又、パウロがいたその地のクリスチャンたちも、パウロの投獄されてもなお愛をもって福音に生きるその姿を見て、信仰の確信を得、恐れることなくますます勇敢に、「キリスト・イエスこそ救い主である」と、宣べ伝えていったということであります。
パウロは投獄されたことさえ「福音の前進に役立った」と言うのですね。ただ残念なことに、伝道熱心な人たちの中にはパウロを妬み、敵対心、争いの念、不純な動機から伝道していた人もいたということでした。けれども彼は、それさえも「キリストが告げ知らされていることを喜んでいる」というのです。
監禁された厳しい状況、反対の力に遭いながらも逆境に働かれる主の御業を仰ぎ見、かえって心配しているフィリピの信徒らを励ましているのですよね。どうしてそのように彼はできたのでしょう。
それはまさに、パウロ自身がキリストとその福音に捕えられた者であったからです。
そこにパウロは生きる意義を見出し、喜びに満たされていたからです。彼はフィリピの信徒への手紙の冒頭のあいさつで、自らをして「キリスト・イエスの僕であるパウロ」と紹介していますが。この僕という語は、むしろ「奴隷」の意に近いものでありました。それほどまでに十字架と復活の主イエス・キリストの救いを身を持って受け、その喜びを伝えずにいれなかったのであります。
また、パウロの胸中には常に7節にありますように、「共に恵みあずかる者」「キリストに結ばれた兄弟姉妹、仲間たち」への熱い思いがありました。8節には、「わたしがキリスト・イエスの愛の心であなた方一同のことをどれほど思っているかは神が証しして下さる」と書いてあるとおりです。

新約聖書の中には、使徒パウロの書簡が大変多くございますが。そのほとんどの書簡においてパウロは繰り返し、「わたしのために祈って下さい」と訴えています。もちろんパウロ自身、主と一対一で向き合い祈る機会を絶やすことなくもち、熱心に祈っていた人でありました。が、彼はそれでも、「わたしのために祈って下さい」と、訴えるのです。
それは一重に、どのような状況下におかれようとも、キリストの福音を告げ知らせるため、主の御救いが分かち合われていくためでありました。

私たちはどうでしょうか? 「人にはお祈りに覚えています」ということはあっても、「わたしのために祈ってください」とお願いすることは少ないのではないでしょうか。どこかずうずうしいような思いや遠慮がないでしょうか。けれども、神の栄光がこの身を通して現わされるために、この事が祝福されるように祈って下さい、と願って祈り合うことは大切なこと、いや、大きな恵みであります。
私たちクリスチャンは、主の前にあってみなそれぞれ、一人ひとり立てられています。
個々人の信仰、ひとり一人が主と向き合うことが信仰の土台であります。が、しかしその信仰は、十字架と復活のキリストに結ばれている兄弟姉妹にとりなし、とりなされ、共に用いられていくことを通して、主に栄光を顕わすこととなるのです。
 それは何か特別な働きや奉仕、献金をすること、まあそれも勿論神さまの御用になるわけですが、それ以前に、9節にありますように、福音の交わりを通して、「知る力と見抜く力を身につけて、あなたがたの愛がますます豊かなものとなり、本当に重要なことが見分けられるようになる」ということが、大事なのです。
主に結ばれて生きる私たちの間で、キリストのうちにある愛が益々豊かになって、義の実をあふれるほど受け、神の栄光と誉れを映しだす存在とされていくということです。
それをパウロは強く願ったのであります。  

それと、もう一つパウロを支え続けた大きな力について、19節で彼は、「イエス・キリストの霊の助け」について書いています。それは、ご聖霊であられる神さまのお働きを表しています。ローマ8章26節では、使徒パウロ自身、「霊も弱いわたしたちを助けて下さいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と述べていますが。私たちが神の愛を伝えていきたい、神の救いの恵みを分かち合いたいと願うとき、この「イエス・キリストの霊の助け」は不可欠であります。
伝道というと、私たちの持っているものを相手に教えたり、説得したり、講釈すると思いがちであります。けれども、人の知恵や力で信仰者を生み出すことなど出来ません。それは主の霊の先立ちと導きによって、活ける主との出会いと救いがもたらされていくのであります。
「キリストに結ばれて生きる仲間」と題し、御言葉から聞きました。十字架と復活の主にあって共に恵みにあずかっていく、このうえない喜びであります。キリストの愛の心で、思い合い、祈り合い、とりなし合う中に、ご聖霊、イエス・キリストの霊の助けがあるのです。

いよいよ来週は受難週を迎えます。
最後に、使徒パウロの思いをよく表している言葉を読んで本日の宣教を閉じます。
フィリピ3章10、11節。「キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。」
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