礼拝宣教 ルカ7:36-50
イスラム国に人質となっていた後藤さんの解放のために祈り続けておりましたが、今朝は彼が殺害されたという衝撃のニュースを知り、怒りと憤りで言葉にならない思いです。今はただ悲しみに打ちひしがれれているご家族の方々に、主の御憐れみを祈るほかありません。
本日はルカ福音書7章36‐50節より御言葉を聞いていきたいと思います。
この箇所は、ファリサイ派のシモンという人物が自分の家にイエスさまを食事に招いた、その場で起こった出来事を伝えています。ファリサイ派はユダヤ教の一派で、旧約聖書の教えの律法を熱心に守り、行ってきたグループでした。彼らは特に安息日を守ること、又その安息日の規定を守ることや断食し祈ること、施しを行うことなどが、神の前で正しく、清い者のあかしであると考えていました。へブル語で「ファリサイ」とは「分離した者」という意味がございますが、彼らはその自分たちの信仰観に照らして、神の前に清く正しくない者から遠ざかり、分離するようにしていたのです。
ところが、そのファリサイ派のシモンがイエスさまを自分の家に招いて「一緒に食事をしてほしいと願った」というのです。イエスさまは徴税人や罪人と呼ばれる人々と一緒に食事をされ、ファリサイ派や律法学者たちから非難されていました。それがファリサイ派のシモンの方から「一緒に食事をしてほしいとイエスさまに願いでた」というのですね。シモンは民衆をひきつけるこのイエスという人がどのような考えを持っているのか議論してみたいと思ったのかも知れません。又、イエスさまのなさる業やその言葉に、「この人は預言者なのだろうか」と大変興味を持っていたようです。
さて、そのシモンとイエスさまの会食が始まって間もなく、一人の名もない女性がどこで聞きつけたのか、「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」というのですね。聖書はこの女性について、ただ「一人の罪深い女」とだけ伝え、詳細については何も触れていません。が、恐らく「娼婦」のような立場であったと考えられます。
この光景を目の当たりにしたシモンはさて、どう思ったでしょうか。
「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。
シモンにしてみれば、突然自分の家に侵入し、勝手にこのようなことをされたのですから、苛立ちもあったでしょう。けれどもそれ以上にシモンにとってショックだったのは、「この女がだれで、どんな者か」と言う点です。イエスさまがそのことをご存じであれば、この「罪深い女」を追い払われるはずではないのか。しかし女を追い払われないそのイエスさまを見て、シモンはイエスさまに不信感を抱いたのです。「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。
けれども、イエスさまはシモンがそれを口にするまでもなく彼の心にあるその思いを見抜いておられたのです。シモンはけっぺきなまでに律法を厳守してきました。その点においてはイエスさまご自身も、マタイ福音書5章で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく、完成するためである」とおっしゃっていますように、どちらも神の御教えを忠実に守り、行うことの重要性についての認識しは共通していたのであります。
ところが、この一人の「罪深い女」とされていた人の行動を通してシモンとイエスさまの根本的な違いが明らかにされるのです。シモンは、その罪深い女から自分を遠ざけておくこと、隔て分離し、関わらないことが自分の正しさ、清さを守る。それが神にある者の義の道だと思って生きていたのです。一方、イエスさまは、一人の人が神の前に立ち返って生きること、神の前に失われていたような人が、一人の尊い人間として見出されてゆく出来事の中に神の義を示されたのです。その最たるものこそ、イエス・キリストの十字架の贖いの業です。
今日の礼拝の招詞でもローマ3章23節以降が読まれました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。
この罪人とされて生きてきた女性はむろんまだ十字架の救いに与ったわけではありませんでしたが、イエスさまの分け隔てなく神の祝福を語られるその言葉と業に、まさにその救いを先取りするもの、多くの罪を帳消しにされた存在として次のたとえ話が語られていくのであります。
イエスさまは、シモンに「二人の負債者」の話をなさいました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」。
ちなみに1デナリオンはおよそ一日の労働の賃金にあたります。500デナリオンとは500日分の労働によらなければ返済することの出来ない者ということです。イエスさまの「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」の問いに、シモンは迷いなく「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えます。
そこで、イエスさまはそのシモンに「この人を見ないか」と言われるんですね。
「シモン、あなたが罪深い者としか見ていなかったこの人をよく見ないか」。そこには涙で頬をぐちゃぐちゃにぬらした一人の女性がいました。それは、自分の負い目がどれほど多く重いものであるかを知っている人でした。ハッとするシモンにイエスさまは続けて、「シモン、わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足をあらう水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」とおっしゃいます。
イエスさまは自分の家の客であるのに、実際にイエスさまを手厚くもてなしたのは「この罪深い女」とされていた人の方であったではないか。彼女がそうしたのは、神の前に到底負いきれない罪の負い目を赦されたことを知る者であったからなのです。そのことに気づかされたシモンは、どう思ったでありましょう。
ちなみに、マタイ21章31節には「娼婦」についての言及があります。
イエスさまがユダヤの指導者であった祭司長や律法学者に対して次のようにおっしゃっています。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義を示したのに、あなたたちは信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」。
「信ぜず」というのは神の罪人に対する救いを自らの事として受け入れなかったということです。彼らは自分の罪など徴税人や娼婦からすれば小さなものだ、そのように神の救いを拒んだのです。
今日の箇所の少し前の29節にも次のように記されています。
「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。
ユダヤの宗教的指導者たちやファリサイ派の人たちは、バプテスマのヨハネやイエスさまがお語りになられた「神の国とその義」を拒絶しますが、罪人と呼ばれて差別され、排除されていた人たちは、自らの負い目を知るがゆえに、「神の国とその義」を心から頼みとして救いの感謝にあふれる人生を歩み出すのです。
イエスさまはこう言われます。
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。
多くを赦されていることを知る人。だからこそ感謝があふれ、あふれ、あふれ出て、そういう恵みに対する応答となって表れている、ということです。
私たちの礼拝もささげものも、奉仕も、献身も、又、主によって見出され、救われた人生のありとあらゆる業も、主イエスの贖いによって罪深い者が完全に赦されている。
そういう到底言葉では言い表すことできないような喜びと感謝から生まれるものであります。その感謝。それをお与え下さった主イエスへの愛こそがすべての源泉なのです。
最後にイエスさまはこの人に、「あなたの罪は赦された」と宣言され、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とおっしゃって、祝福し、日常の場へと送り出されます。
「安心して行きなさい」と言われて帰る彼女の帰るべき所とはどこなのでしょうか。
それは彼女の相変わらず厳しい現実、人々から見下されもするような日常です。しかし彼女はもはや以前のようではありません。「あなたの罪は赦されている」。主イエスの言葉はまさしく彼女の救いであり、その信仰が彼女を救い続けるのです。後にあのイエスさまの十字架を見守っていた女性たちの中に彼女もまた、いたのかも知れません。
悲しみの先には、自分と同じように、主イエスよる神のゆるしと愛によって見出され、受け入れられた人々と、その救いの恵みによって互いに仕え合い、愛し合うイエス・キリストの教会があり、そこにこそ彼女の拠りどころとなる「帰るべき場」があったのではないでしょうか。
今を生きる私たちもまた、真に主によって赦された者が集う共同体とされているのか、そのことが今日の聖書から問われているようにも思えます。主イエスの愛と恵みの尊さに心新たにされて、主による出会いとその御業に期待し、またここから歩み出していきたいと思います。
イスラム国に人質となっていた後藤さんの解放のために祈り続けておりましたが、今朝は彼が殺害されたという衝撃のニュースを知り、怒りと憤りで言葉にならない思いです。今はただ悲しみに打ちひしがれれているご家族の方々に、主の御憐れみを祈るほかありません。
本日はルカ福音書7章36‐50節より御言葉を聞いていきたいと思います。
この箇所は、ファリサイ派のシモンという人物が自分の家にイエスさまを食事に招いた、その場で起こった出来事を伝えています。ファリサイ派はユダヤ教の一派で、旧約聖書の教えの律法を熱心に守り、行ってきたグループでした。彼らは特に安息日を守ること、又その安息日の規定を守ることや断食し祈ること、施しを行うことなどが、神の前で正しく、清い者のあかしであると考えていました。へブル語で「ファリサイ」とは「分離した者」という意味がございますが、彼らはその自分たちの信仰観に照らして、神の前に清く正しくない者から遠ざかり、分離するようにしていたのです。
ところが、そのファリサイ派のシモンがイエスさまを自分の家に招いて「一緒に食事をしてほしいと願った」というのです。イエスさまは徴税人や罪人と呼ばれる人々と一緒に食事をされ、ファリサイ派や律法学者たちから非難されていました。それがファリサイ派のシモンの方から「一緒に食事をしてほしいとイエスさまに願いでた」というのですね。シモンは民衆をひきつけるこのイエスという人がどのような考えを持っているのか議論してみたいと思ったのかも知れません。又、イエスさまのなさる業やその言葉に、「この人は預言者なのだろうか」と大変興味を持っていたようです。
さて、そのシモンとイエスさまの会食が始まって間もなく、一人の名もない女性がどこで聞きつけたのか、「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」というのですね。聖書はこの女性について、ただ「一人の罪深い女」とだけ伝え、詳細については何も触れていません。が、恐らく「娼婦」のような立場であったと考えられます。
この光景を目の当たりにしたシモンはさて、どう思ったでしょうか。
「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。
シモンにしてみれば、突然自分の家に侵入し、勝手にこのようなことをされたのですから、苛立ちもあったでしょう。けれどもそれ以上にシモンにとってショックだったのは、「この女がだれで、どんな者か」と言う点です。イエスさまがそのことをご存じであれば、この「罪深い女」を追い払われるはずではないのか。しかし女を追い払われないそのイエスさまを見て、シモンはイエスさまに不信感を抱いたのです。「この人(イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。
けれども、イエスさまはシモンがそれを口にするまでもなく彼の心にあるその思いを見抜いておられたのです。シモンはけっぺきなまでに律法を厳守してきました。その点においてはイエスさまご自身も、マタイ福音書5章で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく、完成するためである」とおっしゃっていますように、どちらも神の御教えを忠実に守り、行うことの重要性についての認識しは共通していたのであります。
ところが、この一人の「罪深い女」とされていた人の行動を通してシモンとイエスさまの根本的な違いが明らかにされるのです。シモンは、その罪深い女から自分を遠ざけておくこと、隔て分離し、関わらないことが自分の正しさ、清さを守る。それが神にある者の義の道だと思って生きていたのです。一方、イエスさまは、一人の人が神の前に立ち返って生きること、神の前に失われていたような人が、一人の尊い人間として見出されてゆく出来事の中に神の義を示されたのです。その最たるものこそ、イエス・キリストの十字架の贖いの業です。
今日の礼拝の招詞でもローマ3章23節以降が読まれました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。
この罪人とされて生きてきた女性はむろんまだ十字架の救いに与ったわけではありませんでしたが、イエスさまの分け隔てなく神の祝福を語られるその言葉と業に、まさにその救いを先取りするもの、多くの罪を帳消しにされた存在として次のたとえ話が語られていくのであります。
イエスさまは、シモンに「二人の負債者」の話をなさいました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」。
ちなみに1デナリオンはおよそ一日の労働の賃金にあたります。500デナリオンとは500日分の労働によらなければ返済することの出来ない者ということです。イエスさまの「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」の問いに、シモンは迷いなく「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えます。
そこで、イエスさまはそのシモンに「この人を見ないか」と言われるんですね。
「シモン、あなたが罪深い者としか見ていなかったこの人をよく見ないか」。そこには涙で頬をぐちゃぐちゃにぬらした一人の女性がいました。それは、自分の負い目がどれほど多く重いものであるかを知っている人でした。ハッとするシモンにイエスさまは続けて、「シモン、わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足をあらう水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」とおっしゃいます。
イエスさまは自分の家の客であるのに、実際にイエスさまを手厚くもてなしたのは「この罪深い女」とされていた人の方であったではないか。彼女がそうしたのは、神の前に到底負いきれない罪の負い目を赦されたことを知る者であったからなのです。そのことに気づかされたシモンは、どう思ったでありましょう。
ちなみに、マタイ21章31節には「娼婦」についての言及があります。
イエスさまがユダヤの指導者であった祭司長や律法学者に対して次のようにおっしゃっています。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義を示したのに、あなたたちは信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」。
「信ぜず」というのは神の罪人に対する救いを自らの事として受け入れなかったということです。彼らは自分の罪など徴税人や娼婦からすれば小さなものだ、そのように神の救いを拒んだのです。
今日の箇所の少し前の29節にも次のように記されています。
「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。
ユダヤの宗教的指導者たちやファリサイ派の人たちは、バプテスマのヨハネやイエスさまがお語りになられた「神の国とその義」を拒絶しますが、罪人と呼ばれて差別され、排除されていた人たちは、自らの負い目を知るがゆえに、「神の国とその義」を心から頼みとして救いの感謝にあふれる人生を歩み出すのです。
イエスさまはこう言われます。
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。
多くを赦されていることを知る人。だからこそ感謝があふれ、あふれ、あふれ出て、そういう恵みに対する応答となって表れている、ということです。
私たちの礼拝もささげものも、奉仕も、献身も、又、主によって見出され、救われた人生のありとあらゆる業も、主イエスの贖いによって罪深い者が完全に赦されている。
そういう到底言葉では言い表すことできないような喜びと感謝から生まれるものであります。その感謝。それをお与え下さった主イエスへの愛こそがすべての源泉なのです。
最後にイエスさまはこの人に、「あなたの罪は赦された」と宣言され、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とおっしゃって、祝福し、日常の場へと送り出されます。
「安心して行きなさい」と言われて帰る彼女の帰るべき所とはどこなのでしょうか。
それは彼女の相変わらず厳しい現実、人々から見下されもするような日常です。しかし彼女はもはや以前のようではありません。「あなたの罪は赦されている」。主イエスの言葉はまさしく彼女の救いであり、その信仰が彼女を救い続けるのです。後にあのイエスさまの十字架を見守っていた女性たちの中に彼女もまた、いたのかも知れません。
悲しみの先には、自分と同じように、主イエスよる神のゆるしと愛によって見出され、受け入れられた人々と、その救いの恵みによって互いに仕え合い、愛し合うイエス・キリストの教会があり、そこにこそ彼女の拠りどころとなる「帰るべき場」があったのではないでしょうか。
今を生きる私たちもまた、真に主によって赦された者が集う共同体とされているのか、そのことが今日の聖書から問われているようにも思えます。主イエスの愛と恵みの尊さに心新たにされて、主による出会いとその御業に期待し、またここから歩み出していきたいと思います。