日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

雲の柱、火の柱

2013-03-04 13:13:26 | メッセージ
宣教 出エジプト13:20-22

今日は仮会堂での最初の礼拝をここにお捧げしています。先週の火曜日に引越が行なわれ、引越しの翌日水曜日には、この仮会堂で最初の午前と午後の祈祷会が行なわれほんとうに感謝でありました。その後祈祷会参加者の皆さんと、とりあえず礼拝できるような状態にセットをいたしました。限られたスペースながら、イスを並べてみますとまあ40席くらいまでは置けます。確かに調理する厨房もなくただ洗いや給水設備だけがあり、又御トイレも狭くて不自由をおかけしますが、そういうなかで最大限活用してまいりたいと願っています。
さて、そういうことで本日から仮会堂での主日礼拝が開始されました。私はこの本日の3月から新会堂完成の11月末までの9ヶ月、出エジプトしたイスラエルの民が荒れ野より出発し、やがて神の与える新天地へと向かう旅路になぞらえることができるのではないか、とそういう思いが与えられました。イスラエルの民は40年間荒れ野で試みに会いましたが、私どもの主日礼拝はおおよそ40週。その間この幕屋で主を礼拝しつつあゆむこととなるわけです。
神の導きによってエジプト王の手から逃れたイスラエルの民は、スコトから旅立って荒れ野の端のヨタムに宿営し、さらにそこから葦の海を前にした荒れ野バアル・ツエホンに至ります。いよいよその後、モーセに率いられたイスラエルの民は、追撃してくるエジプト軍を後ろに、この葦の海を渡る奇跡が起こるのであります。
興味深いことですが、本日の前の13章18節に「神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」と書かれています。つまりあえて遠回りさせられた、ということです。それは、神が「イスラエルの民に近道となるペリシテ街道を示せば、ペリシテ軍との戦いを恐れてエジプトを出たことを後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと思われたからである」とあります。この迂回ルートというものを、大阪教会が2008年から新会堂建築のビジョンを与えられてから5年という歳月を経て来たその長い道のりというふうにとらえました。
本来はもっと早く新会堂建築の機があったと思えなくもありません。しかし、今こうして思えばたとえもっと早く会堂建築ができていたとしても、そこで教会内に様々な問題や分裂が起こり、大阪教会の基盤を壊しかねない事態が起こっていたかも知れません。バタバタと建てたはいいが、キリストの共同体としての本質が変質し損なわれるとしたなら、そんな残念なことはありません。わたしはこれまでの5年の歳月は決して無駄な遠回りだったとは思いません。辛いことや悲しいこと、又残念なこともありましたが。数えてあまりあるうれしかったことや証しの恵みもたくさん戴きました。私たち一人ひとりはそこで多くを祈り学んで信仰の確認を重ねてきたのです。それはキリストにある成長と共に主の交わりにおける絆を育むものでありました。確かに現在会員や礼拝の人数も減少しましたが、ルカ福音書12章32節の「恐れるな小さな群よ、御国をたもうことはあなたがたの父の御心である」との主イエスの励まし促され、ひたすら主の御声に聞きつつ、まずはこの荒れ野の道行きを共にあゆみ通したいと願うものです。2013年というこの年が新会堂建築にふさわしい年として与えられたと、そのように信じています。
昨日はK姉の納骨式及び、50日召天記念会が嬉野教会で行われ、とんぼ返りでしたがそちらに出席してきました。天の父のもとに凱旋された姉妹もきっと天において、大阪教会の新会堂建築のためにご尽力くださったゆえ、これからを主と共にあって見守っていてくださっていることでしょう。

本日の箇所の21節に、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」とあります。
雲の柱とはどういうものであったのでしょう?まあ荒れ野を旅するイスラエルの民にとって荒れ野の日照りは相当に厳しく、日ごとに生死を境にした過酷な道のりであったことでしょう。そういう時に、主は日照りを覆う雲を備えて過酷な暑さを和らげてくださったのですから、これ以上ありがたいことはないでしょう。12年前シナイ半島の荒れ野をバスで縦断した折に、天空を見上げると、雲がこんなにも低く間近にあるのかと驚きました。壮大な青空のもと白い雲が間近に迫りくる様子にただただ感動しました。まさに雲が先導して私たちの行く手を導いているような感じを体験しました。
火の柱については夜の荒れ野を見ていないので想像の域を超えませんが、岩肌のごつごつとした山が荒れ野の所々にあったのですが、一説にはその岩山が活火山として燃えていた様子だとも言われています。エジプト脱出の際の不思議な現象も火山の噴火に伴うものだとも聞きましたので、あり得るかも知れません。いずれにしても、主はまさにその時、火の柱を起こしてイスラエルの民に先立って進まれ、過酷な旅を導き守ってくださったのです。荒れ野の過酷な場所へといざなったのでありますが、しかし同時に主はその民に先立って進み、導かれるのであります。主が荒れ野にいるイスラエルの民をいかなる時も、先立って導いていかれ、災難や危害から守ってくださるのです。
それはまた、民が荒れ野からいよいよ葦の海に渡る時も同様でした。主は恐れと不安におののく民の前で海を割って道を拓き、民に先立って彼らを導かれたのであります。

これからの9カ月という新会堂建築工事の期間は、彼らが葦の海を渡り辿った、シナイの荒れ野における旅路になぞらえることもできましょう。イスラエルの民がそうであったように、私たちのためにも主なる生ける神さまは「昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって行く手を照らし」て、私たちが真昼の暑さも夜の暗闇にあってもあゆんでいけるように先立ち、導いていてくださると生ける主に信頼してまいりましょう。

ところでこの度の教会の引越しを経験するなかで皆様もいろんな気づき、発見があったのではないでしょうか。私は旧会堂のまあその天井の低さは問題としても、引越しをしてみてこんなにも広かったのかと改めて思わされました。御部屋もほんとうに多かったんですね。仮会堂に来ることによって、旧会堂のありがたさや良さに改めて気づかされたわけですが。この新会堂建築については内外にさまざまなご意見がございました。「まだまだ十分使えるのにとか」「こんな立派な建物ならリフォームすれば?」等など。けれど、今が私たち大阪教会に示される「神のとき」、神が大阪教会の歴史に強く介在して来られたとき、カイロスだと私は信じています。それは建物の老朽化とか、手直しが多々必要になってきたかという諸々の事情を超えた神さまのご計画だと信じています。人の考えと神のご計画はしばしば異なります。
イスラエルの民は荒れ野の厳しい現実を前に、「エジプトにとどまっていた方がましだった」と、つぶやく者も現れました。その心情は分からなくもありません。エジプトの地にあっては彼らは奴隷の身でありましたが、奴隷としてきっちりと指示されるままに動くなら、拘束されていたもののある程度の生活が保証されていたのです。その彼らが荒れ野という何もないような過酷な場へ移された。その厳しい現実を前にしますと、「そこにとどまっていた方が良かったのでは」と考える。そんな彼らの心情も理解できなくもありません。
しかし、エジプトを出て宅即された地に向うことは神の恵みのご計画でありました。険しい荒れ野の道のり、そこで多々覚える欠乏も飢え渇きも、神の約束以外何の保証もないそのような状況に神は敢えて民を導き出されるのです。なぜならそれは、彼らが名実共に「神の民」とされるために必要な経験だったからです。

私たちも今、様々な不便さを覚えることもあろうかと思います。献金やささげものについても信仰のチャレンジを受け、教会の財政も本当に大丈夫なのかと思われる方もおられるかも知れません。イスラエルの民ほどでないにしても、大きな信仰の試みの中におかれていますが。しかし、主はこの期間を通して私たちが名実共に「神の民」「祈りの民」そして真実な「キリストの共同体」となることを何よりも強く願っておられるのであります。
現代の慌ただしい世にあって私たちの状態もある意味奴隷のような状態といえるのかも知れません。キリスト者は世にあって解放された者、自由だと申しますが、私どもはほんとうに解放された者、自由を得たといえるでしょうか。聖書はほんとうの自由とは、生ける神さまとの交わりを通して与えられる、というのです。机上や頭の理解ではなく、生ける神さまと向き合う実体験を通してこそ神の民とされる、そこに真の自由と解放が臨むのであります。神さまが私たちに与えて下さった時間を私たちは如何に使い、用いているでしょうか。週のあゆみのなかで礼拝にささげられる時間は、168分の1のほんの1時間であります。その時間は主との礼拝の時間として聖別して捧げ、自分自身の霊性のために確保してまいりましょう。
 主は、私たちに新会堂の完成という希望を与えてくださいました。それは今や現実となっていく出来事なのであります。新会堂建築には主の救いと福音の拡がりという豊かなビジョンがかかっています。それは私たちの主の切なる願いであります。ですから、それを妨げるような世の力も強く働くものです。私たちを生ける神さまとこの主との交わりの場から引き離そうとする働きや、妨げようとする力です。そういう時だからこそ、主にある兄弟姉妹がまず同じ主を礼拝するところで心を一つに合わせ、今年の教会テーマ「祈り、支え合っていく」神の民・大阪教会となっていくことが求められているのです。キリスト者としての真価が問われるこの年のあゆみ、その神さまの御手にある試みの期間をご一緒に「祈り、支え合いつつ」、あゆみ通してまいりましょう。そこに神さまの豊かな祝福の実りを信じ、期待しています。

最後に、使徒パウロが「世における信仰者の姿勢」について自らについて述べたメッセージ、御言葉をお読みして本日の宣教を閉じます。
フィリピ3章13~14節「兄弟たち、わたし自身は既に捕えとは思ってはいません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
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